陽が落ちて月が昇り始めた頃、ソフィアは後宮の懐かしい部屋に立ち入った。
 そこは子どもが散らかしたように、落書きや走り書きの絵がそこら中に置き去りにされたところだった。
 ソフィアが幼い日に彼と過ごしたときと、今も何も変わりがない。
「最後の選定は、寵姫を選ぶのではない」
 けれどそこで待っていた彼は時を重ねていて、ソフィアにとってなお大きな存在になっていた。
 黒髪に日に焼けた肌、鍛え抜かれた体躯。鷹のように猛き戦を生き抜いてきたこの国の君主は、今は静かな目でソフィアを見て言った。
「ソフィア。そなたの人生を選んでほしい」
「私は……」
 皇帝の漆黒の瞳を見返して、ソフィアは口を開く。
「……かつて私は、アナベル皇后にすべてを捧げました」
 皇帝はその言葉に、思い出すように目を細めた。
 ソフィアは一度目を伏せて過ぎ去った時を思う。
 ソフィアは皇帝が初陣のときに敵地で拾ってきた赤子だった。皇帝はこの部屋でソフィアを育ててくれた、親代わりの存在だった。
 少年だった皇帝には、既に年上の皇后アナベルが添っていた。二人は政略結婚だったが、姉弟のようにお互いを信頼していた。
 だからソフィアが皇帝に、「これからも後宮で側にいてほしい」と告げられたとき……ソフィアはとっさに自分の淡い恋心に蓋をして、皇后の側に隠れた。
「今まで歩いて来た人生を失うのが怖かったのです」
 恋に蓋をして誰かに尽くす日々、そこはソフィアにとって安息の場所だった。そこから連れ出されたら、それは一種の死のように思えた。
 けれど皇帝はソフィアの手を取って、一回り大きな人生を生きてきた者の言葉を告げる。
「失いはしない。今までも、これからも人生は続いていく。……私がいつも側で、そなたを助ける」
 皇帝は子どもの頃のようにソフィアの頭にそっと口づけを落とした。ソフィアの中に満ちた気持ちは、幼い頃とは違うぬくもりだった。
 皇帝はソフィアの頬に触れて問う。
「一緒に行かぬか? 二度目の人生に」
 ソフィアはそれを聞いて、泣いているように笑ってうなずいた。
 月下で口づけを交わした二人の隣を、砂漠の風が吹き抜けていった。
 ふとソフィアが顔を上げると、皇帝は笑ってつぶやく。
「恋の精霊よ、別れのあいさつくらいは見逃そう」
 ソフィアが首を傾げると、皇帝は空を仰いでみせた。
 ソフィアは皇帝のみつめる先に目をやって息を呑んだ。
「……マルス」
 花の香る風の中、ふわりと庭に降り立ったのはマルスだった。
「また失恋かぁ」
「わたくしがいるでしょう?」
 浮き上がったマルスの手、それをつかまえたのは皇后アナベルで、ソフィアは自分の見ているものが信じられなかった。
 マルスは苦笑してアナベルを引き寄せた。あっけにとられるソフィアの前で、アナベルは軽やかに笑い声を立てる。
「二人の第二の人生に幸あれ。……では、わたくしたちも行きましょう」
 そうして皇后アナベルと精霊マルスもまた、二人の恋へ旅立っていった。