最近はずっとお店が忙しい。特に今の時期は大学生が夏休みに入っている為、オープンしてから夕暮れ時の今に至るまで若いお客さんが途切れることなく訪れてくれていた。pieni onniは、テーブルが三席しかない為に一応待って頂けるようにと店の前に木製のベンチを設けてはいるが、ほとんどのお客さんには持ち帰りを勧めざる得ないことが申し訳なかった。
「ありがとうございました!」
一時間程テーブルに座っていた、二十代前半の若い女の子達三人のお会計を終え、お店の外までお見送りする。
「またいつでもいらして下さいね」
笑みを向けると、その三人は「必ずきます!」と手を振ってくれた。すぐにテーブルを片付けてベンチに座って待っていてくれたカップルをとは思ったが、そのカップルはいなかった。もしかしたら待ちきれなくて他のお店にいってしまったのかもしれない。申し訳ないことをしたな、とガラス張りの扉を引いた時、「あの」と声をかけられた。若い、女性の声だった。
「一人、なんですけど。入れますか?」
俯きがちに私の目をみながらそう言った女性は、黒いレザージャケットに下はスキニージーンズを履いており、すぐに本土の人だと分かった。沖縄に住んでいる人たちはこの時期はまだ半袖で過ごす人が多い為に服装をみるとだいだい分かる。
「大丈夫ですよ。テーブルすぐに片付けますので、そこのベンチで座って待って頂けますか?」
微笑みかけると、「あっ、はい」とおへその下辺りに手を添えながらゆっくりとベンチに腰を下ろした。テーブルをすぐに片付け、アルコールで消毒してからその女性を店の中へと招き入れた。テーブルへと案内する。
「赤色の方がドリンクのメニューで、茶色がフードメニューになっておりますので、お決まりになりましたらお声がけください」
水の入ったグラスと、金木犀の香りをかすかにつけたおしぼりを出す。女性はちいさく頷いてからメニューを開いた。肩の辺りで綺麗に切り揃えられた黒い髪は、まるで切れ味の良さそうな刃物のようで、女性が身体を動かす度にかたちを伴いながら微かに揺れている。それが、彼女の肌の白さをより際立たせている気がした。それに、と思う。外でみた時も思ったが店内の照明の元でみると、彼女は均整のとれた非常に整った顔をしているように思えた。けれど、なぜか少しだけ影を感じる。心に傷を負っているような、それが現在のものなのか、過去によるものなのかは分からないが、確かにそう感じた。少しだけ、以前の自分を鏡でみているかのような心地に駆られる。
「カレリアパイのプレーンと石垣島産のコーヒーです」
女性に注文された料理を出したあとも、私は時折その女性にレジの奥から視線を送っていた。なんだか心配になったのだ。店内は他の女性のお客さんの笑い声や話し声で満ちていたが、その女性の周りの空気だけが湿り気を帯びているような気すらした。フォークとナイフで綺麗に切り分けられたカレリアパイがゆっくりとその女性の口元へと運ばれる。何度か咀嚼され、それが喉を通ったあと、女性の動きが止まった。その姿をみて、すぐに私は厨房へと向かった。
「莉子、ちょっといい?」
私の感情を瞬時に読み取ってくれたのか、「どうしたの? なんかあった?」と不安気な目をする。事情を話し、レジの方へと連れていく。
「ほら、あの子」
「ほんとだ。泣いてる、ね」
女性は泣いていた。フォークとナイフを手にしたまま、カレリアパイを一口口に運んでから微動だにしていない。大理石の床の方へと目線は向けられているが、きっとそんなところはみていない。もっと、遠いところをみてる。
「私のカレリアパイが美味しすぎって、って訳じゃないよね」
冗談めかして言った莉子の肩を瞬時に叩いた。
「そんな訳ないでしょ? あの子、きっと一人で本土から沖縄に来たんだよ。なんかあったんじゃない?」
「冗談だよ冗談。たぶん、そうだろうね。あの感じは心に深い傷を負ってそう。話しかけてみたら?」
言いながら、莉子が顎をしゃくる。
「えっ、なんて?」
見たところ、女性は二十代前半にみえた。お店に関する話題ならまだしも、今年の冬には二十九歳の誕生日を迎える私と共通の話題があるとは思えない。
「知らないよ。いつもみたいに接客してる感じでいいんじゃないの?」
「いやいや、カレリアパイのお味はいかがですか? ところで、何か悩まれてますか? なんて聞けないでしょ」
そこで莉子が吹き出すようにして笑い、私は再び肩を叩く羽目になった。手が痛い。
「笑ってる場合じゃないって!」
「ごめんごめん。小春の言い方が面白すぎたから」
「……どうしよ」
「仕方ないな。私が人肌脱ぐか」
どうするの、と声をかけようと思った時には莉子はレジを抜け、女性の元へと向かっていた。ぼんやりと大理石をみつめる女性の前で立ち止まり、声をかけた。
「どう?」
タメ口だった。私達の店は広くない為、声まで聴こえてくる。女性がふっと顔をあげた。
「私のカレリアパイ、美味しいでしょ?」
満面の笑みだった。
「あっ、はい。凄く美味しくて、こんな料理初めて食べて」
「それで泣いてたの?」
「えっ?」
「ほら、目のところに涙が」
女性が恥ずかしそうに顔を伏せ、手の甲で涙を拭った。
「pieni onni」
莉子は膝を立てて座り、女性に目線を合わせている。女性は聞き慣れない言葉だったのか、「えっ?」と顔をあげた。
「私達のお店の名前ね、pieni onniっていうの。フィンランド語でちいさな幸せって意味。このお店に来てくれた人たちに、そんなちいさな幸せを届けたい。だから、そう名付けた」
「そう、なんですね」
「私はね、あなたにもそのちいさな幸せを受け取って貰いたいの。なにか、辛い事でもあったんでしょ?」
問い掛けられ、机の下にある女性の太ももの上で整列していた手がゆっくりと拳へと作り変えられていく。私は、まずいと思った。いくらなんでも踏み込みすぎてる。私達はあくまでお店側の人間で、女性はお客さんだ。莉子は、それがいいところでもあるのだが、こうと思えば誰彼構わず突き進んでしまうところがある。最初に店をやろうという話になった時、接客だけは絶対したくない、と言ったことがあったが、それが理由だった。私が接客なんてしたらお客さんが飛んじゃうよ、と莉子はあどけない笑みを浮かべていたことを思い出した。止めないと。そう思い、レジを抜けようとした時だった。
「別にいいんだよ」
ぽつりと、莉子が呟いた。
「無理に話そうとしなくていい。私なんて見ず知らずの人間だしね。私はね、ただ私達のお店に来てくれたからには、あなたにも幸せを届けたいだけ。いい一日だったって、眠りにつく前にそんな風に思って欲しいだけ。でもね、その為にはあなたの心も綺麗しておかなくちゃ。悲しみとか、苦しみとか、そんな負の感情は、人が幸せだと感じる瞬間の邪魔をする。だから、泣けばいい。好きなだけ泣いて、好きなだけ私のカレリアパイを食べていいよ。お代もいらないし、好きなだけここにいていいから」
言い終えて、女性の肩にそっと手を置いた。踵を返しレジを抜けてきたその瞬間、莉子と目があった。ウインクをしていた。莉子はそのまま厨房に戻ってしまったから言葉は交わさなかったけれど、私は胸の中でありがとうと呟いた。女性はそれから静かに涙を流していた。カレリアパイをゆっくりと口に運び、もそもそと口を動かしながらも目の淵から涙を流し、時折天井を仰いでいた。
「ごちそうさまでした。ほんとに美味しかったです」
閉店時間の少し前に、女性は席を立った。
「またいつでもいらして下さいね」
笑みを向けると、女性は「あの」と俯きがちに私の目をみつめてくる。
「シェフの方にも美味しかったですとお伝えして頂けますか」
女性が帰る素振りをみせていた時、私はすぐに厨房に入り「あの女の子帰るみたいだよ」と莉子に声をかけたが、「柄にもないこと言っちゃったし、恥ずかしいからいい」と玉ねぎを切りながら言っていた。莉子って変なとこシャイだよね、とからかうと「うるさいな」と玉ねぎの皮を投げつけてきた。はいはい、と私がレジに向かおうとした時、小春、と呼び止められた。
「あの女の子のお代、ただにしといて。約束したから」
「りょうかい!」
女性の目を見ながら、ついさっき起きたばかりの出来事を思い浮かべていると自然と口角が持ち上がってくる。
「伝えておきますね。そのシェフが、今日のお代はいらないと言ってますのでお会計は大丈夫ですよ」
女性が財布を手にしていたので、そう声をかけた。
「いえ、そんな訳には」
「大丈夫です。その代わり、またいらして下さいね」
有無を言わさぬ勢いではっきりと告げると、ありがとうございます、と女性はポーチの中へと財布を仕舞った。ガラス張りのドアの向こうは一時間程前から夜が溶け落ちていた。去り際に、女性はちいさく「また」と呟いた。黒のレザージャケットが闇の中へと沈みこんでいくように溶けていった。
「ありがとうございました!」
一時間程テーブルに座っていた、二十代前半の若い女の子達三人のお会計を終え、お店の外までお見送りする。
「またいつでもいらして下さいね」
笑みを向けると、その三人は「必ずきます!」と手を振ってくれた。すぐにテーブルを片付けてベンチに座って待っていてくれたカップルをとは思ったが、そのカップルはいなかった。もしかしたら待ちきれなくて他のお店にいってしまったのかもしれない。申し訳ないことをしたな、とガラス張りの扉を引いた時、「あの」と声をかけられた。若い、女性の声だった。
「一人、なんですけど。入れますか?」
俯きがちに私の目をみながらそう言った女性は、黒いレザージャケットに下はスキニージーンズを履いており、すぐに本土の人だと分かった。沖縄に住んでいる人たちはこの時期はまだ半袖で過ごす人が多い為に服装をみるとだいだい分かる。
「大丈夫ですよ。テーブルすぐに片付けますので、そこのベンチで座って待って頂けますか?」
微笑みかけると、「あっ、はい」とおへその下辺りに手を添えながらゆっくりとベンチに腰を下ろした。テーブルをすぐに片付け、アルコールで消毒してからその女性を店の中へと招き入れた。テーブルへと案内する。
「赤色の方がドリンクのメニューで、茶色がフードメニューになっておりますので、お決まりになりましたらお声がけください」
水の入ったグラスと、金木犀の香りをかすかにつけたおしぼりを出す。女性はちいさく頷いてからメニューを開いた。肩の辺りで綺麗に切り揃えられた黒い髪は、まるで切れ味の良さそうな刃物のようで、女性が身体を動かす度にかたちを伴いながら微かに揺れている。それが、彼女の肌の白さをより際立たせている気がした。それに、と思う。外でみた時も思ったが店内の照明の元でみると、彼女は均整のとれた非常に整った顔をしているように思えた。けれど、なぜか少しだけ影を感じる。心に傷を負っているような、それが現在のものなのか、過去によるものなのかは分からないが、確かにそう感じた。少しだけ、以前の自分を鏡でみているかのような心地に駆られる。
「カレリアパイのプレーンと石垣島産のコーヒーです」
女性に注文された料理を出したあとも、私は時折その女性にレジの奥から視線を送っていた。なんだか心配になったのだ。店内は他の女性のお客さんの笑い声や話し声で満ちていたが、その女性の周りの空気だけが湿り気を帯びているような気すらした。フォークとナイフで綺麗に切り分けられたカレリアパイがゆっくりとその女性の口元へと運ばれる。何度か咀嚼され、それが喉を通ったあと、女性の動きが止まった。その姿をみて、すぐに私は厨房へと向かった。
「莉子、ちょっといい?」
私の感情を瞬時に読み取ってくれたのか、「どうしたの? なんかあった?」と不安気な目をする。事情を話し、レジの方へと連れていく。
「ほら、あの子」
「ほんとだ。泣いてる、ね」
女性は泣いていた。フォークとナイフを手にしたまま、カレリアパイを一口口に運んでから微動だにしていない。大理石の床の方へと目線は向けられているが、きっとそんなところはみていない。もっと、遠いところをみてる。
「私のカレリアパイが美味しすぎって、って訳じゃないよね」
冗談めかして言った莉子の肩を瞬時に叩いた。
「そんな訳ないでしょ? あの子、きっと一人で本土から沖縄に来たんだよ。なんかあったんじゃない?」
「冗談だよ冗談。たぶん、そうだろうね。あの感じは心に深い傷を負ってそう。話しかけてみたら?」
言いながら、莉子が顎をしゃくる。
「えっ、なんて?」
見たところ、女性は二十代前半にみえた。お店に関する話題ならまだしも、今年の冬には二十九歳の誕生日を迎える私と共通の話題があるとは思えない。
「知らないよ。いつもみたいに接客してる感じでいいんじゃないの?」
「いやいや、カレリアパイのお味はいかがですか? ところで、何か悩まれてますか? なんて聞けないでしょ」
そこで莉子が吹き出すようにして笑い、私は再び肩を叩く羽目になった。手が痛い。
「笑ってる場合じゃないって!」
「ごめんごめん。小春の言い方が面白すぎたから」
「……どうしよ」
「仕方ないな。私が人肌脱ぐか」
どうするの、と声をかけようと思った時には莉子はレジを抜け、女性の元へと向かっていた。ぼんやりと大理石をみつめる女性の前で立ち止まり、声をかけた。
「どう?」
タメ口だった。私達の店は広くない為、声まで聴こえてくる。女性がふっと顔をあげた。
「私のカレリアパイ、美味しいでしょ?」
満面の笑みだった。
「あっ、はい。凄く美味しくて、こんな料理初めて食べて」
「それで泣いてたの?」
「えっ?」
「ほら、目のところに涙が」
女性が恥ずかしそうに顔を伏せ、手の甲で涙を拭った。
「pieni onni」
莉子は膝を立てて座り、女性に目線を合わせている。女性は聞き慣れない言葉だったのか、「えっ?」と顔をあげた。
「私達のお店の名前ね、pieni onniっていうの。フィンランド語でちいさな幸せって意味。このお店に来てくれた人たちに、そんなちいさな幸せを届けたい。だから、そう名付けた」
「そう、なんですね」
「私はね、あなたにもそのちいさな幸せを受け取って貰いたいの。なにか、辛い事でもあったんでしょ?」
問い掛けられ、机の下にある女性の太ももの上で整列していた手がゆっくりと拳へと作り変えられていく。私は、まずいと思った。いくらなんでも踏み込みすぎてる。私達はあくまでお店側の人間で、女性はお客さんだ。莉子は、それがいいところでもあるのだが、こうと思えば誰彼構わず突き進んでしまうところがある。最初に店をやろうという話になった時、接客だけは絶対したくない、と言ったことがあったが、それが理由だった。私が接客なんてしたらお客さんが飛んじゃうよ、と莉子はあどけない笑みを浮かべていたことを思い出した。止めないと。そう思い、レジを抜けようとした時だった。
「別にいいんだよ」
ぽつりと、莉子が呟いた。
「無理に話そうとしなくていい。私なんて見ず知らずの人間だしね。私はね、ただ私達のお店に来てくれたからには、あなたにも幸せを届けたいだけ。いい一日だったって、眠りにつく前にそんな風に思って欲しいだけ。でもね、その為にはあなたの心も綺麗しておかなくちゃ。悲しみとか、苦しみとか、そんな負の感情は、人が幸せだと感じる瞬間の邪魔をする。だから、泣けばいい。好きなだけ泣いて、好きなだけ私のカレリアパイを食べていいよ。お代もいらないし、好きなだけここにいていいから」
言い終えて、女性の肩にそっと手を置いた。踵を返しレジを抜けてきたその瞬間、莉子と目があった。ウインクをしていた。莉子はそのまま厨房に戻ってしまったから言葉は交わさなかったけれど、私は胸の中でありがとうと呟いた。女性はそれから静かに涙を流していた。カレリアパイをゆっくりと口に運び、もそもそと口を動かしながらも目の淵から涙を流し、時折天井を仰いでいた。
「ごちそうさまでした。ほんとに美味しかったです」
閉店時間の少し前に、女性は席を立った。
「またいつでもいらして下さいね」
笑みを向けると、女性は「あの」と俯きがちに私の目をみつめてくる。
「シェフの方にも美味しかったですとお伝えして頂けますか」
女性が帰る素振りをみせていた時、私はすぐに厨房に入り「あの女の子帰るみたいだよ」と莉子に声をかけたが、「柄にもないこと言っちゃったし、恥ずかしいからいい」と玉ねぎを切りながら言っていた。莉子って変なとこシャイだよね、とからかうと「うるさいな」と玉ねぎの皮を投げつけてきた。はいはい、と私がレジに向かおうとした時、小春、と呼び止められた。
「あの女の子のお代、ただにしといて。約束したから」
「りょうかい!」
女性の目を見ながら、ついさっき起きたばかりの出来事を思い浮かべていると自然と口角が持ち上がってくる。
「伝えておきますね。そのシェフが、今日のお代はいらないと言ってますのでお会計は大丈夫ですよ」
女性が財布を手にしていたので、そう声をかけた。
「いえ、そんな訳には」
「大丈夫です。その代わり、またいらして下さいね」
有無を言わさぬ勢いではっきりと告げると、ありがとうございます、と女性はポーチの中へと財布を仕舞った。ガラス張りのドアの向こうは一時間程前から夜が溶け落ちていた。去り際に、女性はちいさく「また」と呟いた。黒のレザージャケットが闇の中へと沈みこんでいくように溶けていった。