[十九話]
 勢いよくドアを開けて入ってきた渚ちゃんに、佐藤は呆れた顔をした。
「渚……足でドア開けるとか危ないぞ」
 元気で活発な渚ちゃんを冷静に注意する佐藤を見ていると、やっぱりお兄ちゃんやってるんだなぁと感心する。佐藤がお兄ちゃんだなんて、うちが佐藤に対して描いていたイメージとはかけ離れているから未だに慣れずに、別次元のようなふわんとした感覚だ。
 注意された渚ちゃんはと言うと、「そんな、お兄ちゃんみたいに滑って転ばないよ?」なんてニヤッと悪い顔を作る。素直な良い子というだけではなく、少し毒もある。うちは根っからの良い子というよりもそっちの方が好きだ。
 渚ちゃんは「じゃ、ごゆっくり!」とうちに手を振り一階へ駆けて行った。
 嵐が過ぎたように、しんと静かになる部屋の空気。ずっと黙っているわけにもいかないし、うちは思い切って佐藤に気になっていた事を聞いてみる事にした。
「それで、何で骨折してたの?」
 佐藤は気まずそうにうちから目を逸らす。やってしまった、そう察した。
 勢いに任せて聞いてしまったけど、もしかしたらあまり骨折していた原因は言いたく無いのかな。悪い事聞いちゃったかな。考え出したらキリがない。もしかしたら、もしかしたらと、どんどん出てきてしまう。
 不安になる気持ちを考えない様に、うちは渚ちゃんが持ってきてくれたお茶の入った陶器のコップを口元に近付ける。すると、ふわっと甘い香りがうちを包む。フルーツティーなのか、フルーツ系統の甘い香りだ。
 ごくっと一口飲むと、優しい甘さが口の中に広がった。
「このお茶美味しいね!」
「あー、最近渚が気に入って買い貯めしてるんだよな」
「え、これ渚ちゃんが買ってるの⁉︎」
 佐藤は不思議そうに小首を傾げた後頷いた。渚ちゃんのセンスの良さに驚いてうちは「えぇー、凄いなぁ。本当凄いなぁ……」と語彙力を失ってしまった。
「渚に気に入った事伝えたら何個かくれるんじゃない?」
「でも貰うのは申し訳ないし、どこで買ったのか聞こうかな」
 うちと佐藤は話題がなくなると、定期的に静かになるらしい。でも、この静かさは、冷たい空気じゃ無くて暖かい空気だから嫌いじゃ無い。居やすい空間だ。
 ちょっと満たされた気分になっている中、佐藤は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「どうしたの?」
 うちが聞いても佐藤は「いやぁ、えっと……」と煮え切らない返事を返してくる。
「あの、絶対笑うなよ?」
 佐藤にしっかり釘を刺されてうちはしっかり頷いた。
 でもうちのしっかりした頷きを見てもまだ佐藤は言おうか言うまいか迷っていた。何を言おうとしているのかはわからないけどそんなにも言いたくない事なら、言いづらい事なら無理に言わなくても良いんだけど……。佐藤はずっと黙ったままで言う気は無さそうだな、と思って、うちはもう一度フルーツティーを口に含む。
「…‥階段から滑り落ちて、痛いなぁって思ったら骨折してたんだよね」
 間をあけるからもう言う気は無いのかと思っていたのに、唐突に真顔でそんな事言われるなんて困る。笑うつもりなんて一切無かったのに折角飲んでいたお茶が口から出かけてしまった。
 サッとポケットから取り出したハンカチで口を覆い、プルプルと小刻みに震える自分の手を隠す。
「なっ……笑うなって!」
 そうやって焦っている佐藤は新鮮で、また笑ってしまいそうになる。駄目だ、このままだとずっと笑ってしまう。一旦冷静にならないと。深呼吸をして、ようやく笑いの波が引いた。
「……笑ってないって!大丈夫大丈夫!」
 誤魔化そうとうちは笑う。まぁ、だからと言って誤魔化せるわけもなく佐藤は「間があり過ぎてバレバレだけど?」と不貞腐れてしまった。
「ごめん、でも……真顔であんなこと言われたらね」
 滑り落ちて、骨折してしまった事は災難だと思う。佐藤も深刻そうに、真面目に言っていたし笑ってはいけない雰囲気だった。でも面白かったから、反射的に笑ってしまうのは仕方ない。うん、きっとそうだ!
 弁解するうちの言葉をまともに信じて「俺の言い方が悪かったのか……」なんて呟く佐藤に、また笑ってしまいそうになる。
 一体今日の佐藤はどうしたんだ、いつもに増して様子がおかしい。もしかして、風邪でも引いてる?
いやいや、しんどそうに見えないし、もし風邪を引いていなかったらかなり失礼な事を言ってしまう。
「いつから学校来る感じ?」
「んー、来週くらいから行けるかな」
 来週か、まだ先だな。うちは「ふぅん」と口に出す。もう一緒に過ごせる時間は半年もないというのに。「寂しくなるなぁ……」
「えっ?」
「あっ」
 つい、本音を口にしてしまっていた。弁解することもできず、佐藤と目があったままうちは黙りこんだ。
「高校卒業しても、別に会えるでしょ」
 高校で思い入れのある大切な存在は、仲がいいと言える存在は佐藤一人だけだ。まぁ、連絡を取り合っていれば疎遠になる事は無いだろうけど、会える頻度は一気に減ってしまうと思う。
「佐藤とは大学違うし、簡単に会えなくなるかもじゃん……」
 こんな事を言っても困らせるだけだとはわかってる。卒業も、進学も決まった事だ。決まった事だけど、今まで当たり前のように会えていたのに会えなくなるというのは寂しい。
 気分が一気に急降下して、うちはスカートの上でぎゅっと自分の手を握ってそれを見つめる。
 勝手に凄く仲が良いと思い込んでいただけだったのかもしれない。うちからすれば大切な人だけど、佐藤から見たうちは複数人の中の一人でしか無い可能性だって捨て切れない。
「……あのさ」
 佐藤が口を開いた。どんな壮絶な言葉が飛んで来るか、つい身構えてしまう。よく考えてみると、そもそも付き合っても無いのにも関わらずうちは佐藤にかなり重い事を言ってしまった。どんなに酷い罵倒をされたとしてもおかしくないんだ。
「……うん」
「大学、三浦のとこと同じだよ」
「⁉︎」
 うちの頭の中は真っ白になった。佐藤と大学が同じ?そんな事ありえるの?
 罵倒されると身構えていたのに、悪い事は何も言われなかったから内心戸惑っている。
「な、何で……?」
「骨折する前に受けてた滑り止めが三浦と同じとこで、さっき合否発表があったから」
「えっ、合否発表って今日だったっけ」
 完全に今日が合否発表なのだということを忘れてしまっていた、大体明後日くらいだと思い込んでいた。
「お前……忘れるなって」
 佐藤に呆れた顔で見られ、うちは苦笑する。合否がもう発表されているとわかり、かなり気になってしまう。早く家に帰って合否の確認をしたい。
「合否が気になるから帰るね、また連絡する!」
 うちは渚ちゃんが持ってきてくれた紅茶のお盆を持つ。失礼しましたと礼をして下に降りようとした時、後ろから袖を引かれた。
「えっ」
「バレンタインと合格祝いを兼ねて、プレゼント」
 佐藤はそうやって笑って、うちに手のひらに収まるくらいの抹茶味と書かれたポップなパッケージののチョコを渡してきた。
「えっ、受け取れないって」
 プレゼントしてくれたのは凄く嬉しいけど、うちは何も用意していない。うちが佐藤から一方的に貰うだけというのは申し訳ない。
「三浦のために買ったから受け取ってくれ」
 うちは「うん、ありがとう」と素直に受け取ったもののこれで受かってなかったらと考えると、怖くて胃が痛くなってくる。
「また連絡するからちゃんと見てよ?」
「あー、スマホ充電切れて放置してたから……多分見る」
 充電切れの所為で佐藤と連絡が取れなかったのかとうちは納得した。佐藤は「今日はお見舞いに来てくれてありがと」と真剣にうちに感謝してくれた。
 佐藤の部屋を出て、一階に降りるとソファーに寝転がって本を読んでいる渚ちゃんが目に入ってきた。
「渚ちゃん!」
 うちが声をかけると「あ、奈音ちゃん」と渚ちゃんが起き上がる。ソファーの横に併設されたテーブルに本を置いてお盆を受け取ってくれた。
「もう帰っちゃうの?」
「うん、そろそろ帰らなきゃなって」
 外もだいぶ暗くなってきたし、早く帰って合否確認をしたいというのが本音だ。合格か、不合格かわからずハラハラしたまま過ごすのは案外しんどい。
「そっかぁ……」
 渚ちゃんはあからさまに、悲しそうな顔をした。悲しそうな渚ちゃんを見ているのは心苦しいけど、どう言えば良いのかわからない。
 渚ちゃんは俯いて「もし良かったら、なんだけど……予定が合えば二人で遊びたいな」と独り言くらいの音量で呟いた。
「うちも一緒に遊びたい!」
 パッと渚ちゃんの顔が明るくなった。それからは早かった。
 渚ちゃんと連絡先を交換して、佐藤のお母さんに挨拶をして佐藤の家を出た。行きはお言葉に甘えて送ってもらってしまったけど帰りは佐藤の家の近くにある駅から自分の最寄り駅まで乗って帰る事になった。
 電車の中は帰宅ラッシュで、沢山の人が乗っていた。うちは手すりに寄りかかってスマホを開いた。蘭菜のお陰で佐藤に会えたと言っても過言では無いから蘭菜にお礼を言おうと思ったのだ。
 うちが『アドバイスありがと、佐藤と会えたよ』と蘭菜にメッセージを送ると、蘭菜にしては珍しく直ぐに返信が返ってきた。そこから蘭菜としばらくメッセージでやり取りして、今日あった事を簡単に伝えた。
 すると蘭菜から『なーってやっぱり、佐藤君のこと好きだよね?』と来た。
「はっ⁉︎……あ、すみません」
 唐突な蘭菜からの質問に驚いて電車の中なのに声を出してしまった。急に叫んだ事によって刺すような視線が周りから飛んできて痛い。
 うちはスマホに目を落としてキーボードをフリックする。『好き……なのかもしれない』と打つ。佐藤を『好きじゃない』とはどうしても言いたくなかった。
 佐藤と卒業して会えなくなるかと思うと胸が締め付けられるように痛んだり、佐藤と話すだけで悩んでいても、その悩みが不思議とどうでも良くなったり。佐藤の事で一喜一憂してしまう。
 どうしてなのか、わからないそれが佐藤に向いている感情が『好き』だとか『恋愛感情』だとかなのであれば、すとんと納得できた。
 最寄駅で降りて、改札を抜けるともうさっきまでの人はいない。鞄の中からさっき佐藤がくれた抹茶味のチョコを取り出す。どこにでも売ってあるような定番のチョコだけど、これは特別なものに思える。
 暗闇の中、口に入れたチョコはやけに甘かった。