しかし、隙を見せるとさらにつけ込まれると思い、果敢に震えながらもブランシュは反撃にでる。もう、先ほどの手は使えないだろう、そう考え、胸を張る。

「か、借りてませんし、あなたが勝手に叫んだだけです。警察が来ても無実で放免されます。問題ありません。失礼します」

 ヴァイオリンケースを背負い、早口で、早足で女性の横をすり抜けて行く。もう関わらないようにしよう。しばらくは橋以外で弾こう。今日ことは忘れて、サングラスをかけた人間が近づいてきたら、走って逃げよう。

「でも、学校には連絡がいくだろうね。私は頑なに、強奪されたと言い張る。なんやかんやで親御さんにも連絡がいく。家族会議だ」

 去り際に女性が不敵な笑みを崩さず、まるでこの先のことがわかっているかのように予言した。

 一瞬立ち止まったが、ひとつ息を吐き、ブランシュは意を決して振り返らず払いのける。

「絶対にそうなりませんけど、そうなったらなったでいいです。もうパリでやることもありませんし」

 そう告げ、一歩踏み出そうとしたところ、

「ギャスパー・タルマ」

「!」

 名前を呼ばれた。憧れの人の名を。どこから察した? なにか口を滑らせた? 呼吸を忘れたブランシュは、踏み出そうとした足を下ろし、元の位置に戻す。

「会いたくない?」

「……なにがですか……?」

 女性の甘い誘惑にまだ、ブランシュは振り返らない。会えるなら当然会いたいが、この人にそんな力が? いや、そもそもなんでこんな話に? 混乱する頭の中で何度も反芻するが、答えは出ない。

 時間にして数秒。自転車に乗ったライダーが横を通り過ぎ、ランナーが走り去り、遠くでは子供の声がする。

「見てたけど、あなたの使ってるアトマイザー、ギャスパー・タルマの使ってるのと同じだよね? そんで、花と柑橘系の香りの奥に『光』、ファンなの? 調香師になりにパリに来た? シャトーにはもういないよね?」

 全て当たっていた。アトマイザーの種類、使った香水、ここに来た理由、そして憧れの現在地。

 なぜこんなことになっているのか。俯きながら目を瞑り、爪が食い込むほどに両の掌を握る。三回、深呼吸をしよう。そして、全てをもう一度忘れる。

「……もういいんです、なにか違うことをやりなさいっていう、神様からのお告げなんです。田舎に帰ってひっそりと暮らしながら、パンやジャムを自家製で作ります……」

 香水もヴァイオリンも趣味だが、パンやお菓子作りだって趣味である。きっとこれは調香師にならなかった世界線で、それでも幸せに慎ましく暮らせるはずだ。

「だから会わせてあげるって」

「どうやってですか!」

 自分でも出したことないくらいの大声で、ブランシュは根拠のない誘惑を断ち切る。周りの人達も驚いている。

 「ふぅ」とひとつ女性は息を吐いた。そして、

「おじいちゃん」

「……え?」

 二秒ほどフリーズしたあと、ブランシュは女性を勢いよく振り返った。

 女性は真っ直ぐ見返してくる。

「私のおじいちゃんなのよ、マジで」

「え」

「マジ」

「えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」

 またもや周囲が驚くほどの、人生二度目の大声をブランシュはあげた。

「会わせてあげるから、貸し、返してよ」