春の訪れから少し遅れて、今年も蝉が産声をあげた。沖縄では4月の暮れから蝉が鳴き始める。わんわん、という音の雨が、木々の隙間から溢れた細切れになった陽のひかりと共に降り注いでいる。

「どうする? そろそろ帰る?」

 莉子が缶ビールを口に含む前にぽつりと言った。私達は家の近くにある公園のベンチに腰を下ろしていた。頭上には大きな木があり、斜めに差し込む陽射しを、木々や葉がひかりを散らしてる。

 「えっ、もう? もうすぐ日が暮れるからさ、せっかくならいつもの海辺に夕日をみにいこうよ。美優、いける?」

 隣に座る美優に問い掛けると、「私もみたいです。夕日」と笑みを浮かべた。

「じゃあ、行こっか」

 莉子のその言葉に三人で歩みを進めた。私達がいつも歩いている仕事場から家まで防波堤沿いの道は、途中で階段を降りていく場所がある。そこには白い砂浜が広がっており、目の前にはコバルトブルーの海がある。莉子と二人で住んでいた時は、その道を通る時は決まって仕事終わりで日が暮れていた為に降りたことが無かった。でも、美優が私達の生活に加わってからというもの、時折お店が休みの日に夕日を見に行っていったのだ。

 公園から十分程で海辺に着いた。砂浜に腰を下ろすと、私の重みの分だけすっと沈みこむ。包まれているみたいだった。三人で横並びに座った。目の前には海があり、波が寄せては自分が通った道を(なら)すようにゆっくりと引いていく。その度に、さあさあ、という音が鼓膜に触れる。

 私と莉子に挟まれるようなかたちで美優がぼんやりと夕日を眺めていた。それは、いつも水平線の向こうへと沈んでいく。空は茜色に染まっているが、太陽の位置は沈むにはまだ高い位置にある。

「あの、ちょっといいですか」

 美優が私と莉子に交互に視線を配りながら言った。その瞳が、微かに水の膜を張っているように私にはみえた。

「お二人に話したいことがあって」

 喉元から声にのせて発することを躊躇うような、迷っているような、そんな様子だった。

「何? どうした?」

 だから、私がそう問い掛けた。そんな私に一瞬目をやり、それから莉子へと美優は視線を向けた。

「私、これ以上は迷惑掛けられないのでそろそろ」
「美優」

 言葉を遮ったのは、莉子だった。砂浜の上に立てている美優の膝の上にそっと手をのせ、続けた。

「その次の言葉を言う前によく考えてよ? 自分に嘘はつかないで。あの日、美優に出会った日に私そう言ったよね?」
「……私」
「美優が本心でそう思ってるなら私は止めないよ。美優の人生だしね。でも、もし私や小春に気を使って出ていこうとしてるなら、それは間違ってる。美優はどうしたいの? 本心で言って」
「私……莉子さんと小春さんとずっと一緒にいたいです。でも、赤ちゃん、がいるし」

 美優の頬を伝った涙は、胸元にある抱っこ紐に優しく抱えられるようにして眠っている赤ちゃんの頭へと落ちた。あれから二ヶ月が経っていた。人生で初めての、女性でありながらも母になるという経験。それはとても美しく、同時に大変な偉業だ。美優が本やネットで情報を集めながらも、必死に子育てをしている姿を私達はみていた。そして、それと同時に私達に対して申し訳なく思っているという事も。赤ちゃんは夜泣きをするし、おむつも変えなければならない。仕事で疲れた私達の身体を、家にいる自分と赤ちゃんが更に疲弊させてしまってるのではないか。そう考えていたのだろう。

「ツーアウト」

 ぽつりと、莉子が言った。

「美優、今でツーアウトね」
「えっ?」
「知ってる? 野球ってさ、スリーアウトでゲームセットで攻守を交代していくんだって。これ、お兄ちゃんから聞いただけだから間違ってたらごめんだけど。でも、要はそういう事だから。今の美優はツーアウト。あと一回でも自分に嘘をついたら、その時は本当に出て行ってもらう。それまでは、好きなだけ家にいていいよ? っていうかさ、赤ちゃんがうるさいからとか、眠れないからとか、そんな理由で生まれたばかりの赤ちゃんと新米ママのあんたを放り出すとでも思った? その方が心外だわ。ねぇ、小春」

 問い掛けられ、私は急いで涙を拭った。莉子の放った言葉の温かさと、それを受け止めた美優がずっと涙を拭っている姿に、私は少し前から決壊していたのだ。

「なんであんたが泣いてんの?」

 莉子が吹き出すようにして笑い、うるさいな、と握り締めた砂をかけた。

「まあ、でもそういう事だから。私も莉子と同じ気持ち。私達ってさ、もう姉妹っていうか家族みたいなもんでしょ? 血が繋がってないとか、家族のかたちとか、そんなのどうでもいいじゃん。私達が家族だと思ってさえいれば、それはもう家族なんだよ」

 私が背中に手を添えると、美優の背中は大きく震えていた。「ありがとうございます……ありがとう、ございます」と両手で顔を覆い、しゃくりあげていた。その姿をみつめていた莉子が「それにね」と呟いた。

「家も店も、そろそろ手狭になってきたから新しいところを借りようとも思ってたんだ。新しい家では勿論、美優と赤ちゃんの部屋を作ってあげるつもりだったんだよ」

 そう。それは、美優の赤ちゃんが生まれた数週間後には決めていた。私達の住む家は四人で住むにはあまりにも狭いし、お店に関しても軌道に乗り始めてからというものすぐに満席になり、お客さんを待たせてしまったり、帰してしまうことを申し訳なく思っていた。幸い、これまでしっかりと貯めてきた運転資金もある。店を新しくするには、絶好のタイミングだと思った。

pieni onni(ピエニ オンニ)はね、生まれ変わるの。新しい場所で、今度はもっと広い空間でやるつもり。まあ、その分小春の負担は増えるだろうけどね」
「任せて! 最高の空間に仕上げて、最高の店を作り上げてみせるから!」

 微笑みかけると、莉子は鏡を映すように笑った。それから美優の肩にそっと手を置いた。

「だから、あんたは何も心配しなくていい。自分と赤ちゃんの人生を、どうやったらより鮮やかに彩ることが出来るのか。それだけを考えてたらいいの」

 美優は顔を俯けたまま何度も頷いている。その美優の微かに橙色に染まっていた肌が、一瞬にして強い色になる。目を向けて、息を呑んだ。それ程までに綺麗な夕日が、水平線の向こうへと溶けるように沈み始めていた。ゆっくりと、でも着実に、溶け落ちていく。波の音に耳を澄ませながら、私達はそれを眺めた。

 みながら「小春さん、莉子さん。私、いま、凄く幸せです。こんなに幸せになれるなんて、自分がそんな風に思える時がくるなんて……思ってなかった」と手のひらで涙を拭っている。

「私達もあの日、美優と出会えて本当に良かったよ」

 莉子は美優の頭にそっと手を添えて、自分の肩に寄せた。夕暮れ時の海は凪いでいる。静かで、これ以上ないくらいに穏やかで、まるで私達の為だけに今のこの世界があるような、そんな気すらしてくる。夕日から放たれたひかりに、私達は包まれていた。やがて、ふっと強いひかりを帯びたかと思えばそれは消え、濃度の薄い青へと空は移ろいだ。今日も、日が沈んだのだ。

 時の流れも、季節の移ろいも、その大きな流れが向きを変えることはない。抗うことも、逆らうことも出来ないけれど、私達はその流れの中で人生を彩ることは出来る。幸せを、見出すことは出来る。

「ねぇ、一番星!」

 水平線より更にうえ、朝と夜の狭間のような空の真ん中で、一つの星がひかりを放っていた。一番星。明けの明星。いろんな呼び方があるけれど、今の私達ならその星だって掴めそうな気がした。