その後、湊太は主役に復帰し、十月考査後の土曜日、無事大会に出場した。だが、県大会には進めなかった。県大会に進めるのは常連校ばかりで、一昨年去年と二年連続で出られただけの洸太たちの学校はまだまだ実力不足だったと言うことだろう。
 来年の大会には引退して関われない洸太たち二年生は目を真っ赤にさせたが、一年生が「来年は絶対に行きますから」「先輩たちを来年度の県大会へ招待します」と泣いてくれた。
 だが、ここで立ち止まってはいられない。次は年明けに行われる学内公演に向けて一から新しい劇を作っていく。そうやって練習を積み上げていくことが来年の大会を引っ張っていく一年生の力につながるし、送り出す三年生や迎え入れる新一年生に魅力を知ってもらえる契機になる。大会ではないからといって力を抜いていいことにはならない。
 励ましなのか、顧問は反省会で新しい台本を配り、「月曜日にオーディションをやるからね! 休んでる暇はないよ!」と部員を鼓舞した。
 洸太は大会の帰路から胸が高鳴るのを感じた。ミナトに言われたように、次は役者をやってみたい。自分が輝かせてきた舞台に自分の足で立ちたい。代役ではない、名前つきの役を演じてみたい。
 赤トンボの飛ぶ道を帰って風呂に入り、洗面所で髪を乾かす自分を鏡で見つめた。そして湊太の部屋に直行する。コンコンとノックをしてドアを開けると、湊太はベッドの上で突っ伏していた。足音でこちらだと分かっているだろうに、なんの反応も示さない。
「お風呂お先に。次どうぞ」
「……ん」
「今日の結果、へこんでる?」
「……ん」
「でもソータのせいじゃないよ」
「……それは分かんねえだろ」
 湊太が落ち込んでいるのを久しぶりに見た。ちょっと迷ったが、「月曜から新しい劇になるよ」と言った。
「また主役をやることになるのはソータだろうから頑張ってよ」
「月曜から頑張る。日曜までは落ち込んで過ごす」
 その言い方に少し笑い、「ねえ」とベッドの側の床に座った。
「髪切りたいんだけど。ソータがいつも行ってる美容院の名前教えて」
 すると湊太が顔をあげた。いつも千円床屋で済ませているこちらに訝しげな表情をする。だが、なにかを感じたのか、体を起こしてスマホを取り出した。タタタタとタップし、洸太のスマホがブブッと振動する。
「情報を送った。俺がいつも切ってもらってるのは神崎さんって美容師さん。明日空きがあるみたいだし、行ってくれば?」
 湊太がまた突っ伏しそうになったので、「ヘイ、ソータ!」と洸太はスマホを向けた。
「はい、チーズ!」
 反射的にピースした湊太の画像を確認し、湊太にそれを見せた。
「はい、笑顔! 僕がこの笑顔を暗記したしスマホにも保存したから、ソータも忘れちゃ駄目だからね」
 ようやく湊太が「なんだそれ」と笑い、洸太も笑って部屋を出た。スマホに送ってもらったリンクから美容院のサイトに飛んで、夕方の空き時間に予約を入れる。そして新しい台本を読み始めた。
 役作りを意識して台本に目を通すのは初めてだ。登場人物の名前とセリフしか書かれていない台本に目を通し、誰がどういう性格でどんなトーンでしゃべるのか考える。
 その中でも朝比奈大悟という役が気になって読んでいると、スマホがブブッと振動した。見ればミナトからの着信だ。既に県大会に進めなかったことはメッセージで送ってあったから、慰めの電話だろう。「もしもし」と出ると、耳元でミナトの声が少し寂しそうに笑う。
『大会お疲れさまっす。残念な結果になっちゃったんすね』
 その一言で今日で終わってしまったひとつの世界が報われる気がした。ふふっと笑い、ごろんとベッドに寝転がる。
「でも、楽しかったよ。いい作品だったなと思ってる」
『先輩がそう思ってるならいいっす。オレにとっては初めて見た劇でしたけど、感動ものでした』
「ありがとう。ミナト君は今日はなにしてた?」
『宿題っす。試験が終わったばっかりなのに、なんで勉強しなきゃいけないんすかね』
「人生は毎日が勉強なんだよ」
『うわ、特進科のリアルすぎる声! 普通科で音をあげてたら先輩にボコられそうっす』
「ボコるって、デコピンするんだっけ。グータッチのほうがいい?」
『それ覚えてんすか? 最近のオレはいい子っす。誰もボコってないっす』
 ミナトの返しにくすっと笑い、少しだけおしゃべりをして通話を切った。ブラックアウトした画面に映る自分を見る。以前ミナトがやったように前髪を掻き上げて、笑顔を作ってみた。
 翌日、初めて美容院へ行った。つるつるの白いタイルの床と壁一面の鏡群にどぎまぎする。どうぞと通された席に座って鏡を見ると、目の前の台にお守り代わりに持ってきた台本と黒縁の眼鏡を置いた。
「えっと、寿君? 湊太君の兄弟かな?」
 奥からやって来た女性に洸太は「初めまして」と頭を下げた。そして昨日撮った湊太の写真を見せる。
「違う髪型にしてください」
 その夜、湊太と小学校以来久しぶりに喧嘩した。前髪を斜めに流した額が見える髪型が恥ずかしくて眼鏡をして家に帰ったのだが、湊太が「取れ!」と眼鏡を奪い、洸太が「返して!」と叫んで奪い合いになったからだ。
 湊太の部屋まで追いかけたが、カーペットの上で湊太が踏んづけた眼鏡はフレームが曲がり、「やべ」とそれを拾った湊太の手の中でブリッジ部分がぽきっと折れて割れた。お気に入りだった眼鏡の惨状に腹の底から「ふざけるな!」と怒りの声が出る。
「コータ、それそれ。怒るときは今の怒りを思い出して演技すればいいんじゃねえ?」
「ごまかすな! その眼鏡今すぐ直してきて!」
「もうちょっと口悪く言えねえのかよ? ほら、もっとぶち切れた感じでさ」
「ちょっとは悪びれるとかないわけ!? 僕は明日からどうしたらいいのさ!」
「眼鏡、いらねえだろ? 家では眼鏡してねえじゃん。黒板くらい見えるだろ」
「髪切って眼鏡外したら本気のイメチェンみたいじゃん!? 恥ずかしいんだよ!」
 すると壊れた眼鏡片手に湊太が「あ」と思いついたように顔を明るくさせた。
「賭けようぜ。コータが俺に間違われる可能性。俺はあると思う。『ソータ、今日はちょっと髪型が違うし大人しいな』って思われるんじゃねえ?」
「ソータの雰囲気は出せない! さすがに無理でしょ!」
 割れた眼鏡を奪い取ると、湊太は頭を掻いた。そしてくるりと背を向けてドアノブに手をかける。
「だってさ、コータって演技うまいじゃん。できると思うけど」
「えっ?」
 思わず湊太のうしろ姿を見たが、「俺、風呂行ってくるから」と出ていってしまう。だが、パタンと閉まったドアがまたすぐに開いて、「やっぱ言うわ」と湊太が戻ってきた。ドアの前でぐっとくちびるを噛みしめ、緊張した面持ちでこちらを見る。
「今まで言ったことねえけど、コータって演技がうまいと思う。本音を言わないでなにかに徹するって、結構しんどいと思うし。家族の前でもいい子してて、俺がサッカーをやりたいって言ったみたいなわがままも言ったことねえじゃん」
 湊太がドアにもたれてはあと下向きに息を吐く。
「俺がそうさせてんだよなって分かってた。俺が同じ高校で一緒に演劇部に入ろうなんて言わなければ、コータは伸び伸びと部活やってたんだよな。でも、あの金髪プリン君と一緒にいるときのコータは楽しそうだし、演技しないで話してんじゃねえの。そういうの、もっと出すべきじゃねえの」
――もうここで全部言っちゃえば?
 ミナトの言葉が不意に蘇った。湊太にもミナトにも見抜かれていた。そう思うと、これまで自分を偽ってきた殻が剥がれ落ちていくのが分かる。
 自分の思う自分を自然に振る舞っているつもりだった。それを見抜かれていたのなら、もう「ソータと違うコータ」を演じる意味がない。そして、それが分かっている湊太を悩ませることもない。
――もうここで全部言っちゃえば?
 脳内のミナトがそう言って微笑する。少し首を傾げたときの髪先の揺れを想像し、それが自分の心をそっと撫でていくのを感じた。こぶしをぎゅっと握る。
「……じゃあ、お風呂からあがったら台本の読み合わせに付き合ってよ」
 こちらの言葉に湊太が目をぱちぱちさせた。
「明日のオーディションの練習をしたい。僕は朝比奈大悟役を読みたいんだよ」
 すると湊太が一瞬動きを止めた。そして真剣な顔で聞いてくる。
「なんでその役でオーディションを受けんの」
「主役と、ソータと二人っきりになるシーンがないから」
 洸太は髪を手櫛ですこうとして、ボリュームが減った髪をごまかすようにぺたぺたと触った。
「僕とソータが二人っきりで話すシーンがあったら、見てる側が混乱するかもしれないじゃん。また高校生ものだから、衣装は同じ制服になるだろうし」
「……役者をやりたいんだ?」
「やりたいよ。やりたいって言うって決めた。だから、ソータももう僕に気を遣わなくていいよ。僕も気にしないから」
 洸太は息をつき、「それと」とビシッと湊太を指さした。
「金髪プリン君は毒島港君ね。僕も内心金髪プリン君って呼んでたけどさ。実はミナト君にも役者頑張れって応援されてんの。だから絶対に役がほしいの!」
 すると湊太はまじまじとこちらを見、暫くしてから「そっか」と眉根を下げて笑った。
「じゃ、もう気にしねえわ」
 その瞬間、ふたりの間のなにかが変わったのを感じた。お互いにどこか遠慮し合い、傷つけ合っていた月日のわだかまりが、冬の吐く息のように透明になって消えていく。
「……んじゃ、風呂入ってくる」
「僕は自分の部屋に戻ってるから」
「コータの部屋の本、ちょっと減らせよ。だんだんドアが開けにくくなってんだよ」
 不満そうな湊太の言葉に笑い、「早く入ってこい!」とその背中を押した。