[九話]
 聞き馴染みのある声が、「失礼します」とドアを開ける。
「奈音、連絡もらって迎えに来たよ……あれ、柚凪?」
 矢っ張りノックしたのはお父さんだった。お父さんが柚凪の方を向く。
 柚凪に、そんな一瞬で隠れる暇なんてなくて、柚凪は気まずそうに目を逸らした。
「柚凪、何で……病院じゃなかったのか?」
 お母さんから、柚凪が病院に搬送されたという事は聞いていたらしい。
「あ、えっと、ちょっとぼーっとしてて……」
 柚凪はこんな誤魔化し方で、騙せると思っている。
 矢っ張り柚凪は、腑抜けた馬鹿なのだとわかる。
 普通、ぼーっとしていて病室から抜け出してかなり遠い距離にあるような中学に来るなんて有り得ない。
「そうなのか……じゃあ帰り、病院に届けるな」
 つい、「えっ、信じるの⁉︎」とツッコみたくなってしまった。
 それが嘘だとわかれば怒られるのは柚凪だし、黙ってたけど。
「え、良いの⁉︎」
 柚凪は怒られると覚悟していたのか、びっくりして声を張り上げた。お父さんは「良いよ」と頷く。
 お父さんと柚凪は矢っ張り似ている。お父さんの抜けている部分は年をとって、老化が進んだという可能性もあるかも知れない。
 だけど、きっと柚凪の腑抜けた所はお父さんの遺伝だと思う。
 あれで誤魔化せると思った柚凪も、そんな嘘にあっさり騙されたお父さんも大分抜けている。
 第三者から見たら、本当にボケてるのかと思う。まるでコントだった。
 二人共、怪しい占い師か何かに『願いが叶う壺』みたいな名前の怪しいものを勧められても、素直に信じて買ってしまいそうなタイプだろう。二人の前途が案じられる。
 人を疑わない素直な性格なのは良いけど、少しは人を疑うことを知って欲しい。
 そう言えば、お母さんじゃなくてお父さんが迎えに来るだなんて珍しい。今まで迎えに来てくれた事なんて無いし、最近は仕事を優先していて、帰ってくるのは殆ど深夜。
 お母さんはお父さんよりも少し早いくらいの時間に帰ってくるからお父さんの方が仕事量が多いのかもしれない。
 なのに何で今日は迎えに来れたのか、全く見当がつかない。
 こういう時は少しだけ、嫌な予感がする。
 両親が早い時間に帰る事なんて幼い頃から殆ど無かった。
 そんな団欒が無かったうちは、両親が職業なのかも、好きな色も、趣味も何も知らない。
 柚凪だったら、わかるのにな。両親とうちの間には、もう大きな距離があいてしまっているんだ。
 柚凪とお父さんが話している。
 お父さんがうちの前でそんなに笑っているのは見たことない。
 お母さんだってそうだ。
 うちは、柚凪みたいには出来ない。のらりくらり、上手に嫌な事をかわしながらなんて器用にやっていけないんだと思う。
 頭がぼんやりしてきた。もう疲れ過ぎて、眠たくなってしまった。
 うとうとしていると、少し時間が経っていたようだった。
「ごめん、寝てたかも……」
「全然大丈夫だよ!」
 柚凪がしみじみと「大変だったしなぁ」と呟く。
「というか、奈音……何でそんなに怪我してるの?」
 あんまり記憶がしっかり残っていないけど、柚凪が助けてくれたのにお礼が言えなかったって事はハッキリ覚えていた。あとは、蘭菜と水雫がいた事と、ひたすら杉田さん達に罵られ、殴られ続けていた事くらい。
 そんな事を考えていたからか、偶然お父さんはその事について指摘してきた。
 気付かれる位怪我出来てたんだ。もう、子供の頃みたいに一日二日で完治する事は無くて、段々傷も治りづらくなってきたのに。困るなぁ。
「えっ、えっと……これは……」
 どうするのが最善策かわからない。誤魔化したほうが良いのか、それとも正直に言ったほうが良いのか。
 事の発端の記憶が曖昧だから、追及されても上手く説明できないような気がする。
 うちは、誤魔化す方を選んだ。
「あのね……」
「奈音はね、クラスの人に目をつけられちゃったんだよ」
 柚凪がうちの言葉を遮って口を開いた。 柚凪の話し方には少し棘があった。落ち着いているのに、でもまだ怒っているような。
 まぁ、でもうちだってまだ完全に許せるとは断言できない。
 あれだけの事をされて、全然大丈夫だよ、なんて言えない。どれだけ謝られてもまだ許せないと思う。
「え……?」
 お父さんは戸惑う。
 そんなお父さんに柚凪は微笑んだ。
「まぁ証拠は提出したから、先生達は然るべき処分を下すだろうね」
 柚凪は「休学?退学?生徒指導は絶対だよね〜」と口調はわくわくしていた。
 絶対、そんな笑顔で楽しそうに言うことじゃない。
 というか柚凪いつの間に証拠なんて……。
 証拠がどんなものかはわからないけど、きっと反省文だけでは済まされないだろう。
 仕事が早いのは良いけど、うちへ敵意向けてくる相手とか、危害加えてきた相手に容赦なさ過ぎて怖い。
「なんか……柚凪の行動は凄いけど怖いね。」
 全くもって同感だ。
 証拠獲得後から提出まで、仕事が早い。
 本当に柚凪は、絶対に敵に回したくない。
「あ、うち荷物教室に置いてきたかも」
「え、教室にあったの⁉︎」
「うん、だから先行ってて」
 うちはそう柚凪達に言って、保健室を出た。
 しんとした校舎と真っ暗な廊下は少し不気味さがあった。こんな遅くまで学校に残っているのは初めてだった。
 早く家に帰りたくて、走って教室まで向かう。
 教室の前まで来て初めて、鍵が閉まっているかもしれない事に気付く。
 鍵を取りに行くのも面倒だし、少しの空いているかもしれないという期待に賭ける事にしよう。
「えっ……」
 思わず声に出てしまった。
 まさか、本当に空いているとは思わなかった。
 でも、わざわざ鍵を取りに行く手間が省けた。
 うちは教室に入って、鞄を手にする。荷物をまとめて、駐車場に向かう。駐車場に入ると共にぶわっと風が強く吹いた。
 前髪が靡くのを抑えながら、お父さんの車を探す。
「奈音!」
「あ、柚凪。お待たせ!」
 柚凪が車から出てきてくれたお陰で直ぐに車に乗る事ができた。寒かった外から暖かい中に移動して、ほっと息をつく。
「それでさぁ──」
 柚凪が居ると話題がどんどん出てきて、かなりの盛り上がり様だった。
 物静かなお父さんでも、楽しそうに笑っている。
 でも、柚凪を病院まで送って行った後は車の中はしんと静まり返った。
 お父さんからも話を振らず、うちからも話を振らない。お互いに口下手なのだ。だから、柚凪のような人が居ないと、身内でも盛り上がる事なんて無い。話す事も無い。
 あ、でも。聞きたいことが一つだけあった。
「「あの……」」
「えっ、あ、ごめん」
「いや、先良いよ」
「あのさ──」
 特に重要な事でも、かなり気になる事でもなかったから、先にお父さんに話してもらうことにした。
 お父さんが言った事は、直ぐには信じ難いことだった。衝撃的過ぎて、一瞬目の前が真っ白になった。
 何度も、脳内でお父さんの声で繰り返される。
「奈音?着いたよ」
 うちは、もう家の前まで来ていた事に気付いていなかった。
「あっ、ありがとう!」
 慌ててお礼を言って、荷物を持って車を降りる。
「まだ仕事があるから、ごめんね」
 お父さんは窓越しに謝る。
 仕事場に行かないといけないから謝ったのか、家に一人でいさせる事に罪悪感があったのかは分からない。
 だけど、別にそんなに気にしないで良いのに。「気にしないで、頑張ってね」
 お父さんは、頷いて軽く微笑する。そしてそのまま車を前進させた。
 少しもうちの方を見ずに進んでいくお父さんに、遠のいていく車に、少し寂しさを感じてしまう。
 もう、うちの家族終わったな。さっきの『離婚しようと思ってるんだ』という言葉が耳から離れない。
 両親は離婚して、柚凪とうちが離れ離れになってしまう可能性だってある。
 お父さんもお母さんも、口には出さないと思うけど出来た娘の柚凪の方が好きなんだと思う。
 じゃあ、うちなんてもう要らないじゃん。
 こんな気持ちのままお母さんと顔を合わせられない。いや、きっとまだ帰ってこないとは思うけど。
 丁度良いタイミングで、スマホが震えた。
 暗闇でロックを解除して、通知を開く。お母さんからのメッセージだった。メッセージは、『ごめん、今日仕事長引いて帰れない……』というものだった。
 続けて、ゆるっとした猫のごめんねスタンプが送られてくる。
 うちは、『全然大丈夫!』と返した。
 帰るしかないから仕方なく家に入る。
 部屋に戻って、着替えを持って、お風呂へ行く。お風呂では、お湯が傷に染みて痛かった。
「早く治らないかなぁ」
 溜息が溢れてしまう。傷が増えると、柚凪と蘭菜達が心配するから。
 痛いのは嫌いだけど、うちは自身の身体に傷が増えることに対してはあまり抵抗がない。流石に、全く痛く無い事は無いけど。
 風呂上がり、何も考えずにソファーに転がる。ふかふかしていて、心地良くても家の匂いが染みついている事が今は苦しい。
 さっきまで空いていたお腹の空腹感は今はもう消えてしまった。今何か口に放り込んでしまえば、吐き出してしまいそうな程食欲が無い。
 ここまで、生まれ育った家が過ごしづらい環境になるなんて思わなかった。
 この空間に居たくなくて、うちは駆り出されるかのように夜の街に向かってしまっ