乃亜が到着したときにはもう、社殿前の境内に設置された特設舞台の前には、たくさんの人だかりができていた。一面の紅葉の中、舞台は神々しく灯りに照らされている。ゆっくりした動きで巫女たちが舞台からはけてゆく。しばらくすると、笛と太鼓の音が鳴り始めた。

 白い装束を身につけ、狐の面をした男が舞台上に飛び出してきた。右手には鈴のついた刀を持ち、左手には大麻(おおぬさ)、神主がお祓いのときに使う、白紙のついた木の棒を持っている。

 笛と太鼓の音色に合わせて、シャンシャンと鈴を鳴らしながら舞台上を駆け巡る。この身のこなし、煌一に間違いない。人だかりの一番後ろからでも、乃亜にはよく分かった。

“あれはなんの踊りなの? 動物?“

 トントンと肩を叩かれて振り返ると、初老の女性が立っていた。家族連れの観光客のようで、若い夫婦と子供たちは舞台に釘付けになっている。

“えっと、稲荷神社の神の遣いである狐に扮して、神様に奉納する舞を踊っているんです“

 乃亜は英語で説明した。女性はふんふんと頷く。

“踊ってる方、ダイナミックで素敵ね。豪快で、でも指先にまで神経が行き届いてる“

 私ダンスの先生をやってるの、と笑いながら女性は言った。

“存在感があって、格好いいわ“

“僕もそう思います“

 乃亜は、舞い踊る煌一を見つめたまま言った。

“彼はいつもみんなの中心にいて、明るくて、エネルギッシュで……こんな僕のことも気にかけてくれて、勇気づけてくれた“

 英語だからつい饒舌になってしまうのだろうか。思いが溢れて言葉が止まらない。

“眩しくて、太陽みたいで、ほんとに神の遣いみたいで、僕、ほんとに“

 乃亜の丸い目から、涙がぶわっと溢れた。

“ほんとに、好きだった。あの人のこと“

 乃亜は舞台を背にして駆け出した。装束の袖で涙と鼻水を拭いながら、人気のない山を登って行った。好きだった。でももう終わりだ。

 気がつくと、開けた場所に出ていた。転入初日に煌一が連れてきてくれた、あの広場だ。もう葉は散っていて、寒々しい冬枯れの木に囲まれている。ポツンと立つ鳥居も、なんだか寂しそうだ。

“こういち……“

 鳥居に寄りかかって乃亜がうずくまったとき、ガサリと音がした。乃亜が振り返る。暗がりに、白い狐の顔が浮かび上がった。

「ひぃっ!!」

 乃亜は叫び声を上げる。狐はあごのあたりを掴んで上に押し上げた。額に汗を滲ませた煌一の顔が現れる。

「こういち……!?」

「だって、ノアがすごい勢いで走っていくんが見えたから」

「え、だって、踊りは」

「あ、まだ途中」

 やば、と言いながらふざけた様子で舌を出す煌一に、乃亜は声を張り上げた。

「馬鹿馬鹿、何やってるんだよ! 神様のための踊りなのに! 天罰がくだる!」

「ちょっと、ノア落ち着きって」

「なんで来るんだよ。諦めようって、思ってたのに。皆に好かれてて、さっきの踊りもすごくて、僕なんか釣り合いっこないって、分かってるのに」

 乃亜は立ち上がって、煌一に向かって叫んでいた。

「期待させて、この人たらし! 彼女だっているくせに!」

「え、彼女?」

「この前、宇治に行った夜に会ってた」

「え、あぁ!」

 煌一は拍子抜けしたように笑って言った。

「あれは姉ちゃんやって!」

「え、うそ」

 乃亜は、とんでもない勘違いをしてしまっていたかもしれないことを知り赤面しながら、ごまかすように言い返した。

「それに、標準語キモいって言ってた!」

「あれは、バリバリ京都人の姉ちゃんが標準語喋るんが慣れへんってだけで」

 煌一は頭に乗った狐の面を指先でぽりぽりと掻きながら、少し照れ臭そうに言った。

「ノアの喋り方はかわいいよ。俺、好き」

「好き、って……」

「ノア。さっきのって、俺に嫉妬してくれてたってことなん?」

 煌一が白装束をバサリといわせながら、急に距離を詰めてくる。顔が近い。乃亜は恥ずかしくて顔を背けた。

「嫉妬って、そんなわけじゃ」

「ノア。宇治の夜、周りくどい言い方してごめん」

 煌一が乃亜の手を取った。乃亜より一回り大きい。

「ノアと付き合いたいのは、俺。男同士やったとしても」

「うそだ……!」

 乃亜は信じられず、声を荒げた。

「また嘘じゃないの……狐だとか言って……」

「ちゃうって!」

 べそをかく乃亜の両肩を掴んで、煌一は正面から乃亜の顔を見て言った。

「好きやねん。乃亜のこともっと知りたい」

 乃亜の目から、また涙が溢れ出た。乃亜も同じ気持ちだった。

「ぼ、僕も……」

 声を絞り出すが、うまく言葉にできない。

「僕も、知りたい……」

 今知ってることより、もっといろんなことを。もっと先のことを。

「おおきに」

 煌一は笑って、ゆっくりと顔を近づけてきた。乃亜の唇と煌一の唇が重なる。そっと押し付けられた煌一の唇はとてもあったかくて、乃亜は全身が溶けていくように感じた。

「こういち……」

 乃亜が煌一の背中に手を回したそのとき、

 ザアアアアアアアアアア

 ものすごい勢いで雨が降ってきて、乃亜と煌一をぐしょぐしょに濡らした。空は雲ひとつなく晴れて星が瞬いている。天気雨だ。

「狐の嫁入りやな」

 乃亜を腕に抱いたまま、煌一がつぶやいた。

「やっぱり、神様が怒ってるんだよ! 天罰だ! 祟りだ! 早く戻れー!」

「いややー」

 ふたりはどしゃ降りの中でじゃれつきながら、もう一度、さらに何度もキスをした。