[五話]
 エレベーターを降りてすぐ目の前に、ドアが一つあった。ここまで来て、段々怖気付いてきた。
 でも、うちの推測があっているかを確かめる方法はドアを開けるしか無い。
 一旦落ち着こうと、目を閉じて深呼吸をする。暫く時間が過ぎて、うちはようやくドアを開ける決心がついた。ドアノブを捻りながらドアを押す。ドアが開くと共にギィっと扉が軋む音が鳴る。
「ん……?」
 もうほぼ真っ暗な屋上なのに誰か人がいる。なんとなくシルエットしか分からないけど、もう少し近付けば分かるかもしれない。出来るだけ自然に近付いていく。
 短髪で、同じ学校の制服を着た同じくらいの背の女の子……。
「柚凪……?」
 つい、ボソッと柚凪の名前を口に出してしまった。もしこれで違ったらと思うとかなり恥ずかしい。背中に冷や汗をかく。
「奈音、何でここにいるの?」
 でも、心配する事はなく、柚凪本人だった。
 このマンションの屋上に居たことには驚いた。まさか、探しても探しても見つからなかった柚凪がこんなところにいたなんて思わなかった。
 柚凪はうちが来た事に然程、驚いていなかった。どこか落ち着いているような、悟っているような不思議な雰囲気を漂わせていた。
「柚凪……こそ、どうして?もしかして、柚凪にも経験した覚えの無い苦しい記憶があるの?」
「……無い」
「でもっ……」
「良いから無いんだってば!」
 急に怒鳴られた事に強い恐怖を感じてしまって、大袈裟と思われるほどビクッとした。
 柚凪はそれに気付いて「ごめん……」と目を逸らす。沈黙が走る。怖い、こんなのうちが知ってる柚凪じゃない。うちの事を、少しも見てくれない。
「ねぇ、柚凪! 何でうちを見ないの?こっち見てよ……」
「……ごめんね、奈音」
 泣きながら柚凪に訴える。でも、うちが泣きながら訴えた所で何の効果も無かったんだとわかる。
 柚凪はこっちを見てくれ無かったから。どうしても柚凪と目が合わない。柚凪はずっと下を向いている。どうすればこっちを見てくれるのか、必死に頭を回転させても何も良い案は出てこない。
「何で謝るの……?」
 初めはまだ我慢できた。でも沈黙の時間が経つにつれて嫌われたのかもしれない、なんて気持ちが高まって泣く事を我慢できなかった。もう、柚凪はうちの事を微塵も好きじゃないんだ。ズキっと胸が痛む。うちにずっと愛情を注いでくれているのは柚凪しかいないと思ってたのに。大好きなお姉ちゃんなのに。いつもなら苦しい時に一番に駆け寄ってきてくれるのに。
 今はうちがボロボロ泣いていても柚凪は黙ったままで、うちの事を見ようともしない。そこでぷつんと張り詰めていた糸が切れた音がして、身体が重くなった。
 うちは引き寄せられたかのように屋上の柵へと近付く。柵を乗り越えていくうちの身体は止まらない。
「奈音……? 奈音⁉︎」
 柚凪の叫び声が聞こえて、ハッと我に返る。でも、うちが正気に戻った時にはもう遅かった。うちは足を滑らせてしまっていたから。
 うちは、まだ諦めたくなかった。必死に手を伸ばして、コンクリートに手をかける。ぐっとコンクリートを掴もうとした事で、指先に痛みが走る。
「痛っ……」
 もう、長くは持たない。
「奈音、つかまって!」
 柚凪は、うちの片手を強く掴んできた。そんなに……自分の命を危険に晒してまで必死に助けてくれるなら、どうしてさっきはうちの事を見てくれなかったの?
 そんな考えが脳裏をよぎる。でもこんな時にそんな下らない事を言っても意味はない。
「……柚凪まで落ちちゃうよ」
 柚凪が落ちてしまうくらいなら、うちが落ちてしまったほうがいい。柚凪が生きるためならうちは喜んで生きる事を諦める、そうだ、きっとこの手が離されればうちは楽になれる。
「だから、ね? 離して?」
 うちは柚凪だけでも助けたいと必死だった。
「……よ」
「え?」
「良いから早く掴まれって言ってんの、俺が奈音見捨てられるわけ無いでしょ⁉︎」
 柚凪が声を荒げる。うちはさっき止まった心臓がまた音を立てて動き出したような気がした。うちの涙腺は崩壊してしまったのか、今日何度目かの涙がまた溢れ出る。
 この寒風が吹く季節の中、異様に温かい柚凪の手をうちは握る。柚凪はぎゅっとうちの手を握り返す。柚凪はうちの手を強く引っ張って、引き上げた。
「良かった……」
 うちは完全に屋上に登り、柵を越える。
「柚凪? 早くこっちおいでよ」
 柚凪は、ふっと息を吐いた。額には汗が浮かんでいる。そりゃあ自分と同じ位の重さの女の子をたった一人で持ち上げたんだ。誰だって疲れるだろう……そう思っていた。
 突然、柚凪の身体がふらりと崩れる。うちはひゅっと息を呑む。
「危ない!」
 掠れた声で叫び、必死に柚凪に手を伸ばす。だけどうちは、間に合わなかった。柚凪が屋上から落ちる寸前、柚凪の虚な瞳と目が合った。
──ドンッ。
「嘘……でしょ……」
 鈍い音がその場に響き渡る。信じられなかった。信じたくなんてなかった。だけど、信じざるを得なかった。うちも柚凪と同じ様にそのまま飛び降りてしまいたいと思った。それほどの絶望感に包まれた。
 それでも、身体が言う事を聞いてくれなかった。落ちようとするうちを、うちの身体は拒む。
「おい誰か! 救急車!」
「女の子が落ちてきたぞ!」
 わーっと周囲がざわついてきた。息苦しくなってきて、その場に蹲る。柚凪が死んでしまうかもしれないという不安で手が震える。
 どうしよう、こんな時はどうするのが正解なんだろう。そうだ、救急車を呼ばないと。
 あれ、でも今はうち、スマホ持ってない。
 凄く凄く怖かったのに全く動く事は出来なかった。うちはそんなに冷静に考える事はできなくて。どうしようもなく無力だ。
 うちは絶望と不安に心を埋め尽くされて、うちに何かを伝える声なんて聞こえ無いのに反射的に耳を塞いでしまう。どんな音すらも耳に入れたくなかったから。
 暫くして、不安に思った如月が屋上にやってきた。
 気付けばうちはどこかの病室にいて、目の前には未だに意識が戻っていない柚凪が目を閉じてベッドに寝転がっていた。 
 如月が屋上にやってきてからの記憶は殆ど無くて、どのような経緯でここまで来たのか分からない。如月は、今うちの座っている隣の椅子に座っていた。
 意識の無い柚凪は頭に包帯を巻かれて、腕には点滴が繋がれている。そんな痛々しい姿の柚凪を直視することができない。柚凪がもしこのままだったら、もう何も意味なんて無いんじゃ無いのか。全て無駄なんじゃ無いのか。
 そう思ってしまう。
 そんなうちを気にかけてか、隣に座っている如月が声をかけてきた。
「なー……」
「……」
「絶対、大丈夫だって」
「……して」
「え?」
「どうして⁉︎ どうしてそんな事が言えるの?」
「いや、俺は……」
 如月がうちの事を気にかけてくれていることなんて分かりきっている。だけど、その『大丈夫』は信用なんて出来なかった。絶対に無事に目を覚まして、元気な柚凪に戻る確証なんて何処にも無いから。
「あのさ……」
「帰って、今すぐ」
 如月に悪気があったとは思わない、寧ろ善意で声をかけてくれたんだと思う。だけど、その善意は刃となってうちの心に刺さった。
「……じゃあ、また明日。」
 もし、如月とこれ以上話していたらうちは絶対に如月の事を傷付けてしまう。如月がうちの事を気にかけてくれていることも、態々こんなうちを心配してずっと一緒にいてくれたこともわかってる。
 わかってるけれど、今はその事に感謝する少しの余裕すら無い。
 だから傷つけてしまうとしても、うちは語気を強めて如月に帰ってもらうほか最善策は考えられなかった。今のうちに余裕なんて無いんだ。
 このまま死んで仕舞えばどれだけ楽になるだろうか、柚凪と同じように落ちて仕舞えばもう悩む事からも苦しい事からも逃げられるかもしれない。
 そんな悪い考えが脳裏に浮かぶ。
 どうせ、うちがいなくなったところで悲しんでくれる人は居ても誰も困らない。
「ははっ……」
 自分で考えておいて悲しくなってくる。乾いた笑いがしんとした病室に響く。もう本当に生きてる意味なんて無いんだろうな。
 うちは本当はずっと生きる事が苦しかった。いつか昔の苦しい記憶が、何度も何度もフラッシュバックする。お母さん達に、先生に、友達に柚凪と比べられて。『たったそれだけの事で?』なんて笑われるかもしれないけど、うちは皆が思う程強く無い。
 もしも二度と柚凪が目を覚まさなければ、うちはもうこの下らない人生を諦めてしまおう。そう決心した。
「……どうしたの?」