「・・・・何だあれ、黒い雲がすさまじい速さでこっちに近づいてくるぞ!」
少し離れた舟の上から太市が指差す先には、どす黒く渦を巻いたような雲があった。雲の真下は大雨でもやがかかっており、雷は頻繁に落ちているように見てとれた。
生きた怪物のような雲はこちら側、いつの間にか離れてしまった歌織達の乗る舟の方向へ向かっている。
近づくにつれ追い風が強くなり、波もより大きく舟を押し出し、まるで雲に吸い込まれるような感覚に陥る。
「あのような雲は今まで見たことがないぞ、まるで祟りか、八百万の神々の仕業か!」
と都心牛利は恐れ慄き、天に向かって手をあわせる。
「海岸に沿って安全な場所を漕ぐつもりが、なぜ彼らの舟は沖に出てしまったんだ。あれでは悪天候に突っ込むようなものだ。このままだと我らも危ない。さあ、力一杯漕げ!雲に吸い込まれるぞ!」
と、都心牛利は侍従を奮い立たせ、舟を岸へ寄せるよう指示する。
「ちょっと待って!向こうの舟はどうするの?歌織や京平にも危険を伝えないと!」
「ゴリ、向こうの舟に近づけてくれ!早く!」
と伊代、太市が都心牛利に助けを求める。
しかし都心牛利は首を振るばかりで、しまいには自ら櫂を掴んで漕手を助け始めた。
綺那李は大きく手を振って名前を叫ぶが、向こうの舟には届いていないようで、何やら混乱していることしかわからない。
どんどんと離れてしまい、目視でも確認できないところまで遠ざかってしまった。
その混乱の舟の上では、またも怪奇的な現象が起こっていた。
迂回せず真っ直ぐに漕ぎ続けていた漕手達は、とうとう手に持っていた櫂を海へ放り投げてしまった。
舟の進路を変えることは、もう出来ない。
「おまえたち、何をしておる?!!正気か!」
侍従達の主である難斗米の怒号が飛ぶ。
しかし侍従達は怯むどころか、晴々とした表情で目と鼻の先にある黒い雲を拝み始める。
まるで加真次がやっている持衰の祈祷、そのものに見える祈り方だ。
その時、突風が吹き荒れ体を持っていかれたかと思ったら、波は大きく荒れだし、激しい雨風に晒された。
無論、屋根も櫂もない舟の上でどうすることも出来ず、六人の乗組員は必死に舟にしがみつくしかなかった。
潮がどっしりと体にのしかかり、舟の揺れは激しく、積んでいた荷物は次々と海面へ投げ出されていく。
歌織は波に体を持っていかれそうになり、舟の縁から手を離しかけると、京平は直前に気づき歌織の腕を強く掴む。力が強く跡が残りそうだったが、それでも舟の揺れより強固で信頼できた。
「持衰!おまえだけが頼りだ!!一人でも地上に戻れなければ命は無いものと思え!」
難斗米は舟の縁に結んだ紐にしがみつきながら、船首で今もなお祈り続ける加真次の背中に向かって叫んだ。
加真次の表情はまったくわからなかった。それどころではない。波に振り落とされないよう、皆が必死である。
歌織はこの混乱の中、今にも意識が飛びそうなほどに酷い耳鳴りにも襲われている。
しかし歌織には確認したいことがあった。
処刑騒動の時も同じく、耳鳴りが酷くなればなるほど、その直後に突然脳内が晴れ渡り困難を切り拓く何かが明らかになる。
解明の一歩手前まで来ていると思うと同時に、根拠のないとある確信が浮かび上がった。
———— 加真次から目を離すな。
その確信がなぜか頭から消えず、揺れや次々に襲い来る波に耐えながらも、ずっと加真次の姿から目を逸らさずにいた。
次の瞬間、加真次と侍従二人は舟から手を離し、危険にも立ち上がって天へ手を合わせた。そして聞き慣れない言葉を唱えた。
「「建速須佐之男命よ!永遠に幸あれ!!永遠に我らを導き給え!!!」」
それはまるで死に際の祈りの言葉のように、加真次と侍従達は声を揃えて叫んだ。
そして向かってきた大きな波に呑まれて舟は転覆し、乗船していた全員が海へ投げ出された———— 一部の人間は、自ら海に飛び込んだように歌織には見えた。

