「あーねっむ」

 隣を歩く莉子が口元を抑え、あくびをする。

「きついね。今日はさすがに歩きじゃなくてゆいレールで帰ろうか」

 声を掛けると、莉子が何度も頷く。お店のオープンは午前8時からの為、私達は午前6時にはいつも店に入っている。にも関わらず、私達は昨夜3時前までゲームをしていた。恐らく2時間も寝れてない。

「小春が悪いんじゃん。1時前にそろそろって私が言ったのにさ、あともう一回って引き下がらないから」
「……ごめん」

 返す言葉も無かった。莉子は確かにそう声をかけてくれていたが、私が引き下がらなかったのだ。こういう時、自分の負けず嫌いの性格をとことん呪いたくなる。

 店に着くなりすぐに掃除を始めた。床は大理石を敷き詰め、四方の壁は白い為に店内の空間は白を基調としているが、ショーケースの真後ろの壁だけはグレーホワイトのクロスを貼っており、莉子の作ってくれたカレリアパイをより引き立てられるようなデザインにしている。壁や床、ショーケースの中、それから外側のガラス張りの窓など全てを念入りに綺麗にしていく。莉子は莉子で店に到着するなりすぐさま厨房に入っており、カレリアパイの仕込みを始めている。きっとライ麦をミルクに煮詰めた甘い香りが、あと一時間もすれば店の中にふわりと広がる。

 昨日夜遅くまでゲームをしていたせいで、私達は二人とも満身創痍の状態だったが、それはお客さんには関係ない。私達の届けられるちいさな幸せを少しでも多くの人に。店を立ち上げる前に掲げたその想いを頭の中に浮かべただけで背筋が伸びる。眠たいことなんてどうでも良くなるのだ。

 午前八時に店を開け、それから三十分も経たない内に店は満席になった。元々四名掛けのテーブルが三席しかないのも理由のひとつではあるかもしれないが、私達のお店を定期的に雑誌に取り上げて頂けるようになってからは観光で訪れた方はもとより地元の方まで訪れてくれるようになった。

「いらっしゃいませ」

 私が笑みを向ける先には、ロマングレーの髪を緩やかにかきあげている年配の女性が立っている。私達のお店の常連さんで、ゆかりさんと呼んでいる。茶色の無地のシャツに黒のジョガーパンツを身に纏っているゆかりさんは「小春ちゃん、こんにちは。今日も暑いわね」と緩やかに笑みを浮かべた。

「カレリアパイ、三つ頂ける?」

 私の目をみてそう言って、後から「玉ねぎとゆで卵がのったやつね」と付け足した。カレリアパイは、ライ麦をミルクで煮詰めたものをパイ生地で包むだけという、言わば繊細で素朴な味だ。だからこそフィンランドでもそのまま食べる場合もあれば、玉ねぎやゆで卵をのせ少しだけ甘辛いソースと一緒に食べたりもする。私達のお店でもカレリアパイ本来の味を楽しんで頂くプレーンのものから、具材をのせたもの、蜂蜜をかけ甘みを強くしたものなどを用意していた。

「ゆかりさん、いつも本当にありがとうございます」

 お代を頂いてからカレリアパイの入った箱を手渡し、頭を下げた。ゆかりさんは私達と同じように本土から沖縄に渡ってきた人だ。以前は神奈川に住んでいたが、息子さんが沖縄の国際通りでイタリアンの店をやり始めたことをきっかけに、手伝いがてらに沖縄に何度も訪れているとすっかり気に入ってしまい思い切って移住してきたのだという。そんなゆかりさんが私達のお店に来てくれたのは、お店をオープンしてからまだ二ヶ月程の時だった。ガラス張りの扉が開くと、ちりん、と鈴の音が鳴り、目を向けた。店の中に微かに甘さを孕んだ春の風が、ふわりと入り込んできたかのように感じた。それ程までに店に入ってきた女性は気品に溢れていた。

「いらっしゃいませ」
「ここのお店、凄く綺麗ね。何屋さんなの?」

 それが、私達の初めて交わした会話だった。このお店を私と莉子の二人でやっているということ、私達も東京から来たという事を、会話の流れで話すと、それからというものゆかりさんは週に三日は店を訪れてくれている。あれから約二年。きっとゆかりさんは、同じように本土から来た私達を応援するような気持ちでカレリアパイを買ってくれているのだろう。言葉を交わさずとも、ゆかりさんの温かいお人柄に触れていればそれが分かる。

「ここのパイはね、私と息子の最高の朝食なのよ。pieni onni(ピエニ オンニ)。ちいさな幸せだったわよね? いつも幸せを届けてくれてありがとう」

 私達のお店の、カレリアパイの入った箱を、大切そうに抱きしめてくれたゆかりさんをみていると、泣きそうになった。

「あの」

 気付いたら口にしていた。

「莉子も呼んできます」
「あら、いいのよ。莉子ちゃん忙しいでしょうし」
「大丈夫です」

 ゆかりさんに感謝の気持ちを伝えたいのは私だけではない。常日頃莉子ともそんな会話をする為に、それをよく分かっていた。厨房に入り、莉子、と声をかける。それから「ゆかりさん来てくれてるよ」と付け足すと、ぱっと顔を明るくなる。

「わぁーゆかりさん」
「莉子ちゃん。今日もパイ貰ったわ。いつもありがとうね」
「こちらこそです! 私も小春も、ゆかりさんとお話させて頂けるだけで凄く幸せで、あっ良かったらまたお茶しに行きませんか? 一昨日、小春と一緒にいったカフェが凄くいい感じだったんです」

 ゆかりさんとはプライベートでも何度かお会いしたことがある。夜ご飯を食べにいったり、お茶をしにいったり。そんな時、いつもゆかりさんは聞き手に回ってくれて「あなた達ふたりが嬉しかった事を一生懸命に話している姿をみると、娘が出来たみたいで嬉しい」と陽だまりのような笑みを浮かべてくれるのだ。

「いいわね。じゃあ、来週辺りにどう?」
「はい!」

 莉子の放ったその言葉に、「細かい曜日とか時間はあなた達もお店があるでしょうし、タイミングをみて決めましょう」と笑みを浮かべた。ガラス張りのドアから通りの向こうへと歩いていくゆかりさんをみているだけで、なんだか胸が温かくなった。