一週間経って、ようやく心の準備ができた。

「あのさ……」と言いかけたその時だった。珍しくふぅちゃんは口を挟んできた。

「あ、そうだ、音。今日は早く締めちゃうんだけど大丈夫?」と。

 私が「何かあるの?」と問うと、少し黙って「彼女、とデートするから」という返事が返ってきた。

「……!」

 そっか、と声を絞り出す。やっぱり、そうだよね。三十路にもなれば、彼女くらいいるか。少し期待してしまっていた。二十四にもなって、未練がましい自分が気持ち悪い。

「何か言おうとした?」

「ううん、何でもない!」

 私は代金を支払って、早々に店を出た。

「気をつけてね」とまたそうやって優しくされるから諦めきれないのだろうな。でも、彼女さんがいるなら私は潔く身を引かないと。
 ふと、気を抜くと涙が溢れ出た。

 二十年間の片思いが、終わってしまった。

「……っ」

 しゃがみ込んで自販機に寄りかかって声を抑えて泣く。感傷に浸っていると、突然ツンツンと背中をつつかれて、びくっと体が硬直してしまう。

「大丈夫か? 最近ここの常連になった人だよな……?」

 振り向くと、そこにはいつもの白髪の人がいた。

「は、白髪の人!」

 驚いて声を上げるとその人はけらっと笑った。

「白髪の人辞めて? ほら、ちゃんとネームプレートあるから」

 ネームプレートを見てみると、『梛』と書かれていた。

「なぎ、さん?」

「おぉ! これ読める人いるんだ」

「まぁ、一応学校の先生ですし」
 
 それ関係ある?と笑いながら梛さんは私にペットボトルの水を渡して「風さんも、優しそうに見えて中々に罪な男だよなぁ」と呟いた。

 それを聞いて、またぽろっと涙が溢れる。

「俺さ、いつもこっそり君の持論聞いてたんだけど……今の俺の考え、話しても良い?」

 頷くと、梛さんは「ありがと」と笑って口を開いた。

「小説家とか、漫画家って自分の中にあるものしか書けないんだって。」

 あまり理解していないまま「ふぅん……?」と相槌を打つ。

「だからさ、怒りとか悲しみとかそういう感情を自分の作品にぶつけて上手くコントロール出来るんだろうなって思うよ」

 梛さんは立ち上がって「悲しんだ分、それを小説の糧にしろ! そしたらプラマイゼロなんじゃねぇの?」と私に言った。私が小説を書いている事を何で知ってるのかなんて事は気にもならなかった。

 梛さんの言っている事は間違っていない気がした。

「深夜に女が一人で彷徨いてたら危ないから、早く帰りな」

 じゃあな、と梛さんは店の裏口に入って行く。梛さんが渡してくれた水を飲むと酔いが覚めていく気がした。

 梛さんが次出てきた時にはもう、バーテンダーの制服ではなくなっていて、迎えにきた梛さんより背の高い男性と一緒に手を繋いで店から離れて行った。

 背の高い男性の隣で、梛さんは子どものような幸せそうな笑顔をしていた。
 それを見た時、少しだけ心が軽くなった気がした。

 

 早く帰れと言われたものの、空を見上げたまま動けずにいる。

 もしかしたら、ふぅちゃんの帰り際に会えるかなという期待をしているのかもしれない。彼女がいるとわかっているくせに、図々しいと自分でもわかっている。

「音、まだいたの?」

「うん」

 喜んだのも束の間、ふぅちゃんの視線は私の後ろに向く。

「あれ、りさ? ごめん、待たせた」という君の声で絶望に落とされた。いつもと違う雰囲気、少しだけ高くなった声。それでりさという人が恋人だとわかる。

 振り向いてみると、そこには大人っぽくて、可愛い清楚な女性が立っていた。
 丁度、遭遇してしまった。

「ううん、全然」

 微笑む二人の前で、どんな顔を作れば良いかもわからない。いたたまれなかった。

 だから私は逃げようとした。それなのに君は「音! またね!」と引き留めた。

「うん、またね」

 嬉しそうに手を振る君を見て、少しだけ心が痛くなった。もう、店に行く気はないから。

 またね、って私が言ったのは優しい嘘なのだ。

 カーディナルのように、甘い恋ではなかったけれど。

 そうだ、梛さんの言ってくれたように小説のネタにでもして、君の事なんか忘れてしまおう。

 好きだった過去も、全て使って仕舞えば良い。



 だから……ばいばい、夜凪さん。