歌声に惚れたというのもあるけれど。

 それ以上に、嬉しそうに歌うその表情に、恋をした。


  ♪  ♫  ♪


「ねぇ、知ってる?」
「旧館の音楽室に出るっていう、『ダミ声の人魚姫(セイレーン)』の話」

 何でもこの学校では、人気(ひとけ)もはけた放課後、今は使われていない旧校舎の音楽室から、密やかな歌声が聞こえてくるらしい。

 その歌が、メチャクチャ上手いくせに、声がまぁー酷いもんなのだという。

「ふっ、ふーん?」

 そんな噂を聞きつけた俺、藍松(あいしょう)清巳(キヨミ)は人目をはばかるように旧館へ続く渡り廊下を進んでいる。

「べっ、べっつにぃ? き、気になってるわけじゃないしぃ?」

 俺の胸には、隠すように抱きかかえられた一冊のノート。口からボソボソとこぼれる(ひと)り言が聞こえてしまっているのか、すれ違った何人かが不審そうに俺のことをチラ見していく。

 そんな痛い視線も、今だけは気にならない。

 なぜならば。

「お、俺は! 噂が本当なのかを確かめに行くだけだしっ!」

 そう。

 今は放課後で、俺は『ダミ声の人魚姫(セイレーン)』が出るという旧館の音楽室に向かっている。

 理由は簡単。

「別に! 俺が作った歌を誰かに歌ってもらいたいとか、思ったことねぇしっ!!」

 ……噂が本当ならば、その(くだん)のセイレーンさんに、俺が作った曲を歌ってもらいたいからだ。

 実は、俺はこう見えて歌を作ることを趣味にしている。いや、他の人から俺がどう見えてるかなんて知らんけども。

 姉貴と一緒にピアノを習い、兄貴が趣味で始めたギターを一緒にいじっていた俺は、気付いた時にはオリジナルの曲を作って歌うことが趣味になっていた。中学生に上がってからはボーカロイドソフトの使い方も覚えて『KiyomiXX』という名前で動画投稿みたいなこともしている。高校生になった今では、公開している楽曲の数もそこそこに増えた。

 だけども。

 残念なことに俺の歌はビックリするくらい誰にも聴かれていない。そのことを悲しいくらいに伸びない再生回数が証明している。

 ──誰かに、歌ってもらえたら。

 もしかして、誰かが生歌で歌ってくれたら。それを俺自身で聞いたら、俺の歌のどこが悪いのか、分かるかもしれない。

 そんなことを考えた時にクラスで聞いた噂が、『ダミ声の人魚姫(セイレーン)』だった。

 そして気付いたらここにいる。

 ──バカじゃねぇの、俺。

 そんなことを思いながらも、旧館の中へ滑り込み、音楽室を目指す俺の足は止まらない。五線譜ノートを抱える俺の手には、痛いくらいに力がこもっている。

 ──こんな、ただの噂に(すが)ってみたって……

 数年前まで使われていた旧校舎……通称『旧館』の音楽室は、最上階の端にポツンと存在している。『新校舎の音楽室より他の教室から離れていて防音が効くから』という理由で今でも時々この音楽室だけは使われているという話だが、さすがに放課後ともなれば人気(ひとけ)はない。

 悶々と思い悩んでいる間に、俺はその旧館音楽室に到着してしまっていた。ドアの鍵は俺がこの学校に入学した時から壊れていて、今もそっと手をかけただけでスルリと抵抗なくドアは開いてしまう。

「せめてもっと抵抗しろよな」

 そんな意味もない八つ当たりを呟きながら、俺はキッと音楽室の中を睨み付けた。

 部屋の長辺に沿うように合唱用の雛壇が作られた部屋。奥にはグランドピアノが鎮座している。それだけしかない、伽藍洞な部屋だ。

 もちろん、人気(ひとけ)なんてない。(くだん)のセイレーンの姿も、もちろんない。

 そのことになぜかホッとして、次の瞬間にはホッとした自分になぜかイラッとしてしまった。理由はよく分からない。

「いるなら歌ってみろや、セイレーン!」

 その苛立ちを力に変えた俺は、ズンズンと中に踏み込むとグランドピアノの上に大切に抱えてきたノートを叩き付けた。力が強すぎたのか、震える腕では目測を誤ったのか、バンッという音は予想以上に強くて、ピアノの中に張られた線を微かに震わせる。

 その音にピャッ!! と肩を跳ね上げさせた俺は、とっさに周囲を見回すと慌てて音楽室から飛び出した。さらに入口扉から奥になる方へ駆け込み、柱の陰に隠れるようにして身を隠す。

 ──なっさけな……

 たったそれだけで、へニャリと全身から力が抜けた。

 緊張を怒りで誤魔化さなきゃ、一々行動することさえできない。周囲への言い訳を自分から口にしていなきゃ、恥ずかしくて何もできやしない。

 ──意見が欲しいってなら、こんなことしなくたって……

 姉貴や兄貴に相談することだって、できたはずだ。あの二人なら、俺の手書き譜面を見ただけで俺の歌を歌うことができる。歌ってもらって、どこが良くないのか、どうしたら再生数を伸ばすことができるか、正面切ってアドバイスしてもらうことができたはずだ。

 だけど俺は、それをしなかった。できなかった。

 それ以前に二人には、俺がボカロPをやってることも、そもそも本格的に作曲をしていることも教えていない。

 だって、こんなの。

 ──はっずいじゃん。

 中二病の延長線。チマチマ痛い曲を作って、投稿して、自己満足に浸るだけ。

 俺なんて所詮(しょせん)その程度の存在なんだって、本当は俺が一番よく分かってる。

 知名度もなくて、曲も平凡。そんなの、聴いてもらえる要素がそもそもない。平凡な才能しか持ってないなら、せめて宣伝くらい頑張ればいいのに。そんな努力さえ、俺はできていない。

 分かってる。……分かってる、けど。

 ──また(・・)笑われたら、俺……

 いつもこのことを考えると、脳裏を()ぎる光景がある。

 バラバラに千切られた作曲ノート。意地悪な形で笑ういくつもの唇。こっちを嘲笑(あざわら)っていると分かるのに、具体的な形を忘れてしまった声。

「……っ」

 ──バッッッカじゃねぇの……? こんなこと、いつまでもグルグル悩んでるくせに、『誰かに歌ってもらえたら』なんて……

 そんな光景を忘れたくて。今まさに矛盾した行動をしている自分が苦しくて。

 俺は今日も必死に両耳を手でふさぎ、固く目を閉じて体を丸める。

 そんな、瞬間、だった。

 ガラリと、背中に振動が伝わる。ふさいだ耳にも同じ音が聞こえた。

 これは、教室のドアが開けられて、誰かが音楽室の中に入っていった証拠だ。

 ──え? え? 誰か来た?

 ビクリと体を跳ねさせた俺は、慌ててドアを振り返る。だけどドアはもう元通りに閉められていて、本当に今中に人がいるかどうかなんて分からない。

『どうしたら』『ドアのガラス部分から覗いたらさすがにバレる』とテンパッた頭で考えた俺は、ハッとあることに気付いた。

 俺が背中を預けた壁には、足元にも引き戸がついている。空気の循環のためなのか、夏場の暑さ対策のためなのか、人が()いつくばってくぐり抜けられるくらいの高さの引き戸が設置されているのだ。

 この教室の引き戸は大部分が雛壇の背面に隠されている。だけど俺が背中を預けた隣の引き戸だけは、雛壇の端に当たるから少しだけ中を覗くことができたはずだ。

 鍵も最初からかけられていない。扉が閉められているだけだ。その引き戸を開けて中を覗き込めれば、中にいる人物の姿を確認できるかもしれない。

 俺は音を立てないように細心の注意を払いながら、隣の引き戸をソロリと引いた。入口のドアと同じくスルリと音もなく開いた引き戸の向こうからは、音楽室の窓を通過してくる柔らかな光がこぼれ落ちてくる。

 ──これなら……!

 俺は顔の半分くらいの幅まで引き戸を開くと、そっと傍らから扉の向こうをのぞいた。

 そしてすぐ、パッと顔を離すと息が漏れないように両手で口を塞ぐ。

 ──あれって、あれって……っ!!

 教室の中にいたのは、可憐な人魚姫なんかじゃなかった。

 いかつくて、ヌボッと背が高くて。俺と同じ学ランを着ていて、その上にはボサボサ頭がついていた。長く伸びた前髪の下からは気だるげな横顔がのぞいていて、そんなヤツがよりにもよって、俺が残していったノートに視線を注いでいる。

 あんな特徴的な人間、見間違えるはずがない。

 ──御堂(みどう)っ!! 何でお前がここにっ!?

 御堂千景(ちかげ)。俺と同じクラスではあるが、会話らしい会話はしたことがない。というか、あんまり声を聞いた覚えがそもそもない。いつもボソボソとしか喋らなくて……確かに言われてみれば、かなり聞き取りづらい(しゃが)れ声をしていたような気がする。

 ──お前ほど音楽室が似合わねぇ人間もいねぇよ! てかお前、音楽の授業の時はサボりか口パクかの二択じゃねぇかっ!!

 むしろ音楽の授業はおろか、『音楽』という単語そのものからかけ離れた生活をしているのが御堂だ。耳にイヤホンが刺さっているところを見たことはないし、動画の一本、SNSのチラ見さえしている雰囲気もない。というか、御堂がスマホをいじってる姿そのものを見たことがないかも。

 そんなあらゆる『音』から遠い男が、なぜこんな場所にいるのかが分からない。

 というか。

 ──そんなヤツに俺のノートを見られたら……!

 サッと血の気が下がるような心地がした。

 あのノートに俺の名前は書かれていない。御堂ならばきっと、中に書かれた文字から俺を推測することもできないだろう。

 だけど。

 ──もし、笑われたら。

 (さら)されたら。……いや、それ以上に。

 ──ゴミだと思って捨てられでもしたら……っ!!

 本を読まない人間に本の価値は分からない。絵を(たしな)まない人間に絵の価値は分からない。

 音を嫌う人間に、……いや、俺以外の人間に、あのノートの価値は分からない。

「……っ」

 取り返そう。今この場で恥をかいてでも、あのノートは取り戻さくてはならない。

 捨てられてしまったら。俺は()()()()立ち上がれなくなってしまうから。

 そう決心した俺は、慌てて足に力を込める。

 だけど結局、俺はその場から立ち上がることができなかった。

 カタンッという微かな音に続いて、トーンッと心地良くピアノの音が響く。

 ト音記号の、起点となるソの音。ストンッと力が綺麗に鍵盤に伝わっていると一音で分かる、ひどく明瞭な音の響き方だった。

 ──え?

 俺は信じられない思いで、もう一度足元の引き戸から音楽室の中を覗き込む。

 その瞬間、扉の向こうからポロポロと、粒の揃った綺麗な音がこぼれ落ちてきた。

 次いでその音の波に乗って響いたのは、(しゃが)れているのに柔らかい、不思議な声で。

「晴れ空の下に傘を差して 君はどこへいくっていうの」

 柔らかくて、明るい。大事に大事に言葉を音にしていると分かる、穏やかな歌い出しだった。

 その声が、声をあやすように揺れるピアノの音が、ひどく大切そうに俺が知っている旋律を紡いでいく。

 俺が作った歌を、歌ってくれる。

「無敵だね だって君は 暑い日差しも強い雨も大丈夫」

 俺は信じられない思いでその光景を見つめていた。

 放課後の、柔らかな日差しが差し込む音楽室。

 ピアノの前に腰を下ろした御堂は、間違いなく初見で、しかも手書きの読みづらい譜面を、難なく読み解いて歌を紡いでいく。

 そんな御堂は。

 ──お前……お前って、さ。

 すごく愛おしそうに目を細めて。軽やかに腕と指を躍らせて。

 どこまでも楽しそうに、歌っていた。自分の声のことなんて気にすることなく、すごく幸せそうに歌っていた。

 ──そんな顔、できたんだ……

 俺は、御堂のことなんて、何も知らないけれど。でも、普段何をしていてもダルそうで、不機嫌そうで。『人生なんかつまんねぇ』みたいな顔をしていることは、さすがに知っている。

 今の御堂は、別人みたいだ。

 俺はいつの間にか、その光景に見惚れていた。件のセイレーンに自分の歌を歌ってもらっているということよりも、御堂が楽しそうに歌っている姿に意識を持っていかれていた。

「……ハハッ」

 そんな俺が我に返ったのは、御堂が一曲歌い終わって、最後の音の余韻までもが空気に溶けていった後のことだった。

「ひっでぇ歌詞」

 聞き取りづらい嗄れ声でポロリと感想をこぼした御堂は、口では辛辣なことを言いながらもノートに優しい視線を注いでいた。ペラリ、ペラリとページを手繰りながらノートを見つめ続ける御堂の視線には、まさに『慈愛』という一言がしっくりとくる。

「でも、メッチャいい曲じゃん」

 そんな優しい視線をノートに向けたまま(ささや)かれた言葉に。

 俺は一瞬、自分の心臓が止まったような心地がした。

 そんな俺の心臓を再び動かしたのは、遠く新校舎から聞こえてきたチャイムの音だった。

「おっ、と」

 肩を跳ね上げた俺と同じく、御堂もその音で我に返ったらしい。

 下校を促すチャイムの音に、御堂は椅子から立ち上がると丁寧な所作でピアノの蓋を閉じる。そんな御堂の動きで御堂の次の行動を覚った俺も、音を立てないように気を付けながら引き戸を閉じると、しっかり柱の陰に体をしまい直した。

 そのまましばらく待っていると、ガラリと入口扉が開く音がして、御堂が音楽室から出ていった。御堂は俺の存在に気付くことなく廊下を進むと、階段を降っていく。

「……」

 俺はさらに耳を澄まして御堂の足音が完全に消えたことを確認してから、ようやく音楽室の中に足を踏み入れた。ピアノの上には、俺が置いた時よりも丁寧に俺の作曲ノートが置かれている。

 そのノートに伸ばした俺の指が、震えていた。ノートを掴み、そっと胸に抱き込めば、キュッと心臓が甘く痛む。

『ひっでぇ歌詞』
『でも、メッチャいい曲じゃん』

「……お前だって」

 確かに声は『まぁー酷いもん』だけど。

 お前の『歌』は、間違いなく人魚姫(セイレーン)と称されるに値するものだったよ。

 ……なぁ、御堂。お前、歌うの好きだろ。

 音楽も好きだろ。俺も好きだから、同士のことは分かるんだ。

 それなのにお前、何で普段はあんな態度取ってんの。何だかそれって……

「何か……ムカつく」

 俺はノートに唇を寄せたまま、ボソリと呟く。

 俺の天邪鬼で逆ギレじみた言葉は、聞く者のいない音楽室の空気の中に、静かに溶けて消えていった。


【END】