「ねぇ、こんな感じでどう?」

 翌朝、ぶどうの房のかたちのベッドサイドライトを、お店のトイレへと繋がる通路の手前に置くことにした。北欧製の原木をそのまま用いたようなかたちの、サイドテーブルにそれをのせると、房の粒ひとつひとつから溢れた温かいひかりが優しげに染めてくれていた。その辺りの照明が暗いことが以前から気になっていた為にちょうど良かった。

「えっ、いいじゃん」

 莉子は目を輝かせながらそれをみて「さすが空間コーディネーター」と笑みを向けてくる。間髪入れずに「元ね」と返す。

「看板立てかけてくるよ」

 木製のそれを手にしたまま、ガラス張りのドアを開けると、澄んだ鈴の音が鼓膜に触れる。店の前に看板を立てかけ、ふと顔をあげる。そこには触れてしまっただけで割れてしまいそうな程に透き通った空が広がっていた。同じ空でも、東京のそれとは違う気がした。大きく息を吸い込み、新鮮な空気を肺に取り入れる。

「よしっ、今日も頑張ろ」

 ガラス張りのドアの向こうでは白を基調とした空間が広がっている。四方を囲む白い壁に、床は白い大理石。正面にみえるショーケースの奥の壁だけが薄い灰色に染められており、ちょうどそのショーケースの中へと莉子がカレリアパイを入れているところだった。白いワイシャツに、腰には黒いサロンを巻いており、コックコートに身を包んでいる。看板に一度そっと手を添えてから、店の中へと戻った。

「今日のやつ最高の出来栄えだわ!」

 店の奥には厨房があり、莉子が小皿を手にしたまま出来上がったばかりのカレリアパイを頬張っていた。

「小春も食べる?」

 問い掛けられ、すぐに頷いた。ちいさな小皿に出来上がったばかりのカレリアパイを莉子がのせて手渡してくれる。カレリアパイはフィンランドの言わばソウルフードで、老若男女に親しまれている食べ物だ。ミルクとバターで煮詰めたライ麦をパイ生地で包み、焼き上げると出来上がり。手にとったカレリアパイを口に運ぶと、パイ生地がほろほろとほぐれていき、口の中でミルクとライ麦の甘みが緩やかに広がり、後からバターの甘みが追いかけてくる。

「うわっ、美味しい!」

 思わず目を見開き莉子をみると「でしょ?」と少しばかり胸を張った。

「パイ生地ちょっと変えた? さくさく感が前と違う気がするんだけど」
「うん。バターの分量と、あとバター自体もフランス産のやつに変えたの」
「くどすぎないしライ麦の感じも凄くいい! 莉子はやっぱ天才だわ」

 心から漏れた声だった。莉子は元々有名なフランス人シェフがオーナーを勤めているお店でパティシエをしており、腕は一流だった。きっとお客さんも喜んでくれると、手にしているカレリアパイをみながら咲き乱れる笑顔を思い浮かべた。

 pieni onni(ピエニ オンニ)。それが私と莉子の店のお店の名前だ。フィンランド語で、小さな幸せ。人生を変えるような大きな幸せを提供することは出来ないけれど、私達のお店のパイを食べて貰うことで喜んでくれたら、あるいは誰かへのプレゼントに。その日一日だけを彩るようなちいさな幸せなら提供出来る。そんな想いを込めて、そう名付けた。

 四名掛けのテーブル席が三つ程のちいさな店だけれど、この店には私と莉子の好きなもの全てを詰め込んでいる。言わば、宝箱のようなものだった。

「オープンまであと二十分だね」

 シンクで手を洗いながら莉子がぽつりと呟く。つられるように私も壁に掛けられた時計に目を向けた。時計の針は、午前7時40分を差している。pieni onni(ピエニ オンニ)のオープンは午前8時で、それから夜の7時までが営業時間だ。定休日は月曜日だけで、私達はたった二人でこのお店を回している。

「じゃあ、今日もよろしくね莉子」
「こちらこそ」

 ミルク粥が入った寸胴の鍋を、底が焦げ付かないようにとゆっくりとかき回しながら、陽だまりのような笑みを向けてくれる。私は鏡を映すように笑みを返し、それからレジの方へと向かった。私と莉子で役割は分けていた。厨房には莉子が入り、私が主に接客やお店の空間をお客さんに提供する。好きなものを詰め込んだお店で、好きな仕事を出来ている。これも全て莉子のおかげだ。そんなことを考えていると、途端に感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。