「クッキーはお兄さんとノラさん、高森くんのぶん」
 翌朝、登校前にお部屋で今日渡すはずのプレゼントを最終確認です。
 リビングの机の上には茶色と白色の色違いの紙袋が。中身はもちろんラッピングされたクッキーです。白色の紙袋には透明なラッピング袋が2つ。茶色の紙袋には小さな名刺大の封筒とラッピング袋。
 もれなくお渡しするプレゼントは入っていました。どちらも大事なプレゼントですから忘れないようにしないといけません。ぐっと気合を入れるために小さなガッツポーズをしていると、インターホンが鳴ります。モニターを覗くと、伊織くんが爽やかに立っていました。インターホンの荒い画像でもキラキラしています。
「はーい」
 鍵を開けるためぱたぱた小走りで玄関に向かいます。どうしたんでしょう。今日は僕1人で早く行くって言っておいたのに。お弁当?でもこれも……。玄関ドアの前、内鍵に指をかけようとしたタイミングで測ったように鍵が外から開かれました。開いた扉からは煌びやかな金髪がさらりと覗きます。途端、にゅっと長い腕が伸びてきて、肩を抱き寄せられます。僕の視界には学校指定のネクタイが。そして、遅れて玄関の扉が閉まる重い音がしました。
「翠? 今日の体調大丈夫?」
「はい。大丈夫ですよ? 白井先生からも許可されましたし……伊織くん?」
 あら、心配性伊織くんがまだ続いていました。このときの伊織くんはなにかにつけて僕を腕の中へ閉じ込めようとしてしまいます。身をかがめ僕の肩に顔を埋める伊織くんは少し不安そうなか細い声を出します。僕からも背中へ手を回し、なだめるようにぽんぽん軽く叩きました。
「今日のお弁当いらないっていうから……食欲ないのかと思って……」
 ぼそぼそ子供がお母さんに言い訳するように気まずげに言う伊織くん。
 お弁当の件でしたか。実は今日はお兄さんが退院祝いに僕のお弁当を作ってくれるので、いつもの伊織くんのお弁当は量的に食べられるか不安だったのでお断りしたんです。伊織くんの手間を減らすためとこういう心配解消のために前日にキャンセルしましたが、それでもだめでしたか
「あのね、今日はお友達が僕の分もお弁当を作ってきてくれるお約束をしたので、それでお弁当を……」
「お友達? 誰? クラスメイト?」
「えっと……クラスメイトさんです?」
「ふーん……」
 間髪入れずの質問のあとは、なにやら無言の伊織くんですよ。なんとなく空気が重くなったような、ぴりっと引き締まったような妙な空気ですね。
 お兄さんのことをひた隠しにしている罪悪感から、こんなに気まずい空気だと思ってしまうのでしょうか。どうにかこのよくわからない空気を払拭したいです。
 伊織くんがこんなに様子がおかしい原因として思いつくのは、お弁当食べないのがそんなに心配なんでしょうかね。それとも、僕が伊織くんのお弁当がいやになったと心配しているのかもです。
 詳しく事情を話せば伊織くんも心配事がなくなって機嫌良くなりますよね?
「その、いつもの伊織くんのお弁当も大好きだけど、お友達の分と一緒に食べられるか心配だったんです。僕、そんなにいっぱい量たべられませんから」
「明日は僕のお弁当だけを食べるんだよね?」
「あ、はい。僕、伊織くんの作る甘い卵焼きが好きでいつも楽しみにしています」
「じゃ、明日のお弁当は卵焼きいっぱいいれようかなー」
 良かったです。やっと体を離してくれた伊織くんが少しご機嫌になりました。ただし、明日のお弁当のおかずが卵焼きだけになりそうですが。
「ほ、他のおかずも、伊織くんの作ってくれるお料理はいつも美味しいですよ」
「よかったぁ。あ! 昨日の翠クッキーも美味しかったよ」
「お粗末さまです。お口にあってよかったです!」
 いつも美味しくて僕も翠クッキー好きだよ、と僕の頭を撫でる伊織くん。なんだかんだ伊織くんには小さい頃から昨日のクッキーを渡してばかりですね。昔は伊織くんの家族と一緒にクッキー作りしたりしていましたから、伊織くんへのお礼のプレゼントはこのクッキーって刷り込まれてしまっています。母の味というか従兄弟の味的な僕達2人の間の定番ですね。
「すーい? 忘れ物ない? 持っていくものはこれだけ?」
 伊織くんがお母さんみたいな口調です。僕のカバンをもう肩に掛け、当然のように玄関のたたきで待ってくれています。靴も履き終えた伊織くんは準備万端です。
「あ、クッキーを高森くんに持っていきます!」
 紙袋を手にもって廊下まで出た時、スマホが着信に震えます。えっと誰なんでしょうか。
 お兄さんからの着信です。
 今日はモーニングコールをしたら、お弁当作りされている最中で忙しそうだったのですぐに切ったはずなんですが。なにか緊急の要件でしょうか?玄関先にいる伊織くんが僕に訝しげな視線を注ぎます。お兄さんのことを隠している疚しさで、身をかがめながら背を向けてしまいました。
「もしもし。翠です。あの、なにか?」
『ん。さっき言い忘れたんだよ』
「……はい」
 電話に出る声もちょっと小声になってしまいます。言い忘れ? わざわざ電話を掛け直してくるくらいの内容とはとても重大な要件なのでは?身構えてスマホをぎゅっと握ります。
『いってらっしゃい』
 不意打ちの優しい声に心臓が大きな音を立てます。耳元で囁かれたその言葉の優しさに、やっぱり瞳の奥がジンと熱くなってしまいます。
「い、いってきます! あの、お兄さんもいってらっしゃい!」
『ん。じゃ、また昼にな』
 ぷつ、とそこで通話が途切れます。静かなスマホを耳元にあてたまま動けません。このままふわりと体が浮いてしまいそうなくらい嬉しいです。
 たぶん僕、本物の『ゆーれいさん』になっていませんか。このままどこかにふわふわ飛んでいきそうです。でも、わざわざ掛け直してまで言ってくれたお兄さんの心遣いにぎゅうぎゅう胸が苦しいんです。
 突然ぐいっとスマホを持つ腕を取られました。玄関先にいたはずの伊織くんがすぐそこに立っています。
「翠、どうしたの? 顔赤い……」
「へ?」
「それにお兄さんって?」
 目でスマホを示す伊織くんは怖いお顔です。スマホごと掴まれている腕には伊織くんの指が食い込みます。伊織くんの様子に先程浮き立った気持ちは急激に沈み、背中には冷や汗をかいてしまいます。
「お兄さんって誰?」
 同じ質問を繰り返す伊織くんのお声は冷たい。纏う空気さえも冷たい伊織くんです。
 どう答えていいか迷います。このまま本当のことを言っても良いような気もします。けれど、もう一人の自分が必死にこの場を取り繕う言い訳を探しています。
 伊織くんの蒼色の瞳がじっと僕を見つめます。
 ふとその碧眼や金髪をかっこいいというお兄さんのお声が蘇ります。お兄さんの存在を伊織くんに絶対に知らせたくない、と一瞬のうちに頭を占めます。次の瞬間には、自分でも信じられない稚拙な言い訳が口をついて出ました。
「鬼井さんっていうクラスメイトさんです」
 声を震わせながらそう答えた僕は最低なやつです。女王さまの猫パンチ連打を全発顔面で甘んじて受けるべきです。でも、思いがけずもうこの言い訳がこぼれ出ていたんです。
 すっと目を細めた伊織くんは、「鬼井、さんね」と呟きました。どこかに1つ1つ確実に刻み込むようゆっくり紡がれたこれ以上ない低い声。なんででしょう。全鬼井さんにも僕は殴られるべきだと思ってしまいました。この期に及んで何を言い訳しても、取り返しがつかないですよね。伊織くんに掴まれた腕がひりつくように痛みました。
 その後は機嫌を取り戻した伊織くんと手を繋ぎ、久しぶりの登校をしました。途中で高森くんのお部屋に寄り、クッキーも無事にドアノブにかけられました。
『いってらっしゃい』その声を思い出したら、背中を押されたようにぎゅうと握り込んでしまった紙袋の取ってを目の前のドアノブにかけられたんです。やっぱりお兄さんはすごいです。