[七話]
 朝起きた時にはお母さんはもう居なくて『昨日はごめんね』と書き残されたメモがテーブルの上に置いてあった。お母さんはいつもヒステリックな訳じゃなくて頭に血が昇ると手が出てしまう性格なだけ。柚凪のうちを守ろうとすると通常よりも倍で激怒して手が出てしまうのはお母さんの遺伝だと思う。
 柚凪も、両親も居ない家は静かで、孤独を感じた。朝ご飯を作る気にもなれなくて、冷凍食品で済ませる事にした。
 朝ご飯を終えて制服に着替える。玄関で座り込む。
 学校行きたく無いな。如月は柚凪がうちを庇って落ちてしまったことを知ってるから。それに、如月は口が軽くて噂好き。だからもうクラス中にこの話は回ってしまっている筈だ。
 だからと言って、休む訳には行かない。自分の溜息に気付かないふりをして家を出る。
 学校に着く前に突然目の前が真っ暗になる。貧血なのかな、暗いだけで何も見えない。数秒経つと目の前が明るくなった。目の前が見えて安心したのも束の間。うちはバランスを崩して倒れかけた。
「……やっ」
 やばい、間に合わない。何の意味も無い事は分かってるけど、せめてもの抵抗で目を瞑る。
 でもコンクリートに身体をぶつける痛みは来なかった。甘い香りでふんわり包まれるような優しい感覚。目を開くと綺麗な白髪とぱっちりした二重の明るそうな人が倒れかけているうちを支えてくれていた。地面に身体が打ちつけられる寸前だった。
「危なっ、え、大丈夫そう?」
 中性的な見た目に反して、低めのハスキーボイス。ギャップかっこいいなあ、なんて考えていると手を差し出される。うちはその手を掴む。そのまま引っ張ってもらって立ち上がる事ができた。
「あ、ありがとうございます」
「大丈夫だった? 怪我してない?」
 優しくゆっくりとした口調でうちに問う。助けてもらったおかげで何一つ怪我はない。うちはコクコク頷く。
「そっか、なら良かった!」
 その人はニッと笑って、「じゃあ僕は行くから気をつけてね!」とうちに手を振りながら消えていった。
 教室の前になって、また怖気付いてきた。いつも以上に教室がざわついていたから。ざわついている原因は柚凪が落ちてしまった事の可能性が高い。そんな気持ちは段々増していく。
 こういう時のうちの悪い予感は当たる事が多い。そしてこれも例外ではなかった。
 うちが教室の中に入ると、騒がしかった教室はしんと静まった。
「?」
 状況を掴めないまま、どうする事も出来ずにうちはその場に立ち竦んでしまう。
 でも数秒経つと、さっきの教室の中の沈黙は嘘だったかのように教室は騒がしく戻った。教室が元に戻って、何だか安心するようで不安にもなる不思議な気持ちに覆われる。
「よくそんな平然と学校来れるよね」
「えっ……」
 自分の席に移動しようとすると、耳元でボソッと呟かれた。誰に言われたのか知りたくて振り向くも、顔を逸らされる。でも、顔を逸らされる瞬間に髪型と横顔が見えた。
 確か去年柚凪と同じクラスになって仲良くしてた杉田さんという名前の女の子だ。
 その子からは前々から鋭く、冷めた視線を向けられていたから好かれていない事は分かっていた。どちらかと言えば嫌われている方だと思う。
 だけど、ただでさえ柚凪が居なくて弱ってる時に実際に敵意を向けられるとかなり堪える。ただ一人にそう言われただけで全員が敵に見えてしまうのはどうしてだろう。
 せめて蘭菜達とは話したいと思って教室を見回す。二人は教室の端で話していた。特に何の意味も無いんだと思うけどそれもうちとは関わりたくないからだと自意識過剰な捉え方をしてしまう。
 もしかしたら皆、口にしないだけでさっきの子と同じような事を思ってるのかもしれない。柚凪が落ちたのはうちの所為だって。本当は全員が全員うちの事を敵視していない事だって分かってる。
 だけど、全てはうちの所為だから。如月に手を出しかけた事も、マンションの屋上から落ちた事も。全部、全部。うちの事を助けるために柚凪は自分を犠牲にした。
 その事実は変わらない。だから、ああ言われても仕方ないと思うし否定もできない。
 ふっと息を吐いて自分の席に座る。荷物を整理し始める。机の中に手を突っ込むと、カサッと厚紙のような物が手に当たる。
「何これ……?」
 机の中に入っていたのは一枚の薄い紫の封筒だった。封筒に宛名は書かれていないし、糊で封をされたりもしていない。
 うち宛てなのか、それとも席を間違えたのかは分からない。違う人宛てなら申し訳ないとは思うけど、勝手に見せてもらうことにする。
『今日放課後、屋上に一人で来て』
 尚更手紙を受け取る人がうちなのか、うち以外なのか分からなくなって来た。でも、まぁ一応うちの席に入れてあったし行くしか無いか。
 当たり前の事だけれど、ぼーっとしていても時間は過ぎていくらしい。
 ハッとした時にはもう授業は終わっていた。うちは一人で机の中の荷物を鞄に詰める。準備が終わり、机に入っていた手紙を手に持って屋上へと向かう。
 部活開始のチャイムが鳴る屋上への階段は静かで、どこか怖い雰囲気があった。古びた屋上に繋がるドアノブにうちの手はひんやり冷やされる。そのままドアノブを捻る。ギィッとドアが軋んで屋上から光が差し込む。
「あ、ちゃんと来た」
 屋上には何人か人が集まっていて、その中心には朝に嫌味を言ってきた杉田さんが腰に片手を当てて立っていた。
「……杉田さん、呼び出したのうちで合ってる? 席間違えてない?」
 杉田さんに手紙を見せて、首を傾げる。昔から柚凪の席と間違えられる事は多々あったからちゃんと確認する癖が根付いてしまった。まぁ、間違えられたまま話を進められるよりかは良いと思うし結果的には良い癖かな。
「間違える訳無いでしょう?」
 うちは確認しただけなのにそんなに高圧的に返されても返答に困る。間違える事は誰だってあると思うし、間違える訳無いなんて完璧人間なのかなぁ……。うちは苦手なタイプだ。
 最悪だ、呼び出されたのはうちなのか。しかもこんなに敵意を向けて来たりするような人に。本当に最近は運が無い。溜息の数が増えていくばかりだ。
「……って、そんな事はどうでも良くて。あなたの所為で柚凪が落ちたって本当なの⁉︎」
 ぐっと唇を噛む。唇が切れて、血の味が口内に広がる。確かに柚凪が落ちたのはうちの所為だ。本当はこんな事他の人に言われたくなんてなかったし、自分が一番分かってる。
 だけど、嘘を吐く必要も無いかと思って素直に頷いてしまった。
 その態度が気に入らなかったのか、始めからそのつもりだったのかは分からないけどうちは突然お腹を蹴られる。まさか、物理的に攻撃を受けるなんて考えてもいなかったから防御も出来ずに直接当たる。
 強い痛みが走って、立ち続けられずにへたり込んだ。一瞬、圧迫されて息が出来なくなった。ゲホゲホと何度か咳き込む。
「柚凪はっ……どうして、どうしてあなたばかり守ってるの……?」
 杉田さんは涙交じりの声をしていた。うっすらと目には涙を浮かべていた。
 どうして杉田さんが泣くんだろう、突然一方的に蹴られたうちの方が泣きたい。絶対、明日にはきっとお腹に痣出来てるな……。
「そんな事、知らな……っ」
 杉田さんはうちを冷めた目で見下ろして、そのままうちはネクタイを掴まれて無理矢理立たされる。ひゅっと息を呑む。
「ふざけんなっ!」
 昨日の強気なうちはもう居なくて、ただいつものように謝り続けることしか出来なかった。
 杉田さんは何もうちにハッキリとこの状況の原因を言わなかった。だから、何が悪いのかも、どうしてこんな目に合わないといけないのかも分からない。
 世の中の理不尽さを改めて知る事になった。
 その後はひたすら、何の抵抗も出来ないまま精神的に物理的に傷つけられ続けるだけだった。
「なー、どこ行っちゃったんだろ……」
「靴はあったもんね」
 私は蘭菜と一緒になーの事を探していた。クラスの中で、男女問わずモテている杉田さんの所為もあったのかはわからないけれど今日はどのタイミングでもなーに話しかけられなかった。
 なーを目の敵にしている杉田さんは、ゆずが居たからこそなーには手を出していなかったけど気に入らない人はとことん潰していくような……どちらかといえば過激派の人だ。
 昨夜、ゆずがなーを庇い、如月の家のマンションから落ちたという噂がメッセージアプリで回ってきた時にはもう手回し済みだったのだろうと思う。
 きっと他とは違う意見でも大人数の方に流されてしまう、同調圧力の所為もあると思う。
 それでも杉田さんが右を向けば右、左を向けば左というように、彼女には影響力があった。
 それを利用して彼女は気に入らないような人をどんどん皆で孤立させたり、人気の無い場所に呼び出して取り巻きと共にいじめたりしている事を私は知っている。
 きっと、個人のチャットでもなーを孤立させるという目的をオブラートに包んで易しめに伝えたんだろう。
 その雰囲気で、私はいつものように話しかけに行くことができなかった。そうすると次は私がターゲットになる事は分かっていたから。
 想像以上にターゲットになるのは怖い。そもそも杉田さんと直接関わった事がないし、そんな人に目をつけられるのも大変なのだと思う。

「ねぇ蘭菜」
「ん?」
「人気がない場所って体育館裏くらいかな?」
 自習用の教室から体育館裏まで見て回った。教室にはまだなーの鞄が残っていたし、靴箱にもローファーは入っていた。つまりまだ、なーは学校に居る。
「んー、体育館裏だとか屋上とか位だよね」
 盲点だった、屋上という選択肢は考えに無かった。
 それだ、と何の根拠も無い私のただの勘がそう叫んでいる。
「屋上になーが居るかもしれない!」
 蘭菜は「ちょっとごめん」と言うとスマホを取り出し、画面をタップする。私はその少しを待つのも惜しく思って体力の無い足を必死に動かして屋上に走った。運動部で足の速い蘭菜はあっという間に私に追いついた。
 ここを開ければもう屋上に出ることが出来る。そこまで来て、怖気付く自分が嫌になる。私も蘭菜も、大切な友達を助ける事すら出来ない弱虫なのかと絶望した。
「……開ける?」
「……」
 ここを開けなければ何も始まらない。そうは分かっていても、手が動かない。怖いんだ。私には皆を敵に回してまともに過ごせる自信が無い。
 そんな私に蘭菜は「大丈夫だよ」と微笑みかけてくれた。きっと、考えは同じだ。怖くて仕方ない存在に立ち向かう恐怖を必死に誤魔化してなーを助ける。
 これしか最善策は無い。
「っ……」
 勇気を出して、屋上のドアを開ける。少しずつ夜の帳が下りはじめる時間帯の中、杉田さんの嘲笑うような声が耳に入る。
「あれ? 朝比奈さんに一ノ瀬さんじゃん」
 私の予感は的中してしまった。取り巻きと共にニヤニヤと嫌な笑い方をする杉田さんの横にはお腹を抑え、座り込んでいるなーが居た。赤く腫れた頬には涙の跡が残っていて、口元も血が滲んでいる。
「今日二人とも部活だったよねぇ、わざわざ休んでこの人助けに来たんだー?」
 なーの呼称がこの人、という事にすら嫌味を感じる。
 私は少し遅れて、なーに駆け寄った。杉田さんを無視してしまった事が気に食わなかったのかもしれない。
「……友情なんて綺麗事いらねぇんだよ」
 ボソッと頭上で、低く小さい声が聞こえた。感じたことのない恐怖を感じて、私は動けなくなる。
 もう、手遅れだ。そう察した。