[十一話]
 あの夜から二週間が経った。
 頭部に受けた損傷が然程大きくは無かったのと、記憶が早くに戻ったという事もあり、柚凪は予定よりも早く退院できる事になったみたいだ。
 柚凪が退院するまでの家の空気は最悪だった。実際、特別変わったというような行動は無いけど、きっとこれは気持ちの問題で。あの夜、自分の考えをしっかり決めたとは言えどもそれが本心では無い事に気付いていた。
 それでも自分の本心を尊重するつもりは無い。誰も幸せにならない選択ならしない方が良いに決まっている。
 大丈夫、心配無い。心ではそう思っていても、今までよりもずっと家が居づらい場所になってしまった。
 最近は体調不良が続いている。食欲が全く無くて朝と夜は何も作らないし、食べていない。何か少しでも口に入れると、戻してしまいそうになるから。
 かと言って、うちが何も食べなくても心配される事も怒られる事も無いのだとわかった。両親が気にするのは自分の事と、柚凪の事だけ。改めてその事を実感させられてしまって、少し悲しくなる。
 昨日、ダイニングテーブルに『明日柚凪が退院するから迎えに行ってきて!』とお母さんからの書き置きが残されていた。日曜日だけど、仕事があるのはいつも通りのことだから納得して柚凪を迎えに行く。
 柚凪は家に戻ってくるなり、走ってソファーにダイブした。「疲れたぁ」と溜息を吐く柚凪を放っておいてうちは玄関に投げられた柚凪の荷物をリビングに持って帰る。全く、手のかかる姉だ。
「いやぁ、やっぱり家は落ち着くねー」
「病院生活はどうだった?」
 ゴロゴロしながら体を伸ばす柚凪に、うちは聞く。うちは一度も入院した事は無いから、病院生活がどんなものなのか想像がつかない。
 だからちょっとだけ気になっていた。
「病院食に飽きた……」
「そこ⁉︎共同だから人間関係の悩みが〜とかじゃなくて?」
 部屋が個室じゃないから、ストレスが溜まって疲れたのかと思っていた。でも不満があるのはまさかの病院食の方だった。でも、確かに病院食はあまり美味しそうには想像できない。
「え、俺に人間関係の悩みがあるとでも?」
 ドヤ顔で言ってきた柚凪をスルーして、うちは台所に向かう。コミュ力おばけに人間関係の悩みがあるなんて考えたうちが馬鹿だった。今まで柚凪から人間関係のトラブルでの相談をされた覚えがない。何ならうちが相談した時、的確なアドバイスを返してくれた。人間関係の事はもう専門家レベルに詳しいと思う。
「ねー、奈音冷たい〜」
 うちが冷たいのはいつも通りの事だ、別に冷たくしてるつもりはないけど。残念ながら冷たいと言われる事は多々ある。
 駄々をこねる柚凪はイヤイヤ期に突入した幼児のようだった。何なんだこの十三歳児は。
 冷たいと言われた事は一旦スルーして、柚凪に夕飯の希望を聞く事にする。
「ねぇ、今日の夕飯何が良いとかある?」
「え⁉︎珍しい!奈音が作ってくれるの⁉︎」
 退院祝い、という事で折角だし夕飯はうちが作ろうかと考えていた。いつも作らないからというのもあるけれど柚凪ならきっとうちが料理を振る舞えば、少しは喜んで元気になってくれるだろうと思ったから。
 でも想像以上に喜ばれると、調子が狂う。
「……やっぱ辞めようかな」
 ボソッと呟くと、柚凪は「辞めないで⁉︎作って⁉︎」と必死に懇願してきた。どれだけうちの料理を食べたいんだろう。そんなにプロの料理って程凄い料理が作れるでも無いのに。
 ふっと笑いが溢れる。いつも通り、柚凪は馬鹿だなぁ。でも、今はこれで良いんだ。近いうちに終わってしまうこの何気ないいつも通りの日常を大切にしたい。きっと家族全員で一緒に居られる時間は残りわずかだから。
 ギィッと後ろでドアが軋む音がして、うちは振り向いた。
「え、お母さん……とお父さんも?」
「珍しく早いね〜?」
 二人は真面目な顔をしていた。いや、真面目というよりかは強張っていたという方が正しいかもしれない。
 険しく、難しそうな顔をしていた。
「柚凪、奈音、こっちに来なさい」
 うちは、何となくこの後に何を話されるかを察してしまった。予想していた時期よりも大分早かった。まだもう少し先だと思っていたのに。
「うん」
「え?」
 お父さんとお母さんがダイニングテーブルの前に腰掛ける。うちも、それに続いて椅子に座る。柚凪は首を傾げ、うちの隣に座る。 ピンと張り詰めた空気が流れる中、口を開いたのはお父さんだった。
「しっかり話し合った結果、やっぱり離婚する事になった。親の勝手な都合で申し訳ないけど……ちゃんと話し合って決めたんだ」
「……は?どういうこと?」
「柚凪は私が、奈音はお父さんが引き取る事に決まったの」
 悪い予感が当たってしまった。
 結局、うちと柚凪はバラバラになってしまうんだと現実を突きつけられた。お母さんの有無を言わせない口振りに少しもやもやする。話し合ったのは『夫婦』であって、『家族』でじゃない。しっかり話し合えていることになるんだろうか。
 特にさっきの柚凪の反応を見ると、この事は初耳だったんだと思う。それなのに……事前に話を通していないのに納得しろというのは暴論じゃないのかとは思う。
 だとしても、うちはここで反論はしない。もう決めたんだ。
「それなら……私と奈音は離れ離れになるって事?」
「そうよ」
「……で」
「え?」
「何で……奈音はそれで良いの⁉︎」
 柚凪が勢いよく立ち上がる。今にも泣きそうで、唇を強く噛んでいる苦しげな表情がこっちを見ている。真剣に、純粋な瞳でうちの事をじっと見つめている。
 そんな柚凪を見ていられなくて目を逸らす。
「うちは大丈夫だよ、それでお母さん達が幸せなら良い」
「どうして……?」
 柚凪と目を合わせられない。今ついた嘘を見抜かれてしまいそうで、それを問い詰められたら決めた決意が揺らいでしまうかもしれないから。
「冬休みに入るタイミングで奈音を迎えに行くから、用意しておいて」
「うん」
 話はそれぐらいだからと言われて、うちは自分の部屋に戻った。冬休みに入るタイミングというと、もう残り数日程しか猶予は無い。
 この際、必要無いものは処分しようと思って準備と片付けを始めた。
 片付けていると、柚凪との幼い頃からの思い出が沢山出てくる。柚凪が描いてくれたうちの似顔絵、二人で作った貝殻の宝箱、誕生日プレゼントに貰った折り紙の薔薇。
 あれも捨てたく無い、これも捨てたく無いで片付かない一方だ。最悪、思い出は写真を撮っておけば永久保存が出来る。
 だけど、一番大切な思い出の物は絶対に持っていきたい。うちは持っていくのを忘れないように大切な思い出を普段使いしているトートバッグに仕舞い込んだ。
 よし、これで安心だ。片付けを続けようとしたその時だった。
「……ねぇ、奈音。あれ本気なの?」
 柚凪がうちの部屋に入っていたことに気付かなかった。
「うん、まぁ本気だよ」
「俺と離れるの、平気なんだ」
「平気って訳じゃ無いけど……仕方ないよねって」
 柚凪と離れるなんて平気な訳ない。でも、うちはそんな素直な性格じゃない。それに平気じゃないって言ったところで、両親がしっかり考えた決断を変えようとは思っていない。
 うちは頑張って笑顔を作る。今は苦しくても無理矢理にでも笑わないと、嘘がバレてしまう。
 そんなうちを見て、柚凪は「まぁ、結局中身は他人だもんね」と笑う。引き攣った、悲しそうな笑い。
「他人って……」
「だってそうじゃん、だから別に離れても良いと思ってるんでしょ?」
「……っ」
 そういう事じゃない、違う。これでもうちはうちなりに頑張って考えた。いつも迷惑かけてばかりだから、迷惑をかけない選択をしたかった。本当は柚凪と離れたくなんて無かったけど、それがお母さん達の幸せになるならうちは我慢しようと思った。
 例え、前世の記憶が残っているという事で柚凪とうちは他人だなんて思わない。大切な親友で、大切なたった一人の姉だから。
 必死に心の中で叫んでも、どうしてかうちの口が動く事はなかった。心の中で弁解しても、柚凪に伝わらなければ何の意味もない。
「否定しないって事は、そうなんだね」
 そんな事ない、反論しようと口を開くより前に柚凪が口を開いた。
「じゃあこれも要らないね」
 バキッという鈍い音がして、うちの前に壊れてしまった貝殻の宝箱が落ちる。
「や……っ」
 声にならない儘、目の前でうちの思い出が消えていく。柚凪から貰った大切な思い出が、宝物が。もう使い物にならないような姿になってしまう。
「てよ……」
「え?」
「出てって!」
 柚凪に当たった所で、宝物が戻ってくる訳じゃないのに。なのにうちは柚凪を自分の部屋から追い出した。一人になった瞬間、目から涙がボロボロ溢れ落ちてきた。
 うちは、拭っても拭っても溢れる涙を拭いながら別れの準備を始めた。
 数日後、柚凪とは喧嘩をした儘離れる事になった。ドラマや映画などと違って、学校で『転校する事になりました』という報告はしなかった。家庭の事情もあるからだと思う。
 誰もうちが転校する事を知らない儘、うちは一人で新しい場所へと進む。柚凪とうちは傷ついた、だけどこれで良かったんだろうなと思う。
 何かを手に入れると、何かを失うのは付き物だから。両親の幸せを手に入れる事で、姉妹の絆は失った。今後、柚凪とはもう二度と会わないかもしれないけれど、うちが居なくても幸せになってくれる事を願うばかりだ。
 車に乗って、後ろに後ろにと遠ざかっていく家をうちは見えなくなるまで見つめていた。