[二十二話]
 慣れない生活は、高校の卒業式から三日で終わった。直ぐに新居と新しい生活は慣れたのだ。
 あっという間に過ごしやすい環境を作り出せた今、考えてみると今まで過ごして来た中で一番過ごしやすい環境になったかもしれない。
 大学の入学式が終われば、サークルという部活の様な物に勧誘されるという噂を聞いた事があった。
 その噂は本当だったらしく、うちは色んなサークルに誘われてしまった。そのお陰でチラシまみれだ。
 沢山チラシをもらったけど、実際に気になるサークルは無かった。サークルに入るよりも、帰ってバイトしないといけないし。
 お父さんから大学の学費と家賃という、かなりの支援を受けているとは言え、働かないで遊んでいて良い理由にはならない。永遠に扶養される訳にもいかない。いざという時のためにしっかり働いて、貯金をしないと。
 うちは大学から帰ろうとした時だった。突然後ろから「あの」と声を掛けられた。
「チラシ、落としましたよ」
「え、ありがとうございます!」
 いつの間にかチラシを落としてしまっていたらしい。入りたいサークルのチラシというわけでもないけれど、もしこのチラシのサークルの人が落ちているチラシを見つけたら絶対悲しいだろうと思う。だから声を掛けてくれて本当に助かった。
「えっ」
 声を掛けてくれた人は、うちの顔を見るとカチッと固まった。それも、引き攣った顔で。
「えっ?」
 もしかして、うちと知り合った事のある人?
 そんな顔して硬直するほど、うちと嫌な思い出でもあるのかな。
 誰か思い出すために、うちも同じ様にその人をじっと見つめる。
──前髪ぱっつんの黒髪ロングで、後ろ髪を三つ編みにしている。レンズの厚い眼鏡で、どちらかと言えば暗めの印象。
 キーワードを脳内で探してみても、やっぱり記憶には残ってなかった。でも、どこかで見たような雰囲気を纏っている。全く思い出せない。
 でも、ふいに決定打が放たれた。丁度リュックについていた猫のキーホルダーが風で揺れたのだ。
「えっ」と声が漏れる。
「柚凪……?」
「やっぱり、バレた?」
「その猫のキーホルダーが無かったら多分わかってなかった」
 柚凪は眼鏡を外して「久しぶり」と笑った。「奈音が県外の大学選ぶなんて想定外だったなぁ」なんて続ける。
「まぁ、一ミリも期待してなかったわけでは無いけどね」
 うちだって、柚凪と同じ大学になるなんて思ってもみなかった。
「確かに、よく奇跡起こってたもんね」
 柚凪が「確かに!」と共感して、沢山の懐かしいエピソードを掘り返してきた。
 蘭菜と水雫を交えた四人で遊ぶ予定をした時、示し合わせた訳でも、お揃いで買っていた訳でも無かったのに偶然似た様な服を着て行った事とか。
 よくわからないタイミングでハモったりとか、お互い苦手な試験の結果が同じだったりとか、誕生日プレゼントが被った事もある。
 二人で懐かしいね、なんて話しながら笑う。今まで通り笑えている事に驚いた。あんな別れ方をしたのに、もう過ぎた事のように。二人共あえてあの時の事に触れない。
 二人で笑い合った後、しんと静まる。その沈黙は柚凪が静かに口を開いた事で終了した。
「……カード読んでくれた?」
「読んだよ、もう二度と会えないのかなって思ってた」
「俺も、あのカード書いた時はもう奈音とは会えないんだろうなって思ってたよ」
 泣く必要なんて無かったのかもしれない。あのカードを読む限りはもう二度と会えない気でいたのに。
 そんなに日が経たないうちに会えるなんて、五、六年会っていない間に柚凪がこんなにも変化を遂げているなんて、全てが衝撃だった。
「ごめんね、ありがと」
 今はそんな細かい事はどうでも良い。柚凪ともう一度、元に戻れた。それだけで良いんだ。
「ううん、全然大丈夫だよ。それよりどうしたのその格好……」
 ずっと気になっていたけれど、あまりにも柚凪が普通に話しているから聞けなかった。大した事じゃないのだろうけど,わざわざ暗い雰囲気にする意味は無い気がする。
「あぁ、これ?眼鏡も、きっちりした三つ編みも全部、地味に見せようと思ってやってるんだ」
 うちは「えっ、何で?」と続けて問いかける。尚更よくわからなくなった。
「ストーカーされたんだよねぇ」
 うちが問うと、柚凪はけらっと笑って見せた。
「誰に……」
「うーん、知らない成人男性に?」
「それはだいぶヤバくない⁉︎」
 ストーカーは、柚凪は軽く言っているけど割と重い事実だ。もし、まだ柚凪にまとわりついていたらと思うとかなり気持ち悪い。ゾワっとする。
 それに成人男性。よろしくない。
「大丈夫!めっちゃ怖がってたし、言質も取ったしさ」
「え、柚凪何したのよ」
 いや、普通ストーカーがそう簡単に折れるとは思えない。ストーカーなんて大半は執着の塊だろう。
 絶対、柚凪が脅したか、殴ったかのどちらかだろう。
「正当防衛って建前で蹴り飛ばして、そのまま引きずって警察連れてっただけかな」
 まさかの蹴り飛ばして警察連れてく方式。そこまでは考えが及ばなかった。
 しかも建前って言っちゃってるし。
 さっきまでの心配が一瞬にして無くなった。
「そりゃ怖がるわ、警察もびっくりでしょうよ」
「うん、めっちゃびっくりしてたよ」
 柚凪はケラケラ楽しそうに笑って、さっき外した眼鏡を掛け直した。
 ストーカーを蹴り飛ばして、警察に突き出すって……相変わらずヤンチャしてるんだなぁ。
 きっと、蘭菜達とも同じ高校だっただろうし、きっと高校でも花城と如月と喧嘩してたんだろう。
「その感じだと、高校でも如月と花城と喧嘩してたんでしょ」
 うちが考えていた事を聞いてみると、想像していた返答とは違った。え、何でわかるの⁉︎なんて驚く姿を想像していたのに、実際はきょとんとして「花城とは疎遠になって、如月とはめっちゃ仲良くなったよ」と言う。
「あの柚凪と如月が仲良くなった……?」
 今度はうちがぽかんとする番だった。柚凪の言葉がしっかり消化できていなかった。あの犬猿の仲の二人が仲良くなるだなんて、実物を見ても信じられない気がする。というかあっさり花城とは疎遠になったとか言ってたし。
「ねー、凄いよねぇ」
 柚凪はまるで他人事のように話して、「あ、そういえばさ」と柚凪は話題を変えた。
「奈音は何学部?」
「うち? うちは心理学部」
「へぇ、そうなんだ!」
「そうそう」
 柚凪は「とにかくまた会えて嬉しい!」とあの時と同じ笑顔を見せてくれた。
「ね〜……あれ、佐藤!」
 丁度、偶然帰ろうとしている佐藤を見つけてしまった。手をブンブンと振っていると、ようやく気付いてこっちに近づいて来てくれた。
「奈音、友達作るの早くね?」
 そりゃそうか。うちも柚凪がここに来るなんて、佐藤には話してない。そもそもうちも知らなかったから友達と勘違いするのは普通の考えだ。
 でもちゃんと訂正しないといけない、そう思って口を開いた。
「あ、違うよ?この子は──」
「奈音の姉の三浦柚凪です」
「あー、噂の奈音のお姉さんか」
 佐藤は「どうも〜」と軽く笑った。何となく、柚凪の方面から殺意のような不穏な空気を感じる。
 でも柚凪の全力の敵意を気にせず、いや気付かずに「奈音と似てないなぁ」と呟く。そして、柚凪の眼鏡に手をかけた。
「え、何して……」
「あ、でも眼鏡外したら似てるのかも」
 次の瞬間、パンッと乾いた音が聞こえた。
「触んないでくれる?距離感おかしいよ」
 佐藤は眼鏡と共に勢いよく叩かれた。眼鏡も勢い良く叩かれて、眼鏡の縁がパキッと折れた。
 わなわなとわかりやすく怒りを表す柚凪に、佐藤は何事もなかったかの様に「あぁ、よく言われる」と言った。柚凪はそんな佐藤の返答に、あぁあ、と叫ぶ。
「俺聞きたく無い! こんなやつと可愛い妹の交際報告なんて聞きたく無いよ!」
「おぉ、勘良いな」
「くっ……貧弱ハムちゃんがよぉ……」
「え、何でハムちゃん?」
 佐藤とハムスターは一致しない気がする。似ている要素なんて少しも無いと思う。
「この人、昼ご飯がスティック野菜だったんだよ、それ食べてる時の顔が完全にハムスターだった」
 確かに、今日の佐藤の昼ご飯はスティック野菜だった気がする。ハムちゃんというのが的確で、ぷっと笑ってしまう。
「それなら、お姉さんは怪力ゴリラだね」
 ハムちゃんと呼ばれた事を根に持っているのか。こんなに煽る佐藤を初めて見た。
「……奈音、悪い事は言わない。もっと良い奴居るって」
「えぇ……?」
 遠回しにこんな奴辞めろって言ってるなぁ。でも、折角付き合えたばっかりだし別れるのは嫌だ。
「別れ際に、奈音の大切にしてた物壊したお姉さんにそんな事言われたく無いね」
「はぁ? 部外者が口出して来ないでよ」
「口出される様な行動するのが悪いんだろ」
……どうしよう、二人の会話に全くついていけない。
 うちは、どっちの味方につけば良いのかもわからず、二人の口論が終わるまで何も口を挟まずにただじっと見つめたまま二時間待ち続けた。