夜が溶け落ちた、いつもの海沿いの道を歩いていた。横には莉子がいて、その手には缶ビールが握られている。ついさっき、どうせ歩くならとコンビニで買っていた。潮の香りを孕んだ風が、優しく頬を撫でてくれる。風が気持ち良かった。歩道を歩く私達の身体の右側は車が通っているが、左側は防波堤になっており、その向こうには海が広がっている。夜が溶け落ちた今のような時間帯は何もみえないが、風が運んでくる潮の香りが確かにそこに海があるのだと教えてくれる。「ねぇ」とふいに莉子が声を放った。

「なに?」
「さすがに今日は勝負挑んでこないでよ」
「無理! 私もこの二日でそんな体力ないわ。今日は大人しく早めに寝よ」
「賛成」

 ぽつりと呟かれた声に覇気がない。静寂が降り、海沿いの道をぼんやりと歩いていた。その時だった。「ねぇ、あれ!」と莉子が声を張りあげた。指がさされたその方向に目を向けた時、私は言葉を失った。私達の住むアパートの手前の、防波堤が途切れたところにはちいさな橋がある。ちいさなとはいっても、海面までは5メートル程の高さがある。その橋の手すりに、人影がみえたのだ。すぐに駆け寄った。その人影が、車のライトに鮮明に映し出されたその瞬間、えっ、と言葉にすらないものが口から溢れ落ちていた。

「なにしてるの」

 声をかけると、向こうも私達の姿に気付いたのか目を大きく見開いた。黒のレザージャケットにスキニージーンズ。ライトに映し出された整った顔。あの女性だった。私達の店に来てくれていた、女の子だった。

「降りて」

 ぽつりと莉子が呟く。車の走行音に掻き消されそうな程にちいさな声だった。女の子も「えっ」と聞き返している。

「いいから降りろって。ちょっと話そ」

 目の前で起きている現実と、初めて聞くような莉子の声色に私の身体は微かに震えていた。女の子もそれに促されたのか手すりに掛けていた足をゆっくりと私達の方へと向けた。地に降り立った瞬間、莉子が掴みかかった。

「あんた、私達の店に来てたよね」

 胸元に手をかけられ、女の子は怯えるような眼差しで莉子をみていた。

「答えろって。人違いだったら嫌だからさ、来てたかどうか早く答えて」

 女の子がちいさく頷いたその瞬間、莉子がそっかと言いながら大きなため息をついた。それから女の子の胸元から手を離した。

「何があったか聞かないって言ったけど、やっぱり辞めたわ。今話して、ここで」

 私達のすぐ傍を車が通り過ぎていく。ライトで闇が引き裂かれ、女の子の顔が浮かび上がる。女の子は顔をぐしゃぐしゃに歪め、涙を溢していた。「関係、ないでしょ」と声を詰まらせながらも呟いた。

「関係なくない。あんたは私達の店にきた。一度でも店に訪れてくれた人はね、私達店をやってる人間からしてみたら家族みたいなもんなの。だから、このままあんたを放置して帰るとか無理」
「それは、そっちの都合」
「そうだよ。だから何?」

 有無を言わさぬ勢いで淡々と詰めてはいたが、女の子は口を噤んだままだった。莉子はその姿をみると、すっと立ち上がり大きくため息をついた。それから言った。

「連れて帰る」
「は?」

 私と女の子の声は偶然にも重なった。

「ちょっと待ってよ、連れて帰るってどこに」
「私達の家に。すぐそこじゃん」

 莉子が指を指す方向には確かに私達の家がある。でもと思い、莉子の腕に手をかけた。

「何考えてんの? いくら何でもそれはやばいって」
「何で? 私達の店のお客さんじゃん。それに、私達別に同性だから害もないし」
「警察呼ぼうよ」
「それはその場しのぎの解決にしかならないって。私達はそれを見届けたら気が楽になるかもしれないけど、あの子はいつかまた同じことするよ。小春はそれでもいいの?」

 問われ、返す言葉が見つからなかった。莉子はそんな私をみるなり未だに地面に腰をつけてる女の子の前で腰を屈めた。

「ねぇ、あんたいくつ?」
「……22だけど」

 女の子がぽつりと呟く。

「おっけ、とりあえず未成年じゃないのね。本土から来たんだよね?」
「ほん、ど?」
「ああ、分からないか。沖縄以外のところ」

 女の子はちいさく頷いた。

「誰かと来た?」

 首を横に振った。

「泊まるところはある?」

 また、首を横に振る。

「これが最後の質問。ご飯は食べた?」

 一瞬戸惑うような素振りをみせながらも「……カレリアパイ」と呟いた。莉子は思い出したように笑い「そっか、確かにそうだった」と立ち上がり、手を差し伸べた。

「すぐそこにね、私達の家がある。美味しいスープを作ってあげるからその間だけ何があったか聞かせて? 別に帰りたくなったら帰ってもいいし、泊まりたいなら何日でも泊まっていっていい。だから、ほら」 

 その差し伸べられた手を女の子が掴んだのは、私達のお店につい数時間前までいてくれていたことも理由の一つかもしれないが、莉子の人柄を感じ取ったからなのかもしれなかった。