朝起きた時にはお母さんはもう居なくて『昨日はごめんね』と書き残されたメモがテーブルの上に置いてあった。

 お母さんはいつもヒステリックな訳じゃない。ただ、頭に血が上ると、理性よりも感情が勝ってしまう人なだけ。

 柚凪も、両親も居ない家は静かで、孤独を感じた。朝ご飯を作る気にもなれなくて、冷凍食品で済ませる事にした。

 朝ご飯を終えて制服に着替える。玄関で座り込む。
 学校、行きたく無いな。
 如月は柚凪がうちを庇って落ちてしまったことを知ってるから。

 それに、如月は口が軽くて噂好き。だからもうクラス中にこの話は回ってしまっている筈だ。

 だからと言って、休む訳には行かない。自分の溜息に気付かないふりをして家を出る。

 学校に着く前に突然目の前が真っ暗になる。貧血なのかな、暗いだけで何も見えない。
 数秒経つと目の前が明るくなった。目の前が見えて安心したのも束の間。うちはバランスを崩して倒れかけた。

「……やっ」

 やばい、間に合わない。何の意味も無い事は分かってるけど、せめてもの抵抗で目を瞑る。

 でもコンクリートに身体をぶつける痛みは来なかった。
 甘い香りでふんわり包まれるような優しい感覚。
 目を開くと綺麗な白髪(はくはつ)とぱっちりした二重の明るそうな人が倒れかけているうちを支えてくれていた。 

「危なかった……大丈夫?」

 中性的な見た目に反して、低めのハスキーボイス。
 ギャップあってかっこいいなあ、なんて考えていると手を差し出される。

 うちはその手を掴む。

「ありがとうございます、すみません」

「大丈夫だった? 怪我してない?」

 優しくゆっくりとした口調でうちに問う。助けてもらったおかげで何一つ怪我はない。うちはコクコク頷く。

「そっか、なら良かった!」

 その人はニッと笑って、「じゃあ僕は行くから気をつけてね!」とうちに手を振りながら消えていった。

 教室の前になって、また怖気付いてきた。いつも以上に教室がざわついていたから。

 ざわついている原因は柚凪が落ちてしまった事の可能性が高い。そんな気持ちは段々増していく。

 こういう時のうちの悪い予感は当たる事が多い。そしてこれも例外ではなかった。

 うちが教室の中に入ると、騒がしかった教室はしんと静まった。

「?」

 状況を掴めないまま、どうする事も出来ずにうちはその場に立ち竦んでしまう。

 でも数秒経つと、さっきの教室の中の沈黙は嘘だったかのように教室は騒がしく戻った。教室が元に戻って、何だか安心するようで不安にもなる不思議な気持ちに覆われる。

「……強いね、あんた」
 
 声は小さかったけど、はっきりと耳に残った。

「えっ……」

 自分の席に移動しようとすると、耳元でボソッと呟かれた。誰に言われたのか知りたくて振り向くも、顔を逸らされる。
 でも、顔を逸らされる瞬間に髪型と横顔が見えた。

 確か去年柚凪と同じクラスになって仲良くしてた杉田さんという名前の女の子だ。
 その子からは前々から鋭く、冷めた視線を向けられていたから好かれていない事は分かっていた。どちらかと言えば嫌われている方だと思う。

 だけど、ただでさえ柚凪が居なくて弱ってる時に実際に敵意を向けられるとかなり堪える。
 ただ一人にそう言われただけで全員が敵に見えてしまうのはどうしてだろう。

 せめて蘭菜達とは話したいと思って教室を見回す。二人は教室の端で話していた。
 特に何の意味も無いんだと思うけどそれもうちとは関わりたくないからだと自意識過剰な捉え方をしてしまう。

 もしかしたら皆、口にしないだけでさっきの子と同じような事を思ってるのかもしれない。
 柚凪が落ちたのはうちの所為だって。本当は全員が全員うちの事を敵視していない事だって分かってる。

 だけど、全てはうちの所為だから。如月に手を出しかけた事も、マンションの屋上から落ちた事も。
 全部、全部。うちの事を助けるために柚凪は自分を犠牲にした。

 その事実は変わらない。だから、ああ言われても仕方ないと思うし否定もできない。

 ふっと息を吐いて自分の席に座る。荷物を整理し始める。机の中に手を突っ込むと、カサッと厚紙のような物が手に当たる。

「何これ……?」

 机の中に入っていたのは、薄い紫の封筒だった。
 封筒に宛名は書かれていないし、糊で封をされたりもしていない。

 うち宛てなのか、それとも席を間違えたのかは分からない。違う人宛てなら申し訳ないとは思うけど、勝手に見せてもらうことにする。

『今日放課後、屋上に一人で来て』

 尚更手紙を受け取る人がうちなのか、うち以外なのか分からなくなって来た。でも、まぁ一応うちの席に入れてあったし行くことにする。

 当たり前の事だけれど、ぼーっとしていても時間は過ぎていくらしい。

 ハッとした時にはもう授業は終わっていた。
 うちは一人で机の中の荷物を鞄に詰める。準備が終わり、机に入っていた手紙を手に持って屋上へと向かう。

 部活開始のチャイムが鳴る屋上への階段は静かで、どこか怖い雰囲気があった。
 古びた屋上に繋がるドアノブにうちの手はひんやり冷やされる。そのままドアノブを捻る。ギィッとドアが軋んで屋上から光が差し込む。

「あ、ちゃんと来た」

 屋上には何人か人が集まっていて、その中心には朝に嫌味を言ってきた杉田さんが腰に片手を当てて立っていた。

「……杉田さん、呼び出したのうちで合ってる? 席間違えてない?」

 杉田さんに手紙を見せて、首を傾げる。
 昔から柚凪の席と間違えられる事は多々あったからちゃんと確認する癖が根付いてしまった。

 まぁ、間違えられたまま話を進められるよりかは良いと思うし結果的には良い癖かな。

「間違える訳無いでしょう?」

 うちは確認しただけなのにそんなに高圧的に返されても返答に困る。
 間違える事は誰だってあると思うし、間違える訳無いなんて完璧人間なのかなぁ……。

 こんなに敵意を向けて来たりするような人に呼び出されるなんて最悪だ。本当に最近は運が無い。溜息の数が増えていくばかり。

「……って、そんな事はどうでも良くて。あなたの所為で柚凪が落ちたって本当なの⁉︎」

 ぐっと唇を噛む。唇が切れて、血の味が口内に広がる。確かに柚凪が落ちたのはうちの所為だ。
 本当はこんな事他の人に言われたくなんてなかったし、自分が一番分かってる。

 だけど、嘘を吐く必要も無いかと思って素直に頷いてしまった。

 視線が合った瞬間、杉田さんの足が振り上がるのが見えた。反射的に防ごうとしたけど、身体が動かない。鈍い痛みが腹部を貫いて、肺の空気が一気に抜けた。

「柚凪はっ……どうして、どうしてあなたばかり守ってるの……?」

 杉田さんは涙交じりの声をしていた。うっすらと目には涙を浮かべていた。

 どうして杉田さんが泣くんだろう、突然一方的に蹴られたうちの方が泣きたい。

「そんな事、知らな……っ」

 杉田さんはうちを冷めた目で見下ろして、そのままうちはネクタイを掴まれて無理矢理立たされる。ひゅっと息を呑む。

「ふざけんなっ!」

 昨日の強気なうちはもう居なくて、ただいつものように謝り続けることしか出来なかった。

 杉田さんは何もうちにハッキリとこの状況の原因を言わなかった。だから、何が悪いのかも、どうしてこんな目に合わないといけないのかも分からない。

 世の中の理不尽さを改めて知らされる。

 うちは何の抵抗も出来ないまま精神的に物理的に傷つけられ続けるだけだった。