風side
今夜はお客さんが多いから、バイトの梛くんにも表に出て手伝ってもらうことにした。梛くんはバイト歴が長いから頼りになる。今年でもう十年目だ。
カクテルを作るのも、もう完璧で凄く上手になった。
数時間経つと、お客さんはどんどん減っていって、誰もいなくなった。
そのタイミングで梛くんが「風さん、そろそろ上がっていいですか?」と聞いてきた。
いつもの上がる時間より少し早いタイミングでそう言われて僕は少し疑問に思った。
「うん、もちろん良いけど……どうかした?」
梛くんは「あの、看病したくて……」と少し恥ずかしそうに口にした。
「え、もしかしてだけど……あいつ今風邪引いてるの?」
「そうなんです」
梛くんには恋人がいる。その恋人は僕の友達で、梛くんとこの店を繋ぐきっかけになった人でもある。そして梛くんの事が心配だからと仕事が終わる少し前の時間帯に迎えに来る。
今日珍しく来なかったのはそういう事か、と納得する。
「お大事にって伝えてくれると嬉しいな」
「勿論です、風さんお疲れ様です」
ぺこっと会釈して、梛くんはスタッフルームに入っていった。
丁度、いつものように朝波さんが入ってきた。彼女の目は、赤く腫れていた。
鼻をすすりながら、ぐちゃぐちゃの笑顔で「夜凪さぁん……聞いてくださいよ!」と叫ぶ。
「どうされました?」
今日、朝波さんの一日は散々だったらしい。生徒に説教したらその倍で罵倒されて、それを見ていた年配の先生から『生徒に舐められちゃ駄目よ』と叱られて、さっき店の前で缶で足を滑らせて転けたそうだ。
あっという間にカーディナルを二杯飲み干す。朝波さんは嫌な事があったらすぐにお酒に頼る癖があるようだ。酒に溺れられるというのは少し羨ましい。
嫌な事があったら、しんどい事があったら、何かに縋りたくなる気持ちはよくわかる。
でも僕は、三十になってしまった今でも酒には頼れない。酒は心臓に負担をかけてしまうから医者から禁止されている。
十歳の頃だった。
突然、胸がバクバクと暴れだして、視界が滲んだ。目を開けているのに、全部が遠かった。
ベッドの上、天井の明かりだけが頼りで、僕は“死ぬ”という言葉をはじめて意識した。
そうは言っても、一滴も飲むな!という事では無い。少量なら許される。
きっと、そうじゃないとお酒が大好きな僕は禁酒なんて耐えられていなかっただろう。
「……! オーナー!」
つい、柄にもなく話している途中にぼーっとしてしまっていた。朝波さんに呼ばれていることに気付いてハッと顔を上げる。
「すみません、何の話でしたっけ」
「オーナーの名前って何ですか?って話ですね」
朝波さんは紅潮した顔でふふっと笑う。
「あれ? 言ってませんでしたっけ」
「え、はい。聞いて無いです」
初めて会った時に、朝波さんの自己紹介を聞いた後に話したような気がしていたのは、どうやら気の所為だったみたい。
僕はズボンのポケットに入っていた名刺ケースを開けて、一枚取り出して朝波さんに渡す。すると朝波さんは「かわいい!」と顔を綻ばせる。
名刺には僕の似顔絵と猫のイラストが載っている可愛いデザインだ。一昨年に妹が作ってくれたこの名刺はお気に入りでずっと使っている。
僕の名前を見て「よる、なぎ……かぜ?」と首を傾げる。
「ぶぶー! 残念、不正解!」
初めて会う人には、この名前を当ててもらえないことがしょっちゅうだ。苗字はギリギリわかっても、下の名前は皆必ず“かぜ”と読む。
「え! じゃあなんて読むんですか?」
「やなぎ、ふう」
僕が自分の名前を静かに呟くと、「ふう……?」と朝波さんが反芻する。
ありきたりの名前ではないけれど、そこまで珍しい名前でもないだろうと違和感を覚えていた。
朝波さんは少しぽかんと口を開けてすぐに「えぇ、本当……? やば、もしそれなら凄い巡り合わせじゃん……」なんて言いながら、パソコンを自身の鞄から取り出してカタカタとタイピングしだした。その姿を見ていると胸の奥に、昔見た事がある姿が朝波さんの姿に重なりかけていた。
——似てるな、あの子に。
もう、きっと君に僕の声は届かない。
今夜はお客さんが多いから、バイトの梛くんにも表に出て手伝ってもらうことにした。梛くんはバイト歴が長いから頼りになる。今年でもう十年目だ。
カクテルを作るのも、もう完璧で凄く上手になった。
数時間経つと、お客さんはどんどん減っていって、誰もいなくなった。
そのタイミングで梛くんが「風さん、そろそろ上がっていいですか?」と聞いてきた。
いつもの上がる時間より少し早いタイミングでそう言われて僕は少し疑問に思った。
「うん、もちろん良いけど……どうかした?」
梛くんは「あの、看病したくて……」と少し恥ずかしそうに口にした。
「え、もしかしてだけど……あいつ今風邪引いてるの?」
「そうなんです」
梛くんには恋人がいる。その恋人は僕の友達で、梛くんとこの店を繋ぐきっかけになった人でもある。そして梛くんの事が心配だからと仕事が終わる少し前の時間帯に迎えに来る。
今日珍しく来なかったのはそういう事か、と納得する。
「お大事にって伝えてくれると嬉しいな」
「勿論です、風さんお疲れ様です」
ぺこっと会釈して、梛くんはスタッフルームに入っていった。
丁度、いつものように朝波さんが入ってきた。彼女の目は、赤く腫れていた。
鼻をすすりながら、ぐちゃぐちゃの笑顔で「夜凪さぁん……聞いてくださいよ!」と叫ぶ。
「どうされました?」
今日、朝波さんの一日は散々だったらしい。生徒に説教したらその倍で罵倒されて、それを見ていた年配の先生から『生徒に舐められちゃ駄目よ』と叱られて、さっき店の前で缶で足を滑らせて転けたそうだ。
あっという間にカーディナルを二杯飲み干す。朝波さんは嫌な事があったらすぐにお酒に頼る癖があるようだ。酒に溺れられるというのは少し羨ましい。
嫌な事があったら、しんどい事があったら、何かに縋りたくなる気持ちはよくわかる。
でも僕は、三十になってしまった今でも酒には頼れない。酒は心臓に負担をかけてしまうから医者から禁止されている。
十歳の頃だった。
突然、胸がバクバクと暴れだして、視界が滲んだ。目を開けているのに、全部が遠かった。
ベッドの上、天井の明かりだけが頼りで、僕は“死ぬ”という言葉をはじめて意識した。
そうは言っても、一滴も飲むな!という事では無い。少量なら許される。
きっと、そうじゃないとお酒が大好きな僕は禁酒なんて耐えられていなかっただろう。
「……! オーナー!」
つい、柄にもなく話している途中にぼーっとしてしまっていた。朝波さんに呼ばれていることに気付いてハッと顔を上げる。
「すみません、何の話でしたっけ」
「オーナーの名前って何ですか?って話ですね」
朝波さんは紅潮した顔でふふっと笑う。
「あれ? 言ってませんでしたっけ」
「え、はい。聞いて無いです」
初めて会った時に、朝波さんの自己紹介を聞いた後に話したような気がしていたのは、どうやら気の所為だったみたい。
僕はズボンのポケットに入っていた名刺ケースを開けて、一枚取り出して朝波さんに渡す。すると朝波さんは「かわいい!」と顔を綻ばせる。
名刺には僕の似顔絵と猫のイラストが載っている可愛いデザインだ。一昨年に妹が作ってくれたこの名刺はお気に入りでずっと使っている。
僕の名前を見て「よる、なぎ……かぜ?」と首を傾げる。
「ぶぶー! 残念、不正解!」
初めて会う人には、この名前を当ててもらえないことがしょっちゅうだ。苗字はギリギリわかっても、下の名前は皆必ず“かぜ”と読む。
「え! じゃあなんて読むんですか?」
「やなぎ、ふう」
僕が自分の名前を静かに呟くと、「ふう……?」と朝波さんが反芻する。
ありきたりの名前ではないけれど、そこまで珍しい名前でもないだろうと違和感を覚えていた。
朝波さんは少しぽかんと口を開けてすぐに「えぇ、本当……? やば、もしそれなら凄い巡り合わせじゃん……」なんて言いながら、パソコンを自身の鞄から取り出してカタカタとタイピングしだした。その姿を見ていると胸の奥に、昔見た事がある姿が朝波さんの姿に重なりかけていた。
——似てるな、あの子に。
もう、きっと君に僕の声は届かない。



