ずいずいと人込みをわけて歩いて行く原田の背中は広くて逞しい。出会ったばかりの頃はそれを妬ましいとも思っていたけれど、今はただ、好ましいような、それでいて苦しいような気がする。



「この辺りでいいか」

 土手の一角の、やや人の少ない辺りで原田が足を止める。空いているのは、出店が離れているからだろう。

 ちょうどいい。俺は意を決して告げた。

「原田。……今夜、セックスしてやってもいいぞ」

 原田は俺の顔をまじまじと見つめる。

「なんだその顔。させろさせろって言ってきたのはおまえだろ」

「いや、そうだけど――おまえはいいのか」

「先っちょだけとか言っといて、いまさら」

「あれは」

 原田は口元に手を当てて目を伏せた。そうか、こいつもなにかを悔いるってことがあるわけか。

「……あのときは焦ってたし、おまえが……もっとチャラい奴だと思ってたから……その、金髪だし……」

「いいんだよそれで。俺もそのつもりだった。チャラくなりたかったんだ。おまえがあんまり突然だからちょっとビビったけど、いいぜ。しよう。ちゃっとやって、こんな鬱陶しい天性なんてさっさと喪失しようぜ」

「おまえは本当にそれでいいのか? 晴れ男は別に持ってて困る天性じゃないし、むしろ」

「それは」

 うるさい男だな。せっかくこっちが腹を決めたんだから、ごちゃごちゃ言わずにただするって言えばいいんだよ――喉元まで出かかったとき、土手を反対側から歩いてきた人影が、声を上げた。

「おー、悠人。と、天ヶ瀬?」

「穂高先生」

「まこにい」

 ――まこにい?

 聞きなれないそんな呼び名を口にしたのは原田だ。

「なんだ、おまえら仲良くしてんだな。良かった。――悠人、明日もあるんだから、あんまり遅くはなるなよ」

「いやまこにいこそ主役が前日に」

 原田の言葉に穂高先生は「あ」という顔をした。学校では見せない、素の顔を。

「彼女がどうしてもちょっとだけ見たいっていうもんだから……来年からずっと見られるよ、とは言ったんだけど」

 まこにいこと穂高先生の隣にいる浴衣姿の女性が、ぺこりと頭を下げる。それから穂高先生をなじるように、甘えるように呟いた。

「でも、子供が出来たら好きには出歩けないから……」

 んん?

 子供?

「先生、あの……」

 俺が言いよどむわけを、先生はすぐに察したようだった。

「ああ、天ヶ瀬は知らなかったか。俺、結婚するんだ。式は明日」

「全然知らなかった。すみません。えっと、おめでとうございます」

「まあ、毎日学校で結婚しますって言って歩くわけじゃないから」

 それはそうだけど。俺は原田の顔を見上げた。

「まこにい?」

「……従兄弟なんだ。俺は子供の頃両親が事故で死んでて――まこにいの家に世話になってる」

 そういえば、ばあちゃんが言ってた。「先生のとこに住んでる」って、そういうことだったのか。あのときは来たばっかりだし、いきなりセックスしろって言われるしで、ろくに気にも留めていなかったけど。

「お互いやりにくいかなと思って、学校ではあんまり言わないようにしてるんだよな。――ほんとにほどほどで帰れよ、悠人。親族が遅刻とか困るからな」

「――うん」

 原田は子供のように応じて、先生と奥さんは屋台のあるほうに歩いていく。

「……大事な用事って、先生の結婚式だったのか」

「まこにいは……穂高先生は、雨男持ちの俺をいつもかばってくれた」

 珍しく声の調子が暗い。こんな田舎だ。俺はもう高校生だから、そんなバカもいなかったけど、子供の頃なら余所者に容赦なく悪意をぶつけてくる子供もいただろう。案の定、原田は言った。

「俺の周期に関係ないのに、遠足で雨が降ると俺のせいにされたりして……それで泣いたらまた雨が降るだろ? 穂高の家も農家だから、最初は割と疎まれて……でもまこにいだけはかばってくれたし、俺に心を平らに保てって根気よく教えてくれた。それで俺は家のことを一生懸命手伝って、ガキの頃小さかった体も大きくなったから、筋トレして――今じゃ穂高のお母さんも頼りにしてくれてる」

 ばあちゃんへの気遣いが自然にできるのも、料理が出来るのも、そういうわけだったのか。

 俺は納得し、そして同時に気がついてしまった。



 そんな頼りになる兄ちゃんの結婚式なら、普通はめでたいことのはずだろう?



 俺は――俺はいつの間にか握られていた原田の手を、そっとほどいた。大事な話をしてるのに、こっちを見ようとはせず、あの人の去ったほうばかりを見ている原田の手を。

「……おまえが早く天性喪失したかったのって、先生のため?」

 訊ねながら、返事は聞かなくてもわかっているようなものだった。

「先生が結婚しちゃうのが悲しくて、雨にならないように?」



 それって。

 それって、つまり。



 思い出した。転校初日のあの日、そりゃ発言は問題だったにせよ、いまどきプリントで頭をはたくとか、小柄な見た目に反して物怖じしない先生なんだなと思ったのを。あれはふたりの間にそれを許す距離感が――関係があるから。

 ひゅるる、と夜を割く音がして、光が弾ける。それではっきり見えた原田の顔は、初めて見る顔をしていた。

 切なくて、苦しくて苦しくてしょうがない、という顔を。



「――、」

 俺は原田の脇をすり抜けて駆け出した。

 なんだよ。

 なんなんだよ。

 あんなに一生懸命俺に迫ってたのは、全部先生のためだったのかよ。俺を支えてくれた逞しい体も、先生のために鍛えたもので。

 もちろん、俺だって似たようなことを考えていた。誰でもいいからさっさとセックスして、天性なんか捨ててしまいたいって。

 でも。

 でもさ――

「天ヶ瀬、待て! 俺は――」

 原田がなにか叫ぶ声が、次々打ちあがる花火の音にかき消される。聞こえてたって止まる気はなかった。慣れない下駄の鼻緒が擦れて痛い。それでも立ち止まらない。

 今日が花火大会で良かった。

 みんな空を見上げていて、きっと酷いもんだろう俺の顔になんか、気づかない。