校門を出てから、もう十分は走り続けている。
いつの間にか雨は止んでいた。車の走る大通りを抜け、古い日本家屋や小さなお寺が建ち並ぶ小道を抜け、煌一は乃亜の手を引いてどんどん進んでいく。乃亜は着いていくので精一杯だった。繋いだ手が熱い。
「ど、どこまでいくの」
「もうちょい、もうちょい」
息も絶え絶えに乃亜が聞いても、煌一はニヤニヤしてはぐらかし、また走って行ってしまう。9月の京都はまだまだ蒸し暑く、乃亜のシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。
しばらくして、道の両脇に店舗が並ぶ通りに出た。
八ツ橋など京都名物を売る店に、抹茶スイーツのカフェ、刀の玩具や龍のキーホルダーを売る土産物屋。そして、狐を模したグッズやお菓子の数々。修学旅行生に外国人旅行客と、大勢の観光客が思い思いに買い物や写真撮影を楽しんでいる。
「わっ」
物珍しくてきょろきょろと辺りを見渡しながら走っていた乃亜は、けつまずいて転びそうになった。すっと黒い制服の腕が伸びてきて、乃亜の身体を支えてくれる。
「気ぃつけや」
「ありがとう……」
煌一の声が顔のすぐ近くで聞こえて、乃亜は耳が赤くなるのを感じた。走ってきたことによる動悸とは別で、心臓がドキドキしている。
「煌ぼん、おかえりやす。えらい早いなぁ」
一段と古めかしい店の主らしきお爺さんが煌一に声をかけてきた。店先に並ぶ串焼きの品名を見て、乃亜は驚愕した。『すずめの丸焼き 1串700円』。
「松尾のじいちゃん! 始業日やし早よ終わってん。サボりちゃうで」
店主に手を振りながら、煌一はまた走り出した。乃亜も走り出す。だんだんと店の数が減ってきて、アスファルトの舗装が土に変わり、坂道になってきた。さらに進むと、大きな朱色の柱が見えてきた。鳥居だ。しかもひとつだけではない。奥へ奥へといくつもの鳥居が並んでいるのだ。観光客たちがぞろぞろと鳥居をくぐっていく。
「すごい」
立ち止まって息を呑む乃亜に、煌一はニヤリとして言い放った。
「ここ、俺んち」
またもや乃亜の手を引いて、煌一は鳥居をくぐって走り出した。大勢の人が歩いているにもかかわらず、器用にスイスイと隙間を縫って進んでいく。赤い鳥居がいくつもいくつも後ろに流れていった。そして、ところどころで目にする狐の像。
「こっちこっち」
鳥居の道は山の上まで続いているようだ。だんだん人がまばらになってきたところで、煌一は道を逸れて雑木林の中へと分け入った。
「あの、この先立ち入り禁止、って……!」
立て看板を目にして焦る乃亜などお構いなしに、煌一はヒラリヒラリと道なき道を進んでいく。そして突然、開けた場所に出た。ぶわっと赤色の吹雪が乃亜の目の前を舞い踊り、乃亜は驚いて目をつむった。いや、雪ではない。葉っぱだ。
乃亜がそっと目を開けると、赤、黄、茶に色づいた木々がぐるりと乃亜を囲んで、さわさわと揺れていた。まだ季節は暑さの残る九月で、紅葉の季節ではないというのに。乃亜はその美しさに息を呑んだ。乃亜にとっては人生初めての紅葉だった。
「すごない?」
いつまでも紅葉に見惚れている乃亜を満足げに見やりながら、煌一は広場の真ん中まで進んで伸びをした。そこには、朱色が禿げて木が剥き出しになった、古めかしい鳥居がひとつだけポツンと立っていた。
「俺の秘密の場所や」
「現実じゃないみたい」
「そうかもしれへんな」
煌一はゆっくりと乃亜に近づきながら言った。
「なぁ。さっきの、なんで魔法使えるかって話」
煌一は乃亜の正面に立つと、真面目な顔をしてぐっと顔を近づけてきた。切れ長の目で真正面から見つめられて、乃亜の心臓はビクリと跳ねた。
「俺な、実は狐やねん」
鳥居にもたれかかって、煌一は訳ありげに話し出した。
「……へ? ど、どういうこと」
「稲荷神社の狐。神様の使いってこと」
驚く乃亜を相変わらず真剣な顔で見つめながら、煌一は続けた。
「やからな、魔法というか、妖術が使えるんや。人の心を操ることなんて、朝飯前や」
「う、嘘……」
そんな非現実的なことあるはずない。乃亜はじりじりと後ずさりながら考えた。でも、ここは京都だ。千年の都ではどんな不可思議なことでも起こりうる気がしてきた。そういえば、2階の窓から軽々と入ってくるほどの人間離れした身のこなし、あれぞまさに人間じゃない証拠なのでは?
「嘘ちゃうで。好物は油あげとな……そうや、人間の魂や。お前、よぅ見たら美味しそうやなぁー」
煌一はわざとらしく舌なめずりしながら、ガオーと襲いかかる様に乃亜の前で大きく手を広げた。
「ひいぃぃ!」
乃亜は腕で顔を覆いながら、積み重なった落ち葉の上にヘナヘナと座り込んだ。お父さんお母さんごめんなさい。僕は転入初日に狐にとって喰われますーー
「……冗談やって!」
煌一はケタケタと笑いながら、乃亜の肩をポンポンと叩いた。乃亜がおそるおそる煌一を見ると、笑いすぎて目尻に涙が浮かんでる。
「ごめんやで。そんな信じると思わへんかった」
「京都ならあり得るのかもしれないって、思って」
「ただの日本の都道府県のいっこやで。ノアがいたところとなんも変わらんって」
「日本じゃないんだ、海外から来た」
「えっ、そうなん」
乃亜の返答に、煌一は驚いた顔をした。
「両親は日本人だけど、小さい頃からイギリスの、ロンドンで生活していたんだ。今日の自己紹介でも、以前日本語学校で練習していたのが出てきてしまった。日本のこともよく知らないし、言葉も自信ないし、不安しかない……」
気持ちが緩んだのか、乃亜はつい気持ちを吐露してしまっていた。弱気な自分を見せてしまって恥ずかしい。うつむく乃亜に、煌一は呑気な声で答えた。
「だから名前が英田なんか」
「え?」
「英語の英やん。あ、英国も英やん! なるほどな、珍しい苗字やと思ったわ」
「はぁ……?」
煌一は、そやそや!と腕組みをしながら頷いている。まさかの返答に乃亜は呆気に取られ、ついに笑い出してしまった。
「そんな、そんなわけないでしょ」
「めっちゃ笑うやん」
肩を震わせてくすくす笑う乃亜を見ながら、煌一はボソリと呟いた。
「かわいい」
「え?」
煌一の言葉が聞き取れず顔を上げた乃亜に、煌一は目尻を下げて笑いかけた。
「ノアは違う世界知ってるってことやろ? それってすごいことやん。俺は尊敬する」
そんな風に褒められるとは思わず、乃亜は目を見開いた。安心して、気持ちがじわりと溶けていく。
「安心しぃ。日本のことはわからんけど、京都のことは俺が教える」
煌一は優しい声音で続ける。
「だから、ノアも俺の知らんこと教えてや」
目を覗き込まれながらそう言われて、乃亜は心のスイッチがカチッと押されたのを感じた。この人のことをもっと知りたい。自分のことも、もっと知ってほしい。
「荒木くん」
「煌一でえぇ」
ざああと、色づいた紅葉が風に揺れる。吹き飛ばされた色鮮やかな葉っぱたちがくるくると二人の間を舞った。
「あ、葉っぱが……」
煌一の頭にオレンジ色の葉っぱが一枚乗っていた。乃亜は手を伸ばしてそれを取る。煌一の色の薄い髪がキラキラしている。乃亜と煌一はしばらく見つめ合った。
「そろそろ帰るか」
煌一が先に目線を外し、いつもの明るい調子に戻って言った。残念な気持ちを抑えながら乃亜は頷く。帰路に着こうとする煌一のあとを追おうと立ち上がったその時、煌一が急にくるりと振り返って言った。
「そうや、英語話せるんやったら、うちでアルバイトせぇへん?」
「え?」
意味がわからずにいる乃亜に向かって、煌一はキラキラと目を輝かせて喋り続ける。
「それがええ! うち、最近外国からの観光客がめっちゃ増えてんねんけど、英語話せる人がおらんねん」
「うちって?」
「ここが俺んちっていうのはほんまやで」
「京都いち、日本いち、いや世界いち有名な神社の跡取り息子、荒木煌一と申します。よろしゅうおたのもうします」
「え、えぇーー!」
わざとらしく三つ指をついて頭をぺこりと下げる煌一に、乃亜は驚きの声を上げたのだった。
いつの間にか雨は止んでいた。車の走る大通りを抜け、古い日本家屋や小さなお寺が建ち並ぶ小道を抜け、煌一は乃亜の手を引いてどんどん進んでいく。乃亜は着いていくので精一杯だった。繋いだ手が熱い。
「ど、どこまでいくの」
「もうちょい、もうちょい」
息も絶え絶えに乃亜が聞いても、煌一はニヤニヤしてはぐらかし、また走って行ってしまう。9月の京都はまだまだ蒸し暑く、乃亜のシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。
しばらくして、道の両脇に店舗が並ぶ通りに出た。
八ツ橋など京都名物を売る店に、抹茶スイーツのカフェ、刀の玩具や龍のキーホルダーを売る土産物屋。そして、狐を模したグッズやお菓子の数々。修学旅行生に外国人旅行客と、大勢の観光客が思い思いに買い物や写真撮影を楽しんでいる。
「わっ」
物珍しくてきょろきょろと辺りを見渡しながら走っていた乃亜は、けつまずいて転びそうになった。すっと黒い制服の腕が伸びてきて、乃亜の身体を支えてくれる。
「気ぃつけや」
「ありがとう……」
煌一の声が顔のすぐ近くで聞こえて、乃亜は耳が赤くなるのを感じた。走ってきたことによる動悸とは別で、心臓がドキドキしている。
「煌ぼん、おかえりやす。えらい早いなぁ」
一段と古めかしい店の主らしきお爺さんが煌一に声をかけてきた。店先に並ぶ串焼きの品名を見て、乃亜は驚愕した。『すずめの丸焼き 1串700円』。
「松尾のじいちゃん! 始業日やし早よ終わってん。サボりちゃうで」
店主に手を振りながら、煌一はまた走り出した。乃亜も走り出す。だんだんと店の数が減ってきて、アスファルトの舗装が土に変わり、坂道になってきた。さらに進むと、大きな朱色の柱が見えてきた。鳥居だ。しかもひとつだけではない。奥へ奥へといくつもの鳥居が並んでいるのだ。観光客たちがぞろぞろと鳥居をくぐっていく。
「すごい」
立ち止まって息を呑む乃亜に、煌一はニヤリとして言い放った。
「ここ、俺んち」
またもや乃亜の手を引いて、煌一は鳥居をくぐって走り出した。大勢の人が歩いているにもかかわらず、器用にスイスイと隙間を縫って進んでいく。赤い鳥居がいくつもいくつも後ろに流れていった。そして、ところどころで目にする狐の像。
「こっちこっち」
鳥居の道は山の上まで続いているようだ。だんだん人がまばらになってきたところで、煌一は道を逸れて雑木林の中へと分け入った。
「あの、この先立ち入り禁止、って……!」
立て看板を目にして焦る乃亜などお構いなしに、煌一はヒラリヒラリと道なき道を進んでいく。そして突然、開けた場所に出た。ぶわっと赤色の吹雪が乃亜の目の前を舞い踊り、乃亜は驚いて目をつむった。いや、雪ではない。葉っぱだ。
乃亜がそっと目を開けると、赤、黄、茶に色づいた木々がぐるりと乃亜を囲んで、さわさわと揺れていた。まだ季節は暑さの残る九月で、紅葉の季節ではないというのに。乃亜はその美しさに息を呑んだ。乃亜にとっては人生初めての紅葉だった。
「すごない?」
いつまでも紅葉に見惚れている乃亜を満足げに見やりながら、煌一は広場の真ん中まで進んで伸びをした。そこには、朱色が禿げて木が剥き出しになった、古めかしい鳥居がひとつだけポツンと立っていた。
「俺の秘密の場所や」
「現実じゃないみたい」
「そうかもしれへんな」
煌一はゆっくりと乃亜に近づきながら言った。
「なぁ。さっきの、なんで魔法使えるかって話」
煌一は乃亜の正面に立つと、真面目な顔をしてぐっと顔を近づけてきた。切れ長の目で真正面から見つめられて、乃亜の心臓はビクリと跳ねた。
「俺な、実は狐やねん」
鳥居にもたれかかって、煌一は訳ありげに話し出した。
「……へ? ど、どういうこと」
「稲荷神社の狐。神様の使いってこと」
驚く乃亜を相変わらず真剣な顔で見つめながら、煌一は続けた。
「やからな、魔法というか、妖術が使えるんや。人の心を操ることなんて、朝飯前や」
「う、嘘……」
そんな非現実的なことあるはずない。乃亜はじりじりと後ずさりながら考えた。でも、ここは京都だ。千年の都ではどんな不可思議なことでも起こりうる気がしてきた。そういえば、2階の窓から軽々と入ってくるほどの人間離れした身のこなし、あれぞまさに人間じゃない証拠なのでは?
「嘘ちゃうで。好物は油あげとな……そうや、人間の魂や。お前、よぅ見たら美味しそうやなぁー」
煌一はわざとらしく舌なめずりしながら、ガオーと襲いかかる様に乃亜の前で大きく手を広げた。
「ひいぃぃ!」
乃亜は腕で顔を覆いながら、積み重なった落ち葉の上にヘナヘナと座り込んだ。お父さんお母さんごめんなさい。僕は転入初日に狐にとって喰われますーー
「……冗談やって!」
煌一はケタケタと笑いながら、乃亜の肩をポンポンと叩いた。乃亜がおそるおそる煌一を見ると、笑いすぎて目尻に涙が浮かんでる。
「ごめんやで。そんな信じると思わへんかった」
「京都ならあり得るのかもしれないって、思って」
「ただの日本の都道府県のいっこやで。ノアがいたところとなんも変わらんって」
「日本じゃないんだ、海外から来た」
「えっ、そうなん」
乃亜の返答に、煌一は驚いた顔をした。
「両親は日本人だけど、小さい頃からイギリスの、ロンドンで生活していたんだ。今日の自己紹介でも、以前日本語学校で練習していたのが出てきてしまった。日本のこともよく知らないし、言葉も自信ないし、不安しかない……」
気持ちが緩んだのか、乃亜はつい気持ちを吐露してしまっていた。弱気な自分を見せてしまって恥ずかしい。うつむく乃亜に、煌一は呑気な声で答えた。
「だから名前が英田なんか」
「え?」
「英語の英やん。あ、英国も英やん! なるほどな、珍しい苗字やと思ったわ」
「はぁ……?」
煌一は、そやそや!と腕組みをしながら頷いている。まさかの返答に乃亜は呆気に取られ、ついに笑い出してしまった。
「そんな、そんなわけないでしょ」
「めっちゃ笑うやん」
肩を震わせてくすくす笑う乃亜を見ながら、煌一はボソリと呟いた。
「かわいい」
「え?」
煌一の言葉が聞き取れず顔を上げた乃亜に、煌一は目尻を下げて笑いかけた。
「ノアは違う世界知ってるってことやろ? それってすごいことやん。俺は尊敬する」
そんな風に褒められるとは思わず、乃亜は目を見開いた。安心して、気持ちがじわりと溶けていく。
「安心しぃ。日本のことはわからんけど、京都のことは俺が教える」
煌一は優しい声音で続ける。
「だから、ノアも俺の知らんこと教えてや」
目を覗き込まれながらそう言われて、乃亜は心のスイッチがカチッと押されたのを感じた。この人のことをもっと知りたい。自分のことも、もっと知ってほしい。
「荒木くん」
「煌一でえぇ」
ざああと、色づいた紅葉が風に揺れる。吹き飛ばされた色鮮やかな葉っぱたちがくるくると二人の間を舞った。
「あ、葉っぱが……」
煌一の頭にオレンジ色の葉っぱが一枚乗っていた。乃亜は手を伸ばしてそれを取る。煌一の色の薄い髪がキラキラしている。乃亜と煌一はしばらく見つめ合った。
「そろそろ帰るか」
煌一が先に目線を外し、いつもの明るい調子に戻って言った。残念な気持ちを抑えながら乃亜は頷く。帰路に着こうとする煌一のあとを追おうと立ち上がったその時、煌一が急にくるりと振り返って言った。
「そうや、英語話せるんやったら、うちでアルバイトせぇへん?」
「え?」
意味がわからずにいる乃亜に向かって、煌一はキラキラと目を輝かせて喋り続ける。
「それがええ! うち、最近外国からの観光客がめっちゃ増えてんねんけど、英語話せる人がおらんねん」
「うちって?」
「ここが俺んちっていうのはほんまやで」
「京都いち、日本いち、いや世界いち有名な神社の跡取り息子、荒木煌一と申します。よろしゅうおたのもうします」
「え、えぇーー!」
わざとらしく三つ指をついて頭をぺこりと下げる煌一に、乃亜は驚きの声を上げたのだった。