真夏の太陽の下を歩いたことで流れる汗を拭い、斜めがけしたバッグからスマホを取り出した。画面を触り、現在の時刻を確認する。
 九時四十二分。
 約束の時間は十時だった。まだ少し余裕がある。
 プリントを挟んだファイルやノートなどを入れているバッグにスマホをしまった杉谷歩夢(すぎたにあゆむ)は、ここから後五分程度歩いた先にある、歩夢の唯一の友人である西条直輝(さいじょうなおき)の自宅を目指していた。彼の自宅が歩夢の目的地だ。今日は直輝と夏休みの課題を一緒にやりつつ、適当に遊ぶ約束をしているのだった。
 歩夢は直輝の家へと向かう道中にあるコンビニへ、吸い込まれるように足を向けた。あまりの暑さに息も切れていて、数分の間でも冷房の効いた室内で涼もうと考えての行動だった。
 コンビニの出入り口を開け、中の涼しさに小さく息を吐く。不審がられないよう、そこで立ち止まることなく店内を見て周り、なんとはなしにアイスケースの中を覗き込んだ。夏はアイスが食べたくなる時期だ。一通りざっと見て、カップのバニラアイスを二つ、まとめて手に取った。何かを買うつもりはなかったが、コンビニで涼んだついでだ。差し入れと称して、直輝と一緒に同じものを食べられたらいい。
 レジでスムーズに会計を終え、コンビニを後にする。瞬間、多少なりとも冷えていた身体が外の熱気に包まれた。踵を返したくなってしまったが、いつまでも道草を食っているわけにもいかない。
 袋に詰めてもらったアイス二つと木製のスプーン二本の僅かな重みを片手に感じながら、今度こそまっすぐ、直輝の待つ自宅へと歩みを進める。
 日陰がある場合は日陰を優先し、できるだけ日に当たらないよう歩き続け、ようやく目的地に辿り着いた。すぐに人の姿を発見する。直輝だ。彼は玄関の付近でスマホを触りながら立っていた。
「直輝くん、ごめん、待った……?」
 歩夢は寄り道をしてしまったことで時間に遅れてしまったのかと内心で焦りながら小走りで駆け寄り、こめかみを流れる汗を手の甲で拭った。スマホから視線を上げて歩夢を認めた直輝が、玄関の網戸に手をかけ口を開く。
「待ってたよ。早く来ないかなって、待ってた」
「早く……」
「暑かったよね。部屋、冷房つけてるから、ゆっくり涼んで」
 思わずドキリとするような台詞を恥ずかしげもなく平然と言ってみせる直輝に、歩夢の身体は内側から熱くなった。同時に顔も火照ってしまうのが分かったが、秘めた感情を悟られないよう汗を拭うことで咄嗟に誤魔化す。
 その台詞はきっと、友達としての冗談だ。自分たちはただの友達に過ぎないのだから。
 直輝は時折、そんな風に期待させるようなことを口にする。歩夢はそれに振り回されていた。歩夢が直輝に特別な感情を抱いていることを、直輝は知らない。知らないから、発言に慎重になることがないのだろう。良く言えば、心を開いてくれていることになるだろうが、悪く言えば、意識されていないということになる。
 何も気づいていない直輝に思っていることを伝えれば、自分に意識が向くだろうか。歩夢は家に上がる直輝を見つめながら、ぎゅ、と手を握り締めた。その手が、袋の持ち手の感触を思い出させた。反射で声が出る。
「あ、直輝くん、これ、アイス、買ってきたんだ。よかったら、一緒に食べない?」
 歩夢を振り返った直輝が、歩夢の顔と、歩夢が軽く持ち上げた袋を順に見て、それからすぐに、いいよ、食べよう、と頷いた。嫌な顔はされなかったことに、ひとまず安心する。
「アイス、いくらした?」
「あ、お金? それは大丈夫だよ。俺が直輝くんと、一緒に食べたくて、買ってきただけだから」
「……ありがとう。冷凍庫に入れておくから、貸して」
 直輝が手を差し出す。歩夢は自分の手元に目を向け、アイスの入った袋を直輝に渡した。保冷剤も何も入れていないため、直射日光を浴びて溶けかけているに違いない。もう一度冷やしてゆっくり食すのが賢明だ。
 アイスを直輝に預け、家に上がるよう促された歩夢は、お邪魔します、と半ば緊張しながら、意識している人の家に足を踏み入れた。背後で網戸が閉められる。閉めるのは当然であるはずなのに、直輝の手によって、外の世界との接触を遮断されたような気がしてしまった。直輝の顔色は、何も変わっていない。
 主導する直輝に倣って靴を脱ぎ、揃え、床を踏む。静かに直輝について行っていると、二階へと続く階段の前で足を止めた彼が歩夢を振り返った。
「先上がってて。アイス、冷凍庫に入れてくる。ついでに冷たい飲み物とかも持って行くから」
「あ、それなら俺も、手伝うよ」
「歩夢くんは何もしなくていいよ。ありがとう。先に行って?」
「あ……、うん……」
 口調はいつも通り柔らかいものの、そこには有無を言わせないような圧があった。元々控えめな性格の歩夢はそれ以上食い下がることができず、直輝の言われた通りにする他ない。ここは直輝の家なのだ。西条家の住居なのだ。お邪魔している立場である歩夢が、自由に動き回っていい場所ではなかった。
 歩夢に背を向けリビングへと向かう直輝の背中を暫し眺めてから、大人しく階段に足をかける。直輝の家に上がるのは今日が初めてというわけではなかったが、いつ来ても他所の家は緊張してしまうのだった。相手が、友達とは少し違う意味で気になっている直輝だからこそ、余計肩に力が入ってしまうのかもしれない。
 今日は一緒に課題をやるだけだ。意識するようなことも、緊張するようなことも、何もない。何も起こらない。期待するだけ無駄だ。いつだって態度の変わらない直輝を見れば、それは明らかである。
 言わなければ何も変わらない、変えられないと理解していながらも、伝えたい言葉が、それを口にするための一歩が、歩夢には鉛のように重かった。歩夢は自分の気持ちに気づいた時からその場に立ち止まったままで、未だ前に踏み出せずにいる。
 二階に上がり、直輝の部屋に入ろうと試みるものの、やはり遠慮が先走ってしまった歩夢は、直輝が上がってくるのを扉の付近で待つことにした。
 しばらくして、階下から足音が聞こえてくる。直輝が階段を上がっているようだ。待っているだけなのにどうにも落ち着かず、そわそわしてしまう歩夢は、手を閉じたり開いたりすることで緊張を和らげようと、効果があるとは思えないその動作を意味もなく繰り返していた。
「……あれ、入っててよかったのに」
 俯いていた歩夢の耳に直輝の声が届いた。目を向ける。片手にペットボトルのお茶、片手にコップ二つとコースターを器用に持った直輝と視線が合わさった。目を見て話すことに苦手意識のある歩夢はすぐに顔を逸らしてしまう。その状態で、余所見をしながら徐に唇を開いた。
「ごめん、なんとなく、入りにくくて……」
「それなら、戸、開けてくれる?」
「……うん」
 直輝に指示されるがまま、歩夢は把手を握り、下へ捻って戸を開いた。室内から冷えた空気が漏れ、歩夢の肌を掠める。あまりの涼しさに我先に引き込まれてしまいそうになったが、ありがとう、と中へ入って行く、ここの主である直輝をまずは優先し、歩夢はその後に続いた。
 冷風を無闇に逃さないよう、開いた戸を静かに閉める。その後、不躾に室内を見回してしまいながら、いつ来ても整理整頓が行き届いている部屋だと思った。歩夢が来る度、綺麗にしているのか、元々綺麗好きなのか。余裕のある直輝の姿を見る限り、後者のような気がする。その上、直輝は生き物を飼っているのだった。衛生面では常日頃から注意しているのかもしれない。
 用意されていた机の上に、一階から持参したものを置き始める直輝の後ろを、歩夢は何かに吸い寄せられるように通り過ぎる。直輝の勉強机の横に設置されている台の上にある小さめの水槽の前で、歩夢はゆっくりと足を止めた。その中では一匹の金魚が泳いでいた。直輝が飼っているのは、去年の今頃に行われた夏祭りの金魚掬いで掬ったという金魚であった。
「歩夢くん、うちに来るといつも金魚見てくれるよね」
 水槽に目線を合わせるように前のめりになりながら、優雅に泳ぐ金魚を目で追っている最中で声をかけられ、はっと我に返る。歩夢は素早い動きで身を引き、癖のようにすかさず謝っていた。
「ごめん、勝手に……」
「いいよ。興味持ってくれて、俺も嬉しいから」
 ペットボトルのキャップを開けながら抑揚なく話す直輝は、歩夢の行動を特に気にする様子もなかった。意識など全くされていないと感じる。
 蓋を開けたペットボトルを手にした直輝が透明なコップにお茶を注ぐ。涼しげな音がした。氷と氷がぶつかる軽い音であった。パッと見た時は気づかなかったが、どうやら氷まで入れてくれていたようだ。直輝の些細な気遣いに頭が上がらない。
「歩夢くん、そっち座る?」
「あ、うん」
 そっち、と直輝の向かい側を示され、歩夢は大人しくそこに腰を落ち着けた。斜めがけしたバッグを肩から外す。それを静かに床に置いたタイミングで、コースターの上に乗せられたコップを近づけられた。ありがとう、と会釈混じりにお礼を述べる。歩夢は喉が渇いていたものの、すぐに手をつけることはしなかった。
 二人分のお茶を注いだ直輝と机を挟んで向かい合い、暫し無言のまま、エアコンの冷風に吹かれて涼んだ。汗が引いていく。直輝がコップに口をつける。深く考えることもなく歩夢もそれに倣い、渇いていた喉を潤した。
「……課題する?」
 コースターの上にコップを置いた直輝が、歩夢に目を向け口火を切る。歩夢は直輝と同じ柄のコップから唇を離した。自然と直輝を見たものの、ずっとは見ていられず、一秒も経たずに目を逸らしてしまう。いつまで経っても目を合わせて話せないのを誤魔化すかのように、手にしていたガラスの容器をコースターの上に乗せた歩夢は、その中で揺れる水面を瞳に映した。
「……うん、まあ、するかな。面倒だけど、そのために、直輝くん家に来たしね。少しくらい手をつけないとな、とは思ってるよ」
「……そう。うん、分かった。やろうか」
 元々課題をするという話で、そのために約束を取り付けたも同然だったが、どうにもやる気になれずにいたのか、直輝の歯切れがどことなく悪かった。かといって、歩夢にめらめらとしたやる気があるというわけではない。課題は任意であり、しなくてもいいというのなら万々歳だが、残念ながら必須事項だった。やらなければならないことだった。何もせずに夏休みを終えることなどできない。そんなことをしてしまえば、後で苦労するのは自分である。
 直輝が腰を持ち上げた。音もなく歩き、勉強机の上に置いていたプリントやノート、筆記用具を掴んで戻ってくる。その間に、直輝は金魚を一瞥していた。直輝を目で追っていた歩夢は、金魚を見た彼の口元が微かに緩むのを目撃する。直輝にとって、大事に育てている金魚は、癒しに直結する生き物なのかもしれない。
 羨ましい。金魚が。凄く。羨ましい。自分は直輝から、そんな風に微笑まれたことなどない。愛情を注がれたことなどない。一年前の夏祭りで掬われたその日から、金魚は直輝に愛され、直輝のプライベートすらも知っている。自分は何も知らない。
 話の通じるはずもない金魚に嫉妬する醜い自分に、歩夢は溜息が漏れそうになった。直輝は生き物を大切にしている心の優しい人だ。ただそれだけのことだ。自分のものではないのだから、直輝を金魚に取られたと思うこと自体が間違っている。歩夢は首を振って邪念を追い払った。
「歩夢くんは、国語全般、得意だったよね」
「……え? あ……、えっと、そう、そうだね。国語は……、他の教科に比べたら、で、できる方だとは思う」
 持ってきたノートを広げながら突拍子もなく問うてきた直輝に、勉強とは全く別のことを考えていた歩夢は動揺してしまう。それにより吃ってしまいながらも、なんとか最後まで喋り切った。歩夢が喋り終えるまで待っていてくれた直輝が何度か頷き、冷や汗をかきそうになっている歩夢を見やる。
「古文と漢文の訳とか、一緒にしながら教えてくれる?」
「え……、俺、教えるの下手だし……、ネットで調べた方が……」
「ネットで検索はするなって先生言ってたし、あの先生、そういうところやたらと厳しいから」
「あ……、そっか……、そんなこと言ってたね、確か」
「だからね、教えてくれる?」
 直輝に目をじっと見つめられる。真意の読めないその両眼が、肯定以外の選択肢を奪っているかのように思えた。拒否できる雰囲気ではない。直輝から時々醸し出される圧のようなそれであった。
 ここで否定の言葉を口にしてしまうと、自分が何か聞きたい時に聞きづらくなってしまう恐れがある。歩夢は目を泳がせてしまいながら、一回、二回、頷いた。直輝の役に立てるのなら、なんだってしたい。なんだってする。
「……うん、俺に分かることであれば、教える」
「ありがとう。お礼に俺も何か協力するよ。数学とか」
「数学、教えてくれるの? それはありがたいな。俺、数学苦手だから、プリントするの凄く苦労してて……」
 歩夢は自嘲気味に笑った。国語は好きな方ではあるが、数学は嫌いであった。たくさんの数字を並べられると、頭の処理が追いつかなくなるのだ。解き方を教えてもらってもすぐには理解できず、また公式を知ってもなかなか使い熟すことができない。すらすら解けたことなどないと言っても過言ではなかった。いつもどこかで引っかかり、蹴躓いてしまう。
 得手不得手が真逆である二人は、互いの苦手科目を教え合って課題を終わらせるという手段を取ることにした。一人で懊悩して時間を無駄にするよりも、遥かに効率がいいはずだ。
 直輝に合わせるために、バッグから古典用のノートと筆記用具を取り出し、机の上に広げた。進捗具合を確認しようと直輝のノートをそろそろと覗く。ページの下半分が空白だった。
 国語は大学ノートを横にして使用する。それが古典の場合は、ページの真ん中に横線を引くよう教科担任から指示されていた。上段が本文。下段が現代語訳。古文はそれで済むが、漢文に関しては写した訓読文を書き下し文に直す必要もあるため、二ページ目に現代語訳を書くようになる。つまり漢文は、見開き一ページ分を丸々使用することになるのだった。
 直輝が開いているのは漢文のノートであった。課題として出された作品の訓読文を写し終えてはいるようだが、そこからは手をつけた様子がない。訳す以前に書き下し文に直す気力すら湧かなかったのだろうか。苦手であればそういうものかと、歩夢は自分の数学のプリントの空白の多さを思い出し、心の中で苦笑した。
「訓読文を書き下し文に直す方法は問題ない?」
「途中で訳が分からなくなる」
「そっか。説明の上手さは期待しないで聞いてほしいんだけど……」
 書き下し文までは済ませている自分のノートと見比べながら、歩夢は前のめりになって直輝のノートに目を通した。指で文字を示しながら、ぎこちなく説明していく。
 漢文は、上から下に順に読んでいくのが基本だった。返り点がついた漢字は一旦飛ばして次へ進み、戻れの合図があれば戻って読む。その合図とは、レ点、一二点、上下点といった、漢字の左下の隅に書かれている符号のことである。
 直後の漢字を読んだらすぐ前の漢字に戻るレ点。一点のついた漢字を読んだら、二点のついた漢字に戻る一二点。上点のついた漢字を読んだら、下点または中点のついた漢字に戻る上下点。
 それぞれの返り点のルールさえ理解していれば、どのような作品でもそれなりに読むことは可能だった。複雑に組み合わさると混乱してしまうこともあるが、ゆっくり時間をかけて読めば意外とどうにかなるものである。
「最初の一文はそのまま読んで、『張僧繇(ちょうそうよう)は、呉中の人なり。』也はなりに変換する。それで次は、武帝までは読んで、崇に返り点がついてるからこれは一旦飛ばす。下の飾を読みたいけど、この漢字は竪点(たててん)で崇と繋がってるから、崇と飾は熟語になる。これも飛ばす。仏寺までいくと、寺に一点がついてるから二点に戻る。これで読むと、『武帝仏寺を崇飾(すうしょく)し、』になるかな。読む順番としては……」
 歩夢は人差し指で、直輝の書いた文字を追った。一、二、三、四、五、六。数字を声に乗せながら指を動かし、直輝に視線を投げる。自分の下手な説明で理解できただろうかと不安だったが、直輝はなんとなく分かった気がすると握っていたシャーペンで訓読文の下に書き下し文を書き始めた。歩夢は手を退ける。直輝は次の文に進んでいく。手助けはもう必要ないかもしれない。歩夢はそろそろとお茶を飲んだ。
 画竜点睛。それが、漢文の課題として出された故事だった。物事を立派に完成させるための最後の仕上げ。物事の最も肝心なところ。という意味であり、画竜点睛を欠く、ということわざの由来となったものである。
「歩夢くん。崇飾し、からは、こんな感じでいい?」
 ノートに文字を書く直輝を眺めていると、不意に顔を上げられ、ばっちり目が合ってしまった。歩夢に見られていたと気づいても、直輝の顔色は変わらない。歩夢から目を逸らすこともない。
 ただ課題をしているだけなのに、ただ確認されているだけなのに、視線が絡み合うだけで赤面してしまいそうになるのはなぜなのか。深く考えるまでもない。それは、歩夢が直輝のことを好いているからだ。説明する時も、少し早口になり、喉が渇いてしまうくらいには緊張していたのだった。
「『多く僧繇に命じて之に(えが)かしむ。』これで大丈夫?」
 直輝が前傾姿勢になって歩夢にノートを見せ、書き下し文を指で追って示した。同じノートを見るため必然的に距離が近くなり、それに今更ながら気づいてしまった歩夢は、時間差で身体が熱くなる。
 歩夢は直輝から僅かに距離を取って自分のノートと見比べ、同じ文であることを確認し、合ってるよ、と頷いた。直輝の目は依然として見続けられなかった。
 その後は、歩夢も直輝も黙々と手を動かし続けた。時々直輝の質問に自分の分かる範囲で答えながら、歩夢は少しずつ現代語訳を進める。ここは多少なりとも頭を悩ませる箇所であった。
「歩夢くん、集中してるところごめん。最後の一文でちょっと聞いてもいい?」
「……うん?」
「これは二回読むってことで合ってる?」
 直輝がノートを歩夢に差し出すように見せ、これ、とシャーペンで文字を突く。手を止めた歩夢は、意識していることを悟られないように身を乗り出し、示された箇所を覗き込んだ。未、という漢字の付近に、シャーペンで突いた跡がついている。その文字の右下と左下に送り仮名が振ってあった。再読文字だ。読んで字の如く、二度読む必要のある字のことである。
「うん、二回読むことだよ。えっと、『二竜の未だ眼を点ぜざる者は、(げん)に在り。』だから、読めてる。直輝くん、完璧にできてるし、俺が教える必要なかったね」
「そんなことないよ。歩夢くんのおかげで、よく分からなかったことが理解できたから。教えてくれてありがとう。次は現代語訳だね」
 直輝が言い、一番時間がかかる現代語訳に早速取り掛かった。意見を出し合い、文章を組み立てていく。意味が分からない語句は、直輝の持つ辞典を借りて調べ、協力しながら物語を読んでいった。
 ああでもないこうでもないと頭をフル回転させながら二人して集中力を発揮し、最後まで読み終えた後にもう一度最初から目を通す。多少の間違いはあるだろうが、物語としては成り立っているように思えた。要約するとこうだ。
 張僧繇という画家は、四匹の白竜の絵を描いたが眼は描き入れていない。描き入れるとすぐに飛び去ってしまうから、と。しかし、人々はそれを信じず、張僧繇に眼を描き入れさせた。すると、すぐに稲妻が壁を突き破り、眼を描き入れた二匹の竜は飛び去った。描き入れていない二匹は残っている。
「ひとまず漢文は終わったね。ありがとう。凄く捗った」
「俺もありがとう。一人だともっと時間かかってたと思うから」
 歩夢は訳まで終わった漢文のノートを暫し眺めてから閉じ、側に置いていたバッグにしまった。読書感想文などとは違ってそれほど大物というわけではないのに、まるで大物の課題をやり遂げた後のような達成感がある。苦手な数学のプリントを終わらせた後もまた、同じ気持ちになるのではないか。
 歩夢は良い気分のままコップを掴み取りお茶を一口飲んだ。歩夢を真似るように直輝も水分を摂る。そうして、直輝が部屋にある時計で現在の時刻を確認した。
「もう昼過ぎてる。休憩にしよう? 素麺ならあるんだけど、食べる?」
「え、や、そんな、申し訳ないよ」
「気にしなくていいよ。親からも友達と食べていいって言われてるから」
「……そ、それじゃあ、あの、いただきます」
「うん。持ってくるからここで待ってて」
 ノートや筆記用具を机の下にまとめて置いた直輝が腰を上げる。手伝おうかと思ったが、二階に上がる前のように断られる予感がし、歩夢はお礼以外の言葉を口にはしなかった。
 部屋を出る直輝を見送って、私物をとりあえずバッグに押し込み机を綺麗にする。歩夢は一人になった部屋で冷房の涼風を浴びながら、徐に水槽に顔を向けた。一匹の金魚。一匹しかいない金魚。
 直輝は金魚を増やす予定はないのだろうか。今年の夏祭りで金魚掬いがあれば、またやるつもりでいるだろうか。
 清潔に保たれた水槽の中を独占している金魚がどう思っているのかは知る由もないが、水中に一匹だけしかいないのは寂しそうだと、金魚の気持ちを想像して決めつけてしまうのは人間のエゴでしかない。
 実際のところ、自分を大事に飼育してくれる人に掬ってもらえて、案外金魚は満足しているかもしれない。掬われなかった他の金魚に対して、優越感のようなものすら覚えている可能性だってあった。
 しかしながら、それらは何もかも歩夢の想像であり、憶測である。その域を出ることはないため、どれも正解であり不正解であった。
 歩夢は今一度金魚を観察しようとその場を立ち、水槽に近づいた。ヒレを動かして元気に泳ぐ金魚を目だけで追う。
「直輝くんの微笑みを君は見てるんだよね。いいな。俺にも見せてくれないかな」
 金魚に向かって思わず吐露してしまうと、時間差で恥ずかしさに苛まれた。顔に熱が集まる。何を言っているのだろう。何を願っているのだろう。金魚に話しかけたとて、願望が叶うはずもないのに。
 歩夢は顔の熱を冷まさせようと手でぱたぱたと仰いだ。金魚は一人で喋って一人で赤面する歩夢のことなど眼中にないかの如く、ゆらゆらと水中を回り続けている。直輝の本音も、歩夢の本音も、知っているのはこの金魚だけに違いない。
 赤くなった顔の熱が次第に落ち着き始めた頃、部屋の外で人の気配がし、扉が開いた。言わずもがな、直輝であった。盆を手にしている。その上には、長方形の容器だったり底が深めの皿だったり、食事をするのに必要なものが載せられていた。それから、歩夢が買ってきた二つのアイスも一緒に。
「……歩夢くん、また、金魚見てたの?」
「う、うん。一匹だけしかいないみたいだし、増やす予定とかないのかなって……」
「ないよ」
「……な、ないの?」
「うん。俺が閉じ込めたいのは、一人だけだから」
「閉じ込めたい……? 一人……? え、今は、金魚の話をして……」
「うん、分かってるよ」
「や、だ、だったら……」
「歩夢くん。その金魚はね、歩夢くんなんだよ」
「え……、お、おれ……?」
 いきなりのことに、全くもって話が読めなかった。会話が成り立っているようで少しも成り立っていないと感じてしまうほどに、直輝の言葉が歩夢の理解の範疇を超えている。冗談を言っているのかと思ったが、直輝は冗談を口にするような人ではないし、表情も動作も視線も、そのどこにも、ふざけているような節はなかった。
 机の上に盆を置き、容器や皿を配置する直輝を困惑気味に見つめてしまう歩夢を見かねたのか、床に膝をついていた直輝が再び立ち上がった。歩夢の側まで寄り、水槽の中の金魚を見下ろす。そして、直輝はゆっくりと唇を開いた。
「この金魚を、俺は歩夢くんだと思いながら育ててきた。歩夢くんを狭い水槽の中に閉じ込めて、毎日愛情を注いで。最終的には、俺がいないと生きていけなくなるようにさせる。歩夢くんに俺以外は必要ないし、俺も歩夢くん以外必要ないから」
「え……、い、意味が……、そ、それは、どういう……」
 饒舌に喋る直輝の台詞の意味が、やはり咄嗟には理解できず、困惑が混乱に変わっていく。流れがおかしな方へ向いていた。言い知れぬ不穏な空気に包まれていた。歩夢は目を泳がすばかりで、言いたいことも聞きたいことも何も口にできない。
 それでも、身体の反応は正直で、直輝の一方的な物言いに、歩夢の心臓は早鐘を打っていた。冷めかけていたはずの熱がぶり返すのが分かる。
 制御できるはずもなく紅潮してしまう顔を、歩夢は手で隠した。すると、その手を直輝に掴まれ、あっという間もなく顔の前から退けられてしまう。不意の接触に肩が跳ねた上に、歩夢のパニックに拍車がかかる行動であった。自分の心音が、あまりにも近い所で聞こえている。
「分からないなら、分からせるよ。だから、触れていい?」
「え、あ……、も、もう……、ふれて……」
「うん、触れてるね。じゃあ、もう、いいよね?」
「い、いい、って、なにが……」
 予期せぬ事態に吃り、たじたじになる歩夢を無視する直輝が、間髪を入れずに歩夢の唇を奪った。突然のことに目を見開く歩夢は反応が遅れる。抵抗しなければと思った時には既に、後頭部を引き寄せられ無理やり舌を差し込まれていた。
 直輝とは似たような体格であるはずなのに、歩夢の手はなぜか直輝を押し退けられなかった。それは、直輝に唇を犯されていることを、本気で嫌だとは思っていないからかもしれない。歩夢は直輝のことを、好いているのだから。
「……これで、理解できた?」
 一頻り歩夢の口内を弄んだ後で、煽るように唇を離した直輝が歩夢を見つめる。歩夢はあまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にさせ、手の甲で唇を押さえながら顔を背けてしまった。生々しい舌の感触が消えてくれない。
「……歩夢くん、まだ、分からない?」
「あ、え……、や、ま、まって、まって、わかった、わかった、から」
「本当?」
「う、うん。ほ、ほんと、ほんとだから」
 余裕がないせいで質問に答えられなかった歩夢を見て、まだ分かっていないと勘違いしてしまったらしい直輝がまた攻めようとするのを歩夢は必死で阻止した。もういっぱいいっぱいだった。情報過多で、尚且つそれが渋滞しているために、これ以上は限界だったのだ。一つ一つ整理して捌いていかなければ、頭の中がパンクする。覚えたばかりの漢文の語句の意味だったり画竜点睛の内容だったりを忘れてしまいそうになる。
 歩夢は一歩下がって直輝と少し距離を取り、冷静になろうと深呼吸を繰り返した。終始涼しげな直輝は歩夢の心中など知る由もないだろう。直輝曰く、歩夢だという金魚を鑑賞し、マイペースな動作で、簡単な昼食の準備が成された机の前に移動する。未だ混乱している歩夢は、直輝の発言をぐるぐると反芻していた。
 閉じ込めたいのは一人だけ。金魚は歩夢。そう思いながら飼育していた。水槽の中に閉じ込め、毎日愛情を注ぎ、直輝がいないと生きていけなくなるようにさせる。歩夢に直輝以外は必要なく、直輝も歩夢以外は必要ない。分からないなら、分からせる。
 直輝のそれはまるで、行き過ぎた思想のようだった。その対象が、他でもない歩夢である。歩夢もまた、直輝に矢印を向けている。愛の重さには随分と差があるように思えるが、想いの方向は重なっていると言えた。だからこそ、直輝の重みを感じる愛情を知っても、驚愕のあまり混乱するばかりで嫌悪することがなかったのかもしれない。
 いつも冷静で落ち着きがあり、ミステリアスで不思議な雰囲気を纏っているその裏で、金魚に歩夢を投影し、閉じ込め、歩夢以外は必要ないと断言してみせるほどに、ドロドロとした欲を隠し持っていたことなど、今の今まで知りもしなかった。
 一人で考え込む時間を設けたことで混乱から抜け出した歩夢は、今度はふわふわとした高揚感に包まれた。自分と直輝はつまり、両想いなのではないか。思っても見なかった収穫に歩夢は鼓動が高鳴る。
 こっそりと直輝に視線をやると、偶然なのか何なのか、こちらを見ていたらしい直輝としっかり目が合った。微かに口角を持ち上げられる。心臓が跳ねた。狡いと思った。今までそんな表情は見せてくれず、ずっと見たいと願ってはいたものの、それがこのタイミングだなんて、狡いと思った。直輝は全部分かっていて、分かっているから、わざと、沼らせようとしている。歩夢は泥沼に、片足を突っ込まされたのだ。
「歩夢くん、素麺、食べよう。これが終わったら、歩夢くんが買ってきてくれたアイスを食べよう」
 温度の変わらない声色で、直輝は歩夢を呼び寄せる。直輝の態度にほとんど変化はないが、それでも確実に、少し前の純真な関係性ではなくなっていると感じた。歪みに気づいてしまったら最後、もう見て見ぬ振りはできない。
 歩夢は直輝に引き寄せられるように元いた場所に戻り、直輝と向かい合った。何もかも準備されている。歩夢がすることは、食べることだけだ。割り箸を手に取る直輝を見て、歩夢も自分の前に置かれていたそれを手に取った。いただきます、と声を揃え、同じ食べ物を口にする。
「歩夢くん、さっきのキスはね、画竜点睛だよ」
「……使い方、間違ってる、と、思う」
「そうだね。まだ、完璧じゃないから」
 直輝が素麺を啜り、噛み、飲み込み、そして、歩夢を見た。空気が淀む。重くなる。歩夢は得体の知れない何かが自分に絡みつくのを感じた。直輝はこれほどまでに、暗い目をしていただろうか。これが、直輝の本性なのだろうか。
「歩夢くん、早く、俺がいないと生きていけなくなってね。絶対、そうさせるからね」
 まるで光のない目に見つめられ、歩夢は上手く言葉を発せなくなる。直輝の執着とも取れる言動に恐怖を抱くよりも、他の誰もいらないといった偏った思考を持つほどに想われていることに、歩夢は快楽のようなものを覚え始めていた。この心地よさを覚えてしまったら、もう。
 水槽に、目を向ける。金魚が、泳いでいる。歩夢が、泳いでいる。瞬きを、する。瞼を閉じて、開く。その刹那、水槽の中で、眠るように沈んでいる自分の姿が、はっきりと見えたような気がした。きっと、もう、自力では、浮遊できそうにない。