チャイムが鳴り終わると、決まって俺は椅子を引く。机の中から教科書を出す時、手を突っ込みやすいようにする。他はトイレに立つ時や、先生に質問をしに行く。特に次の授業がない時、つまり今みたいな放課後は、帰りの用意をするため、鞄を膝の上に置いて机の中身を入れていく。まあ、ざっと並べるだけで、様々な理由がある。
けれども、大抵一連の動作を実行する前に、ある刺客が入る。
「ゆーうっ!」
活発すぎる声とともに、太ももに遠慮なく全体重が掛けられる。肉厚な感触が、俺の上半身にもたれかかってきた。柔らかな柔軟剤が鼻を擽り、不覚にも嗅覚の神経を鋭敏にさせた。まあ、一番は触覚を集中させている。
いつもの事……だが、もう少し加減というものを知ってほしい。受け止められはするが、こちらにも心の準備というものがある。腹の底から昂ってきた熱を、収める事に毎回必死なんだから。
俺の胸中などさほど気にしていない様子で、熱を向けられた当人は膝の上から弾ける笑顔を見せた。
「なんだ、健人」
「お前の膝に、座りたかった!」
「よく飽きねぇな、毎回座ってさ」
「なんか安息地って感じするんだよね〜。こう、身を預けたいな〜的なさ」
安息地の詳しい意味なんて、分かんないだろ。というか、その意味合ってんのか。全部感覚じゃないのか、お前の。そう口を開きかけたが、すぐに飲み込んだ。
「おお、お前ら相変わらず仲良いな」
「いつも座ってんじゃん」
他の友人が、からかい混じりに俺らの所へ来たからだ。俺の机周りを取り囲み、軽快に話し始める行動はもはや習性だ。休み時間や放課後は、毎日のように来る。迷惑、とかではないが……健人が俺にあまり目を向けなくなる事が、口惜しく感じてしまう。
「だろ? 俺の特等席だ」
健人は、何故か得意げに胸を張った。
「すげーな、俺だったら絶対蹴落としてる」
「ちゃんと、優に感謝しろよお前」
「ちょっと、何かアタリ強くない?!」
相も変わらず、いじられキャラだ。軽口を叩かれる友人に対して、躍起になって対抗している。思わず舌打ちをしてしまいそうになるほど、楽しそうだ。それに、横座りになって、より一層動く範囲が広がってんな……。これじゃあ反動で、落ちる……。と、思った側から、健人の身体が前のめりに揺れた。熱った太ももが、嫌に涼しく感じて気持ちが悪い。
「おい、暴れんな。落ちる」
俺は努めて冷静に手を伸ばし、健人の脇腹を掴んだ。程よく筋肉が乗った厚さに、思わず喉が鳴りそうになる。
肉付き、良いな。自分の脳内に、下世話な妄想が瞬時に横切った。俺は心の中で必死に首を横に振り、その反動で指をより一層沈めさせてしまった。
脇腹は神経が発達し、動脈が皮膚と近いらしい。
そのため、痛みを、感じさせない程度に。そして、感触をわざと残すように指を動かして……。
「おっ、優ありがとう〜」
平然と笑う健人に対して、ちょっと眉を寄せた。コイツ、脇腹効かないのか……なんだよ。あぶねーだろ、なんていう友人の軽口が、また健人に向かって小突かれた。
また、俺はただの椅子と成り果てた。まあ、一言二言話に割って入れば、椅子からは多少卒業できるかもしれない。俺が健人に何か一言繰り出せば、友人達は自然とノってくれる。良い奴らだ……ノリが。
深く、息を吐きたい衝動に駆られた。
……仲は良いのは百歩譲って良いとして、横向きじゃなきゃ良いのに、なんて思う。友人は真正面から健人の顔を見れて、何で俺だけ横向きなんだ……。
まあ、いつもは後ろ向きに座るから、その分顔が見えて良いんだけどさ……。友人達と、話し込むのは変わらないんだな。毎回、どんな気持ちで俺が見てるか知らないで。そんで、何にも話さなければ、俺はただの椅子同然かよ。たまには、健人の方から話題を振ってくれても良いじゃないか。
思考が逡巡しすぎて、大分偏った方向に首をもたげてきた。
次は、バレないように深く、長く息を吐いた。面倒臭い性格をしている自分に、心底呆れる。
これ以上拗れない為に、ふと視線を落とすと、分厚い背中が目に入った。横向きだから、少々身体を傾けないと全体像はあまり見えない。だけど、俺は幾度となく目に焼きつけている。健人は、いつも後ろ向きに座っているから。その時は……。
俺は、腕をひっそりと伸ばす。次いで人差し指を、健人の背に立てた。友人達と健人は向かい合っているから、俺が腕を伸ばしたとて、健人の広い背中ならすっぽり隠れる。
健人が後ろ向きに座っていると、友人達に横から見えてしまうから、控えめに指を動かしていた。健人の背中の下の方に、指先を移動する。そして、第一関節だけを動かして、細かく、分かりづらく、文字を書く。
普段だったらなかなか言えない言葉を、健人の背中に通して……。まあ、一度も言及された事ないから、絶対に気づいてないと思うが。
友人達を含め、指摘を受けたり、何をしているんだと尋ねられた事は今のところない。そりゃそうだ、双方話し込んでるんだから。
けれど、今日はちょっと大胆にできる。
……横に書くから、少し難しいな……。何て書いているのか、直接視界に入れて確認できない。その分、歪になっていないか、不安が小さく沸き立つ。
俺はハッとして、慌ててそれをすり潰す。別に、文字が歪になるか、なんて気にする事なんてない。バレたくないんだから。
でも、何度背中に指を這わせようと、言葉を健人の背中に積もらせようと、健人からは特に反応がなかった。俺を見る事はなく、友人達ばかりと話して……。
健人は、気づかない。いつも、気づかない。俺だけヒヤヒヤしながら、口に出せない思いを健人の背中に重ねている。それが堪らなく惨めで、情けなくて……。いや、別に気づかせようとしてるわけでは……。だって、気づけるわけないじゃないか。バレないようにしてるんだから。詰められたら、どうすればいいのか分からないし……。想いを伝えたところで……。
なじるようにすり潰したからか、形を成していない考えが湧き出てくる。健人が、いつもと違う姿勢だからだろうか。ひと匙にも満たないであろう、負の感情を感じただけで、タカが外れたように次から次へと……。
勝手に湧き出てくる、粘着質なモノに舌打ちをかましそうになるほど、苦い感情が広がった。
俺は、指先にわざと力を込める。そして、間を持たずに、健人の背筋に線を思いきり引いた。最初は直角を作って、下に真っ直ぐ引いた。次に小さな丸を作った後、背中を横断するように、指を伝う。
これぐらい、だろう。直接見れない事に、些か緊張を覚えるが、多分大丈夫だ。何回も書いて、指にその文字が染み付いているのだから。
……また、変な事で頭を巡らせる前に、早く書いてしまおう。続けて、別の線を引こうと指を背中につける。
すると、指が健人の背中を離れた。健人の背中が大きく友人側……つまり前に、身じろいだのだ。
グッ、と喉仏が押されたように感じた。自然と行っていた呼吸を、丸ごと止める。それと同時に、心臓が耳の近くで一回鳴った。
バレ……たか……?
緊張が身体に覆いかぶさり、硬直した……が、健人の笑い声ですぐに掻き消された。
「それマジィ?」
「マジマジ、今思い出しても腹いて〜」
次いで、友人達も笑い声を上げる。……何だ、バレてるわけじゃないのか。
眉を顰めて、健人の方に顔を向ける。俺と会った時より、一層輝いた笑顔を浮かべていた。あまり見たことがない、珍しい表情を、友人達に無防備に晒している。
馬鹿じゃねぇの?
思わず罵倒の声が出そうになって、そっと唇を噛んだ。行き場のなくなった言葉は黒ずんだ液体となり、胸中に渦巻いて、底に溜まる。ドロドロと腹の底に溜まり、冷えていった。これを口に出せたら、どれほど良かっただろう。友人達の前だから、飲み込む術しかない事がとても悔しい。だけど、溜まりっぱなしという状況も、身体に悪い気がする。そう思いついて色々考えた末、代わりに無言で健人の方を睨……。
俺の喉仏が、ほぼ無意識に上下した。先程とは、比べ物にならないくらいの焦りが湧き上がる。腹の底の液だまりも、何処かへ飛んで行ってしまったようで、今は頭と同じくらい空虚だった。ただ、強く捕まえられた事象から、逃げようにも逃げられない事を突き付けられただけだ。
健人が、薄目を開けてこちらを覗いている。友人達と笑い合っていた、無邪気さ全開の笑顔はかけらも無い。瞼から僅かに覗く、一筋の鋭い眼光が俺だけを貫いている。俺の行動含め、思考ごと全部射止めている感覚に、心臓が震えた。熱いモノがじわじわと頭皮から顔を出し、徐々に下へと落ちていく。落ちてから、それが汗だという事に気が付いた。出た時は熱かったのに、頬を伝う瞬間にはもう冷えていた。代わりに、健人から隠れながらも堪能していた体内の熱が、再度沸騰し始める。激しい温度差に気分が悪くなりそうだ。
気づいたら健人は、友人達との話に戻ったようだ。友人達は健人や俺の事に意識を向けていないから、先ほどの行動は不審におもっていないらしい。気づいていたのかも、あやふやだ。健人の眼差しは、僅かな時間だったらしい。瞬きするほど、だったのだろうか。俺は、数十分ほどの時間に感じた。それほど、衝撃だったのだろう。今も瞼を閉じたら、あの健人が出てきそうだ。確実に、俺の視界に深い跡を残した。頭から、離れない。今まで巡った思考の糸でさえもブツブツに切れて、健人の瞳だけで全てが埋まっている。
バレた……のか……。
理解するだけで、精一杯だった。呆然と脱力し、椅子の背もたれに身体を預けた。けれども固い木の板が、容赦なく俺の背中を押し返してくる。自業自得だ、と言わんばかりに。
今だけ、物言わぬ椅子になりたいと切実に思ったのは、言うまでもない。
「優、やっと二人きりになれたね」
閑散とした教室に、健人の甘ったるい声が響く。耳の奥に、心地良い熱が広がる。横向きに座る体勢から、俺の膝を跨いでガッツリ顔を正面に向けている。俺が膝を貸して以来、初めての向きだ。顔を突き合わせ、真っ直ぐ向かい合っている。本来なら、心躍る事なのだろう。だが、健人は鋭い光を、細く開かれた瞳の奥に携えていた。
まるで、捕食者だ。
友人達やクラスメイトはとっくに帰って、教室内は閑散としている。嵐の前の静けさで、他に人はいないから俺を問い詰めるのに最適だろう。血濡れたような真っ赤な夕日の光が、俺と健人が座っている席を染める。今、人が入ってきたら捕食現場と見間違えられるのではないだろうか。
じゃあ俺らはそろそろ行くわ、と片手を上げて帰った友人達に、俺もそうする、と言えたら、こんな凄惨な連想なんてしなかっただろうに。
健人は、逃さないとばかりに無言で体重を掛けてきた。健人の感触が、苦痛を含む事などあっただろうか。ただ、肉厚な感触を押し当てられただけ。太ももに、体重を掛けられただけ。どいてくれ、と言ったら、友人達の前だから健人は意味ありげに一拍置いた後、快く了承するかもしれない。その隙に逃げればいいだけなんだ。逃げればいいだけ……。
その行動が出来たら、どんなに良かっただろう。
友人達に助けを求める事もできず、俺は健人とそのまま送り出した。
友人達が一緒に帰らないのか、と言ってくれたら良かったのに。健人の「授業で分からなかったところ、優に教えてもらうからさー俺ら残るわー」の一言を、あっさりと信じやがって。学年上位の頭が、今だけは疎ましく感じた。
健人は頭が回る癖に、勉強が出来ない。だから、友人達から勉強頑張れよー、と緩い応援が送られていた。……これから別に勉強する訳でもないのに、的外れな。
他のクラスメイトは既に出払っていて、俺と健人だけ教室に取り残された。
否、健人に居残りさせられた。
健人は固まった俺を見て、両方の口端をゆっくりと持ち上げている。この状況を、掌の上で弄ぼうとしているのだろう。
年頃の男子高校生とはかけ離れている。大人びた色気を纏い、俺の反応を楽しむ健人が目の前にいた。
妖艶に笑う健人から、視線を逸らす。唯一の逃げの一手だ。だが、健人の骨ばった掌が、俺の頬に添えられてやんわり阻止された。真正面から見据えられる瞳は、徒に細められている。
「そんなに、拗ねないでよ。優の事怒ってないし、逆に可愛いよ、ずーっと僕の背中に必死に書いてたの」
俺は、目を見開いた。健人は小首を傾げ、ただただ微笑んで俺の事を見つめている。
「……そんなに前から、知ってたんかよ」
「うん。僕が、優に背中を向けたら下の方でゴソゴソ書いてたよね。バレないように必死そうにしてたから黙ってたけど、今日、たまたま、横向きに座ってもやるもんだから健気だなぁって」
肩を控えめに揺らし、口元だけを弧の字にする。底に溜まった羞恥心が、顔を出し始めた。首から上に、熱いものが込み上げる。頬全体に熱が伸びていく感触が、生々しい。
『今日』と『たまたま』の語尾を強調している所から推察すると、故意的にやったのだと分かる。だから、嫌だったんだよ、バレるのが……熱くて、堪らなくて、仕方ないから……。
健人は俺の事など気遣ってない様子で、長い指先を使い、俺の頬を堪能し始める。俺の頬肉を挟んだり、戻したり……。完全に、弄ばれている。振り解きたい……けれど、健人の手中に溺れていく自身がいる事も事実だった。
「どうして、背中に文字なんて書いたの?」
飴玉を転がすように問いかける健人に、俺は口をつぐんだ。
「それとも……寂しかった? 最近はアイツらと話してばっかりで、構ってあげられなかったからねぇ」
ごめんねぇ?
小首を傾げて、口先だけの謝罪を述べる健人を無言で見つめた。絶対に思ってないし、寧ろ今の俺を滑稽だとしか思っていないだろう。
そういう奴だ、健人という恋人は。
何もかも知ってる癖に、何も言わずに転がしておく。俺の我慢が爆発しそうになった頃合いに、種明かしをする。そして、俺の反応を見て、一回りも年上かの如く微笑んでいるのだ。
狡い奴だ、本当に。この健人を友人やクラスメイトに見せたら、十中八九ドン引くだろう。……まあ、俺以外知らなくて良いけれど。いや、違う。健人の本性が知られたら、芋づる式に俺の情けない面も見せてしまうからであって、別に……。
黙って頭だけを働かせていると、健人が猫撫で声で擦り寄ってきた。
「ねぇ、優。俺に何して欲しいの?」
嘘つけ、全部知ってる癖に。
思考が中断され、尖った文句が瞬時に飛び出そうになった。だが、健人のどろついた砂糖みたいな声にまた制される。
「指じゃなくて、口で言わなきゃ、分からないな。俺、勉強できない程、馬鹿だからさ」
これも、嘘だ。
喉奥に熱いモノが、迫り上がってくるのが分かる。けれど、それは文句ではなかった。
なけなしのプライドが蓋をしようと奮闘するが、それは簡単に薙ぎ倒される。口の中に熱が集中し、溢れ出る言葉に溺れていく。正面から向き合って言う事も出来ず、健人の背中に書き連ねて積もった言葉だ。
乾いた唇を、はく、と動かす。か細い息とともに、喉を震わせた。
「みて。俺を、見て」
精一杯に絞り出した言葉に、健人は笑みを深める。
「及第点、だね」
そう呟いて、健人は顔を近づけた。幼気を残しながらも、青年期特有の節が入っている美顔が、俺の視界にいっぱい広がった。俺が魅了された、一つの部分……唇が、少し突き出されているように見える。熱い吐息が、顔にかかってきた。ここで、瞼に瞳が覆い被さるところなのに、今日はちゃんと『見て』いてくれるんだな。
やっと俺の時間が、回ってきた。
自分の頬が再度火照るのを感じながら、俺は瞼を下ろす。健人はきちんと見ていてくれるから、安心して身を任せたい。
俺が椅子の代わりになった時の、健人と同じぐらいに。
けれども、大抵一連の動作を実行する前に、ある刺客が入る。
「ゆーうっ!」
活発すぎる声とともに、太ももに遠慮なく全体重が掛けられる。肉厚な感触が、俺の上半身にもたれかかってきた。柔らかな柔軟剤が鼻を擽り、不覚にも嗅覚の神経を鋭敏にさせた。まあ、一番は触覚を集中させている。
いつもの事……だが、もう少し加減というものを知ってほしい。受け止められはするが、こちらにも心の準備というものがある。腹の底から昂ってきた熱を、収める事に毎回必死なんだから。
俺の胸中などさほど気にしていない様子で、熱を向けられた当人は膝の上から弾ける笑顔を見せた。
「なんだ、健人」
「お前の膝に、座りたかった!」
「よく飽きねぇな、毎回座ってさ」
「なんか安息地って感じするんだよね〜。こう、身を預けたいな〜的なさ」
安息地の詳しい意味なんて、分かんないだろ。というか、その意味合ってんのか。全部感覚じゃないのか、お前の。そう口を開きかけたが、すぐに飲み込んだ。
「おお、お前ら相変わらず仲良いな」
「いつも座ってんじゃん」
他の友人が、からかい混じりに俺らの所へ来たからだ。俺の机周りを取り囲み、軽快に話し始める行動はもはや習性だ。休み時間や放課後は、毎日のように来る。迷惑、とかではないが……健人が俺にあまり目を向けなくなる事が、口惜しく感じてしまう。
「だろ? 俺の特等席だ」
健人は、何故か得意げに胸を張った。
「すげーな、俺だったら絶対蹴落としてる」
「ちゃんと、優に感謝しろよお前」
「ちょっと、何かアタリ強くない?!」
相も変わらず、いじられキャラだ。軽口を叩かれる友人に対して、躍起になって対抗している。思わず舌打ちをしてしまいそうになるほど、楽しそうだ。それに、横座りになって、より一層動く範囲が広がってんな……。これじゃあ反動で、落ちる……。と、思った側から、健人の身体が前のめりに揺れた。熱った太ももが、嫌に涼しく感じて気持ちが悪い。
「おい、暴れんな。落ちる」
俺は努めて冷静に手を伸ばし、健人の脇腹を掴んだ。程よく筋肉が乗った厚さに、思わず喉が鳴りそうになる。
肉付き、良いな。自分の脳内に、下世話な妄想が瞬時に横切った。俺は心の中で必死に首を横に振り、その反動で指をより一層沈めさせてしまった。
脇腹は神経が発達し、動脈が皮膚と近いらしい。
そのため、痛みを、感じさせない程度に。そして、感触をわざと残すように指を動かして……。
「おっ、優ありがとう〜」
平然と笑う健人に対して、ちょっと眉を寄せた。コイツ、脇腹効かないのか……なんだよ。あぶねーだろ、なんていう友人の軽口が、また健人に向かって小突かれた。
また、俺はただの椅子と成り果てた。まあ、一言二言話に割って入れば、椅子からは多少卒業できるかもしれない。俺が健人に何か一言繰り出せば、友人達は自然とノってくれる。良い奴らだ……ノリが。
深く、息を吐きたい衝動に駆られた。
……仲は良いのは百歩譲って良いとして、横向きじゃなきゃ良いのに、なんて思う。友人は真正面から健人の顔を見れて、何で俺だけ横向きなんだ……。
まあ、いつもは後ろ向きに座るから、その分顔が見えて良いんだけどさ……。友人達と、話し込むのは変わらないんだな。毎回、どんな気持ちで俺が見てるか知らないで。そんで、何にも話さなければ、俺はただの椅子同然かよ。たまには、健人の方から話題を振ってくれても良いじゃないか。
思考が逡巡しすぎて、大分偏った方向に首をもたげてきた。
次は、バレないように深く、長く息を吐いた。面倒臭い性格をしている自分に、心底呆れる。
これ以上拗れない為に、ふと視線を落とすと、分厚い背中が目に入った。横向きだから、少々身体を傾けないと全体像はあまり見えない。だけど、俺は幾度となく目に焼きつけている。健人は、いつも後ろ向きに座っているから。その時は……。
俺は、腕をひっそりと伸ばす。次いで人差し指を、健人の背に立てた。友人達と健人は向かい合っているから、俺が腕を伸ばしたとて、健人の広い背中ならすっぽり隠れる。
健人が後ろ向きに座っていると、友人達に横から見えてしまうから、控えめに指を動かしていた。健人の背中の下の方に、指先を移動する。そして、第一関節だけを動かして、細かく、分かりづらく、文字を書く。
普段だったらなかなか言えない言葉を、健人の背中に通して……。まあ、一度も言及された事ないから、絶対に気づいてないと思うが。
友人達を含め、指摘を受けたり、何をしているんだと尋ねられた事は今のところない。そりゃそうだ、双方話し込んでるんだから。
けれど、今日はちょっと大胆にできる。
……横に書くから、少し難しいな……。何て書いているのか、直接視界に入れて確認できない。その分、歪になっていないか、不安が小さく沸き立つ。
俺はハッとして、慌ててそれをすり潰す。別に、文字が歪になるか、なんて気にする事なんてない。バレたくないんだから。
でも、何度背中に指を這わせようと、言葉を健人の背中に積もらせようと、健人からは特に反応がなかった。俺を見る事はなく、友人達ばかりと話して……。
健人は、気づかない。いつも、気づかない。俺だけヒヤヒヤしながら、口に出せない思いを健人の背中に重ねている。それが堪らなく惨めで、情けなくて……。いや、別に気づかせようとしてるわけでは……。だって、気づけるわけないじゃないか。バレないようにしてるんだから。詰められたら、どうすればいいのか分からないし……。想いを伝えたところで……。
なじるようにすり潰したからか、形を成していない考えが湧き出てくる。健人が、いつもと違う姿勢だからだろうか。ひと匙にも満たないであろう、負の感情を感じただけで、タカが外れたように次から次へと……。
勝手に湧き出てくる、粘着質なモノに舌打ちをかましそうになるほど、苦い感情が広がった。
俺は、指先にわざと力を込める。そして、間を持たずに、健人の背筋に線を思いきり引いた。最初は直角を作って、下に真っ直ぐ引いた。次に小さな丸を作った後、背中を横断するように、指を伝う。
これぐらい、だろう。直接見れない事に、些か緊張を覚えるが、多分大丈夫だ。何回も書いて、指にその文字が染み付いているのだから。
……また、変な事で頭を巡らせる前に、早く書いてしまおう。続けて、別の線を引こうと指を背中につける。
すると、指が健人の背中を離れた。健人の背中が大きく友人側……つまり前に、身じろいだのだ。
グッ、と喉仏が押されたように感じた。自然と行っていた呼吸を、丸ごと止める。それと同時に、心臓が耳の近くで一回鳴った。
バレ……たか……?
緊張が身体に覆いかぶさり、硬直した……が、健人の笑い声ですぐに掻き消された。
「それマジィ?」
「マジマジ、今思い出しても腹いて〜」
次いで、友人達も笑い声を上げる。……何だ、バレてるわけじゃないのか。
眉を顰めて、健人の方に顔を向ける。俺と会った時より、一層輝いた笑顔を浮かべていた。あまり見たことがない、珍しい表情を、友人達に無防備に晒している。
馬鹿じゃねぇの?
思わず罵倒の声が出そうになって、そっと唇を噛んだ。行き場のなくなった言葉は黒ずんだ液体となり、胸中に渦巻いて、底に溜まる。ドロドロと腹の底に溜まり、冷えていった。これを口に出せたら、どれほど良かっただろう。友人達の前だから、飲み込む術しかない事がとても悔しい。だけど、溜まりっぱなしという状況も、身体に悪い気がする。そう思いついて色々考えた末、代わりに無言で健人の方を睨……。
俺の喉仏が、ほぼ無意識に上下した。先程とは、比べ物にならないくらいの焦りが湧き上がる。腹の底の液だまりも、何処かへ飛んで行ってしまったようで、今は頭と同じくらい空虚だった。ただ、強く捕まえられた事象から、逃げようにも逃げられない事を突き付けられただけだ。
健人が、薄目を開けてこちらを覗いている。友人達と笑い合っていた、無邪気さ全開の笑顔はかけらも無い。瞼から僅かに覗く、一筋の鋭い眼光が俺だけを貫いている。俺の行動含め、思考ごと全部射止めている感覚に、心臓が震えた。熱いモノがじわじわと頭皮から顔を出し、徐々に下へと落ちていく。落ちてから、それが汗だという事に気が付いた。出た時は熱かったのに、頬を伝う瞬間にはもう冷えていた。代わりに、健人から隠れながらも堪能していた体内の熱が、再度沸騰し始める。激しい温度差に気分が悪くなりそうだ。
気づいたら健人は、友人達との話に戻ったようだ。友人達は健人や俺の事に意識を向けていないから、先ほどの行動は不審におもっていないらしい。気づいていたのかも、あやふやだ。健人の眼差しは、僅かな時間だったらしい。瞬きするほど、だったのだろうか。俺は、数十分ほどの時間に感じた。それほど、衝撃だったのだろう。今も瞼を閉じたら、あの健人が出てきそうだ。確実に、俺の視界に深い跡を残した。頭から、離れない。今まで巡った思考の糸でさえもブツブツに切れて、健人の瞳だけで全てが埋まっている。
バレた……のか……。
理解するだけで、精一杯だった。呆然と脱力し、椅子の背もたれに身体を預けた。けれども固い木の板が、容赦なく俺の背中を押し返してくる。自業自得だ、と言わんばかりに。
今だけ、物言わぬ椅子になりたいと切実に思ったのは、言うまでもない。
「優、やっと二人きりになれたね」
閑散とした教室に、健人の甘ったるい声が響く。耳の奥に、心地良い熱が広がる。横向きに座る体勢から、俺の膝を跨いでガッツリ顔を正面に向けている。俺が膝を貸して以来、初めての向きだ。顔を突き合わせ、真っ直ぐ向かい合っている。本来なら、心躍る事なのだろう。だが、健人は鋭い光を、細く開かれた瞳の奥に携えていた。
まるで、捕食者だ。
友人達やクラスメイトはとっくに帰って、教室内は閑散としている。嵐の前の静けさで、他に人はいないから俺を問い詰めるのに最適だろう。血濡れたような真っ赤な夕日の光が、俺と健人が座っている席を染める。今、人が入ってきたら捕食現場と見間違えられるのではないだろうか。
じゃあ俺らはそろそろ行くわ、と片手を上げて帰った友人達に、俺もそうする、と言えたら、こんな凄惨な連想なんてしなかっただろうに。
健人は、逃さないとばかりに無言で体重を掛けてきた。健人の感触が、苦痛を含む事などあっただろうか。ただ、肉厚な感触を押し当てられただけ。太ももに、体重を掛けられただけ。どいてくれ、と言ったら、友人達の前だから健人は意味ありげに一拍置いた後、快く了承するかもしれない。その隙に逃げればいいだけなんだ。逃げればいいだけ……。
その行動が出来たら、どんなに良かっただろう。
友人達に助けを求める事もできず、俺は健人とそのまま送り出した。
友人達が一緒に帰らないのか、と言ってくれたら良かったのに。健人の「授業で分からなかったところ、優に教えてもらうからさー俺ら残るわー」の一言を、あっさりと信じやがって。学年上位の頭が、今だけは疎ましく感じた。
健人は頭が回る癖に、勉強が出来ない。だから、友人達から勉強頑張れよー、と緩い応援が送られていた。……これから別に勉強する訳でもないのに、的外れな。
他のクラスメイトは既に出払っていて、俺と健人だけ教室に取り残された。
否、健人に居残りさせられた。
健人は固まった俺を見て、両方の口端をゆっくりと持ち上げている。この状況を、掌の上で弄ぼうとしているのだろう。
年頃の男子高校生とはかけ離れている。大人びた色気を纏い、俺の反応を楽しむ健人が目の前にいた。
妖艶に笑う健人から、視線を逸らす。唯一の逃げの一手だ。だが、健人の骨ばった掌が、俺の頬に添えられてやんわり阻止された。真正面から見据えられる瞳は、徒に細められている。
「そんなに、拗ねないでよ。優の事怒ってないし、逆に可愛いよ、ずーっと僕の背中に必死に書いてたの」
俺は、目を見開いた。健人は小首を傾げ、ただただ微笑んで俺の事を見つめている。
「……そんなに前から、知ってたんかよ」
「うん。僕が、優に背中を向けたら下の方でゴソゴソ書いてたよね。バレないように必死そうにしてたから黙ってたけど、今日、たまたま、横向きに座ってもやるもんだから健気だなぁって」
肩を控えめに揺らし、口元だけを弧の字にする。底に溜まった羞恥心が、顔を出し始めた。首から上に、熱いものが込み上げる。頬全体に熱が伸びていく感触が、生々しい。
『今日』と『たまたま』の語尾を強調している所から推察すると、故意的にやったのだと分かる。だから、嫌だったんだよ、バレるのが……熱くて、堪らなくて、仕方ないから……。
健人は俺の事など気遣ってない様子で、長い指先を使い、俺の頬を堪能し始める。俺の頬肉を挟んだり、戻したり……。完全に、弄ばれている。振り解きたい……けれど、健人の手中に溺れていく自身がいる事も事実だった。
「どうして、背中に文字なんて書いたの?」
飴玉を転がすように問いかける健人に、俺は口をつぐんだ。
「それとも……寂しかった? 最近はアイツらと話してばっかりで、構ってあげられなかったからねぇ」
ごめんねぇ?
小首を傾げて、口先だけの謝罪を述べる健人を無言で見つめた。絶対に思ってないし、寧ろ今の俺を滑稽だとしか思っていないだろう。
そういう奴だ、健人という恋人は。
何もかも知ってる癖に、何も言わずに転がしておく。俺の我慢が爆発しそうになった頃合いに、種明かしをする。そして、俺の反応を見て、一回りも年上かの如く微笑んでいるのだ。
狡い奴だ、本当に。この健人を友人やクラスメイトに見せたら、十中八九ドン引くだろう。……まあ、俺以外知らなくて良いけれど。いや、違う。健人の本性が知られたら、芋づる式に俺の情けない面も見せてしまうからであって、別に……。
黙って頭だけを働かせていると、健人が猫撫で声で擦り寄ってきた。
「ねぇ、優。俺に何して欲しいの?」
嘘つけ、全部知ってる癖に。
思考が中断され、尖った文句が瞬時に飛び出そうになった。だが、健人のどろついた砂糖みたいな声にまた制される。
「指じゃなくて、口で言わなきゃ、分からないな。俺、勉強できない程、馬鹿だからさ」
これも、嘘だ。
喉奥に熱いモノが、迫り上がってくるのが分かる。けれど、それは文句ではなかった。
なけなしのプライドが蓋をしようと奮闘するが、それは簡単に薙ぎ倒される。口の中に熱が集中し、溢れ出る言葉に溺れていく。正面から向き合って言う事も出来ず、健人の背中に書き連ねて積もった言葉だ。
乾いた唇を、はく、と動かす。か細い息とともに、喉を震わせた。
「みて。俺を、見て」
精一杯に絞り出した言葉に、健人は笑みを深める。
「及第点、だね」
そう呟いて、健人は顔を近づけた。幼気を残しながらも、青年期特有の節が入っている美顔が、俺の視界にいっぱい広がった。俺が魅了された、一つの部分……唇が、少し突き出されているように見える。熱い吐息が、顔にかかってきた。ここで、瞼に瞳が覆い被さるところなのに、今日はちゃんと『見て』いてくれるんだな。
やっと俺の時間が、回ってきた。
自分の頬が再度火照るのを感じながら、俺は瞼を下ろす。健人はきちんと見ていてくれるから、安心して身を任せたい。
俺が椅子の代わりになった時の、健人と同じぐらいに。