教室の窓から大文字山と神社仏閣が見える。あぁ、本当に京都の学校にやって来たのだなと、乃亜(のあ)は他人事のように思った。空は晴れているが、雨がぽつぽつと降り始めていた。天気雨だ。

「今日からこのクラスの一員にならはります。英田(あいだ)君、自己紹介してくれる?」

 担任の男性教師が、まだ耳慣れないイントネーションで隣に立つ乃亜を促した。
 乃亜ははっとして視線を窓外から前へ戻した。昔ながらの黒い学ランを着たクラス中の男子たちが自分を見つめている。手の平から急に汗が吹き出してきて、乃亜はぎゅっと拳を握った。

「初めまして、英田乃亜と申します。よろしくお願いいたします……」

 乃亜は前の学校の制服、紺のブレザーに包まれた華奢な体を強張らせながら、うつむき加減で言葉を絞り出した。黒目がちの丸い瞳に、少し伸びかけの真っ直ぐな黒髪がかかる。

 高校2年の9月、乃亜は両親の仕事の都合で、京都にある私立洛永(らくえい)高等学校へ転入することになった。父の母校らしいということだけで、この学校にも京都にも、特に縁もゆかりも感じていない。
 知らない土地で、知らない人たちとやっていく。内気な乃亜にとってはかなりの試練だった。

 黙り込む乃亜を優しく覗き込んで、担任が声をかけてくる。

「せっかくやし、何かあらへん? 趣味とか、なんか好きなもんとか」

「趣味は、あー……チェスです」

 シーン。

 これは返答を間違った、と乃亜は焦った。チェスなんて京都では全くポピュラーではないのだ。
 うっすらそばかすのある頬を赤く染めて、乃亜は頭をフル回転させた。何か別のこと、別のこと。とにかく何か言わないと。
 静まり返った教室の空気をなんとかするため、乃亜は薄い唇を開いた。

「あ、英田乃亜です。ノアと呼んでください。8月28日生まれの17歳です。五人家族です。姉と弟がいます。猫を二匹買っています。種類はアメリカンショートヘアーとノルウェージャンフォレストキャットです。とても人懐っこくていたずら好きの猫です。昼寝をするのが好きです。好きな食べ物は抹茶とチョコレート、好きな色はグレー、好きな言葉は『ちりも積もれば山となる』」

 シーン。

「あ、今のは猫のじゃなくて、僕の好きなものですよ!はは……」

 シーン。

 クラス中からしらけた視線を受けて、乃亜は胃がキリキリと痛むのを感じた。やってしまった。こんな教科書通りの自己紹介項目をリアルで言うような人間は京都にはいないのだ、いや世界中どこにもいないだろう。もうこのクラスに馴染むことはできない。絶望的だ。
 
 あぁ、遠くに見えるあの大きな赤い門は、鳥居だっけか。乃亜は、うつろな目で窓の外を見つめて現実逃避を始めた。
 あの門をくぐって、どこか別の世界へ行ってしまいたいーー。

 そのとき、見つめていた窓が突然ガラッと開いて、黒い影が教室へ飛び込んできた。何か野生動物が侵入してきたのだろうか。あまりに素早い身のこなしに、乃亜はヒッと小さな叫び声を上げた。

荒木(あらき)君、また遅刻ですか」

 さほど驚いた様子もなく、ゆったりした調子で担任が言った。

 荒木と呼ばれた何かはむくりと立ち上がった。それは制服を着た人間だった。学ランの前ボタンは全て開いていて、インナーの赤いTシャツが見えている。ズボンも腰パンで、このクラスの誰よりも制服を着崩していそうだ。そして何より印象的なのは、

「ブロンド……」

 乃亜は思わず声に出していた。彼の髪色だ。根本まで綺麗に染めあげられた白に近い金髪で、少しくせ毛なのか外にぴょんぴょん跳ねている。
 雨に濡れたのか、金髪男は動物のように頭をプルプルと振って水滴を飛ばし、近くの生徒に「水飛ばすなやー」「髪色ヤバないか、カッコよ」などと親しげに声をかけられている。

「はよ、席つき」

 担任は相変わらず慌てる様子もなく声をかける。窓から入ってきたことをどうして誰も咎めないのだろう(しかも教室は2階だ)と乃亜が混乱しているうちに、荒木と呼ばれた男は席につくのかと思いきや、ツカツカと歩いて乃亜の隣にやってきた。

 身長は乃亜より頭一つ分くらい高い。金髪男は乃亜の方を向き、八重歯の覗く口でニカッと笑った。乃亜がぼう然と彼の切れ長の目元を見つめるうちに、金髪男はクラスメイトの方へ向き直ると大きく息を吸った。

「荒木煌一(こういち)です。コウイチでもコウでもコウちゃんでも、好きに呼んでください。4月3日生まれの17歳です。四人家族です。姉がいます。スズメを大量に飼っています。あと、猿とイノシシもいるかも。めっちゃ人懐っこくていたずら好きです。身体動かすのが好きです。好きな食べ物は油あげ、好きな色は赤、好きな言葉は『今日は自習です』」

 教室がどっと湧く。乃亜が作り上げた氷の世界は、もうどこにもない。

「あ、めっちゃ人懐っこくていたずら好きなんは、俺のことな」

 自分だけに聞こえる声でボソッと呟かれて、乃亜はなんだかドキッとしてしまった。荒木煌一。窓から現れた破天荒なこの人は、一体何者なのだろう。


乃亜は下駄箱からスニーカーを取り出してほっと一息をついた。なんとか転入初日を終えることができた。

「お、転校生くんや」

「これからよろしくなー」

 クラスメイトが通りすがりに声をかけてくれて、乃亜はぺこりと会釈する。煌一の自己紹介のあと、他の生徒たちも俺も俺もとこぞって長文自己紹介を始め、ホームルームは大盛り上がりのうちに終わったのだった。

 スニーカーを履いた乃亜がいざ帰らんと顔を上げると、見覚えのある明るい金髪が少し先を歩いているのが目に入った。荒木煌一だ。

 お礼を言わなければ。

 乃亜は煌一を追いかけた。

「あのっ」

「なんや? あ、ノアか」

 学生カバンを逆手に持って肩に引っ掛けたままの煌一が振り返る。いきなりの名前呼びにドギマギしながら、乃亜は頭を下げた。

「あの、先ほどはありがとうございました」

「何が?」

「何がって、自己紹介のときに助けてくれたから」

「助けた? ちゃうちゃう、なんや面白そうなことやってるなて思て、俺も真似してみただけ」

 煌一はニカッと笑ってみせた。教室で見たのと同じ、自信に溢れていて、でも飾らない笑顔だ。乃亜はなんだか煌一が眩しくみえた。

「荒木くん、が話しただけで、教室の空気が変わった。どうやったらあんなことができるんですか……まるで魔法みたいだった」

「まほう、ねぇ」

 煌一はキリッと上がった眉をひそめて一瞬うーんと考えたあと、今度はいたずらっぽい顔をしてニヤリと笑った。

「なんでか知りたい?」

「え?」

「俺がなんで、魔法使えるんか」

「なんで、って」

「教えたるわ、ついてきぃ!」

 戸惑う乃亜の手を引いて、煌一は走り出した。