自分の耳を疑った。
 一瞬、太雅の言葉が理解できず、それはどういう意味合いでの好きなのかを考えた。
「言っとくけど、友達としての好きじゃないからな」
 太雅は混乱する幸生の心を察したように、そう言った。
「う、そ……」
「嘘じゃねえよ。だから、幸生が鉄郎をずっと好きだった事も知ってる」
 熱の籠った真っ直ぐな目が幸生に向けられている。
「半年前の新人戦の決勝で負けた時、おまえが、太雅が頑張ってるの知ってるから、これ以上、頑張れとは言えない、って言ったんだ。覚えてるか?」
 幸生は思い出してみようとしたが、幸生の記憶には残ってはいなかった。
「周りがさ、次は頑張れよとか、次は勝てるとか、心にもない事言ってるの分かった。俺は、部活以外にもスクール通って、それもない日はコート取って練習して、筋トレも欠かさずやってて、そんな事言われてこれ以上何を頑張るんだよ、って思った。けど、幸生がそう言ってくれて、自分を見てくれてる人がいるんだって思ったら、嬉しかった」
 そこまで話すと少し息を吐き、再び太雅は口を開いた。
「それから幸生を自然と目で追うようになってた。鉄郎の隣にいる幸生が凄く綺麗で、鉄郎に向けるおまえの顔を自分に向けさせたいって、思うようになってた」
 そんな事を言われた所で、どう答えればいいのか幸生には分からなかった。不思議と嫌悪感があるわけではなく、寧ろ嬉しいとも思う。だが、鉄郎の事を好きな自分に太雅の気持ちに応える事はできない。
「でも、俺……鉄郎が好きだし……」
「別にどうこうしたいわけじゃない。ただ、おまえを想っている奴もいるのを知って欲しかった」
 太雅は少し照れ臭そうに、視線を落とすと薄っすらと頬を染めているのが分かった。
「太雅……」
 自分は鉄郎への気持ちをひた隠してきた。気持ちを告げ、鉄郎が自分から離れる事にずっと怯えていた。だが太雅は、自分とは反対に臆する事なく真っ直ぐに自分に気持ちをぶつけてきた。
「おまえのそういうとこ羨ましいって思うし、太雅の……」
 無意識に幸生の口が動く。
「そういうとこ、かっこいいと思うよ」
 幸生は自分でも久しぶりに上手に笑えた気がした。太雅は今まで見た事もない真っ赤な顔をしている。
 次の瞬間、太雅に抱きしめられた。
「本音を言えば、おまえの隣にいさせて欲しい。鉄郎の代わりでもいいから、側にいたい」
 耳元でそう囁かられると、幸生の体がピクリと震えた。
「俺じゃ、ダメか?」
 正直、太雅の気持ちは嬉しいと思った。太雅を好きになれればどんなに幸せだろうと。
「ごめん、太雅……おまえの気持ちは嬉しいと思う。でも、やっぱり俺は……」
「言わなくていい!」
 そう言って荒っぽく体を突き放された。
「ごめん、太雅」

 五年間の鉄郎への想いはそう簡単に断ち切れるものではない。ましてや、太雅を鉄郎の代わりにするなど、自分にはできるはずもなかった。

「でも、ありがとう太雅……こんな俺を好きになってくれて……」
 その事が自分を穏やかにしてくれ、心が軽くなったように感じた。
 もう一度膝を抱え、顔を膝に埋めるとまた涙が溢れてきた。
「にゃん」
 トラ猫が慰めるように、幸生の足元にすり寄ってきた。手を伸ばしトラ猫の頭を撫でる。
「この子の名前当てようか?」
 顔だけ横に向けると幸生の言葉に太雅は片眉を上げた。
「トラオ」
「ぶーっ」
 子供のように太雅は口を尖らせ、不正解である事を告げられた。
「トラキチ」
「惜しい」
「トラオは親父の名前だ」
「ふふ……あはははっ」
 幸生は思わず声を出して笑った。
「幸生」
 太雅に呼ばれ目を向ける。
「おまえに好きになってもらおうとは思わない。けど、おまえを好きだと思う奴がいる事を、おまえの幸せを願っている奴がいる事、覚えておいてほしい」
 そう言って太雅の大きな掌が幸生の頭を撫でた。
「うん……」
 その手はとても温かく、幸生のささくれ立った心を癒やしてくれた。

 それ以降も太雅とは一緒に練習をしたり、時には太雅の家に行ってテニスの試合を見たりと、鉄郎がいなくなった隣には太雅がいてくれた。
 ふと、本当に太雅に気持ちを告げられた事を思い出すが、それは夢だったのではないかと思う程、太雅はあれ以来気持ちを言う事はなかった。
 太雅の存在が随分と鉄郎への想いを軽くしてくれている事は感じていた。
 だからと言って太雅を好きになる事も、鉄郎への気持ちを完全に断ち切る事は出来ないでいた。太雅の気持ちに応えられないのに、太雅の隣にいる事に気が引けたが、太雅がいてくれて良かったと今は思うのだ。

「今日は部活ない日だろ? 久し振りに一緒に帰らないか?」
 放課後、珍しく鉄郎に声をかけられた。
「あ、うん」
 無意識に太雅の席に目を向けると、太雅は表情を変える事なく、じっとこちらを見つめていた。
 教室を出ると鉄郎と並んで歩く。こうして鉄郎と肩を並べて歩くのはいつ振りだろうか。少し前までは当たり前の光景だったはずなのに、会話をする事すら緊張して上手く言葉が出ない。
 鉄郎はきっと、美羽との事を話したいのだというのは分かってはいた。できれば、美羽との話は聞きたくはない。今だけは美羽抜きで鉄郎といたい。
「昨日、美羽ちゃんとさー」
 やはりそれは叶わない様だ。鉄郎が何か話しているが、耳を塞ぎたい衝動にかられる。
「でさ、思ったんだよ。おまえといるのがどれだけ楽だったかってさ」
「え?」
「あー! おまえ聞いてなかったろ! 俺の話!」
「ご、ごめん……なんだっけ?」
「だから、昨日、美羽ちゃんと喧嘩しちゃったんだよ」
 その言葉に幸生は目を丸くした。
「美羽ちゃんが美味しいご飯の店があるって言うから行ったら、そこのお勧めがピザだったんだよ。俺、チーズ駄目じゃん? でも、せっかく美羽ちゃんが一生懸命探してくれたお店みたいだったから我慢してピザ食べたんだよ」
「鉄郎チーズ食べたの?」
 鉄郎は大のチーズ嫌いで、匂いを嗅いだだけでも顔色を悪くし、吐き気を催すのだ。
「食べたよ! そしたら、その直後吐いた。それがバレて問い詰められて、チーズがダメな事言ったら凄え怒っちゃってさ……」

 鉄郎の気持ちも美羽の気持ちもわかる気がした。美羽は鉄郎の為に店を探し、鉄郎が喜ぶ姿を見たかった。だが、そこには鉄郎の嫌いな食べ物。鉄郎は鉄郎なりに美羽が落胆する姿を見たくはないと思い、我慢してそれを食べた。美羽にしてみれば、それが却って傷付いたのだろう。

「ダメならダメで言って欲しかったって。でも、俺は美羽ちゃんをガッカリさせたくなくてさ……」
「うん、分かるよ。鉄郎の気持ちも彼女の気持ちも」
「最近、幸生といる時の事が浮かぶんだよ。幸生といた時は、こんな風に気を使う事もなくいれたのになって。時たま、幸生といた方が楽しかった、って思う時があるんだよな」
 鉄郎のその言葉に、幸生は一瞬胸が熱くなるのを感じた。だが次の瞬間には妙に冷静な自分がいた。
「そんなの当たり前だよ。好きな人に嫌われたくないから、気を使うし悩むんだよ」
 自分がそうだ。鉄郎に喜んでもらいたい、嫌われたくない一心で居心地の良い居場所を作っていたのだから。鉄郎も美羽もそれだけ互いに好きなのだろう。

「そっか……そうだよなー。少しでも好きになってもらおうと思うから、色々考えちゃうのか」
 幸生の胸が、ズキズキと鷲掴みをされたように痛み始めた。
「好きな人と付き合うって、そういう事なんじゃないのかな……」

「幸生となら何も考えずに一緒にいれるのにな。あーあ、おまえが女だったらなー。絶対幸生と付き合うのに」

 そう言って、鉄郎は屈託のない笑みを幸生に向けた。その言葉に、幸生の目の前が暗くなるのを感じた。
「俺が……女だったとしても、意外に付き合わないものだよ……」
 それが精一杯の言葉だった。
 鉄郎は悪気があって言った訳ではない。ましてや、幸生の気持ちを知る由もない鉄郎は、自分が言った言葉に、傷付いている幸生の気持ちなど、気付くわけもなかった。
 それから鉄郎は何か話しをしていたが、一切頭に入ってはこなかった。
 前の自分ならば、その言葉に喜んでいたかもしれない。美羽よりも自分の方が鉄郎を理解し、美羽よりも近い存在なのだと。
 だが、今は鉄郎への想いを断ち切ろうとしている中で、その言葉は今の自分にとって酷く残酷なものだった。

 鉄郎と別れ、自宅に着くまでの間に、自然と涙が溢れた。
 この涙の意味は何なのだろうか。悲しい涙というより、悔し涙の意味合いが強いような気がした。
 (鉄郎は俺の気持ち知らないんだから、責める事のはお門違いだ……)
分かってはいたが、今日ほど鉄郎の無神経さに腹が立った事はなかった。

その時、電話が鳴った。着信を見ると太雅だった。その名前を見た瞬間、モヤがかった気持ちが晴れていくように、心が落ち着き始めた。
 泣いている事を悟られないよう、ギリギリまで通話ボタンを押さないでいると、電話が切れてしまった。
 (太雅の声が聞きたい)
 不意にそんな事が過り、慌ててかけ直した。

『もしもし、今、大丈夫か?』
「うん……どうしたの?」
『……』
「太雅?」
『おまえ、泣いてんのか?』
 知らずに声が震えていたのかもしれない。
「泣いて……ないよ」
 そう言った瞬間、ポロポロと涙が溢れてきた。
『今、どこにいるんだ?』
「……もう、家に着くけど……」
『今から行く』
 その言葉と同時に電話が切れた。