「お前、大丈夫かよ?」

 蹲った僕の肩に手が触れる。駅構内の薄汚れた地面から視線を外し、顔を上げた。そこには金髪に近い、色の抜けた髪色をした男子高校生が立っていた。着崩した制服と中身が入っていないであろうスクールバッグを持った彼は、片眉をあげて心配そうに僕を見下ろしていた。
 「すみません、ごめんなさい」。僕は咄嗟に立ち上がり、抱きしめていたスクールバッグを持ち直した。「駅でしゃがみ込んで、すみません。邪魔でしたよね」。回らない舌を必死に動かし、何度も頭を下げる。

「いや、別に邪魔じゃねぇけど。お前さ、ずっと車内でも気分悪そうにしてたろ? だから、大丈夫なのかなって」

 どうやら同じ車両にいた人物らしい。僕は恥ずかしさを覚えた。後頭部を掻きながら心配げな表情を浮かべる彼に「平気です」と言い、その場から少し離れた位置の壁に寄りかかる。まだぐわんと揺れる脳を休ませるため、深呼吸をして目を瞑った。
 ────あぁ、もう本当に、僕ってやつは……。
 自分を卑下しつつ、通り過ぎていく人の群れを感じる。朝の忙しい時間、混む駅内では人の音が塊になって、轟き、蠢く。カツカツ、ザリザリ、ザワザワ。

「おい」

 ピタリと頬に何かが当たった。「ぎゃ」と鋭い悲鳴をあげ、飛び上がった僕を見て、何処かから笑い声が聞こえる。振り返ると先ほどの高校生が立っていた。片手には新品のミネラルウォーターがある。それを「ほい」と渡され、おずおずと受け取った。

「これ飲んだら、ちょっとは良くなるっしょ」

 軽い口調(悪い意味ではない。むしろ今の僕にはすごく心地よい口調だ)で、そう言われ、頷いた。
 「あ、ちょ、待ち」と言われ、僕は固まる。彼は手を出し、くいくいと動かした。
 あぁ、お金か。そう思い、ポケットを弄る。

「何やってんの? ペットボトル、貸して」

 ぐいとペットボトルを掻っ攫われた。水滴がついたそれを持ち、蓋を開ける。そのまま、再び僕へ渡した。わざわざ開けてくれたことに驚いていると、彼が肩を竦める。

「フラフラだと、力が入らないだろ?」

 そう言いながら僕の隣に移動し、壁に寄りかかる。チラリと目を遣ると、耳にピアスが二個ついていた。ボコボコとした耳たぶを見て、ビクッと体を揺らす。
 ────こ、怖い……。

「お前、その制服……常夜義塾高校の生徒?」

 「え?」と素っ頓狂な声を漏らす。彼は僕の制服を見て「だろ?」と首を傾げた。

「頭、いいところだよな? すげー」
「ま、まぐれで入れただけだよ……」

 僕の通う高校はこの地域で一、二位を争うほど入るのが難しい高校だ。周りの生徒はみんな真面目な子が多く、学校の雰囲気も厳格である。故に、彼のような生徒を見ると、身が強張ってしまう。
 チラリと彼の制服を見た。きっと北米原高校のものである。北米原高校は、地元でも有名な高校だ────悪い意味で。
 僕は手に持ったペットボトルを傾け、冷たい水を飲む。乾いた喉を潤すその水が、徐々に僕のぼんやりとした頭を冴えさせた。

「なんでこんなところで蹲ってたんだよ? 気分悪いなら、学校休んだらどうだ?」

 その言葉に首を振る。

「大丈夫です。僕……その、乗り物酔いがひどくて。いつもは酔い止めを飲んで電車に乗るんですけど、今日は忘れて……」
「へぇ、三半規管が弱いやつって電車でも酔うんだな」

 ガハハと笑う彼に合わせて、笑みを作る。誰とでも打ち解けることができる彼を見て、気分が少しだけ良くなった。

「や、優しくしてくださってありがとうございます。あの、お金……」
「いいって。水の代金ぐらい。じゃ、あとは大丈夫か?」

 寄りかかっていた壁から起き上がり、彼が僕の前に立つ。ニコッと笑った彼の唇が綺麗に弧を描く。隙間から見えた白い歯が、健康的な肌と映えて美しかった。

「お前、名前なに?」
「石伊、コウ……」
「コウ、な。俺は知田ヒカル。よろしくな」

 ヒカル。彼にぴったりの名前だなと頭の片隅でぼんやりと思う。僕も彼に合わせて「よろしくね」と呟いた。

「名前の漢字は?」
「僕は、カタカナでコウって書きます」
「あ、俺も一緒。カタカナで、ヒカル」

 「偶然じゃん」と彼が笑う。確かに偶然だ。この世にカタカナ名は居ないとは言わないが、少ない方である。こんな場所で遭遇するのは、すごい確率だ。
 小学生の頃、両親に名前の由来を聞いたことがある。何故カタカナで名をつけたのか問うと「コウ」にはいろんな意味が含まれているから漢字で縛りたくなかったとの事だ。
 「そういえばさぁ」という間延びした声をヒカルが漏らした。

「コウとヒカル、漢字で書いたら一緒じゃね? 光って」
「あ……本当だ」

 漢字で書いて、光。先ほども思った通り、彼にはやはりピッタリである。しかし、自分も同じだと思うと、少し気が引けた。
 目の前で「こんなことあんのな」と笑うヒカルは、そのまま手を振り立ち去った。

「じゃ、コウ。またな」

 「またな」。その言葉が脳内でリフレインする。彼に答えるように、僕も手を振った。遠ざかる背中を眺め、手に持ったペットボトルを握りしめる。
 ────いい人、だったなぁ。
 壁に寄りかかり、目の前を通り過ぎていく人たちを眺める。
 ヒカルの笑みが忘れられないまま、僕は数分その場に立ち尽くした。



「え、北米原高校の生徒に絡まれた?」
「違う、絡まれてないよ、介抱してもらったんだ」

 昼休み。ざわつく教室内で、友人である関口が目をまん丸とさせた。僕は慌てて訂正する。しかし、関口の顔は変わらなかった。唇を曲げ、眉を顰める。

「あそこの生徒、ガラ悪いし、いい噂聞かないし……石伊、なんかそれ異物とか入ってんじゃね?」

 机の上に置かれた弁当箱の隣。添えられるように存在するミネラルウォーターのペットボトルを見た関口に、僕は身を強張らせた。

「ち……知田くんはそんなこと、しないよ」
「どうかなぁ。わざわざ水の差し入れするなんて、裏がありそうだ。明日、会ったら倍以上の金を請求されるかもしれん」

 プラスチックの箸をカチカチと鳴らしながら頬杖をつく彼に「被害妄想が凄すぎるよ」とため息を漏らす。けれど、関口の言葉もあながち間違いではないかもしれない。それほど北米原高校は評判が悪い。あの高校の生徒を見かけたら近寄るな、と言うのが他校に通う生徒たちの暗黙のルールである。暴行やカツアゲに巻き込まれた生徒も、数えきれないほどだ。
 故に、北米原高校の生徒は毛嫌いされている。

「……知田くんは、すごくいい人だったんだ」
「そうやって、騙す手法かもしれないぞ。油断したら、なにをされるか分からん」

 弁当箱に入っていた唐揚げを咀嚼する関口の言葉を受け、肩を落とす。そんな人に見えなかったけどなぁと、ヒカルの笑みを思い浮かべる。
 同時に、駅などで見かける北米原高校の生徒たちの素行の悪さを思い出す。派手な見た目と着崩した制服、騒いで周りに迷惑をかける彼らが脳裏に浮かぶ。

「ていうか、いつまでそのペットボトルを持ってるわけ? 朝からずっと机の上に置いてるけど……」

 ヒカルに貰ったペットボトルを指差し、関口が呆れたように呟く。すでに常温に戻った、半分以上が残っているミネラルウォーターを見つめる。このペットボトルを破棄することはヒカルからの好意を破棄するかのように思えてしまったのだ。
 僕は厚焼き卵を口に運び「捨てられないんだよ」とひとりごちた。



 翌日、僕は酔い止めを忘れずに飲み、電車に乗る。いつも通りの光景へ視線を投げ、息を吐き出す。同じ時間に通勤、通学する人々は見慣れた人もいれば、初めて見る人もいる。僕はある人物を探しながら視線を彷徨わせた。けれど、ヒカルはどこにもいなかった。色の抜けた髪と着崩した制服の彼は別の車両に乗っているのかもしれないなと思い、背もたれに深々と座った。
 目まぐるしく変化する景色を眺めていると、電車は目的の駅へ到着した。波に呑まれるように人に揉まれ、僕はようやく外へ出ることができた。新鮮な空気を吸い、吐き出す。
 やはり見渡してみても、ヒカルの姿はなかった。もう会えないのかなと肩を落とし、学校へ向かうため歩みを進める。

「コウ!」

 誰かに名前を呼ばれ、パッと顔を後ろへ向けた。そこには、ヒカルの姿があった。今日も中身が入っていないであろうスクールバッグを適当に肩にぶら下げ、手を振っている。にこやかな笑顔に一気に気分が浮つくが、しかし、彼の周りにいるガラの悪い生徒を見て、血の気が引く。

「今日は顔色いいなぁ、お前!」

 パタパタと靴を鳴らしながら近づいてきたヒカルに身を強張らせる。怖がっている僕に気がついていないのか、彼は肩を組んだ。
 身につけているであろう柑橘の香水が鼻腔を刺激する。

「おはよう、知田くん……」
「おはよ、昨日は大丈夫だったか?」
「うん、ありがとう」

 「そっか」と歯を見せる彼に、頬が緩む。照れ臭くなり、肩を竦めた。

「今日は酔い止めちゃんと飲んだんだな」
「うん、昨日はお世話になりました」
「いいってことよ。じゃあな、コウ」

 ひらりと手を振るヒカルは友人たちに合流し、去っていく。「あれ、誰?」「常夜義塾高校の制服じゃん」とチラチラとこちらを見る友人たちに冷や汗が滲んだ。自分の周りにはいないタイプの男子高校生に見られ、喉の奥が狭まった。

「俺の友達」

 そう返したヒカルがもう一度振り返り「勉強頑張れよ」と間の伸びた声をあげ、去っていく。
 僕は彼らの後ろ姿を眺め言葉を頭の中で繰り返す。俺の友達、俺の友達、俺の友達────。僕はどうやら彼の友達になれたようだ。胸の辺りがぎゅうと締め付けられる。知らない疼きに襲われ、瞬きを繰り返した。



 通学前、僕は必ず酔い止めを飲む。箱から取り出し、残り四錠だけが残ったシートを眺める。未だに慣れない電車の揺れから僕を守る救世主を手のひらに出し、水で飲み下す。ふぅと息を吐き出し、スクールバッグを肩にかけた。「行ってきます」とキッチンにいる母へ声をかけ、靴を履き、外へ出た。朝日が目を焼いて、思わず顔を伏せる。
 ────今日も、彼に会えるだろうか。
 ヒカルの顔を思い浮かべ、頬が熱くなる。体が熱り、汗が滲んだ。
 そこでハッと我に返り、首を横に振る。
 ────僕、馬鹿みたい。
 ヒカルのような明るい人間に声をかけられ、友達だと言われ、勝手に舞い上がってしまったことに気色悪さを感じた。
 彼はきっと根っから優しい人間なのだ。故に、たまたま僕に声をかけてくれただけだ。
 道に転がる石ころに視線を投げる。ヒカルにとって、この石ころと僕は同等だろう。

「はぁ……」

 静かな住宅街を抜け、駅へ向かう。徐々に人が増えてきた光景がいつも通りで、何故か胸を撫で下ろす。駅構内へ向かい、ホームへ流れ込んできた電車に乗り込み、座席へ腰を下ろした。まだ空いている車内をぼんやりと眺める。
 ────会えるといいなぁ。
 どうも僕は、彼の残像を打ち消すのが下手くそらしい。気分を変える為、窓の外へ視線を投げる。微かに映る自分の顔と睨めっこしながら、変わりゆく景色を見つめた。

「コウ、ここ座っていい?」

 突然、名前を呼ばれ、僕は跳ね上がるほど体をビクつかせた。声をした方へ顔を向けると、そこにはヒカルが立っていた。吊り革に手を下げ、微笑む彼に唖然とする。どうやら僕が意識を手放していたうちに、電車は各駅に止まっていたらしい。
 口をパクパクとさせていた僕は、何度も首を縦に振った。「サンキュー」と言いながら腰を下ろしたヒカルが、白い歯をみせる。

「また会ったな」

 屈託のない笑みを浮かべた彼に魂を抜かれたかのように、僕は無言で頷いた。ふと、電車内を見てみる。他にも座れる箇所があるにも関わらず、ヒカルは僕を見つけ、隣に座ってくれた。
 ────嬉しい。
 素直にそう思った。彼が僕を見つけ、声をかけてくれたことに胸がドキドキと高鳴る。

「今日もちゃんと飲んだんだな」

 僕の顔色を見て、彼がそう言った。「忘れずに飲んだよ」と返すと、ヒカルは残念そうに背もたれに体を預けた。

「そっか、飲み忘れてたら俺がしっかり介抱してやろうと思ったのに」

 「え?」と声を漏らし彼へ視線を投げる。唇をわざとらしく尖らせた彼がそうひとりごち、やがていつもの表情に戻り口角を緩めた。

「なんてな」

 僕はなんと返して良いか分からず、固まってしまった。そんな僕を見て、ヒカルが慌てたように声を上げる。

「ごめん、ごめん。変なこと言ったよな」

 頭部を掻きながらおどけて笑う彼に首を横に振る。

「もし、また気分が悪そうにしていたら声をかけてね」

 その言葉に、ヒカルが頷く。「任せとけよ。俺、お節介焼きだからさ」と肩を叩かれた。彼の触れた部分がじわりと熱を帯びる。優しい彼の気遣いに、目眩さえ覚えた。



 好きなのかもしれない。僕は彼に芽生え始めてきた感情を、自覚し始めていた。胸の奥をじわじわと浸食するその暖かさを帯びた疼きが、日に日に抑えきれなくなっていることが恐ろしくもあり、嬉しくもあった。
 ────でも、知田くんに気づかれたくないな。
 彼に嫌われて、拒絶されるのは怖かった。彼はたまたま僕に親切にしてくれただけの、優しい人だ。だから、変に好意を寄せて不審に思われたくない。
 ────この気持ちは僕の中で抑えておかなきゃ。
 あの日以降、ヒカルは電車内や駅構内で僕を見かけては声をかけ、手を振る。綺麗な笑みで僕の名前を呼ぶ彼を見るたびに、心に潜む醜い感情の影が濃くなる。
 彼にもっと近づきたいと願ってしまうのだ。

 その日も僕は視線で彼を追っていた。ヒカルが乗ってくる駅は、僕がいつも利用している駅から二駅離れた場所である。いつも通り席に座ったまま、まだ空いている電車内を眺め、息を漏らす。
 ────なんか、気持ち悪いな。
 気分が、ではない。自分自身が、である。助けてくれた彼に勝手に好意を寄せて、逐一その姿を探すだなんて。
 悶々としていると、ヒカルが乗ってくる駅に止まった。自然と背筋が張る。何も気にしていませんよ、と言いたげな涼しい顔をしつつ、手のひらに滲んだ汗をスラックスで拭った。
 緩やかに止まった電車のドアが開き、人々が乗ってくる。目で彼を探し、いないことに気がついた。息を漏らし、体の緊張を解く。
 ふと、隣の車両へ目が釘付けになった。僕の位置から、隣の車両の席が見える。そこに、見慣れた少年と────見慣れぬ少女がいた。
 僕は一瞬、固まってしまった。見慣れた少年は、ヒカルだ。隣に座った少女に乱れた制服のボタンを留められながら、何かを言われている。
 常に笑顔のヒカルしか見てこなかった僕は、彼の怪訝そうな表情を初めて見て、心の中で何かが疼くのを感じた。
 少女はピシッとした女性だった。ヒカルとは真逆で、きちんと制服を着こなしている。髪の毛も艶やかな黒髪で、枝毛さえ感じられない。

「────」
「────」

 位置が離れているため、彼らの会話は聞き取れない。しかし、少女はヒカルの身だしなみに対して、怒っているようだった。
 だが、雰囲気が悪いというわけではなく、むしろその関係性を浮き彫りにしている。
 ────あんな顔、するんだ。
 横目でヒカルを見つめながら、どこか心にぽっかりと穴が空いたような感覚に陥った。
 ヒカルはこちらに気がつくことなく、ワックスで整えた髪を丁寧に校則通りの髪型に戻す少女の手に従っている。
 ふと、少女の制服を凝視した。彼女の身に纏っている制服は北米原高校のものではない。藍華女子高校のものである。胸元にある青色のリボンは女性的で、とても愛らしく見えた。
 ────お似合いだな。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。きっと恋人同士なのだろうなと感取し、肩を落とした。
 ここ数日浮ついていた気分が一気に散り、夢から醒めたかのような感覚に陥る。
 急に現実へ引きずり戻された僕は、ただぼんやりと二人を眺めることしかできなかった。
 結局、目的の駅に着くまで、ヒカルがこちらに気がつくことはなかった。



 錠剤が入っているシートを見つめ、ため息を漏らす。脳裏に浮かぶのは電車内で見つけたあの二人のことばかりだ。
 最初から蚊帳の外だった僕が、自分の状況を知ることができたのだ。このままヒカルの優しさに浸り、勘違いしたまま彼に迷惑をかける羽目にならなくてよかったではないかと言い聞かせた。
 ベッドの上でゴロンと寝返りを打ち、息を吐き出す。
 ────今後、彼とはなるべく関わらないようにしよう。
 心の中に根付きつつある黒い感情を育ててはいけない。艶やかな黒髪の少女を思い出し、嫉妬するなんて惨めで仕方がないなと改めて実感した。
 目を瞑ってみる。瞼の裏で散る星々を感じながら、目尻から溢れる涙を拭った。

「……バカみたいだ、僕」

 ひとりごち、腕で目元を覆う。空回りしている自分を俯瞰してしまい、もう一度ため息を漏らした。
 ふと、先ほどまで見ていたシートが視界に入る。
 ────体調を悪そうにしていたら、また声をかけてくれないかな。
 僕はそんなことを考え、唇を舐める。すごく周りくどいことを考えている自分がいて、嫌気が差す。
 ────でも、彼なら……。
 ぐるぐると頭の中を駆け巡る。枕に顔を埋め、足をバタバタと蠢かせた。



 電車から降りる頃には、僕はフラフラだった。グッと吐きそうになるのを耐え、外へ出る。駅構内は人が多く、ぶつかりそうになるのをなんとか避け、壁に寄りかかった。
 ────やっぱり、浅はかだ。
 彼に心配して欲しくて薬を飲まずに来たことを、僕は今さら後悔していた。
 こんなことをしてヒカルに構ってほしいだなんて、本当にどうかしている。
 僕は泣きそうになるのを押さえ、目を瞑った。じわじわと腹の奥から不快感が込み上げてくる。今にも吐きそうになり、トイレへ向かおうかと壁から離れようとした。しかし、体が動かない。

「……コウ?」

 声をかけられた。僕はその声の主が誰か、知っていた。けれど、振り向けなかった。喉元まで何かが到達し、吐き出しそうだったからだ。
「おい、顔色悪くないか?」

 覗き込むように体を傾けた────ヒカルが僕の頬へ手を伸ばす。ヒヤリとした皮膚が触れ、何故かホッとした。「大丈夫か?」と焦った声をあげ、肩を掴む。

「コウ? どうした? 酔ったのか?」

 背中を撫でられ、ぎゅうと胸が締め付けられる。必死に僕を心配してくれている彼に対して、わざとこんなことをして、気を引こうとしている。善意を踏み躙って、ヒカルを裏切っている。そう考えると、どんどん後悔が押し寄せてきた。
 彼に声をかけてもらえたという嬉しさが、徐々に死んでいく。罪の意識が侵食し、上書きされて、どす黒く変色した。

「コウ、水を買ってくるからここで待ってろよ」
「ご、ごめ、ごめん、知田くん」

 涙がボロボロと溢れた。体の不調と相まって、止まらなくなる。嗚咽しながら肩を振るわせた。それを見て、ヒカルがギョッと目を開く。まん丸な瞳が、今にも落ちてきそうだなとぼんやり思った。

「泣くほど体調悪いのか、お前」

 オロオロとしたヒカルに申し訳なさを感じるが、涙と共に吐き気も押し寄せ、僕はどうしようもない感覚に襲われた。
 不意にヒカルが「あ!」と声を漏らす。誰かを発見したようだった。

「アサヒ! ちょっと水買ってきてくんない?」
「は? なんで」
「友達が気分悪そうで」

 アサヒとは誰だろう。僕は潤んだ瞳を動かし、名を呼ばれた人物へ向ける。そこにはいつか見た、藍華女子高校の制服を身に纏った少女が立っていた。彼女は僕の姿を見るなり、ヒカルと同じように目をまん丸とさせている。その仕草がどこかヒカルと似ていた。
 「分かった、ちょっと待ってて」と言い残し去る彼女に、申し訳なくなる。自分の情けなさに悲しくなった。

「ごめ、ごめんね」
「大丈夫だって、気にすんなよ」

 何度も背中を撫でてくれるヒカルに謝罪する。しかし、彼はその謝罪の本意を汲み取っていなかった。
 声を震わせ、言葉を続ける。

「違う、僕、わざと、なんだ」
「何が?」
「き、君に、心配して欲しくて、わざと……」

 何度も唾液を嚥下する。涙と鼻水を拭い、声を絞り出す。

「わざと、薬を飲んで、こなかったんだ」

 僕はヒカルの方を見ることができなかった。顔を俯かせ、ぐずぐずと泣く。

「き、君に、構って欲しくて、こんな、ことをしちゃって。気分、悪そうにしてたら、君がもう一度、僕に声をかけてくれるんじゃないかって……」

 恥ずかしさで吹き出したものなのか、はたまた、不調で吹き出しているものなのか定かではないが、僕は異常なまでに汗をかいていた。脳が正常な判断を鈍らせているのか、言わなくていいことまで言ってしまう。

「君と、彼女を見て、しっと、をして、ば、バカみたいでしょう」
「彼女?」
「さ、さっきの、子」

 吃った僕の声に「へっ」と息が抜けるような音が聞こえた。その音の主はヒカルだった。おずおずと視線を彼へ向けた。驚いているのか、口を半開きにしている。

「彼女? もしかして、アサヒのこと?」

 彼の拍子抜けした声に頷く。同時に、滲んでいた汗がじわりと頬へ流れ落ちた。

「電車、内で、仲良くしてたのを、盗み見、して、それで……」
「見られてたのかよ、はずっ」

 ヒカルは頬を染め肩を竦めている。

「あれは俺の姉ちゃんだよ!」
「えっ」
「姉ちゃんに嫉妬したのかよ、コウ」

 ヒカルは気持ち悪がるどころか、愉快げに笑っている。確かにアサヒと呼ばれた少女とヒカルは、何処となく似ていた。
 自分の間抜けさに、眩暈を覚える。後ろに倒れそうになるのを堪えた。

「構って欲しくて、こんなことしたのかよ」

 「変なやつだなぁ、お前」と労るように肩を撫でたヒカルが穏やかに微笑んだ。

「でも、良かった。お前がこんなことまでして、俺に構ってほしいと思ってくれて」

 ヒカルの言葉に、ドキリと胸を鳴らせる。

「実はさ……俺も、もっと話したいって思ってたんだ。でも、お前っていいとこの生徒じゃん? だから、俺みたいなの毛嫌いしてるかなって思って、なかなか声をかけられなかったんだ」

 彼の笑みに、一気に不調が溶けていく。ドロドロと体内から排出され、綺麗さっぱり何処かへ消えていくようだった。
 乾きつつある涙の跡を親指で拭われ、びくりと体が跳ねた。

「……ち、だくん……」
「ヒカルって呼べよ」
「……ヒカルくん」

 「おう」と彼が応答した。

「迷惑かけて、ごめんなさい」
「いいって」

 「コウ。これから、よろしくな」と肩を叩かれ、頷く。

「……これって、両思いってやつだよな」

 ガハハと豪快に笑う彼に、僕は驚いてしまった。両思いだなんて、そんな。僕は目を伏せ、顔を俯かせた。その表情に何かを察したのか、ヒカルは急に唇を窄め、眉を顰めた。

「な、なんだよ、俺、変なこと言ったかよ?」

 頬を染めたヒカルがムッとした声を出す。「そんなこと、ないよ」と焦ったように首を横に振る。

「うん、両思い。間違いないよ」

 ヘラっと笑うと、ヒカルは満足したように微笑んだ。
 同時に遠くから声がした。「おおい、大丈夫?」と駆けつける少女────アサヒが声を荒げている。「おせぇよ、アサヒ」と怒鳴るヒカルに対し「うるさい、朝のコンビニは並ぶんだから仕方がないでしょ」と言い返している。
 僕のせいで口論しないで欲しいなと思いつつ、二人の言い合いを見ながら微笑んだ。