水曜日の午前、掃除を終えた未森はカフェオレ色のエプロンを外すと、ダイニングテーブルに《お客様を迎えに行ってきます》とメモを残して玄関ドアを開けた。
正面の八ヶ岳は秋晴れの空に稜線がくっきりとかたどられ、裾野の森はパズルのピースをはめ込んでいくように少しずつ色づき始めている。
――そろそろ冬タイヤに交換しておかなくちゃね。
広い空き地に無造作に止めてある四輪駆動のSUVに乗り込んでエンジンをかけた未森は、発進させる前に長い髪をくるりとバレッタでまとめ直した。
森に囲まれた道に車を乗り入れ、大学のセミナーハウスや企業の保養所が並ぶゆるやかな坂を下ると国道に出る。
紅葉が始まったとはいえ、平日の昼前のこのあたりは他県ナンバーの観光客は少なく、農産物や木材を運ぶ大型トラックの方が多いくらいだ。
左折して国道に出てまたすぐに脇道に右折すると、見捨てられた廃墟のような町並みが現れる。
バブルの遺産と勘違いされることが多いが、それよりも前の原宿ブームの時代に作られたもので、壁の表面が剥げ落ちたミルクポット型のファンシーショップやら、屋根の上に解剖模型のように崩れた乳牛のオブジェが放置されたソフトクリーム店など、なぜ山の中にこんな物を作ってしまったのかと、何度見ても違和感しかない風景が続いている。
そんな異世界のような町並みを抜けて駅前広場に到着すると、ちょうど二両編成の下り列車が到着したところだった。
《森のペンションANJU》と書いたスケッチブックを掲げて改札口に立っていると、出てきたお客さんは三人だけで、肩紐のついたトートバッグを前に抱えたお一人様女子が未森に向かってまっすぐ歩み寄ってきた。
旅慣れているようには見えないが、荷物は最小限にまとめたらしい。
「こんにちは。予約した美季です」
「ようこそ。お待ちしておりました。《森のペンションANJU》の未森です」
美季と名乗った客はベージュのチノパンと袖にボリュームのあるホワイトブラウスにブラウンのニットベストのコーデが山の気候にぴったり似合っていた。
未森は車に案内する前に廃墟の町並みに手を差し伸べた。
「写真撮っていきますか?」
「え、はあ、そうですか」
特に興味がなさそうだが、未森がミルクポットに向かうと、客はおとなしくついてきた。
「ここって、昭和の世代の人はみんな知ってるスポットだから、写真に撮って送ると懐かしがられますよ」
「あ、そうなんですか」
美季は急に興味がわいたらしく、スマホを取り出して縦にしたり横にしたり、何枚か撮影して写真の出来具合を確かめていた。
未森は美季に寄り添って顔を近づけた。
「よかったら、ここで一緒に撮っておきませんか」
「じゃあ、ぜひ」
美季はスマホを前に突き出して、ミルクポットを背景にはめ込みながらシャッターボタンを押した。
その瞬間、未森はまるで古くからの友人のように、美季の頬に人差し指を突きつけた。
画面には、驚いた表情の美季がいる。
二人は知り合いでも何でもない。
今日初めて出会ったばかりの、三十四歳のペンションオーナーとアラサー客で、これは宿のサービスなのだ。
駅前の駐車場に戻って車に乗り込んだところで、未森は後部座席の美季に話しかけた。
「まだお昼には少し時間がありますけど、どこか眺めのいいところに寄ってから宿に行きますか。天気がいいうちに写真を撮った方がいいかと思うんで」
「これから雨降りますか?」
「いえ、晴れてても雲がかかっちゃうともったいないじゃないですか。撮れるときにとっておいた方がいいんですよ。こんなに晴れてるのは珍しいので」
「そうなんですね。じゃあ、どこかお願いします」
「はい、かしこまりました」
未森はチラッと時計を確認してから車を発進させ、トラックの多い国道へ戻り、しばらく進んで脇道に入った。
道路沿いにはススキの穂が揺れ、黄色や赤の落ち葉が風に吹き流されていく。
「けっこう紅葉してますね」
「猛暑のせいで、やっとですね」
「やっぱりそうなんですか」
細い道路を進んでいると、未森が道端に車を止めた。
特に展望スポットというわけでもなさそうだが、車を降りるので美季もスマホを持って外に出た。
どうやら、ここは橋の上らしい。
はるか下に小さな沢が流れている。
その流れをたどった先には森を切り取ったように鉄橋がかかっている。
未森が美季を手招きした。
「スマホ貸してください。撮りますから」
――撮る?
不安げな美季からにこやかにスマホを受け取った未森は立ち位置を調整しながらスマホを構えた。
「はい、いいですか。おっきく目を開いてくださいね。それから、お盆を持つみたいに手を胸のあたりに上げてください」
――お盆?
思わず疑問符が浮かんでしまうが、急いでいるようなのでおとなしく指示に従う。
「あと三センチ下げてください。はい、ストップ。じゃあ、連写しますからね。三、二、一、ハイ」
カシャカシャカシャ……。
いったい何枚撮るのか分からないが、シャッター音が続く間、美季はぎこちない笑顔をスマホに向けていた。
返されたスマホの画面を見た美季は、あっと声を上げた。
自分が乗ってきたのと同じ型の二両編成の上り列車がちょうど鉄橋の上を渡っているところで、紅葉を迎えた雄大な山を背景に、遠近法のいたずらで鉄道模型のように美季の手の上にちょこんと収まっているのだ。
「ほら、映えるでしょ」
「このタイミングを狙っていたんですか」
「ええ。ここ、鉄道愛好家の間では有名な撮影スポットなんですよ。本数が少ないから、なかなかタイミングが合わないんですけどね。今日は運が良かったですよ」
「そうだったんですね」と、美季は占い師の言葉を信じるかのように深くうなずいた。
再び車に乗り込み、そのまま数分進むと、見通しの良い高台に出た。
広い駐車場に車を止めて外に出ると、秋の高原らしい爽やかな風が吹いていた。
未森が駐車場脇の大きな岩を指す。
「あの岩、簡単に登れるんで、そこの上で写真を撮りましょう」
美季は森の中を散歩することもあるだろうとウォーキングシューズを履いてきていたので、まったく問題なく岩に上がることができた。
真っ正面に八ヶ岳の山々が連なり、秋晴れの下に広がる裾野の森のグラデーションが足元まで続いていた。
まずは風景だけを撮った美季からスマホを預かり、一人の写真を撮る。
次に、美季と並んで自撮り写真を撮る。
ミルクポットの時と同様に、未森はまるで古くからの友人のように親指を立ててウィンクしている。
「とりあえず、こんなところでいいですかね」
「はい、ありがとうございました」
美季はその場で、《無事に着いたよ》と、未森と二人で撮った写真を送信した。
車に乗り込んで宿へ向かう。
ルームミラーに映る後部座席の美季に向かって未森はたずねた。
「宿に着いたらお昼御飯にしますけど、予約メールでアレルギーとか苦手な料理はないと伺ってましたので、窯焼きピザでいいですか」
「わあ、おいしそうですね。ピザ釜があるんですか」
「あるんですよ」と、ハンドルを握ったまま左手の親指を立てる。「庭で採れたバジルのマルゲリータが好評です」
「楽しみです。ちょうどおなかも空いてきたので」
「それは何よりです」
一人旅で緊張しているのか、腕をまっすぐ伸ばして膝に手を置く美季に未森は質問を続けた。
「いつも水曜日がお休みなんですか」
「はい。明日は先週穴埋めに出勤した分の振り替えで連休にしてもらったんで、旅行に来てみたんですよ」
「いいですね」
「一人旅って初めてだったんですけど、こちらのペンションがお一人様女性限定っていうので安心かなって」
「大丈夫ですよ。本当にお客さんは一人だけなので。自分の家だと思ってくつろいでください」
「ネットで見てたら、アリバイ写真を撮ってくださるって書いてあって。よく分かってるなって」
「結構ご利用なさるお客さんいますよ」
「やっぱりそうなんですね。うちも親と同居してるんですけど、女一人で旅行に行くって言うと、心配だからダメだって言うんですよ。私ももうすぐ三十なんですけどね」と、ため息をつく。「だから、学生時代の先輩に誘われたってことにして来たんで、知り合いと一緒に撮ったような写真を送って納得させられるとありがたいんですよ」
未森が初対面の客に対して馴れ馴れしいほどの距離感で写真に収まっていたのは、こういったサービスの一環だったのだ。
「ちょっと後ろめたいですけどね」
やや沈んだ声の美季に対して、未森は朗らかに応じた。
「大丈夫ですよ。なんだったら本当に友達になっちゃえばいいんですから」
「ああ、まあ、そうですね」
明らかに社交辞令といった相槌を打った美季が、その口調のまま会話を続けた。
「私、イラストレーターのアンジュさんっていう方の絵が好きなんですけど、ここの宿の名前が同じだったんで来てみたんです」
「そうですか」と、今度は未森の返事がおざなりだった。
「カントリー風の建物の中に、いろんな小物を散りばめたような絵で、テーブルの上に並んだお皿の絵柄とかもきちんと書き込まれていたり、細かいところまで丁寧に描かれていて、眺めているだけでも飽きないんですよ。よく本の表紙を手がけていらっしゃって、本屋さんで見かけるとつい手に取って買っちゃうんです」
「表紙買いですね」
「そうなんです。喫茶店を舞台にしたライトなミステリーとか、ちょっと切ない系の恋愛小説とか、ジャンルはバラバラなんですけど、本棚に表紙を並べて飾ってあるんです」
「いいですね」
「中身を読まないでずっと表紙だけ眺めてるときもあるんです。ネットで見たこちらの宿の写真も、なんかそんな雰囲気に見えたので、楽しみにしてきたんですよ」
「ご期待に添えると思いますよ」
謙遜の気配もない返事をする未森に当惑しつつも、美季は宿への期待を胸に車窓に流れる森の風景を眺めていた。
車が宿に到着し、無造作に止まる。
「どうぞ」
《森のペンションANJU》は、桜色の花崗岩と黒い柱を組み合わせたハーフティンバーの建物で、周囲の森によく溶け込んでいた。
「ドイツのロマンティック街道にありそうな雰囲気ですね」と、ややはしゃぎつつも美季が肩をすくめる。「行ったことはないんですけど」
周囲はレモングラスやバジルなどが植えられたハーブガーデンで、ブルーベリーやラズベリーも実をつけている。
「きれいな庭園ですね。これだけ広いとお手入れ大変じゃありませんか」
「そうでもないですよ」と、未森の返事はあっさりしている。「雑草より強いから草取りが意外と楽なんですよ」
レンガを組み合わせた階段を踏みしめ、木製のドアを開けて中に入ると、美季が声を上げた。
「わあ、イメージ通りですね。アンジュさんのイラストに入り込んだみたい」
「気に入ってもらえて何よりです」
広いリビングにソファやサイドボードなどの家具が置かれ、かわいらしい雑貨がまるで絵画のようにしかるべきところに並べられている。
右手側は本格的ピザ釜のあるオープンキッチンにつながっていて、厚い一枚板のダイニングテーブルが置かれていた。
出がけにテーブルの上に残しておいたメモ紙がなくなっている。
スリッパに履き替えて上がると、未森は客室まで案内する流れで内部の説明を始めた。
「こちらのリビングは共用スペースで、お客様に自由にお使いいただいてます。そちらにドリンクバーがありますので、ご自由にお使いください」
「どれでも好きな物を飲んでいいんですか?」
「はい。宿泊料金はオールインクルーシブで、滞在中の食事やお飲み物はすべて無料ですので、お好きなものをお好きなタイミングでお召し上がりください」
美季はドリンク以外にもパウンドケーキやカットフルーツが並べられた冷蔵ケースを眺めながら目を輝かせていた。
未森はリビング正面奥を指す。
「あちらが浴室になっています。他にお客様はいませんので、当然貸し切りですから、好きなタイミングで何回でもお入りください」
「ぜいたくですね」
「温泉ではないんですけど、庭で採れたハーブの入浴剤もご用意してますので、よろしかったら使ってください」
リビング左手の壁に階段があり、二階に上がるとまっすぐな廊下に客室が並んでいる。
一番手前にトイレがある。
「客室にはトイレがありませんので、こちらをご利用ください。もちろん、滞在中はお客様専用となっておりますのでご安心ください」
一つ目の部屋の中をのぞく。
片側一面が作りつけの本棚になっていて文庫本や大判の美術画集などが無造作に並び、窓際にあるアンティークの書斎机にはアールヌーボー調の読書灯が置かれている。
よく見ると、本棚にはアンジュが表紙を手がけた本もたくさん並んでいた。
自分もまだ手に入れていない初期の頃の本までそろっている。
――なんだ、アンジュさんのこと知らないわけじゃないんだ。
「こちらは図書室です。下からコーヒーやケーキを持ってきて読書を楽しんでもらって構いません」
「でも、本を汚したらいけませんよね」
「大丈夫ですよ。それも料金の一部ですから」と、口元を手で隠しながら首をすくめる。「私が読んだ本を並べてあるだけなので、ご遠慮なさらずに、自分の家みたいにくつろいでください」
次に、隣の部屋へ移ったとたん、美季が息をのんだ。
「こ、これって……」
中は絵画が展示されたギャラリーだった。
映画の告知ポスターサイズの大判イラストがシンプルに額装されて、木目の美しい両側の壁に並び、中央に観賞用のハイチェアとテーブルが置かれている。
「全部アンジュさんのイラストですよね」
「はい、そうですよ」と、未森は事もなげにうなずく。「中に入ってご覧になってください」
「おじゃまします」と、おずおずと頭を下げながら美季が絵を眺めていく。「わあ、これ、先月発売された本の表紙に使われていた新作イラストですね」
と、絵の下に名刺サイズの紙がピンで留められている。
「値段が書いてあるんですね。販売もしてるんですか」
「はい。この額装のまま発送してますよ。各イラスト限定十部ずつで、ナンバーと本人のサインが入ります」
「本人の……サイン?」
美季の頭上には、疑問符が浮かんでいた。
「ちょっとお待ちくださいね」と、未森が美季を椅子に座らせて廊下に向かう。「今呼んできますから。たぶん起きてるはずなので」
――呼んでくる?
他にお客さんはいないはずなのに?
美季の疑問符は増えていた。
一人静かなギャラリーで気を取り直して絵を眺めてみると、本の表紙サイズでしか見たことのなかったイラストが特大サイズで印刷されているのに、まるで荒くならないどころか、細部までくっきりと描かれていて驚いてしまう。
キッチンをモチーフにした絵には大きさの異なる鍋が壁一面に音符のように並べて吊り下げられ、棚には食器やセピア色の家族写真がはめ込まれた写真立てが置いてあり、手前のダイニングテーブルにはおそろいの食器に盛りつけられたおいしそうな朝食が並んでいた。
そういった丁寧な暮らしを描いた絵の細部を一つ一つ眺めているうちに美季は鼻歌を口ずさんでいた。
と、廊下から二人分のスリッパの足音が聞こえてきた。
未森がつれてきたのは、エプロンのポケットに両手を突っ込んだお団子頭に黒縁眼鏡の小柄な女性だった。
「どうも、いらっしゃいませ」と、柔らかな笑みを浮かべてうなずくように頭を下げる。
「どうも、おじゃましています」と、突然現れた地味目な相手に美季が困惑気味に挨拶を返す。
「いらっしゃいませじゃなくて」と、未森が苦笑している。「名前を言わないと分からないでしょうよ。こちらがアンジュです」
あらためてペコリと頭を下げる小柄な相手の前で、美季は呆然と立ち尽くしていた。
「アンジュ……さん?」
「ええ、本人ですよ」と、事もなげに未森がうなずく。
「え、あの、アンジュさんって、このイラストの作者さん……なんですか?」
「はい、そうです」と、本人がポケットから両手を出して差し出す。「作品を気に入ってくださってるそうで、ありがとうございます」
震える手を差し出しながら画家の手を握り返した美季は目に涙を浮かべている。
「嘘みたい。信じられないです。でも、わあ、うれしい。えっ、なんで?」
御本人登場で言葉に詰まる美季の背中に手を回して未森がうながした。
「とりあえず、一度お部屋にご案内しますから、お話はゆっくりと下で」
「あ、はい」
まだ荷物も置いてなかったので、美季は未森について廊下に出た。
隣の部屋が客室だった。
「わあ、広いですね」
元々二つに分かれていた八畳程度の客室の壁を取り払い、一つの部屋として改装してある。
吹き抜けの高い天井に太い梁が渡され、天窓からは柔らかな光が差し込んで全体を明るく照らしている。
元から客室にバストイレはないので、圧迫感がない。
室内にはダブルベッドとソファセット、カプセル式のエスプレッソメーカー、氷やドリンクの入った冷蔵庫などが備わっている。
中に入って振り向くと、廊下側の壁には額装されたアンジュのイラストが掲げられていた。
「こんな部屋で暮らせたらいいのに」
「気に入っていただけてうれしいです」と、きっちり腰を折って未森が頭を下げる。
「もう、理想の生活ですよ」
「ピザを焼きますから、荷物を置いたら下のリビングへお越しください。アンジュもおりますので」
「はい、すぐ行きます」
廊下に出てドアを閉めようとした未森に、美季が駆け寄ってきた。
「あの」と、声を潜めてたずねる。
「はい」と、未森も顔を寄せた。
「今日電車の中で読んできた本もアンジュさんの表紙なんですけど、サインをお願いしてもいいでしょうか」
「はい、もちろんです」と、未森が満面の笑みで答えた。「ああ見えて、結構おしゃべり好きなんですよ」
正面の八ヶ岳は秋晴れの空に稜線がくっきりとかたどられ、裾野の森はパズルのピースをはめ込んでいくように少しずつ色づき始めている。
――そろそろ冬タイヤに交換しておかなくちゃね。
広い空き地に無造作に止めてある四輪駆動のSUVに乗り込んでエンジンをかけた未森は、発進させる前に長い髪をくるりとバレッタでまとめ直した。
森に囲まれた道に車を乗り入れ、大学のセミナーハウスや企業の保養所が並ぶゆるやかな坂を下ると国道に出る。
紅葉が始まったとはいえ、平日の昼前のこのあたりは他県ナンバーの観光客は少なく、農産物や木材を運ぶ大型トラックの方が多いくらいだ。
左折して国道に出てまたすぐに脇道に右折すると、見捨てられた廃墟のような町並みが現れる。
バブルの遺産と勘違いされることが多いが、それよりも前の原宿ブームの時代に作られたもので、壁の表面が剥げ落ちたミルクポット型のファンシーショップやら、屋根の上に解剖模型のように崩れた乳牛のオブジェが放置されたソフトクリーム店など、なぜ山の中にこんな物を作ってしまったのかと、何度見ても違和感しかない風景が続いている。
そんな異世界のような町並みを抜けて駅前広場に到着すると、ちょうど二両編成の下り列車が到着したところだった。
《森のペンションANJU》と書いたスケッチブックを掲げて改札口に立っていると、出てきたお客さんは三人だけで、肩紐のついたトートバッグを前に抱えたお一人様女子が未森に向かってまっすぐ歩み寄ってきた。
旅慣れているようには見えないが、荷物は最小限にまとめたらしい。
「こんにちは。予約した美季です」
「ようこそ。お待ちしておりました。《森のペンションANJU》の未森です」
美季と名乗った客はベージュのチノパンと袖にボリュームのあるホワイトブラウスにブラウンのニットベストのコーデが山の気候にぴったり似合っていた。
未森は車に案内する前に廃墟の町並みに手を差し伸べた。
「写真撮っていきますか?」
「え、はあ、そうですか」
特に興味がなさそうだが、未森がミルクポットに向かうと、客はおとなしくついてきた。
「ここって、昭和の世代の人はみんな知ってるスポットだから、写真に撮って送ると懐かしがられますよ」
「あ、そうなんですか」
美季は急に興味がわいたらしく、スマホを取り出して縦にしたり横にしたり、何枚か撮影して写真の出来具合を確かめていた。
未森は美季に寄り添って顔を近づけた。
「よかったら、ここで一緒に撮っておきませんか」
「じゃあ、ぜひ」
美季はスマホを前に突き出して、ミルクポットを背景にはめ込みながらシャッターボタンを押した。
その瞬間、未森はまるで古くからの友人のように、美季の頬に人差し指を突きつけた。
画面には、驚いた表情の美季がいる。
二人は知り合いでも何でもない。
今日初めて出会ったばかりの、三十四歳のペンションオーナーとアラサー客で、これは宿のサービスなのだ。
駅前の駐車場に戻って車に乗り込んだところで、未森は後部座席の美季に話しかけた。
「まだお昼には少し時間がありますけど、どこか眺めのいいところに寄ってから宿に行きますか。天気がいいうちに写真を撮った方がいいかと思うんで」
「これから雨降りますか?」
「いえ、晴れてても雲がかかっちゃうともったいないじゃないですか。撮れるときにとっておいた方がいいんですよ。こんなに晴れてるのは珍しいので」
「そうなんですね。じゃあ、どこかお願いします」
「はい、かしこまりました」
未森はチラッと時計を確認してから車を発進させ、トラックの多い国道へ戻り、しばらく進んで脇道に入った。
道路沿いにはススキの穂が揺れ、黄色や赤の落ち葉が風に吹き流されていく。
「けっこう紅葉してますね」
「猛暑のせいで、やっとですね」
「やっぱりそうなんですか」
細い道路を進んでいると、未森が道端に車を止めた。
特に展望スポットというわけでもなさそうだが、車を降りるので美季もスマホを持って外に出た。
どうやら、ここは橋の上らしい。
はるか下に小さな沢が流れている。
その流れをたどった先には森を切り取ったように鉄橋がかかっている。
未森が美季を手招きした。
「スマホ貸してください。撮りますから」
――撮る?
不安げな美季からにこやかにスマホを受け取った未森は立ち位置を調整しながらスマホを構えた。
「はい、いいですか。おっきく目を開いてくださいね。それから、お盆を持つみたいに手を胸のあたりに上げてください」
――お盆?
思わず疑問符が浮かんでしまうが、急いでいるようなのでおとなしく指示に従う。
「あと三センチ下げてください。はい、ストップ。じゃあ、連写しますからね。三、二、一、ハイ」
カシャカシャカシャ……。
いったい何枚撮るのか分からないが、シャッター音が続く間、美季はぎこちない笑顔をスマホに向けていた。
返されたスマホの画面を見た美季は、あっと声を上げた。
自分が乗ってきたのと同じ型の二両編成の上り列車がちょうど鉄橋の上を渡っているところで、紅葉を迎えた雄大な山を背景に、遠近法のいたずらで鉄道模型のように美季の手の上にちょこんと収まっているのだ。
「ほら、映えるでしょ」
「このタイミングを狙っていたんですか」
「ええ。ここ、鉄道愛好家の間では有名な撮影スポットなんですよ。本数が少ないから、なかなかタイミングが合わないんですけどね。今日は運が良かったですよ」
「そうだったんですね」と、美季は占い師の言葉を信じるかのように深くうなずいた。
再び車に乗り込み、そのまま数分進むと、見通しの良い高台に出た。
広い駐車場に車を止めて外に出ると、秋の高原らしい爽やかな風が吹いていた。
未森が駐車場脇の大きな岩を指す。
「あの岩、簡単に登れるんで、そこの上で写真を撮りましょう」
美季は森の中を散歩することもあるだろうとウォーキングシューズを履いてきていたので、まったく問題なく岩に上がることができた。
真っ正面に八ヶ岳の山々が連なり、秋晴れの下に広がる裾野の森のグラデーションが足元まで続いていた。
まずは風景だけを撮った美季からスマホを預かり、一人の写真を撮る。
次に、美季と並んで自撮り写真を撮る。
ミルクポットの時と同様に、未森はまるで古くからの友人のように親指を立ててウィンクしている。
「とりあえず、こんなところでいいですかね」
「はい、ありがとうございました」
美季はその場で、《無事に着いたよ》と、未森と二人で撮った写真を送信した。
車に乗り込んで宿へ向かう。
ルームミラーに映る後部座席の美季に向かって未森はたずねた。
「宿に着いたらお昼御飯にしますけど、予約メールでアレルギーとか苦手な料理はないと伺ってましたので、窯焼きピザでいいですか」
「わあ、おいしそうですね。ピザ釜があるんですか」
「あるんですよ」と、ハンドルを握ったまま左手の親指を立てる。「庭で採れたバジルのマルゲリータが好評です」
「楽しみです。ちょうどおなかも空いてきたので」
「それは何よりです」
一人旅で緊張しているのか、腕をまっすぐ伸ばして膝に手を置く美季に未森は質問を続けた。
「いつも水曜日がお休みなんですか」
「はい。明日は先週穴埋めに出勤した分の振り替えで連休にしてもらったんで、旅行に来てみたんですよ」
「いいですね」
「一人旅って初めてだったんですけど、こちらのペンションがお一人様女性限定っていうので安心かなって」
「大丈夫ですよ。本当にお客さんは一人だけなので。自分の家だと思ってくつろいでください」
「ネットで見てたら、アリバイ写真を撮ってくださるって書いてあって。よく分かってるなって」
「結構ご利用なさるお客さんいますよ」
「やっぱりそうなんですね。うちも親と同居してるんですけど、女一人で旅行に行くって言うと、心配だからダメだって言うんですよ。私ももうすぐ三十なんですけどね」と、ため息をつく。「だから、学生時代の先輩に誘われたってことにして来たんで、知り合いと一緒に撮ったような写真を送って納得させられるとありがたいんですよ」
未森が初対面の客に対して馴れ馴れしいほどの距離感で写真に収まっていたのは、こういったサービスの一環だったのだ。
「ちょっと後ろめたいですけどね」
やや沈んだ声の美季に対して、未森は朗らかに応じた。
「大丈夫ですよ。なんだったら本当に友達になっちゃえばいいんですから」
「ああ、まあ、そうですね」
明らかに社交辞令といった相槌を打った美季が、その口調のまま会話を続けた。
「私、イラストレーターのアンジュさんっていう方の絵が好きなんですけど、ここの宿の名前が同じだったんで来てみたんです」
「そうですか」と、今度は未森の返事がおざなりだった。
「カントリー風の建物の中に、いろんな小物を散りばめたような絵で、テーブルの上に並んだお皿の絵柄とかもきちんと書き込まれていたり、細かいところまで丁寧に描かれていて、眺めているだけでも飽きないんですよ。よく本の表紙を手がけていらっしゃって、本屋さんで見かけるとつい手に取って買っちゃうんです」
「表紙買いですね」
「そうなんです。喫茶店を舞台にしたライトなミステリーとか、ちょっと切ない系の恋愛小説とか、ジャンルはバラバラなんですけど、本棚に表紙を並べて飾ってあるんです」
「いいですね」
「中身を読まないでずっと表紙だけ眺めてるときもあるんです。ネットで見たこちらの宿の写真も、なんかそんな雰囲気に見えたので、楽しみにしてきたんですよ」
「ご期待に添えると思いますよ」
謙遜の気配もない返事をする未森に当惑しつつも、美季は宿への期待を胸に車窓に流れる森の風景を眺めていた。
車が宿に到着し、無造作に止まる。
「どうぞ」
《森のペンションANJU》は、桜色の花崗岩と黒い柱を組み合わせたハーフティンバーの建物で、周囲の森によく溶け込んでいた。
「ドイツのロマンティック街道にありそうな雰囲気ですね」と、ややはしゃぎつつも美季が肩をすくめる。「行ったことはないんですけど」
周囲はレモングラスやバジルなどが植えられたハーブガーデンで、ブルーベリーやラズベリーも実をつけている。
「きれいな庭園ですね。これだけ広いとお手入れ大変じゃありませんか」
「そうでもないですよ」と、未森の返事はあっさりしている。「雑草より強いから草取りが意外と楽なんですよ」
レンガを組み合わせた階段を踏みしめ、木製のドアを開けて中に入ると、美季が声を上げた。
「わあ、イメージ通りですね。アンジュさんのイラストに入り込んだみたい」
「気に入ってもらえて何よりです」
広いリビングにソファやサイドボードなどの家具が置かれ、かわいらしい雑貨がまるで絵画のようにしかるべきところに並べられている。
右手側は本格的ピザ釜のあるオープンキッチンにつながっていて、厚い一枚板のダイニングテーブルが置かれていた。
出がけにテーブルの上に残しておいたメモ紙がなくなっている。
スリッパに履き替えて上がると、未森は客室まで案内する流れで内部の説明を始めた。
「こちらのリビングは共用スペースで、お客様に自由にお使いいただいてます。そちらにドリンクバーがありますので、ご自由にお使いください」
「どれでも好きな物を飲んでいいんですか?」
「はい。宿泊料金はオールインクルーシブで、滞在中の食事やお飲み物はすべて無料ですので、お好きなものをお好きなタイミングでお召し上がりください」
美季はドリンク以外にもパウンドケーキやカットフルーツが並べられた冷蔵ケースを眺めながら目を輝かせていた。
未森はリビング正面奥を指す。
「あちらが浴室になっています。他にお客様はいませんので、当然貸し切りですから、好きなタイミングで何回でもお入りください」
「ぜいたくですね」
「温泉ではないんですけど、庭で採れたハーブの入浴剤もご用意してますので、よろしかったら使ってください」
リビング左手の壁に階段があり、二階に上がるとまっすぐな廊下に客室が並んでいる。
一番手前にトイレがある。
「客室にはトイレがありませんので、こちらをご利用ください。もちろん、滞在中はお客様専用となっておりますのでご安心ください」
一つ目の部屋の中をのぞく。
片側一面が作りつけの本棚になっていて文庫本や大判の美術画集などが無造作に並び、窓際にあるアンティークの書斎机にはアールヌーボー調の読書灯が置かれている。
よく見ると、本棚にはアンジュが表紙を手がけた本もたくさん並んでいた。
自分もまだ手に入れていない初期の頃の本までそろっている。
――なんだ、アンジュさんのこと知らないわけじゃないんだ。
「こちらは図書室です。下からコーヒーやケーキを持ってきて読書を楽しんでもらって構いません」
「でも、本を汚したらいけませんよね」
「大丈夫ですよ。それも料金の一部ですから」と、口元を手で隠しながら首をすくめる。「私が読んだ本を並べてあるだけなので、ご遠慮なさらずに、自分の家みたいにくつろいでください」
次に、隣の部屋へ移ったとたん、美季が息をのんだ。
「こ、これって……」
中は絵画が展示されたギャラリーだった。
映画の告知ポスターサイズの大判イラストがシンプルに額装されて、木目の美しい両側の壁に並び、中央に観賞用のハイチェアとテーブルが置かれている。
「全部アンジュさんのイラストですよね」
「はい、そうですよ」と、未森は事もなげにうなずく。「中に入ってご覧になってください」
「おじゃまします」と、おずおずと頭を下げながら美季が絵を眺めていく。「わあ、これ、先月発売された本の表紙に使われていた新作イラストですね」
と、絵の下に名刺サイズの紙がピンで留められている。
「値段が書いてあるんですね。販売もしてるんですか」
「はい。この額装のまま発送してますよ。各イラスト限定十部ずつで、ナンバーと本人のサインが入ります」
「本人の……サイン?」
美季の頭上には、疑問符が浮かんでいた。
「ちょっとお待ちくださいね」と、未森が美季を椅子に座らせて廊下に向かう。「今呼んできますから。たぶん起きてるはずなので」
――呼んでくる?
他にお客さんはいないはずなのに?
美季の疑問符は増えていた。
一人静かなギャラリーで気を取り直して絵を眺めてみると、本の表紙サイズでしか見たことのなかったイラストが特大サイズで印刷されているのに、まるで荒くならないどころか、細部までくっきりと描かれていて驚いてしまう。
キッチンをモチーフにした絵には大きさの異なる鍋が壁一面に音符のように並べて吊り下げられ、棚には食器やセピア色の家族写真がはめ込まれた写真立てが置いてあり、手前のダイニングテーブルにはおそろいの食器に盛りつけられたおいしそうな朝食が並んでいた。
そういった丁寧な暮らしを描いた絵の細部を一つ一つ眺めているうちに美季は鼻歌を口ずさんでいた。
と、廊下から二人分のスリッパの足音が聞こえてきた。
未森がつれてきたのは、エプロンのポケットに両手を突っ込んだお団子頭に黒縁眼鏡の小柄な女性だった。
「どうも、いらっしゃいませ」と、柔らかな笑みを浮かべてうなずくように頭を下げる。
「どうも、おじゃましています」と、突然現れた地味目な相手に美季が困惑気味に挨拶を返す。
「いらっしゃいませじゃなくて」と、未森が苦笑している。「名前を言わないと分からないでしょうよ。こちらがアンジュです」
あらためてペコリと頭を下げる小柄な相手の前で、美季は呆然と立ち尽くしていた。
「アンジュ……さん?」
「ええ、本人ですよ」と、事もなげに未森がうなずく。
「え、あの、アンジュさんって、このイラストの作者さん……なんですか?」
「はい、そうです」と、本人がポケットから両手を出して差し出す。「作品を気に入ってくださってるそうで、ありがとうございます」
震える手を差し出しながら画家の手を握り返した美季は目に涙を浮かべている。
「嘘みたい。信じられないです。でも、わあ、うれしい。えっ、なんで?」
御本人登場で言葉に詰まる美季の背中に手を回して未森がうながした。
「とりあえず、一度お部屋にご案内しますから、お話はゆっくりと下で」
「あ、はい」
まだ荷物も置いてなかったので、美季は未森について廊下に出た。
隣の部屋が客室だった。
「わあ、広いですね」
元々二つに分かれていた八畳程度の客室の壁を取り払い、一つの部屋として改装してある。
吹き抜けの高い天井に太い梁が渡され、天窓からは柔らかな光が差し込んで全体を明るく照らしている。
元から客室にバストイレはないので、圧迫感がない。
室内にはダブルベッドとソファセット、カプセル式のエスプレッソメーカー、氷やドリンクの入った冷蔵庫などが備わっている。
中に入って振り向くと、廊下側の壁には額装されたアンジュのイラストが掲げられていた。
「こんな部屋で暮らせたらいいのに」
「気に入っていただけてうれしいです」と、きっちり腰を折って未森が頭を下げる。
「もう、理想の生活ですよ」
「ピザを焼きますから、荷物を置いたら下のリビングへお越しください。アンジュもおりますので」
「はい、すぐ行きます」
廊下に出てドアを閉めようとした未森に、美季が駆け寄ってきた。
「あの」と、声を潜めてたずねる。
「はい」と、未森も顔を寄せた。
「今日電車の中で読んできた本もアンジュさんの表紙なんですけど、サインをお願いしてもいいでしょうか」
「はい、もちろんです」と、未森が満面の笑みで答えた。「ああ見えて、結構おしゃべり好きなんですよ」