皇后アナベルは馬から降りると、彼女には不似合いなほど急いた様子で後宮を歩き始めた。
 ソフィアが捕縛されたという伝令を受けたのは、今朝方のこと。それから朝餉も取らずに馬を駆って離宮からやって来た。
 アナベルはうめくように小さくつぶやく。
「……無事でいて」
 離宮に情報が届くのが遅れて、ソフィアが捕縛されて三日の時が経っていた。牢番に痛めつけられていないか、まして刑が下されていないかと、道中不安でたまらなかった。
 アナベルがこの間まで暮らしていた後宮は、寵姫選びの祭典で別世界のようだった。宮のあちこちには花びらが散らされた跡が残り、香水の匂いが混じり合って漂っていた。
 アナベルは皇族出身で、宴や祭典は彼女の日常だった。けれどその日常には、ずっとソフィアが寄り添っていた。
 私にお任せを。いつもそう言ってアナベルを楽しませてくれたソフィアがいなければ、後宮生活はきっとつまらないものだっただろう。
 私が先に歩みださなければ、ずっとそのままの時間が続いていたかしら。アナベルの中には、ソフィアと過ごした日々を惜しむ気持ちが残っている。
 けれどソフィアをここに置いていかなければ、彼女はきっと一生を自分と過ごして終わってしまった。
「ソフィア……!」
 悲鳴のように名前を呼んで立ちすくんだアナベルに、従者が駆け寄って声をかけた。
「皇后様、伝令が戻ってきました」
「すぐにここへ」
 アナベルは従者に振り向いて、伝令を自分の前に召すように命じる。まもなく後宮に出していた伝令がアナベルの前に参上した。
「元侍女のソフィアの姿は既に牢にありませんでした」
「私の命令が間に合ったの? それなら……」
 アナベルは離宮を離れるときに、ソフィアを解放するよう牢番に命を下していた。けれどそれは今朝の話で、従者たちが動くには時間が足らなかった。
「いえ、それが」
 伝令は口ごもって、アナベルに答えを返す。
「勅令が下り、解放されたようなのです」
 アナベルは勅令と口にして、この国で唯一それを発することのできる存在を思った。
「皇帝陛下が……?」
「皇后様にも、陛下からお言葉がありました」
 伝令は畏れ多いと顔を伏せながら告げる。
「……「皇后も、寵姫を選定するよう」と」
 アナベルは息を呑み、皇帝の命令を心で繰り返していた。