[十七話]
 うちの涙が収まった頃、佐藤のスマホに電話がかかってきた。
『もしもし?言ってた駅まで来たわよ〜』
 明るく、甲高い声が電話口から聞こえてくる。通話の音量が大きめになっていたのか、微かにうちにも佐藤のお母さんらしき人の声が聞こえた。
「わかった、ありがとう」
 佐藤は、頷いて電話を切った。もう遅い時間だからお母さんに連絡していて、迎えに来て貰う予定だったんだと思う。
 じゃあもう解散なんだろうなぁ。いや、解散しか無いか。
 矢っ張りいつになっても別れ際は慣れない。離れる事が、少しだけ辛い。
 でもそんな事は言ってられない。もう十分一緒にいてくれたんだし、これ以上我儘言っちゃ駄目だと自分に強く言い聞かせる。
「じゃあ、またね」
 うちは、精一杯笑顔を作って佐藤に手を振る。佐藤に背を向けて鞄の中から財布を取り出した。改札を抜けようとした時、肩を掴まれた。
 振り向くと、佐藤が「何で一人で帰るんだよ」と不服そうに呟く。
「何でって言われても……うちは迎えは呼べないし、一人で帰るよ」
 お父さんは、昨日は偶然早く帰ってきていたけれど、いつもは早く帰ってはこない。多忙なお父さんにわざわざ迎えに来てもらうだなんて申し訳ないし、家くらい一人で帰れる。
 丁寧に説明した筈なのに、佐藤は「そうじゃなくって!」と語気を強めた。
「送ってくって、さっきも言ったじゃん」
 あぁ、だから珍しくそんなに膨れているのか。
 送っていってくれるとは何度も何度も言ってくれていたけれど、素直に送ってもらう気にはなれなかった。佐藤は行きもわざわざ迎えにきてくれたし、帰りもここまで着いてきてくれた。
 それなのに、佐藤のお母さんまで巻き込んでしまうなんて考えるだけで申し訳ない。
「えぇ……」
 厚意を受け取らない方が駄目なのか、でもこんなにしてもらっているのに返すものがない。よし、断ろう。
 そう意気込んだ時だった。さっきまでうちと佐藤以外誰も居なかった静かな駅の中に、目を引く程の綺麗な女性が入ってきた。
 ストレートの、綺麗な真っ黒な長髪。キリッとした目つき。しゅっと伸びた鼻筋。大人の魅力というものを持っているように感じる。
「綺麗……」
 本当に綺麗だと、素直に思った。初対面だというのにこんなに見てしまうのは失礼なんだろうけど、目を離せなくてついついじっと見つめてしまう。佐藤でさえ見惚れているのにうちが見惚れない筈がない。
 大人っぽいのに、どこかで感じた事がある落ち着く雰囲気がある。
 そんな事を考えていると佐藤が女性に話しかけた。
 えっ、話しかけるの?と脳に浮かんだ言葉は声にはならなかった。佐藤の続けた言葉はうちの想像していた言葉とは違ったのだ。
「母さん……わざわざ車から出てこなくて良かったのに」
 むっとした顔になり、その女性は「だって、遅かったもの」と反論する。女性へ対する佐藤の呼称から、彼女が佐藤のお母さんなのだと明確になる。
 うちは、少し遅れて「お母さんなの⁉︎」と声が出た。お母さんにしては若すぎないかと思う。びっくりし過ぎた所為で自分が思っていたより声が大きくなってしまった。
 急にそんな大声を出したからだと思うけど、佐藤のお母さんはうちをじっと見詰めてきた。
「どうも、湊の母です! 確か……奈音ちゃんだったっけ」
「あっ、はい!」
 うちが「お母さんだったんですね」と静かに言うと「そうだよ〜」と笑ってくれた。そして、何故かそのまま「付き合ってるの?」なんてお決まりの質問が飛んできた。
「付き合ってないから!」
「付き合ってないです!」
 佐藤とうちはほぼ同時に答えた。本当に最近、付き合ってるのかと聞かれる事が増えた。お父さんからも聞かれたし、如月にも聞かれた。突然、どうしてこんなにも聞かれる様になったんだろうか。
 全力で否定するうちと佐藤を見た佐藤のお母さんは「ごめんごめん」と言いながらニコッと笑う。ちょっとふざけても、それがまた様になる様な。見た目は大人っぽいのに、中身は可愛いすぎるなんて凄いなぁ。
 佐藤のお母さんは、急に自販機で水を買って来た。ちょっとマイペースなのかな、なんて考えているとその水はうちへと手渡された。うちが戸惑いながらも受け取ると、「目に当てときなね」と微笑みかけてくれた。
「あ、ありがとうございます!」
 目が赤くなって、泣いていた事がバレたんだ。恥ずかしい。まぁ、久々にあんなに泣いたから目は赤くなって当然か。今は恥ずかしいという気持ちよりも、優しさが伝わってきて、じんわり心が温かくなる。
「それで、湊……もしかしてあんた奈音ちゃん泣かしたの⁉︎」
「は⁉︎泣かしてねぇ……ってん? あれは泣かしたって事なのか?」
 佐藤は、うちの話を聞いてくれただけで、佐藤がうちを泣かせたって訳じゃない。佐藤は悪くない。そう頭の中で思って慌てても声にはならなかった。
「こんな可愛い子泣かせるなんて、最低、鬼、あとは、えーっと……」
「罵倒する言葉のレパートリー無くなったのかよ」
「普段そんなに罵倒しないんだし、仕方ないでしょ」
「まぁね」
 罵倒のレパートリーが少ないなんて、それほど綺麗な言葉を使ってるんだろう。それに納得する佐藤も凄い。きっと、この家庭は普通よりもずっと平和なんだろうなぁ。喧嘩する事も無いんだろう。家族仲が良いのは本当に羨ましい。
 うちは佐藤のお母さんが凄く良い人そうでびっくりしていた。難関大学を受けさせようとしている親と言うからどんな人なのかと密かに心配していたのだ。暇さえあれば直ぐ勉強をさせてくるガチガチな人を想像していた。
 二人は、普通の仲睦まじい親子にしか見えない。それなのに、どうして睡眠時間をも削らなければならないほどの難関大学を受けさせようとしているんだろう。
 いけない、いけない。人の家庭に頼まれても無いのに踏み込み過ぎては駄目だ。うちはブンブン首を横に振って考えを整理した。
「……っくしゅ」
「奈……三浦、寒い?」
「あ、奈音ちゃんごめんね。車乗ろっか」
 二人は優しくうちを車へと誘導してくれた。もうここまで来てしまったからには、申し訳ないけど佐藤達の厚意に甘えてしまおう。
 車は先程までエンジンがかかっていたようで、ほんのり暖かさが残っている。うちは後部座席に座って、佐藤もうちの隣に座る。そのタイミングで、さっきうちの名前を言いかけ事をを問い詰めようと思った。
 うちは「そういえばさ」と話し始める。佐藤は「ん?」と首を傾ける。
「さっきうちの事、奈音って……」
「言ってない!」
 佐藤はうちの言葉を全力で遮った。
「言いかけたって」
「断じて言ってない!」
 そんなにも否定するなんて、逆にそうだと言っているようなものだ。佐藤は頭良い癖に、馬鹿な所もあるんだなぁと思うと少し安心した。

「あれ、奈音? まだ起きてたんだ」
 うちは、佐藤と別れた後、自分の部屋でひたすらに勉強をしていた。受験シーズンに削ってしまった勉強時間を少しでも補わなければならないから。深夜までずっと机に向かっていて、疲れてしまった。だからうちは気分転換も兼ねて、リビングで卵スープでも作って飲もうかと部屋から出てきた。
 そんな時にスーツ姿で、家まで帰ってきたお父さんと鉢合わせた。
「あぁ、お父さんお帰り」
「こんな時間まで起きてて、授業中眠くならないか?」
「別にならないけど……あ、お父さんも卵スープ要る?」
「作ってくれるなら欲しい」
 お父さんこそ、朝からこんな時間まで働いてて大変だろう。食欲が無いとかが無いならば卵スープを食べさせようとは思っていた。
 家には寝に帰ってきてるだけのお父さんは、いつも目にクマがあって疲れた顔をしている。かなり少なくなってきたブラック企業という物は、残念ながら未だに存在しているのだろうとお父さんを見ているとよくわかる。そんな疲れ果てたお父さんを少しでも労ってあげたいと思うのは普通の事だ。
「作っとくから早くお風呂入って着替えて来なよ」
「わかった……」
 お父さんは、今日はあまり元気じゃ無いらしい。受け答えが少し疲れている様に感じる。どうせ、朝も昼もまともに食べていないだろう。簡単な物でも作ってあげよう。
 冷蔵庫から材料を取り出して、うちはフライパンと鍋を並べてコンロの火をつけた。
 うちは、スープの素とその他の材料を鍋に入れて蓋を閉めた。卵スープを煮ている間に同時進行でフライパンにささっと油を引いた後、米をフライパンの上に広げる。その米の上に卵を一玉落とす。ささっと適当に混ぜて調味料を入れる。調味料を入れたら良い感じの見た目になるまで混ぜる。
 うちは火を止めて、炒飯もどきを皿の上に乗せる。丁度良いタイミングで卵スープも出来た。卵スープをお椀に注いで、テーブルに持っていく。
 簡単だし、早く作れるけど美味しい。見た目も良くなる。だからうちはこれをよく作る。
 卵スープも良い感じにできた。一応二人分作ったけれど、お父さんがもしお腹空いてない様ならうちが全部食べよう。うちが卵スープを飲み終えた頃、お父さんがお風呂から出てきた。
 お父さんは、目を大きく見開いた。そんなに驚くような物は作っていないのに。
「大分豪華だね、奈音もこんなに成長したのか……」
「そんなに作ってないけど……お父さん、朝も昼もまともに食べてないでしょ?」
 お父さんは「買う暇が無くてね」と苦笑した。
「本当助かるよ、奈音の料理美味しいから……いただきます」
 うちの料理を美味しいと言ってくれるのは嬉しい。助かると言うくらいだし、お腹は空いているのだろう。それなら炒飯は食べられる筈だ。
 作る前は全部炒飯を食べられると過信していた。あれほどお腹が空いていたのに、今はもう食べられる気がしない。食欲が失せてしまった。
 だからうちはお父さんに「炒飯全部食べれそうなら食べて、食べれなかったらラップして置いておいて」と言って自分の部屋に戻ろうとした。
「わかった、もう寝るのか?」
「もうちょっと勉強して寝ようかなって」
「そうか、大変だろうけど頑張って」
 お父さんの方が大変だろうなという気持ちをグッと堪えて飲み込み、「ありがとう」と笑顔を作った。また、作り笑顔が出来てしまった。
 矢っ張りお父さんの前ではもう、素の自分を曝け出せないんだと。偽ってしまうんだとわかってしまった。