看護師の何がお得かって、こんなふうに平日の真っ昼間からお酒を飲めること。アラサーのど真ん中、三十歳をむかえたせいか余計にそう思う。
 うなずく同業者は多いんじゃないかな。

 大学からの友人で同期でもある早織(さおり)と入った洋食店は、駅からまっすぐにのびた大通りから一本外れた道にこじんまりと建っていた。
 
 ドア横にビール樽がどんと置かれているのに、店のひさしは黒い瓦。和洋折衷かと思いきや、内装はウォールナットの木目で統一されていて、机や椅子も同じだった。カウンター席と二人がけのテーブルがポツポツと並ぶだけでぎゅうぎゅうな店内は、トマトやチーズといった空腹にきく匂いで満たされている。
 
 名物だというラザニア定食には汁茶碗ものっていて、ここにも和の要素がさしこまれていると鼻をならせば、味噌汁でなくコンソメスープだと分かった。

「あ! ねえ早織、まだ乾杯してないじゃん」
「本当だ。お疲れー(こずえ)と私」
「ちがうって。離婚おめでとう!」

 テーブルの向かいで、早織はポカンと口を開けた。学生時代から華があってキレイな彼女がそんな表情をすると、隙があってかわいい。
 ――じゃなくて!
 
 まずい。
 大っぴらに手をたたいて祝福するには、すこし早かったかもしれない。やっと調停が終わって離婚届を提出できたと聞いたのが、つい先週の話だったっけ。
 
 小さな子を抱えながら離婚の準備をするなんて、相当なストレスだっただろう。結婚よりも離婚の方が大変なんて聞くし。相手の不倫がきっかけだったから、養育費なんかも話し合ったはずだ。精神的な負担の大きさだけでなく、期間も長かったに違いない。
 まだまだ手放しでよろこぶ心境ではなかったかもと冷や汗がたれる。

「ごめん。さすがに今のはノンデリだった」
「いいよ。腫れ物にさわるみたいな扱いばかりだから逆に新鮮。梢はぜんぜん気を使ってこないところがこっちも気楽でいいよ」
「本当?」

 答えるかわりに、早織は目線の高さまでビールグラスを持ちあげた。陰のない笑顔に安心して、私も同じようにグラスをかかげる。
 乾杯と声がそろって薄いガラスがふれあった。シャランとはねて響く音は、このランチが楽しいものになるのを予感させていた。

 
「久しぶりにお酒飲んだ。新人のころみたい。梢とは仕事終わりによく夕ご飯行ったよね」
「子供いる人はそうだよね。こっちも誘う相手がだんだん減ってきて寂しいよ」
「あと何年したら夜に出歩けるかな……今日はいいお店教えてくれてうれしい」
「いえいえ、おひとりさまの強みですし?」

 かしこまってウィンクした私に、無駄に上手いと早織はケラケラ笑う。久しぶりのアルコールがもう回ったのかと思うくらいにはしゃいでる。
 そんな姿を見ると、やっぱり無理をしているのかもな、と気を引きしめながらもう一口飲んだ。
 
 グラスのビールは口当たりがよくほのかに甘い。気をつけないとあっという間に飲み干しそうだ。
 ランチビール300円とかソフトドリンクか。しかもイタリア産のホワイトビール。
 なんでも物価高の時代に、良心的をとおりこして店の存続を不安になってしまう。
 
 店構えのチグハグさといいアルコールの値段設定といい、好きなものを好きなようにしたようなおかしさがある。
 なのに不思議と居心地はよかった。それは料理にもあらわれていて、肉とトマトの主張をうまいことおさめるホワイトソースのまろやかさと、チーズの酸味加減が見事なラザニアは絶品だった。

「おいしいーなにこれおいしいねー」
「でしょう。早織も好きだろうって前から思ってたんだよね。家で再現できたら最高なんだけどな」
「今も自炊してる?」
「できる範囲でね」

 もともと料理をするのは好きだ。きっかけはなんだっただろう。小学生のころ母の日に作った料理をよろこんでもらえてからだっけ。
 大学に入ると同時に一人暮らしを始めて、一年生のうちは時間の余裕もあったからいろいろ作った。早織と宅飲みしてふるまったこともある。
 
「仕事しながら自炊続くの尊敬する。うちなんか冷食ばかりだもん」
「いやだって早織はいろいろ大変だったし。仕事しながら子育てじゃ忙しいでしょ」
「料理するしないは忙しさ関係ないよ。好きかどうか。子供三人いるのに土鍋でご飯炊いてる人とかいるもん」
「ふーん……なら、一緒に住んじゃう?」
「は?」
「学生のころそんな話したじゃん」

 医療系の学生は、ほかの学科の学生よりも高齢者が身近な存在だ。看護の現場は介護の現場とほぼ等しい。
 曲がった背中で一人暮らしをおくる人、孤独死に居合わせた経験のある指導者の話。
 気が滅入りながらレポートをまとめた私たちは、ひとつの結論にいたったのだ。
 
 年をとってお互い独り身なら同じグループホームにはいろう。そのころには高齢者のシェアハウスも一般的になってそうだから、それもいいねって。
 
「本気なの? だって梢は婚活してたよね?」
「本気。大まじめ。婚活はさ、もう疲れた! いいでしょシェアハウス。ちょーっと時期が早まっちゃっただけで」
「早まりすぎでしょ。何十年分よ」
「一緒に住んだら宅飲みし放題だし!」
「それは……そう」

 うつむいた早織は、両手持ちしたグラスを右へ左へとかたむけた。ほとんど残っていないビールがグラスのなかを回る。そうやってしばらく黙っていたと思ったら、ぐいと飲みほした。

「やっぱり軽率すぎるし、私だけが得をするのはフェアじゃない」
「いいじゃん。航希くんにも会いたいし。もう三歳だっけ?」

 心配ならお試ししてみようよと提案する。
 空になったグラスをテーブルの脇において、スープを飲みながら早織は思案した。
 
「誕生日は来月だからまだ二歳。……ねえ、試すって一日一緒にすごすと考えていいの?」
「いいじゃんそうしよう。いつにする?」

 私もグラスを空にして、おかわりを二人分注文する。
 いい気分だった。
 
 久しぶりに会えた学生時代からの友人。おいしい料理にお酒。
 今後を憂う隙間なんてどこにもないカラッと晴れた空に、薄手の長袖でちょうどいい気温に湿度。

 極めつけは、仮眠がろくに取れなかった夜勤明けの空腹にアルコール。
 
 全ての条件が揃っていたからこその勢いだったと思う。
 そうでなければ、私がこんな……人生の選択を即決するなんてあり得ない。
 
 普通の休日だったら、もう少し寝ていたら、お酒の値段が高くてちびちび飲んでいたら。
 きっと別の未来だったにちがいない。