先日、中間テストも無事に終わり、梅雨入りはもうすぐの今日。放課後の今は大雨です。
 天気予報では夕方から一時間ほどゲリラ豪雨の予報でしたが、窓の外は薄暗く、かなり激しく雨が降っています。降る雨粒の勢いが凄すぎて、教室の窓の外の世界は白く霞んで見えます。音もゴウゴウ、バチバチ。窓に雨粒が当たる音とは思えない物騒な音。
 ノラさんは大丈夫ですかね。地域猫さんとして雨風から避難できる場所がどこかにあるのでしょうか。
 雨足の激しさに今すぐに帰る気にならないです。今日は伊織くんが生徒会のお仕事で一人で帰るので、時間潰しのために図書室へ本を読みに行きましょうか。
 置き傘がカバンに入っているので今すぐに帰れないこともないんですが、悩みます。ずぶ濡れで帰って体を冷やし風邪でも引いてしまったら発作も同時に発症しますから。またおやすみになるのは困ります。
 帰りの準備万端のカバンを机に置いたまま窓をぼんやり眺め、悶々と考えていると。
「翠」
 名前を呼ばれます。にわかに教室の空気がざわめきます。慌てて声のする方向へ顔を向けると、まさかの人物です。左手をドアに掛け、「おいで」と右手の指を折り曲げ手招きをしています。
「あ、あの……」
 座席から立ち上がり、その人物のもとへ小走りで向かいます。
「お兄さんどうしたんですか?」
「ちょっと今から時間あるか? すげー雨だし止むまで時間潰し付き合ってくんね?」
 身をかがめるお兄さん。その拍子にピアスが揺れてかっこいいです。クラスメイトさんが僕達にさらに視線を集めだしてしまいます。こんなかっこいいお兄さんがいたら自然と見ちゃいますよね。
 でも僕はそんなことを気にする余裕も無いです。お兄さんの来訪とお誘いにいっぱいいっぱいです。
「じ、時間いっぱいあります!」
「んん゙、じゃ一緒に帰れそ?」
 こくこくいっぱい頷くとお兄さんは目元も口元も緩めます。
 座席にカバンを取りに行き戻って来ると、さり気なくカバンを取り上げられて僕のカバンを肩にかけます。流れるような所作で荷物を持ってもらっちゃいました。気配りが大人の男の人っぽくてかっこいいですね。さらに、廊下に出た直後、するっと手を繋がれます。最近はことあるごとにお兄さんに手を繋がれてしまいます。未だに慣れない僕は手汗をかかないように必死です。
「あ、あのどこに……」
 お兄さんの足は特別コースの校舎から旧校舎まで黙々と進みます。この旧校舎は文化系の部活の準備室くらいしか使われません。ほとんど施錠された教室ばかりなので放課後すぐなのに、ほとんど人気もありません。お兄さんは目的地があるように淀みない足取りです。
「んー? この前いいとこ見つけたんだよ。これから熱くなるから涼しく昼メシ食うとこに」
 さらっとこれからもお昼ご飯を一緒に食べてもらえると言われました。実は不安だったんです。これから雨の日が増えるから、あの校舎裏では濡れてしまうので食べられません。だから、一緒に食べてもらえなくなってしまうかも不安でした。嬉しい。胸がきゅうっと苦しくなり、口を噤ませます。けど最近よく起こるその甘い痛みが嫌じゃないんです。
「…………」
「あー、ごめんな。勝手に。もう暑くなってきたから、部屋ん中のほう涼しいからな。ノラいねーから俺と2人ってつまんねぇかもしんねーけど……」
 そんなことありません。ノラさんには悪いですが。
「お、お兄さんと一緒ならどこでも楽しいです!」
「あ゛ー。……ありがとうな」
 お兄さんが口元を押さえます。きらめくピアス揺らめく耳たぶがほんのり赤く染まります。もしかして照れています?
「……俺も翠となら⸺」
「翠?!」
 小さなお兄さんの声が大きな叫び声に遮られます。廊下に響くお声は僕の名前を呼びます。お声へゆっくり振り返ります。視界にまず飛び込んでくるのは煌びやかな金髪です。
「い伊織くん?!」
 なぜここにいるんでしょう。今日は生徒会長さんのお仕事をするって連絡があったはずなんですが。
 伊織くんはなぜか僕の手元を見て、眉を寄せます。ふいに肩をつかまれ、後ろへ引かれると同時にお兄さんが1歩前へ。僕の視界を遮るように、僕と伊織くんの間にお兄さんがなぜかいます。
「篠崎。お前……」
「翠がよく言う『伊織くん』ってやっぱりお前だったんだな……」
「あ? なんでお前なんかが……」
「ただの従兄弟の伊織くんには関係ねーよ。俺と翠の仲だからな」
 お兄さんの広く逞しいお背中越しの会話がいやに挑発的では。それに、伊織くんはお兄さんの名前を言いました。2人はお知り合いなんですか? と尋ねようとしますが。できませんでした。
「はぎゃ! お、お兄さん?!」
 お兄さんは繋いでいた手を指を絡める繋ぎ方に変えます。ぎゅっと絡めた繋ぎ方は、さらに密着度が高いです。大きな手のひらにぴったりくっついたところがじんじん熱いです。
「おにいさん?」
「おい、いつもの爽やか笑顔が消えてんぞ。従兄弟の佐倉伊織くん」
「名前も呼ばれないお兄さんは翠から手を離してもいいんじゃないかな?」
 お兄さんが舌打ちしました。頭上で飛び交う会話及び空気が心なしかぴりついています。
 お兄さんは伊織くんをまっすぐ見つめています。眉を寄せたお顔は、なぜか悔しそうに感じます。繋いだ手にさらに力が篭ります。
「ゴメンな佐倉。翠と雨止むまで校内デートして一緒に帰んだよ。お前こそ、ここ離れてくんね?」
「はっ! 篠崎お前は野良猫に傘かける役割だろ。ほら野良猫がデート待ってるよ。翠は僕が送っていくよ」
 お兄さんが地域猫ノラさんを飼っていることを伊織くんも知っていたんですね。僕だけが知っていると思っていたのに。お兄さんと僕、二人だけの秘密だと思っていたのは勘違いだったんですね。
 それに、さっきからお兄さんの口調は僕へ話しかける時と全然違います。遠慮が無い、もしくはぞんざいな、砕けた口調です。お互いに名字を呼び合う言い方も2人の親密さが見えます。不意にずん、と胸の奥が重くなります。
 いつの間にか近づいていた伊織くんに自由な方の手首を掴まれ、引っ張られていました。
「翠。そいつなんかに触れられたら翠が汚れるから、離れて。篠崎より『家族』の僕がいいよね?」
 なんでお兄さんのことそんなに悪くいうんですか?! 伊織くん……。あんなに自分は仲良ししてもらっているくせに。かっこいいとまで言われているくせに。
「いやです! お兄さん優しくていい人です!」
 つい考えるより先に口から突いて出た反論が、廊下に反響します。
「翠?」
「僕は……」
 伊織くんは僕の手首を掴んだまま固まっています。その表情を見た途端、過去に一瞬で攫われます。全身の血の気が引き、目の前が真っ暗になります。耳の奥で誰かが泣いています。ああ、これは僕と伊織くんだ。自分のお母さんと弟のお葬式すら発作で入院したから出られず僕が泣いていたら、伊織くんも泣きだしてしまった時の。
 僕、なんて酷いことを伊織くんにしてしまったんでしょうか。ダメ。ダメ。また伊織くんにこんなお顔をさせたら……。
「ご、ごめん。伊織くん」
 みっともなく震える声。
「翠」
 お兄さんに名前を呼ばれ、目が合います。ああ、お兄さんも悲しいお顔になってしまいました。
 やっぱり『わがまま』を言ってはいけないです。みんなを不幸に悲しいお顔にさせてしまいます。こんな『わがまま』な気持ちは押し潰して、もうなかったことにしましょう。
「ごめんなさい。お兄さんにご迷惑かけちゃいましたね。もう会いません」
 2人に掴まれた両手を思い切り振り払います。非力な僕の力でも振り払えたのはお兄さんも迷惑だと思っていたからなのかもしれません。
 2人の表情を見たくなくて、駆け出します。呼び止められる声がした気がしても、もう無理です。
 これ以上『わがまま』になってしまったら、伊織くんだけじゃなくてお兄さんまで不幸にしてしまいそうで。怖いんです。宝物みたいな時間をくれたお兄さんを不幸にしたくありません。
 どこに向かうわけでもなく、とにかくこの場所から離れたかったんです。普段運動なんてしない僕は大して距離を走っていないのに呼吸が苦しい。でも安心します。これだけ苦しければ、2人を傷つけた分くらい自分を傷めつけられています。
 息が切れ、生理的に滲む涙のせいで視界はぼやけています。
 階段。ここを降りたら、遠くへいける。鉛のように重くなった足を踏み出します。踏み出した足が、空を切る。あっと思った瞬間には、体が大きく前へ傾いでいます。落ちる、と悟った瞬間、体へゾクりと悪寒が走り抜けます。襲い掛かってくるであろう痛みや衝撃を覚悟し、目を瞑りました。
「あぶなッ」
 衝撃の代わりに甘い香りがします。落ちるはずの僕の体をお兄さんが後ろからお腹へ回した片腕で支えてくれています。落ちないように手すりに掴まりながら。
 背中へ押し付けられた厚い胸板からはどくどくと早鐘のような心臓の音が伝わってきています。
「あ、ありがと、ございます」
「ん。深呼吸。発作出ていないか?」
「は……い」
 僕の体を片手でぐいっと引っ張り上げ、お兄さんはぎゅうと両腕を僕のお腹へ巻きつけます。優しすぎます。怖いくらい、その優しさが温かくて。無事に床に足がつき、深呼吸を繰り返し呼吸を整えようとしているのに心臓が未だに忙しなく鼓動を打ちます。
「こっちこそさっきは庇ってくれてありがとな。なぁ、だからさ。もう会わないとか言うなよ」
 注がれる声はやっぱり優しくて、でもどことなく不安げに掠れています。
 もっと心臓が痛くなる。落ち着かないです。申し訳なくて、あとは自分が変えられてしまいそうなどうしようもない気持ち。追いかけて来てもらえたこと、自分があの飄々としたお兄さん不安にさせていることにあさましく喜んでいる。もどかしくてあさましいこの気持ちを持て余してしまいます。
「頼むから。……な?」
 僕の首に顔を埋めるお兄さんは重ねてまた聞き直します。小さな声だけれど、回された腕の力を緩めることもしません。どっちにしても離さない、と言われているようです。
 また喜ぶ自分がいやです。お兄さんにここまでしてもらえるような人間じゃないのに申し訳ないです。本当は子どもじみて汚いことばかり考えているようなやつなんですよ。
「庇うとか、違うんです。お兄さんと伊織くんが仲良さそうだったから……もやもやして。八つ当たりというか、わがままいいました。不幸にするのに……ごめんなさい。わがままを言って」
 声が震えてしまわないように堪えていたら、瞳の奥が熱くなります。ぽろぽろ落ちる雫が頬を勝手に濡らしていきます。泣いたりして見苦しいです。身勝手な涙を引っ込めたいのに、次から次へと涙が溢れてきます。
「僕みたいなやつはたった一つのわがままで誰かの幸せを奪って悲しいお顔をさせてしまうんです。
 僕は伊織くんとお父さんから家族を奪ったやつです。僕のお母さんと弟、伊織くんのお母さんが亡くなったのは本当は交通事故なんかが原因じゃないんです。みっともなく自分勝手で子供じみた『わがまま』を言った僕のせいなんです」
「……佐倉の母親も翠の家族と一緒に亡くなったのか」
 そう独り言のように呟くだけで、お兄さんはなぜか僕の本心や醜い本性を聞いても腕を離しません。
 いつの間にか小刻みに震えていた両手でお腹の腕を引き剥がそうとしますがうんともすんともしません。体ごと抜けようともぞもぞ身をよじりますが、さらに腕に力をいれられ抱き寄せられます。
 それだけじゃなくて、お兄さんは僕をひょいと持ち上げると抱えたまま廊下に座り込んでしまいました。あぐらをかいたお兄さんの足の上に横向きに座らされます。僕の頭に手をあてがい、ことりと胸に頬を預けさせます。そして、髪をゆっくりとすくように撫で始めます。
 いつもは撫でられたらぽかぽか心が温かくなるのに、苦しいな。まだまだ話せってことでしょうか。……そうか。醜い僕のしでかした罪をお兄さんにさらけ出せば。お兄さんから、この手を離してもらえます。そんな投げやりな気持ちで口を開きます。
「僕、妊娠中つわりで寝込むお母さんに、構って欲しくて発作がひどいフリをしたんです。わざわざお母さんが病院行く日に。そうしたら、お母さんもお父さんも僕にかかりきりになるから、お母さんも病院行けなくなるって考えて。でも、伊織くんのお母さんがお母さんを病院に送って行くってことになって、信号待ち中に居眠り運転のトラックが……2人とも、赤ちゃんも亡くなって」
 僕があの時、未来の弟に嫉妬しないで少し咳が出てきたくらい我慢して、お母さん達と病院へ行けば良かったんです。それに、少し考えれば分かることだったのに。お父さんと僕だけ家に残してお母さんだけで病院に行くことも、隣に住む伊織くんのお母さんがお父さんの代わりにお母さんの病院に付き添うことも。伊織くんの家族からお母さんを奪うことも、お父さんから赤ちゃんとお母さんを奪うこともなかったのに。
 自分勝手な子供じみた嫉妬まじりのお母さんを取られたくないっていう『わがまま』で、皆の大切な家族を奪った。お母さんが病院に行くたびに豆みたいな赤ちゃんの写真をとっても幸せそうな笑顔で見せてくれました。隣でお父さんも同じお顔をしていました。でも、あの幸せそうなお顔を僕が言った『わがまま』のせいで永遠に失ってしまった。普段から発作のせいでただでさえ家族に迷惑をかけている、自分の世話もできずに脆く、弱っちいくせに。
「……翠」
「だから、皆を傷つける、不幸にするくらいなら、わがままは言わない。そう決めたんです。伊織くんを不幸にした僕ができる罪滅ぼしはそんなことくらいしかないから。
 ごめんなさい。わかっているんです。伊織くんのお母さんや僕のお母さんや赤ちゃんが亡くなるより、自分勝手なくせに脆い体で皆に迷惑しかかけられない『わがまま』な僕のほうが死⸺」
 続きを言えません。物理的な理由でです。ぶちゅっと頬を片手でつままれ、強引に上を向かされたからです。吐息がかかるくらい近くにお兄さんの顔が近づきました。真摯な眼差しの奥は怒りや悲しみに翳っています。掴まれていた頬へ両手が添えられました。
「…………」
 優しい指先が両目尻に残る涙を拭い去ると、踊り場の窓に雨粒がぶつかる激しい音が見つめ合う僕達の間に響きます。痛いほどの沈黙を破るため端正な唇は動きました。
「翠は可愛い。はい。復唱」
「へ?」
 至近距離にある形が良い唇は動くたびに吐息をかけます。よくわからないことを言いながら。
「復唱。翠は可愛い」
「ぼくは…………可愛いい?」
 捕らえるような強い視線に操られ、なぞるように口を動かします。突然、こんな恥ずかしいことをなぜ言わされているんでしょう。泣き過ぎてぼんやりした頭ではわかりません。
「翠は悪くない。ん。復唱」
「ぼくは……悪くない」
 お兄さんの揺るぎない優しい声に導かれるように唇を動かします。なぜか胸の奥深くのどろりとした澱のようなものが減ります。ぽろぽろ落ち続ける涙が止まる。瞬きで頬へ雫が滑り落ちます。ずっとぼやけていた視界には優しく微笑むお兄さん。優しく弧を描く唇が、沁み込ませるよう丁寧に1音1音声に出します。
「翠は生きていい。ん。復唱」
 唇が、喉が、震えて。声が出せません。この言葉を口にするとすべてが変わってしまう。漠然とした恐怖に駆られます。お兄さんの親指が、する、と下唇をあやすようにように撫でます。撫でられたところから震えが止まり、こわばりがほどけていきます。
 ふと心のベクトルが変わる。自分でもよくわからない、力強く引いていく力が働いたようです。慈しむようにとても優しい指先になら変えられても構わない、と。
「ぼく……は……生き……ていい?」
「そうだよ」
 もつれる舌を必死に動かし、紡いだ言葉。ほとんど言葉の形を成さないそれを拾い上げたお兄さん。顔を寄せ、僕と額をコツン、と合わせます。
「俺は翠に出会えてすっげぇ嬉しい」
 切れ長の瞳を眩しいくらいの、蕩けたような笑みにふわりとたわませました。
 包まれるような甘さと温もりを含んだ優しい笑顔を真正面かつ至近距離から見てしまったからなのか。冷えきった心の奥深くまで力強い温もりに満ち足りていきます。心の奥底へ沈み込んだ恐怖や迷い、罪悪感を固めたようなどろどろの澱が不思議とその温もりに溶けていくように心が凪いでいきます。
 嬉しくて、涙が出そうなくらい目の奥が熱いです。でも、涙はでてきません。もしかして、嬉しすぎたり悲しすぎたりする激しい感情には、ひとって体の反応が追いつかないのかも知れません。僕にはそれだけお兄さんの言葉が嬉しかったんです。顔を離したお兄さんは真っ直ぐ僕を見つめる。
「それにな、俺から言わせれば翠の抱える罪悪感は独りよがりだよ。虚しい苛立ちをぶつけることもできず、どうしたらいいのかわからないから。勝手に自分のなかで理由を作り出して、自分を責めているだけなんじゃね。たしかに、自分のなかに理由があれば、事故で喪った大切な家族に対するやるせない無力感はごまかせるけどな、本当にそれで良いのか?」
「……で、も……」
「どうしようもない戻らない過去に対して、自分を責めるのは間違いなんだよ。自分を責め続けたところで反省や罪滅ぼしにもならない」
 静かな怒りを潜ませた低い声できっぱり言い切るお兄さん。
「…………」
 突きつけるような強い怒りを含ませた言葉に、喉がひくっと震えました。
「本当は気づいてんだろ? 誰もそんなこと望んでいない。佐倉伊織や翠のお母さんも絶対に。世の中どうしたってままならないこともあるんだよ。ままならないことを受け入れるのは辛い。でも、翠なら出来る」
「僕……なら?」
 未だに頬を包む大きな手に手を重ねます。温かい。
「うん。絶対に出来る。だから、これまで翠が押さえ込んじまった気持ちや想いを、これからはどんな小さなもんでもわがままさえ見つけてやって欲しい」
 俺も翠の気持ちを大切にしてやりたいよ、とお兄さんは笑いました。さっきと同じ包まれるような甘さと温もりを含んだ優しい笑顔で。ああ、話して良かった。最初は自分の醜い過去や欲望を話してしまえば、幻滅され軽蔑され、お兄さんから離れていってくれると思いました。このままお兄さんと関わっていれば僕はもっと欲深く、わがままを言い出すだろうから。
 ……お兄さんまでも不幸にしたくなくて。
 いいえ、もうこれ以上お兄さんに対する気持ちを持ち続けていても、自分は誰かを不幸にするしかないんだから、もう諦めて捨てろ。自分にも思い知らせ、戒めるために。打算もしくは自虐で話しはじめたんです。それがいつも出来なくて、不安に蝕まれた末に投げやりに告白し、お兄さんの方から去っていって欲しかった。でも、真っ直ぐ黙って受け止めてくれました。それだけじゃない。眩しいくらいの言葉を力強く手渡してくれました。自分のことを責めて責めて、責め倒して、それでも誰かに『違う』と言って欲しいと心の奥で求め待っていた。けれど、そう思ってしまう自分の『甘え』を認めたくなくて、甘えるなと自分を責めてその気持ちに見ないふりをしていました。ずっとそんな独りよがりの罪悪感に囚われる自己満足を何度もなんども繰り返した。一人で抱えこんだくせに、泣き叫んで暴れ回りたい衝動が全身を駆け巡り、胸が重くて苦しくて、息を吐き出すのも吸うのも苦しかったんです。
 本当は誰かに話したかったのかも知れません。と初めてあの日の真相を言葉にして初めて気づいたんです。心の奥の奥深い部分では、あの日から囚われる自責の念から救われたいと願い求めていたんですね。ずっと。
 だから、誰にも、伊織くんにもお父さんにも話せないことをお兄さんに話したのかも。お兄さんなら。優しくて強いあの人なら話しても良いと信じて。自己満足にしかならない罪悪感だったとやっと気づけた。
「お兄さんに話を聞いてもらえて、話せて良かったです。ありがとうございます」
 もっと感謝の気持ちをこめたいけれど、言葉にならないです。それでも、口元も目元もふにゃふにゃなこの笑顔で伝えられたらいいな、と思いました。
 お兄さんは大きく目を見開いて、一瞬だけ固まります。良く出来ました、とふわりと微笑むと、そっと僕を抱きしめてくれました。あの初めて出会った時と同じ甘くやわらかな香りにふんわり包まれます。頭を撫でられるのも同じです。
「それにな、可愛い翠はわがまま言っても良いンだよ。わがままって言うのは欲ってことだろ。あー、本で見たけど、人って欲があるから生きるんだってよ。」
「欲があるから……生きる」
「ん。生きてれば皆ごく当たり前にわがままだし、欲張りになるんだよ。たしかに俺なんて最近欲だらけだしな……」
「ごく当たり前に……わがままですか。みんなも? お兄さんもですか?」
 お兄さんが話す内容が頑なだった僕の価値観がひっくり返るものです。
「そーなんだよ。わがままより質悪いな、俺の場合はそいつには欲しかないな。そいつのことになるとなんかアホみたいに何でもないことで、嫉妬したり、……しょうがねーことだし、家族なら当たり前だし正しいことなんだけどな。……理屈抜きにすっげーただただ悔しい。本当はそいつのことを俺だけが一番特別に気にしてやりたいのに」
 ハア、とお兄さんが悔しげにため息を吐きます。なにやらお兄さんも悩んでいることがあるんですね。今度は僕がお話を聞く番ですよね。黙って聞きましょう。
「そんな善意を押し付けるようなことをしている奴等を嫌ってたのに、家族よりなにより俺だけを頼って欲しい。そいつの大事にしたかったもんまで蔑ろにしそうな自分が嫌になる。無理やりにでも全部俺だけがって……。俺ってこんなに歪んで性格悪い……いや、もともと良くはないんだけどな」
「あの! お兄さんはとっても優しいです! 僕……」
 大事なことなので、つい割り込んでしまいました。ぎゅうとお兄さんのシャツを握ります。
「ん。ありがと」
 お兄さんは僕の肩に顎をぽすんと乗せると、僕の手に指を絡めました。首筋に吐息がかかるくすぐったさで、つい指に力を入れてしまいます。我慢です。
「肝心のところで、グズグズ尻込みして情けなくてかっこ悪いヘタレ。全てにおいて、そいつのことはままならねーのがな……」
 顔を上げ、握りあった手を見つめるお兄さんは口元を緩めなんだか嬉しそう。
「……嬉しそうです」
「あー、うん。嬉しいよりはそんなヘタレた俺も楽しいんだな。初めてこんなんなるんだけど、そいつに会うだけで、少しでも笑ってくれたらどうでも良くなってくるんだよなー。うんうん」
「そう……なんですね」
 首を傾げたり頷いたり、忙しいお兄さんは、照れたようにやわらかに笑います。頬が淡く色づく笑顔はとっても甘く優しいです。
 晴れやかだった胸がもやもやし始めてきちゃいました。こんな僕をお兄さんに見せられません。お兄さんのお胸に額を押し付けぐりぐり左右に動かし、振り払います。
「ん? 眠いか?」
「ち、違います……えっと、その……」
「ん? して欲しいことはなんだ?」
「そ、そう言うわけでもなく……自分でもよくわからないんです」
 フッと小さく笑ったお兄さん。
「んー? じゃあ練習するか?」
「れ練習?」
「そう。お互いわがまま言い合おう。翠が自分の気持ちを見つけて言葉にすんのを慣れて、俺にたっぷり甘えられるような!」
「あ甘える?」
「わがままを一つずつ! お互いに言って叶えてもらうんだ。俺は翠のを、翠は俺のわがままをな!」
 人差し指で僕とお兄さんを交互に指しながら弾むような笑顔で言います。
「翠が俺に望むものは? わがままは?」
「あ、その……お兄さんは良くても、僕のわがままはやっぱり……」
 お兄さんが優しく聞いてくれますが、じっとりと手に汗が滲みます。胸が重くなり、僕はやっぱりまだ恐いです。せっかくお兄さんが僕のために提案してくれた練習をしてみたい気持ちもあります。が、お兄さんをもし不幸にしてしまったら嫌な想像が駆け巡ります。
「……不幸にさせそうでまだ恐いか?」
 図星でついこくり、と頷いてしまいます。呆れられたでしょうか。お兄さんがあれだけ言葉を尽くし、僕なら出来るとまで信じてくれたのに。やってもいないうちに尻込みする臆病者な僕に。
「あのな、翠。こっち向いて」と優しく呼びかけられ、いつのまにか俯けていた顔を上げます。
 澄み切った漆黒の瞳が強い意志を湛え僕を真っ直ぐ見つめます。
「俺は翠のわがままだったらどんなんでも嬉しいし、受け止める。ぜったい叶えてやるから。可愛い翠の望みを叶えてやれるんなら俺は幸せに決まってるだろ!」
 自信満々に言い切られ、息を止めてしまいます。俺は幸せに決まってる。お兄さんはそう言いました。誰かのわがままを聞いて幸せになれるものなんだろうか。信じられない、けどお兄さんを信じたい。僕へいっぱい優しい言葉をくれたこのひとを。
「幸せ? お兄さんが?」
「ああ。翠がわがままを言えるくらい俺に心を開いてくれて、甘えてもらえるなんて幸せだよ」
 言葉になりません。どこまでも優しい言葉に。今までわがままで幸せになれるなんて思いもしませんでした。でも、お兄さんはわがままは心を開いているからこそできるものだから、幸せだと。
 わがままを言い易くするために気遣いで出た言葉でも、嬉しかった。こんな僕のわがままで誰かを幸せにできるのならば、自分の汚い子供じみた心の奥の本音を取り出してみても怖くないのかも。
「僕はわがままをいってもお兄さんを幸せにできる……」
 心の中で思っていたことを声に出していました。
「ん。俺が幸せになるために、翠は1日1回わがままを言ってくれ。喜んで叶えてやるからな?」
 お兄さんからもらった言葉が降り積もり、温かくて眩しい光に包まれたように僕の恐怖が霞んでいく。
 幸せにしたい。お兄さんを。自分が今までもらったやすらぎや喜び、優しさ、温もりを少しだけでも返すことができたなら。
 自分でも驚くほど迷い無く覚悟が決まります。男の子として、ここまでよくしてもらったお兄さんを幸せにするために。今まで押さえてきた自分の心にあるわがまま、だけじゃなくて、いろんな感情とも向き合いたいです。
「がんばり……ます!」
「うん。俺に望むもの、して欲しいことはなんだ?」
 改めてお兄さんが問いかけます。ですが、今は特に思いつきません。自然と眉が寄ってしまいます。
 ぶは、と息を漏らすように笑うお兄さんは、繋がれた手をゆるく振ります。
「じゃ、俺のわがままを先に叶えてくれよ。ちょっとついて来て」
 なぜだかお兄さんはいたずらを今から仕掛けようとする笑顔で、僕をひょい、と持ち上げます。
 こともなげにお兄さんは僕をかかえたまま旧校舎の階段を昇っていきます。
 そして、あとは屋上だけというところまで登ってしまいました。
 この先の屋上は原則として生徒の立ち入り禁止です。それに警備上の理由で鍵がかかっていたような気がします。
 やはり階段を塞ぐように立ち入り禁止と書かれたホワイトボードがあります。ですが、お兄さんはホワイトボードを気にも留めずに、足で横にずらし階段を登っていきます。な、なんかお兄さん手慣れていませんか?
「長く学校にいんと色々詳しくなるし、変わった知り合いも増えんだよ」
 僕の気持ちを見透かしたように罰が悪そうにお兄さんが答えます。
「はい。ここに立って」
 階段を登りきり、屋上の扉の前にお兄さんの腕から降ろされます。
 屋上へ続く鉄製の扉はところどころ錆びており塗装が剥がれています。グレーの扉に赤胴色のまだらな模様ができて不気味です。
 採光の窓からは光が漏れていて、もう雨が上がったみたいです。
 それにしても、今から屋上になんの用なんでしょうか。床は濡れているからビシャビシャに上履き濡れますよ。よくわからず扉とにらめっこをしていると、お兄さんがポケットから取り出した鍵をドアノブに差し込み回します。
 やがてぎいっと重たい音を立てながら扉を開きます。
 薄暗い場所から出ていきなり明るい日差しを受け、一瞬視界が真っ白に満ちます。眩しさで思わず目を瞑ります。
 頬へ強い陽射しの温かさを感じながら、目を開けると。視界いっぱいのどこまでも続く澄み渡る青い空。
 晴れている真っ青な空を屋上の水面が鏡のように反転し映していました。屋上の床1面が大きな水たまりになっています。その水面に空が投影されています。
 日差しが差し込み反射した輝く粒が、キラキラ光が溢れる虹をかけています。虹も水鏡に反転してつながり、7色のまあるい光の束が浮かんでいます。
 きらきら輝いて、逆さまで空の境目がない、夏の気配を感じさせる濃い青色の滑らかなグラデーションの空。果てなく続いていきそうな空は手を伸ばせば違う世界に触れられそうです。ダイナミックなのに、幻想的で神秘的な美しさに瞬きするのも惜しんでしまいます。
「……きれい」
「だろ?雨上がりのここを翠と見たかったんだ」
 僕の肩に手を置いたお兄さんは満足気に呟きます。その見たこともないくらい優しくて甘い微笑みに見惚れます。
『欲しい』
 ストン、と僕の心の真ん中へ落ちてきました。そして、弾けます。色んな気持ちが胸に止めどなくパチ、パチ、気泡のように弾け出します。
「僕だけがみていたい」
「僕だけに向けてほしい」
「そんな笑顔のお兄さんのすべて欲しい」
「僕を好きになって欲しい」
「僕だけを見ていて欲しい」
 あさましいですね。この笑顔を僕だけに向けて欲しいんです。お兄さんのすべてが僕は『欲しい』です。
 ざぁ、と強い風が吹く。
 僕の髪が舞い上がり、水面が波たちさざめきます。呆気なく水鏡の中の真っ青なお空と虹は消えてしまいました。残したいのに。欲しいのに。儚く消えてしまったきらきらの瞬間。あの眩しい笑顔を僕の中へ残しておきたいです。せめてかけらだけでもいいですから。
「えっと、お兄さんのお名前呼びたいです。その……今日のわがまま……です」
 変わりにこんなことしか言えません。ちゃんと言葉にしてしまったら、お兄さんに嫌われてしまいますから。いくらお兄さんが僕の気持ちを見つけ大切にして欲しいといっても限度があると思います。
 独占欲まじりのこの気持ちは押し付けてはいけませんよね。だから、せめて名前だけでももらいたかった。名前ぐらいしか僕がもらえそうにないですから。
「は? まじ? ど、どうぞっ!」
 両肩を持たれぐりんっと体を回され、力ずくでお兄さんと向き合わされました。なにやらきらきら期待の眼差しで見つめられています。真っ直ぐお顔を見るのが恥ずかしくて、そっと視線を外し口にします。
「げん……さん」
 小さく呟いた僕の言葉を拾ったお兄さんはなぜか複雑な表情です。ですが、僕は鼓膜を揺らすその名前に胸がうずうずと甘酸っぱく疼きます。
「ん。玄くん。復唱」
 先程の発音練習が突如として始まってしまいました。なぜ? と目を向けると、ぶすっと拗ねたような表情をしたお兄さんです。
「……玄さんだと大工のやつと同じだからヤなんだよ。それに佐倉は君付けで俺はさん呼びは悔しい……」
 最後のほうがもごもごお口の中でいうので聞き取れません。えっとよくわからないですが、お兄さんなりにこだわりがあるそうです。年上の先輩を君付けというのはかなり忍びないです。幼馴染の伊織くん、恭くんは小さい頃からの癖みたいなものなので例外です。累くんも。
「なあ、翠。呼んで?」
 身を屈めて覗き込むように視線を合わせ、優しいお声でお願いするみたいに言うお兄さんはずるいです。
「玄くん?」
 僕はこのお兄さんのお願いに弱いです。お兄さんのシャツへ手を伸ばしぎゅっと握りしめ、緊張しながら呼びます。
「おう!」
 心臓がドクンと大きな音を立てます。
 屈託無い笑みは可愛く、やっぱり僕は玄くんの笑顔が欲しくなります。
 それに……ひたひたと胸に満ちるこの甘やかな気持ちで体も心もふかふかになって自然と笑顔になってしまいます。
 これが『幸せ』ってことなんでしょうか。