「どきどきはする……かな、たしかに……」



 翌日の放課後、原田に連れて行かれたのは川の上流で水がたまり、深い淵になっているところだった。



「夏はここで遊ぶのが一番だ」

 そうなるだろうなとは思っていたけど、水辺にせり出した岩の上でおもむろにボクサーパンツ一丁になった原田は、準備運動もなしにざばんと水に飛び込んでいった。

 大きな体を受け容れた水面は派手に水しぶきをあげる。水晶みたいな透明な水の粒が夏の日差しを受けて、きらきらプリズムを描く。

 ふつふつ小さな泡を体にまとわりつかせながら浮かび上がった原田は、ぶるぶるっと乱暴に頭を振った。長めの前髪をかき上げると、精悍な顔立ちがあらわになる。

 ほんとこいつ、造作だけなら田舎には珍しいいい男だ。それだけは公正に見て認めざるを得ない。

 なんだか事情があって天性喪失を急いでるみたいだけど、今まで普通にしてて彼女が出来たことはなかったんだろうか。なにしろ競合相手の絶対数そのものが少ないんだから、不自由はしなさそうなのに。

 原田が少し泳いで水から上がって来る。河原のごろごろした石を大股で乗り越える度、筋肉のついたいい体が主張してくるようだった。

「なんかスポーツしてるのか?」

「ん? いや、部活は金がかかるからなあ……子供の頃からここで泳いだり、畑手伝ったり、あとは大五郎のボトルに水入れて筋トレ?」

 なるほど大五郎。ばあちゃんちにはなかったけれど、スポドリのペットボトルでも代用可能だろうか。

 スマホにメモしていると(ちなみに電波は死んでいる)、原田が持参したタオルを頭に乗せながら言う。

「天ヶ瀬はさ」

「あ?」

「なんだかんだ言いつつ、ひとの話ちゃんと聞くよな。天性だって、隠す奴もいるのにちゃんと答えてやってたし」

 たしかに、微妙な能力の奴もいるし、家の方針によっては検査を受けないこともある。いじめに発展することもあるから、不躾には触れない、が最近の世の中の流れではある。

「……面と向かって訊かれてるのに、無視するってわけにはいかないだろ」

 目の前で話してるのに聞いてもらえないというつらさが、俺にはわかるから。

 原田はあぐらをかいてわしゃわしゃと頭を拭った。

「おまえ、もしやいい奴? なんでそんな頭にしてんの」

「いい奴は頭金色にしちゃ悪いってのか」

「いや。似合ってるしいんじゃね」

 ついさっき「そんな」って言ったくせに。ほんとに思いつくまま、良く考えもせずに口を開いているんだろう。のびのび育ちやがって。

 こっちはいらだってるっていうのに、原田は不意に髪を拭う手を止めて、目を細めた。

「こっちから見ると日の光が透けて、天使みたいだ」

 ……ばあちゃんだってとうもろこしのひげだったのに、こんな男の口から「天使」なんて言葉が突然出るなんて。

 原田はいつもまっすぐ人を見て話す。セックスしてくれ! ととんでもないことを人に頼むときすら。

 だから、こいつが言うとお世辞じゃないっぽく聞こえるんだよな。

 うっかりほだされそうになって困る。俺は川を覗き込むふりで顔を背けた。

「あれ?」

 今度はなんだ。

「血出てるぞ、天ヶ瀬」

 言うや否や、なんの遠慮もなしに伸びてきた腕が耳たぶをつついた。

「――っ、」

「悪ィ、」

 俺の肩がびくりと反応するのを見て、原田はそれが痛みからだと思ったようだった。

「ピアスの穴から血が出てて……痛いのか? 大丈夫か?」

「ああ。まだ固まってないだけだから」

「? 最近開けたばっかなのか。そういやばあちゃんも驚いたって言ってたな。前はそんな頭じゃなかったのか?」

「――俺もちょっとだけ川に降りようかな」

 これ以上いろいろ突っ込まれるのが面倒で、俺は話の流れをぶった切るように立ち上がる。河原に降りるルートを考えていると、原田が不満げな顔をした。

「飛び込めよ。気持ちいいぞ」

「出来ないことは出来ないって言っていいんだろ」

「なんだ? それ」

「おまえが昨日言ったんだよ……!」

 大丈夫か。ちゃんと前頭葉あんのか。

「……俺はちょっと嬉しかったのに、忘れてんのかよ」

「ん?」

「なんでもない。ああ、飛び込みゃいいんだろ」

 なんだかやけくそな気分になり、俺は着ているものを脱ぎ捨てた。

 原田に比べたら貧相な体が恥ずかしくて、それに躊躇ったら恐怖が勝ってしまう気もして、一思いに身を躍らせる。

「――――!」

 目は閉じてしまったと思う。

 足裏にひやっと冷たさを感じて、すぐに全身を包まれた。自分の体のどこにこんなに空気がまとわりついていたのか、細かな泡が体とは反対に上に上にと上がっていく。



 淵は思っていたよりもずっと深くて、青くて、気持ち良かった。



 夏の日差しが澄んだ水を透過して、水底に模様を描いている。それは一時も同じ形を保つことはなくて、いつまでも見飽きない。



 水面に出てしまうのが惜しいくらいだったが、眺めているうちに息は切れてくる。仕方ない。上がるか。

 ――待てよ。

 今ここで浮かび上がって、素直に楽しいと認めるのはなんだか悔しい。結局昨日からずっと原田のペースで押されっぱなしなのだ。

 ――そうだ。

 俺は手足の力を抜いて、ふうわりと水面まで浮かび上がった。そのまま息を潜めて水に身を任せ、ぷかりとたゆたう。

 要するに死んだふりだ。

 子供じみているとは思うけど、軽くびびらせてやるつもりだった。なにも考えず浮いているのは気持ちよく、悪戯に関係なくしばらくこうしていようと思ったとき、



「天ヶ瀬!!!!!!!!」

 大きな塊が水面の凪を破る。



 ばしゃ、ばしゃっと水をかく音がして、肩に触れられたとき、火傷しそうなほどの熱を感じた。

「ま、待て待て待て待て! じょーだん、冗談だって。ふり、死んだふり」

 慌てて水面に顔を出し、告げる。水の冷たさではなく、焦りで体が冷えていく。さすがにこれはまずかった。いくらからかってやろうと思ったからって、死んだふりはシャレにならない。

「……ふり?」

 やり過ぎた。百パー俺が悪い。素直に怒られよう――覚悟を決めたのに、俺が聞いたのは罵声ではなく、大きな安堵のため息だった。

「良かった……!!!」 

 逞しい腕が、水に浮かんだまま俺を抱きしめる。

 良かった、良かった、とくり返す響きには嘘が一ミリもない。そう気がついたとき、どうしてか泣きそうになった。



 こんなふうに誰かに、正面から抱きしめられたことなんて、俺、今まで一度だって――



 そんな顔を見られたくなくてうつむくと、原田の厚い胸板に額が触れた。気づいているのかいないのか、原田はよりぎゅっと抱きしめてくる。

 それで気がついた。

 今、俺、パン一だ。セックスさせろって男相手に。

「……天ヶ瀬」

 腰に腕が回り、抱き寄せられる。清流は夏でも冷たいほどなのに、明らかに熱を持つ源がある。腰が触れそうになって逃げると、今度は確かに明確な意思を持って抱き寄せられた。

「はら……っ!」

 濡髪の向こうで原田がじっとこちらを見ている。ばかみたいにそうめんを頬張っていた顔とはまるで別人の、真摯なまなざし。

 その瞳の中に、俺だけが映り込んでいた。

「……、」

 身じろぐと、いつの間にかきつく立ち上がっていた乳首が原田の素肌に触れる。思わず息を詰めると、原田もそれに気がついたようだった。片手で腰を強く引き寄せたまま、もう片方の手で赤く染まったそこを摘まむ。

「ん……ッ! この、――!」

 抗議しようと振り仰いだ顎を両手で掴まれる。

 噛みつくようなキスをされた。

「……、はら、だ……っ、」

 冷たい水の感触しかなかった体が、熱を帯びる。ぴちゃ、という水音は、水をかく音なのか、口の中を嬲られる音なのか、わからなくなる。再び背中に回された腕がつうっと背筋をたどり、腰を引き寄せられたとき、そこはもう気のせいでは済まされないほど熱を放っていた。



 おお、きい――



 恵まれた体格に比例したそれは暴力的ですらあって、俺は我に返った。体は快感で甘くしびれていたけれど、なんとか力を振り絞って原田の腕の中から逃れる。

「天ヶ瀬、――悪い」

「謝るくらいなら、するな」

 ぴしゃりと言い捨てると、さっきまでの荒々しい気配はどこへいったのか、しゅうんと、苦手な風呂に入れられた飼い犬みたいに縮こまる。

 その姿があんまり哀れで、だから、思わず口走ってしまっていた。

「ここまでだ。……今日のところは」
翌日は、誰もいなくなった放課後の教室で。

 その翌日はばあちゃんちにたどり着く直前、とうもろこし畑の中で。



 俺たちはキスをした。

 天性喪失には突っ込めばいいだけなんだから、これはいらない行為なんだよなと思いながら俺は、なぜか「やめろ」ということが出来ずにいた。

 原田は原田で、なにも言わない。

 余計なことを喋らずにじっと俺を見つめてくるときの原田は、本当に美形だ。流されて、このままやらせてやってもいいかもな、とうっかり思ってしまう程度には。



 そして金曜日。

「ん……っ、原田……、今日は、ここ……まで……っ」

 放課後の橋の下、俺がそう告げると、仔猫を毛繕いする母猫みたいにざりざりと乳首を舐めていた原田は、ちょっと名残惜しそうにしつつも俺の上から離れていった。俺は草むらに横たわったまま、あられもなくめくれ上がっていたシャツを直す。

 原田に撫で回され、舐め回された体には、快感の余韻と――物足りなさとが残っていた。

 月曜に出会ったばかりの相手に、そんなことを感じるのは、俺が思春期だから? わからない。早いケースでは、なんと小学生のうちに天性喪失する奴もいるとも聞くけれど、今までそんなことを訊ける友だちもいなかった。

 別にさせてやってもいい。女じゃないんだし。俺も元々早く天性喪失したいと思ってたんだし。

 半分はそう思っているけれど、まだ踏ん切りがつかない。原田が言っていた、晴れなきゃ困る大事な用事は――日曜日か。

 だとしたら今日か明日しかないわけだが、原田は原田で、どういうわけか初日のようにぐいぐい迫ったりはしてこないのだった。

 どうすんだよ。頼まれてやってんのはこっちなんだから、「最後までしないのか?」なんて訊いてやるほど親切じゃないぞ、俺は。

 ふっと水面に降り立った白鷺に目を奪われて面を上げると、原田と目が合った。

 ずっとこっちを見ていたようだ。

 やっぱり今日最後までしたかったのか? そうだよな。もし、強く望まれたら――ちらっとそんなことまで考えたのに、原田はふいと顔を背けた。

 なんだ、と思いつつ、のそのそと橋の下の日陰から出る。なんとなく気まずい沈黙をお互い喉に詰まらせたまま、かんかん照りの道を家へと向かう。連日こんな調子なら、日曜だってきっと晴れだろう。

 それに天候系の天性は、持って生まれた人間のメンタルに大きく左右される。

 原田が雨男だったとしても、平常心を保てれば、つまりなにか特別悲しんだり動揺したりしなければ、雨が降ることはないはずなんだけど――

「あれ、なんだ?」

 河原でなにか作業している人の姿が見えた。橋からは離れているから、俺と原田のことは見えなかったと思うが、少し気まずい。よく見ると、川沿いの道にも開店前の屋台のようなものがいくつか並んでいた。

「明日の花火大会の準備だな。――行くか?」

 花火大会。やっと耳にしたちゃんとデートらしい単語に、俺は「行く」と答えていた。





「この村こんなに人住んでたのかよ……大丈夫か? みんなちゃんと鍵かけてきてんのか?」

 こんなに総出で出払ってたら、空き巣にはパラダイスだろう。

 俺の呟きに浴衣姿の原田が応じる。

「街のほうからも来るからな。天ヶ瀬のばあちゃんは?」

「婦人会の皆さんと見るってさ。なんかカラオケ大会にも出て、盛り上がったら集会所に泊まるかもって」

 だから、今日だったら……というにおわせだったのに、原田は「元気だな」と笑うだけだ。

 ――なんだよ。

 もしかして、原田の中で天性喪失のことはもうどうでもよくなったんだろうか。大事な用事とやらの予定が変わったとか?

 いや、じゃあ昨日だって俺の乳首しゃぶる必要はなかったわけで。

 こんな花火大会にだって、誘う必要も。

 なんだ。なんでだ? っていうか、お願いされてたのはこっちなのに、なんでこんなに気を遣ってやらなきゃなんないんだ?

「俺あっち行くー! 場所取るー!」

「お兄ちゃん待ってー!」

 突然駆け出してきた子供たちにぶつかられて、よろめく。俺もばあちゃんに着付けてもらって、慣れない浴衣に下駄だったから、大きくバランスを崩してしまった。

「わ――」

 無様にひっくり返るのを覚悟した瞬間、原田の腕が手首を掴んだ。

 この間みたいに水の中でもなかったのに、軽々と支えて立たせてくれる。

「……サンキュー」

「おう。……離れるなよ」

 そろそろ打ち上げの時間が近いんだろうか。なんだか人の流れが増した気がする。原田の言葉に頷いて、流されるまま歩き出して気がついた。

 手。

 繋いだままだ。

 ――放さないのかよ。

 まあ、この人ごみだし。

 慣れない下駄だし。

 繋いでてくれてたほうが有難いっちゃ有難い、けど。

「ちょっと曇ってるね。川風も吹いてきたみたい」

「花火ってそのほうが綺麗に見えるって言わない? 煙が流れるから。涼しいほうが見る分には楽だし」

 すれ違う人が、そんなことを話しているのが耳に入った。

 涼しい?

 俺は今滅茶苦茶顔が暑いんだけど、なんでだ。
ずいずいと人込みをわけて歩いて行く原田の背中は広くて逞しい。出会ったばかりの頃はそれを妬ましいとも思っていたけれど、今はただ、好ましいような、それでいて苦しいような気がする。



「この辺りでいいか」

 土手の一角の、やや人の少ない辺りで原田が足を止める。空いているのは、出店が離れているからだろう。

 ちょうどいい。俺は意を決して告げた。

「原田。……今夜、セックスしてやってもいいぞ」

 原田は俺の顔をまじまじと見つめる。

「なんだその顔。させろさせろって言ってきたのはおまえだろ」

「いや、そうだけど――おまえはいいのか」

「先っちょだけとか言っといて、いまさら」

「あれは」

 原田は口元に手を当てて目を伏せた。そうか、こいつもなにかを悔いるってことがあるわけか。

「……あのときは焦ってたし、おまえが……もっとチャラい奴だと思ってたから……その、金髪だし……」

「いいんだよそれで。俺もそのつもりだった。チャラくなりたかったんだ。おまえがあんまり突然だからちょっとビビったけど、いいぜ。しよう。ちゃっとやって、こんな鬱陶しい天性なんてさっさと喪失しようぜ」

「おまえは本当にそれでいいのか? 晴れ男は別に持ってて困る天性じゃないし、むしろ」

「それは」

 うるさい男だな。せっかくこっちが腹を決めたんだから、ごちゃごちゃ言わずにただするって言えばいいんだよ――喉元まで出かかったとき、土手を反対側から歩いてきた人影が、声を上げた。

「おー、悠人。と、天ヶ瀬?」

「穂高先生」

「まこにい」

 ――まこにい?

 聞きなれないそんな呼び名を口にしたのは原田だ。

「なんだ、おまえら仲良くしてんだな。良かった。――悠人、明日もあるんだから、あんまり遅くはなるなよ」

「いやまこにいこそ主役が前日に」

 原田の言葉に穂高先生は「あ」という顔をした。学校では見せない、素の顔を。

「彼女がどうしてもちょっとだけ見たいっていうもんだから……来年からずっと見られるよ、とは言ったんだけど」

 まこにいこと穂高先生の隣にいる浴衣姿の女性が、ぺこりと頭を下げる。それから穂高先生をなじるように、甘えるように呟いた。

「でも、子供が出来たら好きには出歩けないから……」

 んん?

 子供?

「先生、あの……」

 俺が言いよどむわけを、先生はすぐに察したようだった。

「ああ、天ヶ瀬は知らなかったか。俺、結婚するんだ。式は明日」

「全然知らなかった。すみません。えっと、おめでとうございます」

「まあ、毎日学校で結婚しますって言って歩くわけじゃないから」

 それはそうだけど。俺は原田の顔を見上げた。

「まこにい?」

「……従兄弟なんだ。俺は子供の頃両親が事故で死んでて――まこにいの家に世話になってる」

 そういえば、ばあちゃんが言ってた。「先生のとこに住んでる」って、そういうことだったのか。あのときは来たばっかりだし、いきなりセックスしろって言われるしで、ろくに気にも留めていなかったけど。

「お互いやりにくいかなと思って、学校ではあんまり言わないようにしてるんだよな。――ほんとにほどほどで帰れよ、悠人。親族が遅刻とか困るからな」

「――うん」

 原田は子供のように応じて、先生と奥さんは屋台のあるほうに歩いていく。

「……大事な用事って、先生の結婚式だったのか」

「まこにいは……穂高先生は、雨男持ちの俺をいつもかばってくれた」

 珍しく声の調子が暗い。こんな田舎だ。俺はもう高校生だから、そんなバカもいなかったけど、子供の頃なら余所者に容赦なく悪意をぶつけてくる子供もいただろう。案の定、原田は言った。

「俺の周期に関係ないのに、遠足で雨が降ると俺のせいにされたりして……それで泣いたらまた雨が降るだろ? 穂高の家も農家だから、最初は割と疎まれて……でもまこにいだけはかばってくれたし、俺に心を平らに保てって根気よく教えてくれた。それで俺は家のことを一生懸命手伝って、ガキの頃小さかった体も大きくなったから、筋トレして――今じゃ穂高のお母さんも頼りにしてくれてる」

 ばあちゃんへの気遣いが自然にできるのも、料理が出来るのも、そういうわけだったのか。

 俺は納得し、そして同時に気がついてしまった。



 そんな頼りになる兄ちゃんの結婚式なら、普通はめでたいことのはずだろう?



 俺は――俺はいつの間にか握られていた原田の手を、そっとほどいた。大事な話をしてるのに、こっちを見ようとはせず、あの人の去ったほうばかりを見ている原田の手を。

「……おまえが早く天性喪失したかったのって、先生のため?」

 訊ねながら、返事は聞かなくてもわかっているようなものだった。

「先生が結婚しちゃうのが悲しくて、雨にならないように?」



 それって。

 それって、つまり。



 思い出した。転校初日のあの日、そりゃ発言は問題だったにせよ、いまどきプリントで頭をはたくとか、小柄な見た目に反して物怖じしない先生なんだなと思ったのを。あれはふたりの間にそれを許す距離感が――関係があるから。

 ひゅるる、と夜を割く音がして、光が弾ける。それではっきり見えた原田の顔は、初めて見る顔をしていた。

 切なくて、苦しくて苦しくてしょうがない、という顔を。



「――、」

 俺は原田の脇をすり抜けて駆け出した。

 なんだよ。

 なんなんだよ。

 あんなに一生懸命俺に迫ってたのは、全部先生のためだったのかよ。俺を支えてくれた逞しい体も、先生のために鍛えたもので。

 もちろん、俺だって似たようなことを考えていた。誰でもいいからさっさとセックスして、天性なんか捨ててしまいたいって。

 でも。

 でもさ――

「天ヶ瀬、待て! 俺は――」

 原田がなにか叫ぶ声が、次々打ちあがる花火の音にかき消される。聞こえてたって止まる気はなかった。慣れない下駄の鼻緒が擦れて痛い。それでも立ち止まらない。

 今日が花火大会で良かった。

 みんな空を見上げていて、きっと酷いもんだろう俺の顔になんか、気づかない。
村の中央辺り、小高い丘の上にある神社から笙の音が聞こえてくる。

 今日は穂高先生の結婚式。



 空は快晴だ。



 花嫁さんや参列者の為にはむしろ涼しいほうが良かったんじゃ……と思わなくもないが、珍しく俺の天性が意図して役に立ったというべきだろう。

 たぶん、このあとは先生の家か村の集会所かで宴会だろうから、俺はもう帰ってもいいかな。見つからないうちに――神社の拝殿のほうにばかり気を取られていたから、踵を返した途端鼻っ柱をなにかに打ち付けた。

「てっ、――なんだよ」

 こんなところに木なんかあったか、と毒づこうとして、それがぬくもりを持っていることに気づく。

「――天ヶ瀬」

「原田……どうして」

「人影が見えた気がして……。天ヶ瀬、もしかして、晴らすためにわざわざ来てくれたのか?」

 俺は固く口を閉ざしたけど、それは逆に肯定であるとさすがの原田も察したようだった。

「そっか。俺の天性の周期がずれたのかな、とか――いろいろ考えてたんだけど、おまえのおかげか。昨日、怒ってたのに……それでも来てくれてありがとな。」

 怒ってた?

 そうか、おまえはあれをそう受け止めるわけか。肝心なところで鈍感な原田にいらだって、俺はてのひらを握りしめた。爪が食い込むほどそうしていないと、冷静に話せる気がしなかった。

「だから来たんだよ。……俺は、特異晴れ男なんだ。昔からそうだった。悲しいときに、晴れる。嬉しいときには雨が降る。そういう天性」

「え……?」

「おまえさ、なんで俺が晴れ男なのに天性喪失したいのかって訊いたよな。……これが原因で俺はこんなクソ田舎に来るはめになったからだよ」





 俺の母親、つまりばあちゃんの娘だけど、彼女は田舎を嫌って都会に出ていった。

 必死で勉強していい大学に入っていい仕事について、父親と結婚し、俺が生まれた。

 彼女は自分の能力に自信があったから、結婚出産してもすべてをうまく回すつもりだった。会社も、それを見越して子育てに理解のあるところを選んでいた。第一子で男である俺が生まれ、なにもかもが計画通りだったらしい。

 そこまでは。

 いざ仕事に戻ろうと思ったとき、目をかけてくれていた上司はグループの別の会社に出向になっていた。ときを同じくして、大幅な業務再編があり、彼女のいた部署そのものもなくなってしまった。

 俺を生み、乳離れするまでのわずか数年の間の出来事だ。

 行き場を失った彼女のエネルギーは、すべて俺ひとりに向かうことになった。



「幼稚園からお受験させられて……まあその頃はまだ俺もわけもわからず、頑張れば母さんが喜んでくれるって程度だったんだけどさ……だんだん締め付けがエスカレートしていって……」



 学校に持っていくハンカチ一つ、ティッシュひとつまで、彼女の選んだものでなければ許されなかった。文房具はもともと学校で柄付きの派手なものは禁じられていたが、子供のことだ。カラフルなものがだめなら地紋のようにひっそり模様の入ったものを持ってきていたが、当然小遣いも厳しく管理された俺にはそれを買うことも出来なかった。

 大人への隠し事の共有は、子供同士が仲良くなるための最強カードだ。

 それを持たない俺は、クラスでもだんだん孤立していった。

 俺の天性が晴れ男だとわかったとき、彼女は喜んだ。

 あってもなくても困らない能力だが、その中でも天候系、特に晴れ男は絶対数が少なく、イメージ上ランクが上だったからだ。

 子連れでママ友との外出、学校の遠足、それらが快晴になる度、彼女は俺を自慢した。

 うちの子の天性は特別だから。希少価値だから。

 私の息子だから、と。



「……でも俺はその頃にはもう、なにかがおかしいって気がついていた。だって自慢大会なママ友たちとのお出かけも、友だちがいない遠足も、俺には苦痛でしかなかったんだからな」



 それで気がついた。俺は特異な晴れ男なんだと。

 普通とは反対に、悲しかったり不愉快だったりすると、空は晴れる。

「むしろ表向きはそのほうが都合が良かった。母さんは俺が学校でうまくやってると思いたがってたから――それ以外は、許せないみたいだったから」



 せっかく大学までエスカレーターの学校に入ったのに、高校は外部を受け直せと言い出したのは、彼女の尊敬する――その実敵対視しているカリスマママ経営者の家がそうさせているからだった。



 中三の夏にそんなことを突然言い出されて、当然俺はたまったもんじゃなかった。

 勉強は出来なくはなかったけれど、そんなにこうしないさい、ああしなさい、やっぱりこっちと言われて、簡単に対応できる子供なんているんだろうか。

『あなたは出来るはず。だってママの息子なんだから』

 幼稚園受験の頃は力強く思えていたそんな言葉も、その頃にはもう呪いにしか聞こえなくなっていた。



 お母さん。

 お母さんには、俺がちゃんと見えてる?

 お母さんの理想の中の俺じゃなくて、目の前にいる、現実の俺が。



 もしも人生がやり直せるとして、俺が生まれない未来を選べたとしたら、どうする――?



 もちろん俺は賢い子供だったから、それは訊いてはいけないことなのだとわかっていた。



 消化できない思いを抱えたままの受験はまんまと失敗した。

 ネットで結果を確認できるのに、わざわざきちっと化粧をして現地まで合格発表を見に連れて行かれた。俺の番号がないのを確認した母さんは紙みたいに真っ白な顔になって、そして言ったのだ。



『お母さんの望む学校に落ちたっていうのに、どうしてこんなにお空が晴れてるの?』

「有難いことに学校は外部受験をしても高等部の進学資格をくれるところだったから、春からそのまま通ってたけど、家が……母さんのメンタルが……だめで……父さんと相談して、取り敢えず一旦離れて暮らそうってことになって、俺はこんな半端な時期にばあちゃんちに来た。ばあちゃんには仕事の都合って言ってあるけど。……高校生ってすげー不便だよな。体はもう大人なのに、結局保護者がいねーとなんも出来ねえの」

 自嘲したつもりだったけど、うまく笑えているかは自信がない。

「どうせなら、母さんの監視下じゃできなかったことやろうと思って、髪も金髪にして、遊んでるふうに見せて……さっさとセックスしてこのクソみたいな天性も捨ててやろうと思ってたのに、ひっかかってきたのはお前みたいなやつで……出来ないことは出来ないって言っていいんだとか……俺の一番欲しい言葉をくれてさ……でも、それが全部先生のためとかで、なんだよって」

 空は一点の混ざりものもなく、青い。



「くそむかついて、くそ悲しい。だから来た。絶対晴れさせてやれるから」



 俺は何を言っているんだろう。これじゃまるで、俺が――原田のことを好き、みたいだ。

 みたい?

 急に顔が焼けるように熱くなってきた。そうだ。もう俺の役目は終わり。あとは多少雨が降ったって、メインの式は終わったんだから、花嫁さんに嫌な思い出にはならないだろう。

「待て、天ヶ瀬」

 いやだ。

 振り切るように踵を返したとたん、昨日の下駄で傷ついた足が痛んだ。

「――ッ!!」

 バランスを崩した場所が悪かった。



 あ、



 ――しまった、と思ったときには、俺は鳥居の連なる階段を踏み外していた。

「天ヶ瀬!」

 落ちる瞬間、名前を呼ばれた気がした。俺も声のするほうに手を伸ばした、ような。

 体は容赦なく階段に打ち付けられて転がり落ちていく。だけど衝撃が止んだとき、覚悟したほどの痛みはなかった。



 原田が俺を咄嗟にかばって、胸の中に抱き込むようにしていたからだ。



「っ……」

 原田が呻く。

「は、原田!」

 どうしよう。

 見上げる階段は高い。あんなところからここまで転がり落ちたのだと思って、あらためてぞっとする。

「いってえ……」と呻いた原田は俺の声に応えてゆっくり目を開くと、

「……大丈夫か? 天ヶ瀬」

 とだけ、言った。



 そうだ。

 まだ出会って一週間にも満たないけど、俺はこいつがきっとこう言うだろうって、知ってた。



「――大丈夫だよ! おまえ……!」

 人のこと心配してる場合かよ、という言葉は、声にならない。

「ばか野郎……」

 空はますます晴れている。

 原田が仰向けのまま手を伸ばし、空とは裏腹に濡れた俺の頬に触れた。

「……なんで晴れてるのか色々考えてたって言っただろ。周期がずれたのかなとも思ったけど、俺、今日、一週間前に台風呼んじゃうんじゃないかってびびってたほど、悲しくなかったんだ。まこにい――穂高先生が別の人のものになるって思っても大丈夫だった。いや、厳密に言うならそこまで考えてもなかった。先生のことは。――おまえのことばっかり考えてたから」



 ぽつ。



 涙じゃないなにかが頬を叩く。

 雨粒だ。

 そういえば雨男と晴れ男が一か所にいたら、どうなるんだろう。今まで考えたことがなかった。

「おまえをそんなに傷つけて、ごめん」

 ああ、こいつは、謝るときもくそストレートなんだな。

 ぽつ、ぽつ。

 俺の悲しみが晴らした空に、原田の雨が降る。

 拝殿のほうが騒がしくなった。きっと先生たちが慌てて移動しているんだろう。おまえも行かなくちゃ、原田。そう思うのに、声には出来なかった。



 原田がそっちのことを気にもしないで、俺のことだけ見てくれてるのが嬉しかった。



 原田は顔をしかめながら起き上がると、壊れ物に触れるように、それでもまっすぐに、俺を見つめた。

「おまえが好きだ。おかしな始まりになっちまったけど――ちゃんと、キスしていいか?」

 晴れた空の雨が強くなる。これは原田の不安が降らせている雨なんだろう。

「……いいよ、」

 震える唇でどうにか囁いて、俺は原田の背中に腕を回す。口づけするため目を閉じた。そのわずかな隙間で、原田の背中越し雨上がっていく。



 そして、虹がかかるのが見えた。



















                                        〈了〉

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