実際、彼女が採用を決めたBBCホームページのレシピは「5-6人分」と書かれていた。なのに、私たちはレシピの分量を半減しないで忠実に守ろうとしている。
 ケーキを始めこういうベーキングレシピは下手にいじると失敗するから、とケイティが言うのだけど、それよりも今は、全部食べられるのかどうかが心配だ。
 そのケイティがふと呟く。
「考えてみたら、家でベーキングなんて長いことしてなかったかも。誰かと一緒に、というのも」
 とりあえず、洗い物はこれで最後。私は生地を混ぜていたボウルを渡した。
「私は……ほぼ? 初めて、かもしれない」
「本当に?」
 受け取ったケイティはやっぱり驚いた顔だ。
「うん……。日本で住んでた部屋にはこういう本格的なオーブンがついてなかったし」
 留学前に引き払ってきた部屋の調理設備のうち、熱を発するのはコンロだけだった。電子レンジや炊飯器で作るお菓子のレシピというのも、そういう住宅が普通の日本だからこそ開発されたのかもしれない。
 生活も、仕事も、色んな「普通」が違う、日本や東京。一年近くこっちで過ごしておいて、今からそれに戻れるのか、不安になる。
「じゃあたとえば子供の頃に家で、とか?」
 ケイティはさらに尋ねる。
「母親が、あんまりそういうのに構う人じゃなかったから。まずは夫のことで、娘はそのあとって感じの優先順位と言うか」
「……ということは、ここに来たおかげで、初めてベーキングを楽しめたってことね?」
 そう返されて、私は不意を突かれた気がした。手が止まり、瞬きをする。
 ここ、という言い方がイギリスを指すのか、それともロンドンか、彼女と一緒に住むこのフラットを意味するのか、それは曖昧だ。
 でも、内容は間違いない。
「……確かに」
 それは認めるしかない。そして一度認めてみると、それはとても優しい事実のように思えた。
 そう思って、指摘仕返しをする。
「あなたも、でしょ。私がここに入居したから久しぶりに誰かと一緒のベーキングを楽しめたってこと」
 するとやっぱり、ケイティは薄緑の目を丸くした。
「言えてる。感謝いっぱいね」
「私も」
 そう言った直後、キッチンタイマーの音が鳴った。
 昼に近づいた台所には、焼き上がりそうなケーキの熱とともに、ありがとうの気持ちも充満していた気がした。