音side

 ずっとずっと覚えている思い出がある。

 幼稚園の頃のことだから……たぶん、二十年近く前の話になる。 それにしては、昨日のことのように鮮明で。


 公園で、私が一人で泣いていた時に出会って慰めてくれた。
 当時物凄く大好きだった六つ上の人。本名は知らない。
 ただ私は『ふぅちゃん』と呼んでいた。優しくて、格好よくて。髪はふわふわで、眼は凄く綺麗だった事が印象に残っている。
 お酒に詳しくて、本が大好きな人だった。

 公園のベンチに座って話したり、お家に呼んでもらったり。私の書いた物語を読んでくれた事もあった。

 私の初恋の人だった。知っているのはあだ名だけだし、顔も覚えていないけど。二十年前の出来事だからか、覚えているのは朧げなのだった。

 彼が持っていたカクテルの本で紹介されたお酒がとても魅力的に見えて、私は飲みたい飲みたいと駄々を捏ねたのだ。そうすると、彼は家で“カーディナル”というカクテルに似たジュースを作ってくれた。

 本物では無かったものの、それでもすごく美味しかったのを覚えている。

 感動する私に、君は『もし、二十歳過ぎたら一緒にお酒飲もう……約束だよ!』と言ってくれた。

 それなのに君はその二週間後に、寂しそうな顔で『引っ越すんだ』と私に言った。

 突然の知らせに思考が凍りつき、胸の奥がギュッと締め付けられた。
 裏切られたなんて感情は湧かなくても、幼い心はまるで砂を噛むようにザラついて。

 どこに行くかも教えてもらえないまま、君は引っ越してしまった。
 今どこにいるかもわからないけれど、また会ったとしてもわからないけれど。

 私はいつも、苦しい時は君の思い出に縋って耐えてきた。

 もう一度、君に出会えたらと願っても、きっとそんな奇跡は起こらないとわかっていた。


 でももしかすると物語が好きだった君なら、私の作品を見つけてくれるかと思って私は小説を書き続けた。一縷の望みにかけて。

 教壇に立つ日々と、夜な夜な原稿と向き合う生活が続き、 背中には締切の重圧がじわじわ食い込んでいた。

 そんな時に見つけた、一つの店。都心部の中でも、まだわいわいとしていない……どちらかといえば、暗めな場所にあるこの店は、しんどいものを抱えた大人の逃げ場所みたい。

 私は引き寄せられるように店のドアを引いた。きっと、このバーにはあのお酒がある筈だとなぜか直感で分かった。

 店内は、人一人すらいなかった。胸を撫で下ろす。あまり、人と会いたくなかったから良かった。

「いらっしゃい、お客様のお悩みは何ですか?」

 店の中に入って初めにオーナーに言われた事がそれ。私は当然困惑してしまった。

「悩み……?」

 聞き返すとオーナーは「えぇ。この店のコンセプトはお客様のお悩みに合わせたカクテルを提供する形なんです」と丁寧に説明してくれた。

 素敵なコンセプトだ。

 でも、今の私とそのコンセプトは合わない。私が今飲みたいカクテルは、決まっているから。この気持ちは変えられない。

 意を決して「リクエストとかって駄目ですか?」とサラサラとした黒髪で目が透き通った色をしているオーナーに問う。

「いいえ? 全然駄目じゃ無いですよ」

 けろっとしているオーナーに私は安堵した。「じゃあ、カーディナルをお願いしたいです」と注文する。

 カーディナルは、私が一番好きなお酒。もどきとはいえ、ふぅちゃんに初めて作ってもらって飲んだカクテルだから。今すごく飲みたかったお酒。しんどい時に飲んだら落ち着くような気がした。

「カーディナル、ですか」

 考え込んだオーナーを見て、少し不安になる。

「出来ないですか?」

「いいえ? カーディナルだなんて、良いセンスをお持ちで」 

 くすりと笑って「少々お待ちください」と、オーナーさんは赤ワインを取り出した。

「お名前は?」

「音です、朝波音」

「お仕事は何をなさっているんですか?」

 カーディナルを作りながら、オーナーさんは質問を続けてくる。

「作家を少々……」と呟いてから息を呑んだ。しまった、これは言うべきじゃなかった!

 誰も居なかったから油断してしまった。でも今更取り消せない。誤魔化しは上手くできない気がする。作家なんて公にするようなものじゃないのに、やらかした。

「え!?」

 オーナーは、敬語も忘れてぱっと嬉しそうに目を輝かせた。

「ペンネームは?」

「本名の音、に都で……おとです」

 どうしてだろう、オーナーに聞かれたら簡単に口を開いてしまう。このオーナーには、この店には不思議な魅力がある。

「僕、本好きなんです! 明日本屋に寄って探してみますね!」

 無邪気なオーナーの笑顔に私もつられて笑顔になれた。