莉子は私にとっての太陽みたいな存在だ。持ち前の明るさと、前向きにばしばしと物事を決めていくその強さと姿勢を尊敬しているし、憧れも抱いている。私達は二年程前からルームシェアをしているが、そのきっかけも莉子だった。

 私は大学を卒業したのと同時に、お店や住居の家具の配置や照明、壁などの空間をより良いものへとコーディネートする空間コーディネーターの仕事をしていた。元々建築関係の道に進みかったことも理由の一つであるけれど、私は何よりもインテリアが好きで、部屋の片隅に置いたちいさな照明の配置やデザイン一つでその空間が生まれ変わる瞬間をみるのが好きだった。

 年に数回あるコンペでも最優秀賞を受賞したりと、社会の荒波に揉まれながらも着々と功績を残せていたように思う。その、つもりだった。

──ちょっといいかな?

  ある日、当時私が勤めていた建築事務所の葉山という名の上司に呼び出された。

「申し訳ないんだけどね、今回のプロジェクトからは降りて欲しいんだ」

 苦虫を噛み潰したような、ひどく申し訳なそうな顔を浮かべながら私の顔を伺うようにして葉山はぎこちなく笑った。その時の私は、新宿の一等地に立つビルのワンフロアの空間をコーディネートするプロジェクトのリーダーを務めており、私が勤めていた建築事務所からしてもかなり大きな案件だった。そのプロジェクトを降りて欲しいと言われたのだ。当然のことながら納得出来るはずが無かった。

「どうしてですか?」
「いや、その、うちとしては経験を積ませるつもりで君をリーダーにしたけど、先方にとっては社運をかけた一大プロジェクトだからね。出来たら、その、長い目でみた時に信頼出来る人間に任せた方がいいんじゃないか、というニュアンスでお達しが来たんだ」

 私を出来るだけ傷つけないようにとしているのか、葉山の口ぶりははっきりしなかった。それがより私の神経を逆撫でた。

「新しく立てるリーダーは誰ですか?」

 咄嗟に詰め寄るにして問い掛けると、葉山は口を歪めながら「加藤だ」とぽつりと呟いた。それは、私と同期の男性だった。何度もコンペで優秀な成績を収めてはいるが、能力で劣るとは思えなかった。

「私が、女性だからですか?」

 頭の中で幾つかの理由を思い浮かべはみたが、それ以外思いつかなかった。案の定、葉山はちいさく頷いた。「女性は妊娠したり、子を育てたりといろいろ大変なこともあるだろう? その度にこちら側のリーダーを立て替えることになるとほら、プロジェクトに遅れが出てもいけないしな」とちらちらと私の顔をみながら付け足した。今時、こんな発言をする人がまだいたなんて。ましてや、それが自分の上司だなんて。一瞬にして(はらわた)が煮えくり返りそうになったが、それはすぐに収まった。代わりに、呆れ返ってしまった。もうどうでもいい。こんな思考を持っている人間と一分一秒でも早く関係を断ち切りたいと思った。

「懸命なご判断だと思いますよ。気を遣って下さりありがとうございます。ついでと言ったら何ですが、私はプロジェクトを降りるのと同時に辞めさせて頂きます。もうこの会社に私は必要ないと思いますので」

 その日から一度も会社には出向かなかった。いざとなればこれまで積み重ねてきた経験や知識もある為、他の会社に就職してもいいし、不安ではあるがこの際フリーランスの道へと舵を切ってもいいとも思った。だが、その選択を決めかね、突然人生の岐路に立たされた私は、当時付き合っていた達也(たつや)に相談した。達也とは大学の時から付き合っており、年は私よりも一つ上で当時27歳だった。物事を俯瞰でみることに誰よりも長けていた達也は、その分だけ周りをよく見渡すことが出来た為に思いやりが強く、誰かに手を差し伸べてあげられることに喜びを感じられるような優しい人だった。

 だが、付き合ってから五年が経っていたある日、私は達也と別れることになった。原因は浮気だった。

 高校時代の友人も、大学時代の友人も、まるで予めに口裏を合わせ約束していたかのように24.5歳を皮切りに結婚ラッシュが続き、そんな友人たちと顔を合わせれば今までと同じように接してくれてはいたが、やはり心の中ではどこか遠くなったような感じがしていた。女は30歳までに結婚しなければならない。そんな風潮の波に私は呑まれ、そのうえ友人達には置いていかれたような気持ちに駆られ、私は焦っていたのかもしれなかった。会話の切れ目をみつけては、達也に結婚を急かすような発言をしてしまっていた。きっと達也は、そんな私と同じ空間にいることが耐えられなくなったのだろう。突然同棲を解消してくれないか、と頭を下げられ、その半年後に浮気が発覚した。仕事を辞めてから、まだ一年も経っていなかった。

 私はその一年の間に仕事も失い、彼氏も失った。これから先、どうやって生きていこうか。救いを求めて相談した私に、母はこう言った。

──仕方ないわ。そういう運命だったのよ。

 納得出来なかった。部屋の片隅で、ベッドの上に膝を立て、カーテンの隙間からみえる空を意味もなくぼんやりと眺めた。こんな事ならせめて仕事だけでも早くみつけておけば良かった、とその時になって後悔した。達也には「これから先も人生はずっと続いていくんだし。今はゆっくりしたら?」と言われていたし、私は私でいざとなれば結婚して一度家庭に入り、落ち着いてからまた仕事を始めてもいいかなと考え始めてしまっていた。これでは、あの時に葉山に言われたことを自ら実践しているのと同じだ。あんなに腹を立てていたのに。女性を馬鹿にされたことが許せなかったのに。悔しくて、悲しくて、ぼろぼろと涙が零れ落ちてきた。今になって後悔してる自分が不憫(ふびん)で、情けなくて、嫌いになりそうだった。

 一応最低限の人としての生活の営みは送っていたけれど、それ以外の日々は部屋の片隅で毎日泣いていた。ある日、私の部屋のインターホンが久しぶりに鳴った。カメラの向こうに映る女性。それは、莉子だった。学生時代の友人たちは次々に結婚していき、皆で予定を合わせて集まらない限りは遊ぶこともなくなっていたが、莉子は私と同じで独身だった為に唯一頻繁に連絡を取り合っていた。家庭に入った友人たちを避けていた訳ではないけれど、旦那さんや子供の都合などと、時間が合わなくことが多くなり、この数年は自分の予定次第で動ける莉子と遊ぶことが多かった。休みを合わせて旅行にも行った。国内だと石川や京都や沖縄。国外だとフィンランドやノルウェーなどの北欧や、フランスにも行った。中でもフィンランドで沖縄は私達のお気に入りで、どちらも五、六回は行ったと思う。

 莉子はきっと、そんな私とこの数日連絡が取れないものだから訪ねてきてくれたのだろう。大丈夫? とLINEが何通も届いてはいたが、返す気力が無かった。玄関の扉を開けたずたぼろの私の姿をみて莉子は一瞬目を見開いたが、「話しがある」と有無を言わさぬ勢いで部屋に入ってきて、それからこう言った。

「ねぇ、私と共同戦線を結ばない?」

 真剣な眼差しでそう言われたものの、意味が分からなかった。

「きょうどうせんせんって、何?」
「共に人生を歩むって事」
「……ごめん、全然意味が分かんないんだけど」

 莉子の放った言葉の意味も、突拍子もなくそんなことを言われる意味も、何一つとして理解が追いついていなかった私に、莉子は時間をかけながらゆっくりと説明してくれた。どうやら私よりも少し前に莉子自身も上司のパワハラに耐えきれなくなり仕事を辞めたらしく、お互いに補える部分はあると思うし高め合うことも出来るだろうから一緒に暮らそうとのことだった。

「いい? これはね、何も傷のなめ合いをしようとかそんなことを言ってるんじゃないの。むしろその逆。高め合うの! 私達はお互いに傷付いたでしょ? だからこそ、この期間の間に二人で美意識を高めて、人としても、もっともっと成長して皆を見返してやろうよ。家具や雑貨の一つにしても全て洗練してさ、生活を改善するっていうか人生を豊かにするの。一人だと甘えが出るかもだけど二人なら出来るでしょ? だから、私と共同戦線を結んで!」

 最後は私の手を取って、莉子はそう言った。あまりにも熱のこもったその言葉に、私の中で何かが動いた瞬間だった。けれど、「まだ話は終わってない」と莉子は私の目を見つめ、それから付け足された言葉に私は言葉を失った。

「一緒に、店を?」

 莉子はちいさく頷いた。パティシエとしての経験がある莉子が料理を作り、そして空間コーディネーターとして勤務していた私がお店の空間を演出する。それも、お店をする場所は沖縄でやらないかという提案だった。

「いくらなんでも、それは」

 私は石橋を叩き過ぎるくらいに現実的なタイプだった。

「分かるよ」
「じゃあ、お店なんて」
「私一人なら無理かもしれない。でも、小春と二人なら出来る気がするの。それにさ、人生って一回きりなんだよ。だったら少しでも、ほんの少しでも幸せを感じられる人生の方が良くない? 私は、たぶん小春もそう。どっかで大きく人生の舵を切らないと駄目だと思う。勿論お店をやらなくちゃそれが出来ないって言ってる訳じゃないよ? 人生なんて選択肢は無限にあるし、私だってお店をやることを無理強いしたくない。でも、私の気持ちだけはちゃんと伝えておきたかったから」

 莉子の目は、最後には少しだけ潤んでいた気がする。

──どっかで大きく人生の舵を切るらないと駄目だと思う。

 莉子の放ったその言葉が頭の中で熱を持っていた。私自身、このままでは駄目だと思っていた。女は30歳までに結婚しなければならない。そんな風潮に、抗いたいとも思っていた。何故女だけがそんな風に言われなくちゃ駄目なの? 独身だったら何が悪いの? 私の人生は、私のものだ。誰かに揶揄されようとも、咎められようとも、その事実は変わらない。私は、人として、女性として、もっともっと幸せになりたい。そうなって、みせる。

「ごめん、こんな話いきなりされてもすぐには決断出来ないよね。ゆっくり考えてからまた」
「莉子、やろ!」

 萎れた花のように顔を俯けた莉子の言葉を遮る少し前に、気持ちは固まっていた。莉子が「えっ?」と顔をあげる。

「いいの?」
「うん」
「ほんとに?」
「ほんと! 私達、いま26じゃん。世間ではアラサーとか言われる年齢だけどさ、こっから輝いてやろうよ! 自分の人生は、自分でひかり輝かせろって事でしょ?」

 微笑みかけると、莉子は笑った。その半年後、私達は沖縄の国際通りから少し離れた路地に店を出した。店の名前は、pieni onni(ピエニ オンニ)。フィンランド語でちいさな幸せ。店を出すからには何を主体に売り出していくかを考えなければならないが、それはすぐに決まった。私達は、沖縄とフィンランドという国を愛していた。だからこそ、その想いを店に詰め込み、それと同時に訪れてくれた人たちにはその良さを知ってもらおうと考えた。フィンランドのソウルフードであるカレリアパイをメインにしながらも、石垣島で栽培された厳選されたコーヒーを提供し、観光客の方にも来て貰う。お店はカフェとして売り出すが、沖縄にあるどのお店よりもシックで落ち着く雰囲気を演出しようと、お店の照明や壁の素材などの細部に至るまで私がコーディネートした。運が良かったのかもしれないが、店を出してから一年目で軌道に乗り、二年目の今となっては大手のライフスタイル系の雑誌に頻繁に取り上げられるようにまでなった。私達が幸せである為に。その想いから作り上げた店も、私達の人生も、まだ始まったばかりだ。