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一階のリビングで美季がアンジュに本を差し出しサインをもらっている間に、未森はピザの支度を始めた。
サインとは別にアンジュが色紙を持ち出した。
「似顔絵も描きますよ」
「え、いいんですか?」と、喜びを抑えきれず、縄跳びでもしているように美季が腕を振り回す。「未森さん、聞いてくださいよ。私、アンジュさんに似顔絵かいてもらえるんです」
「落ち着きなさいって。ご希望のお客さんにはみなさんにサービスしてるんですよ」
「でも、うれしすぎます」
「おとなしく座ってないとアンジュも描けないんじゃないの」
「あ、はい。すみません」と、背筋を伸ばして椅子に腰掛ける。「おとなしくいい子にしてます。よろしくお願いします」
その瞬間、すっとアンジュの顔からあらゆる感情が消える。
対象を鋭く見つめる目だけに力がみなぎり、ペンを持つ手は軽やかに舞っている。
「あの、お二人はどういう関係なんですか」
姿勢は崩さずとも、憧れのイラストレーターに目の前で絵を描いてもらえて高揚しているのか、いきなり核心的な話を聞いてくる。
アンジュは色紙に目を落としながら答えた。
「私と未森は同じ高校を出てるんだけど、そのときはクラスが別で、親しかったわけじゃなくてね。未森が生徒会役員をやっていたから私も顔と名前くらいは知ってたって感じ」
「私の方は」と、未森が続ける。「学校行事のポスターとかをいつも先生に依頼されてる生徒がいるなって認識だったのよね」
「そうなんですか」
「で、高校を出て、私は美術大学に入ったんだけど、学園祭に未森が来てその時に初めてちゃんとしゃべったんだったかな」
「知ってる絵だなって見てたら、声かけられてびっくりみたいな」と、ピザ生地を広げながら未森が笑う。「その時初めて連絡先を交換して、それから二人で美術展とかを見て回るようになったのよ。この人、引きこもりだったから、私が外に引っ張り出す感じで」
「人混みが苦手だから」
「ああ、私もです。休日のショッピングモールが苦手です」
「大学もキャンパスが実家に近い八王子の山の中だったから通えたんだと思う。都会だったら通えなかったかも」
「いい環境だったんでしょうね。一生懸命絵を描いてらっしゃったから、学生時代にイラストの賞を取って、デビューなさったんですものね」
「受賞したときにね、大学の友達ももちろん喜んでくれたんだけど、一番最初に知らせたいなって思ったのが未森だったの」
「ええ、そうなんですか」と、美季が未森に顔だけ向ける。「なんかうらやましいです」
「べつにカレシじゃないから」と、半笑いでピザソースを塗りチーズを振りまく。
庭で採れたバジルを並べ、釜へ入れる姿はイタリアの職人さんのようだ。
焼け具合をうかがう未森を横目にアンジュが話を続けた。
「おかげさまで、私は学生時代からイラストのお仕事をいただけるようになって、大学を出てからは実家でそのまま活動を続けていたのね。出版社の人とはネットでデータをやりとりできるから、引きこもりでも問題なかったし」
釜を見つめながら未森が言葉を挟んだ。
「もうすぐできあがりますから、お好きなお飲み物を用意しててください」
「いったん中断ね」と、アンジュがペンを置いて席を立つ。
「じゃあ、私も」と、美季は立ち上がってドリンクバーを眺める。「炭酸系、紅茶、フルーツ系……どれにしようかな」
「お先に失礼」と、アンジュが氷を入れたグラスにアップルティーを注ぐ。
「あ、いい香り。私もそれにします」
「どうぞ」と、横にずれて未森に声をかける。「冷たいハーブティーでいいの?」
「うん、レモングラスとミントで」
「はあい」
ダイニングテーブルにドリンクが並んだところで、焼き上がったマルゲリータピザが真ん中に置かれた。
もこもこと茶色く焦げた輪の中で、赤いソースと混じり合った白いチーズがふつふつと呼吸をしている。
緑のバジルはその鮮やかな色を失わず、清涼な香りを漂わせている。
「切りますか?」と、未森がピザカッターを差し出す。
「うふふ、緊張しちゃいますね」と、言葉とは裏腹に美季が大胆にローラーを転がしていく。
糸を引いて伸びるチーズを引っ張り合いながら、三人がそれぞれ自分の取り皿に一切れずつ引き寄せ、ドリンクで乾杯する。
「じゃあ、カンパーイ。いっただっきまーす」
ナイアガラのように流れ落ちる熱々のチーズに苦戦しながらもハフホフと口に入れた美季は唇をソースで赤く染めながら微笑んだ。
「んー、おいしーい。バジルが最高ですね」
「喜んでもらえて何よりです。次のを用意してますから、どんどんお召し上がりください」
「次は何のピザですか」
「ほうれん草とアンチョビです」
「わあ、楽しみです」
冷たいハーブティーに口をつけただけでピザを残したまま未森がキッチンへ引っ込む。
「召し上がってからでもいいんじゃないですか」
気づかう美季にアンジュが囁く。
「猫舌なの」
「あ、そうなんですか」
二枚目のピザが焼けたところで、未森もテーブルについていい具合に冷めたマルゲリータピザを食べ始めた。
「熱々の方は、二人で食べてね」
「じゃあ、遠慮なく」と、美季が六枚にカットして一切れ皿に取った。「あ、こっちのは塩味がきいててお酒に合いそう。胡椒の粒がいいアクセントになってる」
マルゲリータピザがなくなったところで、未森が冷蔵ケースからフルーツとケーキを持ってきてテーブルに並べた。
シャインマスカット、カキ、梨、グレープフルーツ、ラム酒漬けのレーズンが香るパウンドケーキ、アーモンドスライスがのったフィナンシェ、色も形も様々なクッキー盛り合わせ。
「こんなに食べられないです。お城のパーティーみたいですね」
といいつつも、アンチョビのピザを食べ終えた美季はドリンクバーからカプチーノをにこやかに取ってきて、パウンドケーキを一切れ皿に移した。
「さっきのお話なんですけど」と、打ち解けてきたのか、二人のいきさつに話を戻す。「このペンションはもう長いんですか」
「ううん」と、未森が首を振る。「まだ二年ほどかな。元々私はホテル業界で働いてたのよ」
未森は都心の老舗ホテルの名前をあげた。
「へえ、すごい有名ですよね」
「そこで基本的なことからいろいろ学んでたんだけど、コロナ禍で人員整理にあっちゃってね。それで無職になって、どうしようかなって考えてたときに、アンジュに誘われてこの辺に旅行に来たってわけ」
「補助金も出てたから、無料に近い値段で旅行ができたでしょ」と、アンジュがアップルティーのおかわりを取ってきた。
「そういえばそうでしたね」
「私の方は元からリモートワークみたいなものだったから、べつに仕事に影響はなかったんだけど、さすがに未森の業界は厳しかったでしょ。だから、私の方から気分転換に誘ったの」
アンジュは描きかけの色紙を取り上げて続きに取りかかった。
それを横目に、ほどよく冷めたアンチョビピザを食べていた未森が続けた。
「その時に泊まったのがたまたまこの宿で、高齢のオーナーさんがコロナ禍で気持ちが折れて引退したがってたのよ。じゃあってことで、譲り受けたの」
「そんなに簡単に決めちゃったんですか」
「条件が良かったのよ。跡継ぎもいないから土地と建物はほとんどただみたいな値段でね。信頼できる地元の業者さんも紹介してくれたから、客室の内装と給湯設備だけ更新すれば良くて、私の貯金でなんとかなったの」
「そんないい話があったんですね」
「不動産って、持ってるだけでも固定資産税とか維持費がかかっちゃうでしょ。オーナーさん自身も体力が限界だったし、奥様が心臓の冠動脈が悪くなって救急搬送されたり、もうそれどころじゃなかったみたいで、引き継いでむしろ感謝されたくらい」
「たまたまそういう時代のタイミングに合ってたってことよね」と、アンジュが軽快にペンを走らせる。「私たちの他にも、リモートワークになって、このあたりの廃業したペンションを買って移住した人もいるからね」
「へえ、ペンションとしてではなく家として買ったって事ですか」
「うん、家族で来た人もいるし、私たちみたいにシェアハウスとしてやってる人もいるね」
アンジュのかたわらで未森がうなずく。
「何もないところだけど、ネットと車があれば生活はできるから、やってみると案外いいものよ。もちろん、誰にでも向いてるなんてことはないけど」
「そういうものですかね」と、美季は半信半疑の表情を隠さずたずねた。「でも、お二人は独立開業したわけじゃないですか。まわりから反対されたりしませんでしたか?」
未森が曖昧に首をかしげる。
「たしかに言われたけど、アンジュがね、背中を押してくれたの」
「心配しなかったんですか?」
「私はずっとフリーランスだったでしょ」と、アンジュが色紙を眺めながら肩をすくめる。「だから自営業が無謀だって考えはなかったからね」
ため息交じりに未森が続ける。
「たしかに私も最初は不安だったんだけど、安定だと思っていた会社員の生活があっさり崩れちゃったでしょ。世の中に人生を曲げられてしまうなら、自分の好きなように曲げた方が居心地がいいかもって思うようになってね。アンジュと二人でルームシェアするのと同じかと考えたら、べつに心配することもないかなって」
アンジュが事もなげに言う。
「一緒に暮らすのに、アパートは良くて、ペンションはダメっていう理屈が分からないでしょ。むしろ広くていいじゃない、ね」
「うーん、そこは少し、すぐには受け入れられないのが普通かも。やっぱり、お二人がすごいんですよ。私だったら、やっぱり飛び込む前に足がすくんじゃうかも」
美季が皿の上に残ったパウンドケーキのかけらに目を落として続けた。
「私も親からずっと安定した仕事に就けって言われ続けてきましたけど、安定ってなんだかよく分からないですよね。今の職場に不満はないけど、やりがいとは無縁だし、この先だって何も面白いことなんか起こらないんだろうなって思うと、安定してるのに、ため息ついちゃう時があるんですよね。そんなときに、偶然アンジュさんのイラストを見つけて、これだって思ったんです。私はこういう生活がしたかったんだって。自分の好きな物に囲まれてちゃんと朝ご飯を食べる生活」
「朝ご飯食べないんですか?」と、未森が皿を片づける手を止めた。
「疲れてるから朝起きられなくて、なんかいつもバタバタすませちゃうんです」
「まあ、私も会社員時代は似たようなものだったかな。勤務時間もバラバラだったし」
「アンジュさんの描くイラストみたいに好きな物に囲まれて暮らすっていっても、現実って、親と同居してるから銀行からもらってきたカレンダーが壁に掛かってたりして、自分の理想とは逆のインテリアだったりするじゃないですか。食卓に並ぶのはスーパーで買ってきたお惣菜とか冷凍食品だったり、窓から見える景色だって隣の家のいかついミニバンだし。せめて自分の部屋だけでも理想に近づけたいと思っても、そもそもセンスがなくて、それっぽい小物とか買ってきても、結局バラバラな感じで、なんじゃこりゃって放置してほこりをかぶっちゃうんですよね」
アンジュが静かにうなずく。
「イラストの中は欲しいものだけで埋め尽くせるし、ほこりはかぶらないからね」
「でも、このペンションって、まさにアンジュさんの世界そのままじゃないですか」
「それを維持しているのは私じゃなくて未森だから」と、ペンを向ける。
「アンジュはね、イラストに集中しちゃうから、家のことはやらないの。逆に私は、そういうセンスがないから、アンジュの言うとおりに物を配置して、その通りに維持する役割を果たしてるってわけ」
「だから、私たちは二人でちょうどいいのよ」
「理想の関係じゃないですか。うらやましいです」
「一人だと経済的にも無理だけど、二人だとなんとか生活できるのよね」
未森の言葉にアンジュがうなずく。
「私は絵を描く環境を提供してもらえて、自分専用のギャラリーとして営業活動もできる。都会でギャラリーを借りて個展を開いたって、実績作りにはなるけど、実態は持ち出しが多くて儲からないからね」
「私はアンジュのファンの人たちに来てもらえるから広告宣伝費がいらない」
「ああ、なるほど」
「だから、美季さんみたいに、アンジュのファンなのに知らないでここに来る人の方が珍しいんですよ」
「え、じゃあ、車の中で話したときも、うっかり者の変な客だと思ってたんですか?」
「そんなこと思ってませんよ」と、あからさまにニヤけた笑みを浮かべながらキッチンに皿を運んでいく。「ただ、驚くだろうなって期待しちゃってましたけど」
「ああ、もう、言ってくださいよ」
顔を真っ赤にした美季はブドウを口に入れて唇をとがらせた。
「でも、ピザもデザートもおいしかったです。ごちそうさまでした」
「はい、じゃあ、色紙もどうぞ」
アンジュに差し出された絵を見た美季は口を押さえていきなり大粒の涙をポロリとこぼした。
「え、嘘、信じられない……」
色紙に描かれていたのは、びよーんとチーズの伸びたマルゲリータピザに満面の笑みでかじりつく美季の姿だった。
テーブルには果物、背景には観葉植物や雑貨が並べられた棚まで描かれている。
棚の一番上には、小さな写真立てが置かれ、その中には、お団子頭で黒縁眼鏡の女性と、後ろで髪をまとめたエプロン姿の女性の間に立ってピースをしているニットベストの女性の姿もちゃんと描かれていた。
「こ、これ、私たちですよね」と、声が震えている。「こんな短時間でこんなに描けちゃうんですね」
「ペン一色のラフだからね」と、アンジュは事もなげに微笑む。
「えー、どうしよう」と、抱きつかんばかりの勢いで未森に迫って色紙を見せる。「未森さん、私、すごく幸せ。だって、あのアンジュさんの世界に私がいるんですよ。ああ、もう、こっちが本物でいいです。今日から私が偽物になります」
「落ち着きなさいって、意味分からないし」と、未森はそんな美季のはしゃぎっぷりを温かな目で眺めている。
「でも、でも……」
「まあまあ、お茶でも飲んで落ち着いて」
美季はストンと椅子に腰を落とし、未森が差し出した氷を浮かべたハーブティーを喉を鳴らしながら飲み干した。
「じゃあ、私は仕事に戻るから」と、アンジュが席を立つ。
「あ、アンジュさん、どうもありがとうございます」
「はあい」
手を振って階段を上がっていく背中を見送りながら、美季が未森に囁いた。
「どうしよう。私、『アンジュさん』なんて名前呼んじゃいました」
「さっきから何回も呼んでたってば」
ぽーっと頬を赤く染めて何もない階段を見つめる美季に呆れながら、未森は皿に残ったマスカットを一粒口に放り込んだ。