[六話]
 もう全てを諦めようと考えていたうちに声をかけたのは、柚凪だった。
 だけど珍しく落ち着いた声をしていて、いつものはっちゃけた雰囲気は微塵も残っていなかった。
「柚凪……?」
 うちは、柚凪が目を覚ました事をすぐには信じられなかった。そんなタイミング良く目覚める展開なんて夢でも無ければ有り得ない。いや、そもそも今うちは夢を見ているのかもしれない。
 うちは自分の頬を摘んで引っ張った。だいぶ強めに引っ張ったからか頬には強い痛みが走った。
 痛い思いはしたけど良かった。これは現実だとわかったから。
 だけど、その少しの希望は一瞬にして打ち砕かれる。
「なんで俺の名前を知ってるの?」
「……へ?」
 またしても現実から逃げたくなってしまう。これはただふざけてるだけなのかもしれないと、泣きたくなる自分に必死に言い聞かせる。
 柚凪がうちの事を、忘れてる……?
 いや、そんな事ない。そうだ、柚凪はいつもうちをからかってくる。きっとこれも同じようにからかってきてるだけだ。
 こう一人で悶々と悩むより前に柚凪が目を覚ました事を病院の人に知らせないと。
 うちはナースコールを押して、看護師さんを病室に呼んだ。偶然、丁度良いタイミングにうちがナースコールを押したようでお医者さんも柚凪の容体を見にきてくれた。
 お医者さんに、柚凪がうちの事を忘れているかもしれないんです、と言ってもあまり驚きはしなかった。
 柚凪にいくつか質問をして、その度に頷く。その後眉間に皺を寄せて、看護師さんと小さな声で会話する。
 その度に目を伏せる看護師さんを見てしまうと、何となく嫌な予感が脳裏によぎる。
 柚凪は、自分の名前は言えたけどそれ以外は見当違いの返答をしていた。中学も、住んでいる場所も、家族構成も、好きな事も何もかも普段の柚凪とは違っていた。
「詳しく調べなければ分かりませんが……おそらく、頭部を強打した事による記憶障害だと考えられます」
「記憶……障害……」
「そうです、もう少し回復すれば詳しく検査をしていきます」
 記憶障害なんて言葉、人生で何度も聞くことのないであろうパワーワードだ。うちは医学知識は無いから記憶障害について詳しく知らないし、何となくしかその意味も理解していない。
 ひたすら、どういうことなのかを考えているとお医者さんから声をかけられた。
「それでは、また何かあればお呼び下さい」
 お医者さん達は会釈をして、病室から出ていった。
 急に二人になってしんと病室は静まった。柚凪が突然暗くなった窓の方を向いた。真っ暗だから、窓は鏡のようになっている。そんな柚凪は窓を見て「は⁉︎」と叫んだ。
「え、どうしたの」
 柚凪は自分の髪を何度も触りながら「えぇ……」と驚いたような声を出す。
「俺……髪短くなってる……」
 落ちてしまう寸前に髪を切っていたという事は無いだろうし、あまり柚凪の髪の長さは変わっていない。
「え? 長かったっけ」
 柚凪はうちの問いかけにこくっと頷いた。驚いたように、何度も何度も自分の髪を触っている。
 引っかかる。柚凪は幼い頃からうちと区別をつけるために定期的に髪は短く切られていた。だから髪が長い時期は今までに一度も無かった筈だ。
 矢っ張り、柚凪の持っている記憶の中のうちと過ごしてきた記憶が抜け落ちているんだと改めてわからされた。
 暫くうちと柚凪の間に沈黙が続いて、ようやく柚凪が口を開く。
「……あーあ。また失敗しちゃったんだなぁ」
「失敗?」
「そうだよ、また──」
──死ねなかった。
 うちは、何も口に出せない。簡単に何かを言って良い空気じゃ無かった。
 柚凪の声のトーンは驚くほど低くて、目に光が宿っていない。うちは今まで一緒に生きてきてそんな柚凪を見た事がなかった。 
 落ち込んでいたとしても、怒っていたとしても。こんなに人生に絶望し切ったような、何かが欠陥しているような柚凪は見たことがない。
 だから、驚き過ぎて固まってしまった。柚凪の口からそんな事を聞くなんて初めてだった。
 何て返そう、どうやって言えばいいだろうか。
 考えて、考え抜いて、一つの質問へと辿り着いた。うちは柚凪の『また』死ねなかった、という言葉が特に気になっていた。殆どずっと柚凪と一緒にいて、あまり離れていた事は無かった。だから、柚凪が自殺未遂をしていた なんてうちは知らない。いつ、どうやってそんな事をしていたのかがどうしても気になった。もしもそう踏み込んでしまって柚凪に辛い思いをさせたら嫌だという感情もあったけどそれよりもずっと気になってしまっていた。
 うちは、恐る恐る聞いてみる事にした。
「また、ってどういうこと?」
「そのままの意味だよ。今度こそ、成功すると思ったのに……」
 少しデリケートな事だろうし、心配していたのに柚凪はあっけらかんとしていた。
「柚凪、はどこまで覚えてるの?」
「うーん……。どこまで覚えてるって言ったって、俺は記憶を無くしているとは思ってないからなぁ」
 記憶を無くしているわけでは無いと本人は思っているみたいだけど、うちとの記憶が抜けている事は確かみたいだ。
 柚凪は「先ずその前に俺は君の事を知らないから、君と俺がどういう関係なのかを教えてくれない?」と続けた。
「双子の姉妹、かな」
 柚凪は「俺に双子……かぁ」なんて呟く。微妙な反応だな、と少し残念だった。
「まぁ君が俺に嘘をつく理由なんて無いだろうし、多分俺の記憶から抜けてるんだと思う」
 突然柚凪は、ベッドの縁を掴んで起き上がり、うちの方を向いて柚凪はうちの目を真っ直ぐに見詰めた。
 柚凪は、「これから話す事は誰にも話さないでね」と前置きをして話し出した。
「俺は凄く寒い日に“なお”っていう名前の親友のマンションの屋上から“なお”と一緒に飛び降りたんだ」
 顔とかの記憶は朧げなんだけどね、と柚凪は笑う。その微笑みを見ると、何故かうちの頭がズキっと痛んだ。そしてその数秒後に、うちの脳内に“記憶”が流れ込んで来た。
 寒風が吹いて、指先が冷たく悴むあの感覚をうちは知っている。
 あのマンションの屋上で、“柚凪”と共に微笑んで──。
『じゃあ……来世でまた会えたらね』
 うちは、実際に有り得ないような仮説が頭の中でどんどん組み立てられていく。段々と、今まで理解の出来なかった不思議な点と点が結ばれる。
 もしかして、うちも、『そう』かもしれない。うちは柚凪に問う。
「なお……ってもしかして奈良県の奈に音でなおだったりする?」
「そう! 何で知ってるの?」
「……うちの名前が、奈音なんだ。凄い偶然だよね」
 うちの予想通りになってしまった。もうどうしようもない。気付きたく無かった、気付いてはいけなかった仮説が完全に出来上がってしまった。
「もしかしたら、俺達は前世から一緒だったのかもしれないよ?」
──ドクン。この時の心臓の音だけ、より一層大きく聞こえた。
 これはただの仮説で、確証はない。だけど、こうだという可能性はある。
 今まで、幼い頃から繰り返しずっと見ていたあの苦しい夢は前世の記憶だった。そして柚凪も同じように苦しい前世の記憶が夢になって表れていた。
 うちに怒られた柚凪は拗ねて、最低限の荷物を持って家出をしようとした。柚凪がふらふら歩いていると、不思議な引力に引き寄せられてマンションの屋上に向かっていた。
 あの時ほんのり顔が赤かったように見えた柚凪は高熱があって、それに自分でも気付いていなかった。
 体調不良なのにうちを助けて、もっと体力が消耗されて、力尽きて落ちてしまった。
 頭部を強打した柚凪は目を覚ますと、生まれ変わってからうちと過ごしてきた記憶は全て無くなってしまっていて前世の記憶しか残っていなかった。
 うちと柚凪は、前世から一緒に近くにいた。偶然、名前も一緒のまま転生した。
 こう考えれば全てが繋がる。
 うちは今考えている事を仮説として、柚凪に伝えた。

 柚凪と話終わって家に帰宅したのはもう日付を過ぎた頃だった。
 帰宅して、すぐさまうちの頬にお母さんの手が飛んで来た。少し経って頬がヒリヒリと痛んだ。
 帰った直後に何も言われずに叩かれるなんて最悪だ。反射的にキッと睨みつけると、お母さんは自身の目を赤く腫らしたまま震えていた。
 怒りや不安からきた震えだとうちは察した。うちの予想は完璧に当たっていた。病院から電話が行ったらしい。それで、もう全て知っているんだと言う事を理解する。
「あなたは……何でお母さんを困らせるの⁉︎」
 お母さんは「柚凪の事を大切にしてないからそう言う事が出来るんじゃないの?」と続ける。柚凪の事を大切にしていない、お母さんがそれを言う権利は無いだろう。
 柚凪が落ちて、病院に運ばれて、数時間経ってもお母さんは来なかった。普通は慌てていても、忙しくてもすぐ来る筈だ。
「お母さんは何で病院に来なかったの⁉︎お母さんこそ柚凪の事を大切に思ってないんじゃないの⁉︎」
 もしも柚凪が死んでしまったらと考えると、病院に行きたくなかったんだろう。怖かったから行けなかったんだろうとは思っても、うちはお母さんを慰めたり労ったりする言葉は紡ぐ事は出来なかった。
 お母さんの頭に血が上っている事が分かってしまう。数秒遅れて、うちがやらかしたんだと気付く。
 いつもは顔色を伺いながら余計な事を言わないように、怒らせてしまう言動をしないように気をつけて過ごしているのに今回はしくじった。
 矢っ張り、余裕が無いといつものように振る舞う事すらも難しい。また平手が飛んでくるかと思った。でも予想は外れて、お母さんはうちの言う事を何も聞いていないかのように無視したままリビングへと帰っていった。
 こんなお母さんは初めて見た。かと言って、いつもヒステリックに怒っているわけでは無い。もうお母さんは自分の限度を超えたんだ、うちと同じように我慢の限界値をとうに越してしまったんだ。
 うちは何故か、少しも怖くなかった。どんなに声を荒げられようと、頬を叩かれようと、全然怖くなかった。怯えたりもしなかった。
 何よりそれがびっくりだった。
 今日はもう寝よう。うちは靴を脱いで、自分の部屋に戻った。疲れていたのか、うちはもうベッドに入って五分も経たないうちに眠ってしまっていた。