2年1組、出席番号1番、雨宮岳。帰宅部の図書委員。10月の中間考査では学年18位。あいつに用がある時は、大抵教室の集団の中を探せば見つかる。見た目も人当たりもいいから、誰も雨宮を放っておかない。

ただ、当の本人にこだわりは存在しない。例えば授業中にペアを作れなんて言われたら、たぶんあいつは手っ取り早く1番近くにいる奴に声をかける。実際体育の授業でもそうしてた。周りが残念そうな顔をしていても、雨宮は気にしない。

『あんなの適当だよ。人生かかってるわけでもないし。たかが授業だろ。誰でもいいよ』

雨宮とペアになりたいって思う奴はいくらでもいるけど、あいつが自分からペアになりたいと思う奴はきっといない。マジで何でもいいと思ってる。
掴み所がなくて、いつもゆるりと笑ってるだけ。手に入りそうで入らない。のらりくらり生きてる適当な男。

それが、この半年間で知った雨宮のすべて。



「──はい、原稿しっかり受け取りました。急なお願いだったのに引き受けてくれてありがとね、葦名くん」
「……丹羽先生、雨宮はまだ来てないんですか」
「あぁ、そういえばまだ来てないわね……」


毎週金曜日、15時25分から17時半までの図書当番。大抵雨宮のほうが先に来てあの受付に座っているのに、今日はその姿がない。
原稿から顔をあげた先生も不思議そうに出入り口の扉を見ている。

図書室以外で、俺と雨宮が話すことはない。クラスメイトでもないし、わざわざ隣の教室に行ってまであいつに話しかけに行く動機もない。友達よりも下の関係性。ただ同じ図書委員ってだけ。

だから、雨宮に何かあっても俺には知る由もない。今日は購買でチラッと見かけたから、学校にはいると思うんだけど。


『……なんてー、うそうそ。じょーだん』


あの日、雨宮に"愛おしい"と言われた日。チャイムが鳴り終わった瞬間、あいつはそう言った。スイッチを切り替えるように、ぱ、と笑って、返却本を俺から取り返して。
『これは俺が戻しとくわ。戸締りして先生に鍵持ってくからおまえは先帰れよ』
いつものゆったりした口調で、俺を促した。


「あのー、これ返却お願いします」
「あ、はーい。葦名くん、受付入ってもらっていいかな。雨宮くんならきっとすぐ来るわよ」


どうだろう。あいつに限ってそんなことあるわけないとは思うけど、心の底では、俺に会うのが気まずい、とか思ってるのかもしれない。

受付カウンターの正面から立ってみて、左が雨宮、右が俺。いつもの定位置に座って返却処理を始める。「なんか借りてくものありますか」「あ、ないです」「じゃあ以上でーす、あざしたー」「はーい失礼しまーす」短いやり取りの後、ぴしゃり、扉が閉まり、あっという間に訪れる無音の時間。

試験前は自習目的の人がパラパラと来るけれど、この時期はほとんど誰も来ない。来るとしてもHRが終わってすぐに数人ほど。30分経つ頃にはしんと静かになる。

先生は司書室。図書室には俺以外誰もいない。頬杖をついて、返却されたばかりの本をぱらぱらとめくってみる。ちら、と時計を見ると、まだ俺が来てから15分も経っていないことに気がついた。


いつもの定位置なのに、気持ちが落ち着かないのはなぜなのか。何かが足りないと思うのはなぜなのか。

腕を組んで、瞼を閉じてみる。
癪だけど、考えなくてもすぐにわかった。

雨宮のせいだ。



『──やっぱ葦名って綺麗な字書くよな』



……大体いつもこのくらいの時間。やることがなくなると、雨宮は適当な話題を俺にぶつけてきた。それがルーティンになっているから、こんなことになってんだ、きっと。


『褒めてもなんもでねぇから。なに企んでんだ』
『ありがたい言葉は素直に受け取っとけよ。生きづれーぞ』
『おまえに褒められても嬉しかねんだよ』


このやり取りをしたのは、確か5月だった気がする。GWが明けてすぐだった。ブレザーが暑くて、早く夏服解禁しねぇかなって、思ってた頃だ。


『いやまじで。ただの褒め言葉だから。葦名の字、好きなんだよ。……あ、ちょっとここ。この空いてるとこに俺の名前書いて』
『舐めてんな。一画ごとに100円請求する』
『え、鬼?俺いくら取られることになんの?』


雨宮は笑った。いつものゆるい笑顔じゃなくて、目尻下げて、口開いて。あっはっはって、声をあげて笑ってた。深緑が目に染みるみたいに、雨宮のその笑顔は、俺には少し眩しかった。


『……うん、いつ見ても"葦名"って感じする。葦名ってすぐにわかる。文字って性格でるよなー。やっぱ好きだわー』


裏紙に仕方なく書いてやった名前の文字を、雨宮は嬉しそうに見てた。こいつアホだ、って思った。適当な奴って思った。その言い方だと、まるで俺のことが好きって言ってるみたいに聞こえるだろって、そう思った。



──カタン、という小さな物音に、微睡の中にいた意識が反応した。
……っあーぶーねー……。いまガチで寝そうだった。仕事中だろ、しっかりしろよ。
心の中でため息を吐いて、閉じていた瞼をゆっくりと開く。


「おはよう、葦名。遅れてごめん」


ひゅ、と心臓が止まりかけたのは、いつの間にか雨宮が俺の右隣の席に座っていたからだ。


「びっ、くりさせんな……声かけろよ、ばか」
「いやなんか寝てたから。珍しいと思って」
「理由になってないし。てっきりサボりかと思ったわ」
「サボるかよ。ちょっと野暮用」
「あっそう」
「信じてないだろ。本当だからなー。日本史のグループワークやってたんだよ……なんかやること残ってる?」
「特にない。つか日本史のやつ俺も先週やったわ。調べ物必須だろ。ここでやればよかったのに」
「今時はスマホがあればなんでもできんのよ。それに、ここはダメ」


当たり前のようにそう言った雨宮に眉を寄せる。


「ダメって、なにが」
「なにってそりゃあ……」
「なんだよ」
「……あー……」


ぱか、と口を開いたまま、雨宮は何も言わなくなった。何を言い淀んでいるんだ。言えよ。気になるだろ。


「あれだよ。俺らのクラスうるさい奴多いから。こんなとこ来たら出禁になる」
「……」
「葦名も騒がしいのは嫌いだろ」


ゆるり笑みを浮かべる雨宮。たぶん本当のことを言ってるんだろうけど、全部は言えてない。きっとまだ思ってることは胸の中にあるんだろうと、なんとなくそう思った。


「騒がしいっつーか、周りに配慮できない奴が嫌いなんだよ」
「はは。知ってる」

「…………今日は本当に来ないかと思った」


俺の言葉に、雨宮は一瞬動きを止めた。「はー?なんだそれ」って頬杖をついて笑ったのは、秒針の音が2回鳴ったあとだ。


「来るよ。来なかったらこの前のが本気みたいに聞こえちゃうだろ。あれ、まじで適当に言っただけだから。じょーだんだよ」


先週の金曜日の『愛おしいなぁ』という、雨宮の言葉。『適当じゃないっつったら、どうする』あの時の、雨宮の顔。『じょーだんだよ』なんて、軽く笑う雨宮。
……見くびんなよ。半年も一緒にいたら冗談かそうじゃないかくらい、俺にだってわかる。あの時のおまえは、どう考えても、本気だった。


「あの時の震えてた手も、冗談だって言えんの」


色素の薄い瞳が揺れる。貼り付けた笑顔が少しずつ剥がれていくのに比例して、雨宮の本心がその整った顔に浮かんでくる。緊張と不安。ほんのわずかな期待。あとは、なんだ。全部見てやるから、隠さずさらけ出せよ。


「……や、つかもういいだろ。違う話しようぜ」
「おまえはすぐそうやって逃げる。おいこら。顔上げろ。人の目ぇ見て話をしろよ」
「っもうおまえ説教したいだけだろ!」
「当たり前だろ。おまえが勝手に冗談だっつって話を切り上げて終わってる。俺の考えも気持ちも聞かずに有耶無耶にしてるのが気に食わねぇ」


1回、2回。雨宮が瞬きを繰り返す。俺の言ったことを必死に脳内で処理をしているみたいだった。ただ、キャパオーバーらしい。数秒の沈黙の末に出てきたのは「……は……?」の一文字だけ。


「会話をしろよ。大事な話だろ。ちゃんと言え。聞いてやるから」
「んなこと言ったって……」


動揺してる。いつものゆるさなんか微塵もない。震える声を抑えるように、雨宮は唾を飲み込んだ。


「……葦名、おまえ、おまえも俺と同じこと考えてんの」
「同じことってなに。ちゃんと言われてないから分かんねぇよ」
「うそつけよ、そんなばかじゃねぇだろ……」


片手で顔を覆うようにして「勘弁してよ」なんて、力なく呟く雨宮のこんな姿、他の奴らはきっと見ることもないんだろう。口を大きく開けて笑う雨宮のことなんか、きっと誰も想像もできない。他の奴らが知らないおまえの顔を、俺だけが知っているのは、ほんの少しだけ気分がいい。こんなこと言ったら、おまえは怒るかな。