屋上に来てから、どのくらい経っただろうか。来た頃より、少し日が落ちてきたような気がする。

 もうそろそろ部活も終わる頃かな、なんて小さく溜息を零す。もう、疲れてしまった。

 ずっと罵られたり殴られたりで少しでも身体を動かせば、色んな場所が痛む。だから泣きたくても泣けない。泣く気力すら残っていない。

 ギュッと心臓を鷲掴みにされるような痛みはあるのに、虚しさは残ってるのに。涙は出てこない。

 立つ事も儘ならないこの状態でも、倒れる事は出来ないし。今は耐えるしか無くて屋上の錆びた手すりに寄りかかる。

 そんな酷い状態のうちを見て、杉田さん達は笑う。高い声で、嘲笑う。

 人が苦しんでいる姿を見て何が面白いのか、全くもって理解できない。
 人の感性はそれぞれだと思うけど、こんな人に今まで出会った事がないうちからすると、反応に困ってしまう。

 怖いし、味方はいないし。それもかなりしんどいけど、一番最悪なのが、大切な二人を巻き込んでしまった事で。
 なぜかはわからないけど、偶然屋上に来た蘭菜達もうちと一緒に囲まれている。

 一見そこまで危害は加えられているようには見えないけど、この状況を見られたから杉田さんは脅したというのは何となく想像がついた。

 何を言われたのかはわからないけど、水雫が屋上に出てきた時にこそっと耳元で呟いていたのを見た。
 それから二人とも、帰るタイミングも逃してずっと何も言い返せずに端の方で俯いている。

 二人が来たから、助けられると思ったうちが馬鹿だったんだ。よく考えてみると当たり前の事か。

 いじめをテーマにしたような物語でも「助けたいけど、守れば自分がいじめられるから怖くて助けられない」というキャラクターは必ずと言っていい程出てくる。

 つまり、自分が被害に遭うのを恐れて行動できないのは珍しい事じゃない。二人も例外ではなく、珍しくもない普通の反応。

 いつもうちを第一優先にしていて、うちが危機的状況に陥っていたら自分の危険も顧みず、迷わず助ける単細胞の柚凪がいつも側にいるから感覚が麻痺していたのかもしれない。

 周りの目は気にしない、自分が正しいと思った道を突き進むタイプの柚凪に今まで救われていたのだと今更ながらに気付いた。

 所詮、うちは柚凪に守られないと生きていけないんだな。
 何か特別得意な事がある訳でもなくて、皆から邪魔だと思われている存在。それなら居なくなったとしても問題は無いのかもしれない。

 それなら、どうしてうちは生きているんだろう。
 どうして、柚凪はいつもうちを助けるんだろう。
 もういっそ、気絶してしまいたい。ここから、逃げたい。

 そう願ったってそう世の中上手く行かないよなぁ、と目を伏せる。

「なんでこんなになるまで耐えたの?」

 この状況の中に楽観的な声が入り込んできた。少し呆れたような、それでいて聞き馴染みがあるような。

 目を開く。驚きが隠せず「え?」とつい、声が漏れてしまう。

 あれ、もしかして現実?それともこれは走馬灯?

「……へ?」

「ゆず!?」

 杉田さんは素っ頓狂な声を出すと同時に水雫が驚いて叫ぶ。皆にも見えている、という事はこれは現実?

「抜け出してきちゃった!」

 柚凪はふざけて笑う。
 でも直ぐに眉を顰めて、うちの方へと距離を詰めてきた。もしかして怒ってる……?

 例え柚凪だとはわかっていても、何故か詰め寄られると責められるような気がして怖い。

 でも手すりより奥に後退りする事は出来ず、柚凪との距離は縮まっていく。

 柚凪の手が上に上げられる。叩かれるのかと疑って、反射的に目を瞑る。
 でも、柚凪に叩かれるなんてことはなかった。

「ごめんね、遅くなって。」

 ポンと頭に手を置かれて、ふっと張っていた糸が解かれる。もう限界はとうに越していた。

 うちは、ガクッと力が抜けたように膝から崩れ落ちた。

 止まっていた心臓が動き出したかのような、なくしていた感情が戻ってきたような。

 もう出し切ったと思っていた涙が再び溢れ出す。そんなうちの頭を柚凪が優しく撫でる。

「それで、なんでこんなになるまでいじめてたのか……ちゃんと俺がわかるように教えてくれる?」

「えっと……それは、その……」

 にこりともせず、真顔で首を傾げる柚凪。
 ごにょごにょと煮え切らない返事の杉田さん。
 第三者から見て、上下関係がわかりやすい図になっていた。

 杉田さんは、今まで誰かに反抗された事がなかったのかというくらい柚凪の押しに負けている。
 きっと自分が一番強いと信じて、群れてしか物申せないような可哀想な性格なのだと思う。ただの憶測でしかないけど。

 押しに弱いのは確実だろう、さっきまで堂々としていたのに、今はさっきの面影は少しも残っていない。

 どうしようとでも言いたげな表情で取り巻きに視線を向けているが、実際に取り巻きとは然程仲良く無かったのか、誰も杉田さんのことをフォローしようともしない。

 表面上だけの友達って怖いなぁと実感した。
 うちを殴ったりした事もバレて、取り巻きにも裏切られて。杉田さんからしたら災難な一日だったのだろう。
 でも、そんな状況でも柚凪は一切手加減をしない。追い討ちをかけていく。

「ねぇ杉田さん。俺は知ってるんだよ? 気に入らないクラスメイトだとか後輩を呼び出して集団でいじめてる事」

 少しもオブラートに包まずに、ストレートに言った。
 杉田さんも、その取り巻きもストレート過ぎて驚いているような表情だった。

「そんなに俺の妹が気に入らなかった?」

「いや、えっと……」

「おかしいなぁ、可愛くて優しい真面目な子なのに」

「あの……えっと……」

「えっとばっか言っててもわかんないよ? 奈音が何かしたの?」

「いやっ、そんな事は……」

「なら間違ってるのはどっち?」

 二人の間に沈黙が流れる。
 柚凪は腕を組んで、少しも譲らない雰囲気を醸し出す。杉田さんはそんな柚凪にどんどん追い詰められて行く。

 最終的に、杉田さんは涙目になって「すっ、すみません!」とうちに謝ってくれた。

 ただ「気に入らない」というだけで。それだけで今まで集団でいじめていたのだろうと思うと鳥肌が立つ。

 今回は、柚凪が助けてくれたから良かったけれど、もしも柚凪が来なければこのままずっと三人とも帰れずに居たのかもしれない。

 皆、逃げないといけない事はわかっていても逃げられずにいたから。

「取ってつけたような謝罪なんて要らないんだよ、俺の大切な妹に手出して謝罪だけで済むとか思わないでね」

 最後に忠告をして、柚凪が「じゃあ、帰ってくれる?」と笑う。直ぐに杉田さん達は焦って帰っていった。

「柚凪って……馬鹿なのに強いんだね」

「ちょ、奈音? 悪口なのか褒めてるのかわかんないんだけど!」

 矢っ張りうちは、素直になれない。本当は助けてくれてありがとうって言わないとなのに、言えない。
 言わなきゃ、ちゃんと……。口に出そうと、口を開く。

「ゆず、ありがと……」

「すっごい怖かった……」

 先を越されてしまった。
 蘭菜と水雫は今まで我慢していた糸が切れたようにわんわん泣き出した。

「ごめんって、もう少し早く来れたら良かったけど……点滴とかついてたし、記憶戻るまでここ思い出せなかったしさぁ」

 あぁ、そういえば柚凪、記憶失くしてたんだったっけ。それなら何で柚凪はここがわかったのかな。

 さっきまでの疲れが今になってどっと来たのか、考えが纏まらなくなってきている。

 柚凪が二人の頭を優しく撫でている。この状況は全て自分の事のはずなのに、何故か他人事のような気分だった。

 まるで、何かの映画かアニメを見ているような。ぼんやりとしているような……そんな感じ。

「……もう、なんで三人とも逃げなかったの」

「だって……」

 目の前が霞んで見える。全身に靄がかかったように目は見えづらく、声は聞こえづらくなる。

 あれ、もしかして死ぬ寸前?なんて軽く考えている間にもう、うちの意識は途絶えていた。



 白い壁、鼻をツンと刺す消毒液の独特な香り。見慣れない天井、誰かの話し声。
 目覚めた時の情報は大体こんなもので、屋上で意識を失って保健室に運ばれた事を察する。

「奈音?」

 うちが目を覚ました事に気が付いたのか、柚凪の声が優しく「大丈夫?」とうちに問う。

「ゆず……」

 うちはベッドに手をついて、体を起こす。うちの事を心配してくれている柚凪の顔を見ると、自然に涙が出てきた。

 最近涙腺の調子が狂ってる。前まではこんなに立て続けに泣くことなんて無かったのに。

「えっ、待って奈音!? どうしたの!?」

 助けてもらったのに、ずっと柚凪に心配をかけてしまっていて情けない。申し訳なさと同時につくづく、柚凪の優しさに救われる。

「ごめん……」

「え、え……? 大丈夫!?」

 唐突にうちがした謝罪に柚凪は戸惑っているように見えた。
 うちはぐっと目許を拭って、鼻を啜る。

「いつも助けてくれて、ありがと」

 ようやく言えた。さっき言えなかったから、言えて良かった。

「なになに? 奈音が珍しく素直!」

 柚凪は「もう一回言ってよ〜」とニヤニヤしているのがバレバレな口許を片手で隠しながら笑う。

「……もう言わない」

「もー、拗ねないでって!」

「別に拗ねてないし……って蘭菜達は?」

「帰ったよ?しっかり家まで送り届けてきた!」

 流石柚凪、頼もしい。

「あれ、今……八時?」
 スマホの画面を開くと、夜の八時を回っていた。
 そんなに気を失っていたなんて知らなかった。

「大丈夫、お父さんが迎えに来てくれるから!」

「あ、そうなの……」

「そうそう……って、どうしよう。病院抜け出してきちゃったのバレる。」

 そういえば、確かに抜け出してきたって言ってた。

 柚凪が怒られない良い案が無いか考え込んでいると、コンコンと保健室のドアを叩く音が聞こえた。