佐藤さんになりたい

 十一月の第二週になると、一年生は県の保有施設へ泊まりのオリエンテーションに行く。その間机の上の落書きは更新されず、夜に「今自由時間なんで」と電話をかけてきたミナトとおしゃべりした。
「そっち、寒くない? 去年、そこ行ったときに風邪引いたんだよね」
 洸太が自室のカーテンを開けて住宅街の街並みを見ると、スマホの向こうからむくれた声がした。
『寒いっす。こんなの聞いてないっす。オレ、末端冷え性なんすよ。指先冷たくて、ダチの首筋で暖をとろうとしたらすんげえ怒られました』
「特進って男子少ないから、寝る前にみんなで寒い寒いって言いながらちっちゃく輪になってトランプしてたな。隣の子の熱波に助けられた」
『トランプ羨ましっ。こっちはこっそりゲーム機を持ち込んで回して遊んでます。でも、宿泊行事つったらトランプっしょ』
「ゲームしに行かなくていいの? 対戦相手を待たせてない?」
『大丈夫っす。先輩に呼び出し食らったって言っといたっす』
「ええ、ミナト君から電話かけてきたのに」
 くすくす笑うと、スマホの向こうも笑った。改めて住宅街の屋根の上に見える夜空を眺める。
「あ、半月。そっちは天気いい? 見える?」
 ミナトが施設内のどこにいるか分からなかったので聞いたのだが、スマホの向こうが沈黙した。
「……ん? もしもし?」
『先輩はすごいっす……今のが「月がきれいですね」の流れっすね? 先輩、タイミングもさりげなさも完璧! 見習うっす』
 佐藤さんに言うのかな。ちらりとそんなことを思いながら「そんなつもりじゃなかったけど」と言っておく。
「それ、『ずっと前から月はきれいだよ』って返してもらえたらいいね」
『どういう意味っすか』
「ずっと前からあなたが好きでしたって意味になるんじゃない?」
『うわ、国語、ムズいっす。きれいが形容詞か形容動詞か分かってないオレには鬼ハードっす。この話題を出したオレ、反省案件っす』
「『きれいだ』は形容動詞。はい、古文の形容動詞の活用の種類は?」
『ナリ活用、タリ活用!』
 洸太が「正解!」と拍手をすると、向こうから「やった」と明るい声がした。
『先輩、冬休みも宿題教えてくださいよ。そろそろ漢文がキャパオーバーっす。外国語は英語で精一杯なのに、なんで昔の中国語?』
「中国語というか……まあいいや、またファミレス勉強ね」
 冬休みもミナトとふたりで話せる。それに喜んでいる自分がいる。にやけそうになる口元を押さえ、「お風呂に呼ばれたから」と理由をつけて通話を終えた。
 スマホのフォルダをタップして、ミナトと撮った公園の写真と中三のときの画像を呼び出す。そう言えば前にクレープを撮ったなと思ってそちらも見てみる。すると、クレープを持つミナトの手が大きくて、手首の骨がごつごつと出ていた。
 この手で佐藤さんと手をつないだりするのかな。
 想像してはあとため息をつく。なんだかこの間から佐藤さんのことを考えると胸がちりちりするのだ。むかむかする気持ちを抑えて台本を掴み、湊太の部屋をノックした。
「なに?」
 ベッドにうつ伏せになって音楽を聴いていたらしい湊太が、白のヘッドホンをずらしてこちらを見る。だが、湊太の目の前にも台本が広げてあった。
「ソータ、前回の劇でヒロイン役の橋本さんに片思いしてる設定だったよね」
「それが?」
「今回の僕の役、彼女がいるんだけど、どうやって気持ちを作ってた?」
「この間は、マンガに出てくるヒロインがイメージにぴったりだったから、そのマンガを読んで橋本さんに重ねてた。結構好きになりかけてた。橋本さんが他の男子としゃべってるとむかついたりしてさ。劇が終わった今は好きでも嫌いでもねえけど」
 それを聞いて額をこんこんと叩く。
「うーん、僕の役、彼女がいる設定なだけで出てこないんだよな」
「コータの理想の彼女を思い浮かべてみれば?」
 湊太が簡単にそう言ったので肩を落とす。彼女いない暦イコール年齢の自分に難しいことを言ってくれる。
「誰なの、理想の彼女って」
「髪が長いかとか、背は小さいかとか、そういうのあんだろ。好きな女優とか」
 うーんと唸ると、湊太が「そうだ」と言った。
「それで思い出したけど、ミナト君の将来の彼女ってなに? 前に言ってただろ?」
 あの大きな手で手をつなぐ女の子。その映像を頭から追い出し「佐藤さんね」と言う。
「詳しいことは省くけど、ミナト君、佐藤って名字の人と結婚したいんだよ。名字を佐藤に変えたくて。だから、話の合う佐藤さんっていう彼女候補を探してるわけ」
 すると湊太が「え」と目を見開いた。
「ミナト君、変わってんな……なんだそれ」
「僕も最初聞いたときはなんだそれと思ったけどさ、本人がそう言ってたし」
「外見でもなく中身でもなく名字? しかも結婚相手? 俺らより年下なのに。高一ってそういう夢見るもん? 高校で初めて付き合った彼女と結婚したい、みたいな」
「そりゃあひとり目で結婚できるのがいいって思うのが普通じゃない?」
 多分、ミナト君の初めての彼女は二週間でフラれた子なんだろうけど。その言葉は呑み込むと、湊太が「そうか?」と怪訝そうな声を出した。
「俺はひとり目よりふたり目がいい。ふたり目のほうが絶対に気が合うじゃん。だから付き合ってるわけだろ? 断然ふたり目だろ」
 初めて聞く湊太の恋愛観に驚く。
「え? そういう考え方……? ひとり目の子のほうが、やること全部が初めてで、どこにデートに行っても初めての場所になるから嬉しくない?」
 こちらの言葉にも湊太は「ふうん?」と懐疑的だ。
「コータはどこにデートに行きたいんだよ?」
「まずは映画かな? 僕が半券を集めてるのを見てても気持ち悪いとか言わない人だといいなとは思う。テーマパークとかよりも寄り道で行ける場所を楽しんでくれるような子がいい」
「年は? ひとり目なら何歳でもいいってわけじゃないだろ」
「えっと……年上よりは年下かな。年上だと振り回されそうで怖い」
「性格は? 元気な子なのか大人しい子なのかでも全然違えだろ」
「元気な子のほうが明るくて見てて気分がいい気がする。こっちも楽しくなりそう」
「見た目だって大事じゃねえ? きれい系かかわいい系かどっちだよ?」
「見た目……? クジャクよりひよこを見てたいだから、かわいい系かも」
 そのセリフに湊太がぷはっと吹き出した。
「その考え方はおもしれえけど、つまり、コータの理想の彼女はこうよ。初めてできた彼女で、初デートは映画。こっちの趣味を打ち明けても、いいですねって言ってくれる。次のデートも近所なんだけど、ふたりで会えればどこでもいいですって喜んでくれる。年下だけど、明るい性格にこっちが元気をもらえるような存在。服装はゴテゴテしてなくて目がくりっとしたかわいい系。さあ、どうだ」
「どうだって、なに?」
「イメージできたか?」
 洸太はそれを聞いてため息をついた。
「そんな都合のいい子がいるわけないでしょ。まあもうちょっと考えるよ」
 なんだよ、真剣に考えたのに。湊太の言葉を背にドアを閉めて、自分の部屋に戻る。台本を放り出してぼふっとベッドに転がった。湊太の言葉を反芻しながらスマホをタップすると、先ほどまで見ていたクレープ画像が浮かび上がる。そこではっとしてがばっと起き上がった。
 あれ、ミナト君、結構当てはまってない?
 頭の中で湊太の挙げていた言葉を思い出していく。
 ミナト君と学校帰りの寄り道や勉強以外で楽しめる場所に行ったのは映画だった。半券の件にはちょっと驚いてたっぽかったけど、そのあと笑っていたから多分受け入れてくれた。年下だし、天然っぽい明るさにこちらも笑顔になれる。私服姿もすっきりしてた。顔はイケメンだけど、童顔でどちらかというとかわいい系だ。言動もかわいいから全体的にかわいく見える。
 スマホをタップし、先ほども見た公園でミナトと撮った画像を見る。何度も撮り直した写真はもうポーズを撮っていなくて、自然な笑顔だ。写真に収まるようにと抱き寄せられたから、肩がぶつかっている。そのときの温かさを思い出して笑顔を見つめていたら、急に顔が熱くなってきた。
 え、さっきのソータの質問に無意識にミナト君のことを連想しちゃってた? 恋愛の意味でミナト君を好きになってるってこと……?
 いやいやいや。誰がいるわけでもないのに手を振って赤くなっているに違いない顔を隠す。ちらりとスマホのふたりを見た。
 ミナト君、男子だけど? 僕より背が高くて、明らかに男子って感じの子だけど? でもすごくいい子だしな。しゃべってて楽しいし。冬休みにファミレスで宿題するって約束しちゃったけど、これがデートだったら……やばい、結構嬉しいかも。
 口元を手で覆い、ミナトからもらった学ランの黒髪の画像を見た。
 僕だったら二週間なんかでフったりしないけどな。中身に幻滅とか、思ってたのと違うとか、ありえない。最初から優しかったしおもしろい子だったし。これまでミナト君に告白してた女子、見る目なさすぎだろ。ミナト君のなにを見てたんだ? こんないい子、他にいないじゃん。
 ベッドに膝を立ててそこに腕を組み、顔をのせてため息をついた。もう一度公園で撮った写真を眺める。
 一緒に帰りたいし、しゃべってると楽しいし、机の上の文通はまだ相手に気づいてくれてないけど嬉しいし、冬休みだって会いたい。でも、これは恋なんだろうか。男子が男子に好きと思ってもいいんだろうか。僕はまた「ダメ」なことをしていないだろうか。
 目を瞑ってじっくり考えようとする。だが、視界が遮られると目蓋の裏に浮かぶのはミナトの顔だ。
 先輩はかっこいいっす。オレの前で演技しなくていいよ。先輩の初公演のチケットをください。
 ミナトの言葉を思い出していると顔が熱くなってくる。
 湊太と比べず自分を見てくれる人。湊太を知っても態度を変えない人。誰にも言えなかったことを話せた初めての人。一緒にいて一番居心地がいい人、それがミナトだ。そして、将来自分の舞台のチケットを最初に渡す人でもある。
 ミナト君が僕の将来に期待してくれているなら、頑張れる気がする。
 洸太は台本を広げた。青ペンの書き込みを見ながら脳内で舞台に立つ。
 この気持ちが恋なのかはもう少しゆっくり考えればいい。肝心なことがあと回しになっても、今はふたりで笑っておしゃべりができる関係でいたいんだ。
 オリエンテーションから帰ってきたミナトがくれたのは、いちごキャラメルにコーティングされたポップコーンだった。いちごの産地だけの限定品だ。映画を思い出して笑うと、案の定ミナトも「また映画行きましょ」と笑ってくれた。
 いちご味は甘くて心に染みる。ひとり自室でポップコーンを味わい、気分よく翌日古典の授業に行った。だが、机の上の文字を見て息が止まった。
『こないだ好きな人ができた』
 蛍光灯で銀色に光るシャーペンの丸文字が恋を語っている。木目のある机に目が釘付けになって、目が見開く。体がかちんと動かなくなって、その文字から目をそらせない。
 好きな人ができた。好きな人ができた? 佐藤さんを見つけたってこと?
 食い入るように机を見つめていたら、入ってきた教師に「寿君?」と声をかけられた。
「どうかした?」
「いえ、なんでもありません」
 ささっと文字をノートで隠し、ペンケースからシャーペンを取り出す。だが、なんと返事をすればいいのか分からない。
 心臓がどくどくと音を立てて、腹がきゅうっと痛くなる。急に目頭が熱くなって、ハンカチで咳を抑えるふりをして目元を拭った。シャーペンを握る手に力が入らない。教師の言葉なんて右から左で、座っている椅子の冷たさだけがしんしんと体に冷えた。
 ミナト君、佐藤さんに会ったんだ。ってことは、これからその子と一緒に帰ったり、クレープを食べたりするってこと? 映画館でセカンド飲み回しをするのは僕じゃなくて、佐藤さんってこと? 来年の学内公演を一緒に見ながら僕を指さして、「あの先輩と仲良いんだよ」っておしゃべりしたりするってこと? 僕はそんなふたりに「付き合えてよかったね」と笑顔で言わなきゃいけないってこと? ――そんなの、できるわけないじゃないか。
 ギリギリと掴まれたように心臓が痛い。授業は上の空で聞き、チャイムが鳴ってから「おめでとう」と一言書いて終わりにした。
 ところが、次の授業のときには「うんざりされない程度にアプローチするにはどうしたらいい?」と書かれていた。どうやら恋愛の相談相手にされてしまったらしい。ぐっとくちびるを噛みしめる。
 おそらくオリエンテーションに行って、他クラスや他の科とも交流して佐藤さんを見つけたと言ったところだろう。自分を応援してくれたミナトを突き放すのは心が痛む。ミナトのことは好きだから相談に乗りたい。でもミナトのことが好きだから素っ気ないことしか書けない。しかたなく「一緒に帰ろうって誘ってみたら」と返事をした。
 翌日はミナトの図書当番の日で、部活を終えてから悶々として制服に着替えた。初めての役者は楽しいが、この状態では学校生活の楽しみが半分なくなったも同然だ。ブレザーの前を合わせ、ため息をついて昇降口を出ると、いつも通りミナトは校門にもたれて立っていた。校舎からの明かりの中、こちらに気づかずぼんやりと空を眺めている。
 いつもはシャツにキャメル色のカーディガンだが、今日は寒かったのか、白のパーカーを中に着たブレザー姿でポケットに手を突っ込んでいた。普段あまり見ない紺色のジャケットがハーフアップの金髪を目立たせている。
 長くなった金髪が翻るといつもよりきらきらして見える。洸太の胸がぎゅっと締めつけられた。
 佐藤さんと結婚するのが将来の夢のミナト君。話が合う佐藤さんを探していたミナト君。そして、念願の好きな人を見つけたミナト君。羨ましい。僕が佐藤さんになりたい。ああ、今はっきりした。ミナト君が好きだ。僕は佐藤さんでも女子でもないのに、ミナト君を好きになってしまった。どうやってミナト君の夢を応援したらいいんだろう。
「ミナト君、待たせてごめんね」
 勇気を振り絞って名前を呼ぶ。ミナトがぱっと顔をこちらに向け、笑って小さく手を振ってきた。顔に笑みを貼りつけて近づくと、ミナトが校門から背を離す。
「先輩、一緒に帰りましょ」
 こんなふうに誘ってくれて一緒に帰れるのもいつまでかな。そんなことを思いながら「うん」と彼の隣を歩き出そうとした。だが、ミナトは立ち止まったままで、おやと思って顔を見上げる。するとなぜかミナトが緊張した顔をしていた。
「どうかした?」
 思わず尋ねると、ミナトが「イエ」と目をそらす。
「……なんでもないっす……ちょっと、ね」
「そう?」
 特にミナトの言葉が続かなかったので、並んで歩き出した。コツコツと靴が地面を鳴らす。どんどん日が短くなって、足元から寒さが這い上がってくる。明日からマフラーを出そうと考えて、もし寒そうにしているミナトがいたら自分のをかけてあげるのにななんて思う。もやもやする気持ちを打ち消すために口火を切る。
「ミナト君さ、理想の佐藤さんってどんな子? 今やってる僕の役、彼女がいる設定なんだけど、どういう子を想定すればいいのか全然分かんなくて。ソータには理想の彼女を考えろ、みたいなことを言われたけど、そんなの考えても分かんないし」
 佐藤さんってどういう子? どういう子なら僕は諦められる? そんな思いで聞くと、ミナトが真剣に「うーん」と腕を組んだ。
「理想の彼女っていうか、好きになった子が理想なんじゃないっすか」
「……そういうもの?」
「好きになってみて、意外とこういう子が好きなんだなって気づくとか、ありそうじゃないっすか」
 ミナトの言葉にリアリティがあったので、ぐっと言葉に詰まる。自分で聞いておきながら、身勝手に傷ついてしまう。だが、ミナトはちょっと笑った。
「先輩が恋バナってちょっとおもしろいっす。弟先輩はしゃべりそうっすけど」
 そうだよね。僕ってそういうタイプに見えないよね。
 内心頷きつつため息を吐くと、「先輩」と急に肩を抱き寄せられた。はっとすると目の前に車が迫っている。ミナトがこちらの肩に手を回したまま端に寄った。
「危ないっす。ちゃんと前見て歩いてくださいよ」
 近い近い近い。体がくっついて、制服越しにミナトの体温が流れ込んでくる。車が通り過ぎるまで口をむずむずさせていたが、車が去るとミナトがぱっと手を離した。笑顔でこちらを見てくる。
「先輩、あったかい。抱き枕サイズのカイロっすね」
 その言葉に恥ずかしくなって、思わずミナトの鼻先を摘まんだ。
「そうやってチビをバカにして」
「チビなんて言ってないっす。てか、先輩そんなにチビじゃないっしょ。あと、暴力反対っす。鼻声、やだ」
「じゃ、次言ったらグータッチね」
 洸太が手を離すと、ミナトは白い歯を見せて「了解!」と破顔した。
 再び歩き出したミナトをちらりと見上げる。今日は言葉一つ、行動一つが胸をちりちりとさせてくる。ゼロ距離でも本音を言えなくて、隣にいるのになんだか悲しい。好きだと思ったら友人の距離では満足できなくて、どんどん欲張りになっていくのが分かる。
 好きになってみて、意外とこういう子が好きなんだなって気づく。
 ミナトの言葉は半分合っていて、半分違う。好きになってみて、意外と自分はこうだったと気づくのだ。
 その日聞いたオリエンテーションの話は楽しめなかった。主に友人の話だったが、どこで佐藤さんと出会ったのかと冷や冷やしてしまう。結局話題には出てこなかったが、むかむかしながら家路についた。
 家に帰って黙々と夕飯を食べ終わると、先に夕食を済ませてソファでテレビを見ていた湊太が「これ食う?」と個包装されたせんべいを差し出してきた。
「どうしたの、これ」
「先週もらわなかった? ミナト君からのオリエンテーション土産」
「は?」
 思わず声が尖って、湊太が目を丸くさせた。
「どうした?」
「あ、いやごめん、ミナト君からオリエンテーションの話を聞いて、去年の嫌なことを思い出したばっかりでさ」
「……ふうん?」
「ほら、特進って自由時間も学習時間だったからさ、他の科が楽しそうに遊んでるのが羨ましかったんだよ。いくらなんでも厳しすぎだと思って。すっごく根に持ってる」
「……あ、そう」
 湊太は分かったような分からないような微妙な顔をした。
「コータは部活やってるからそういう感じじゃないけど、普通科から見ると特進って朝から晩まで勉強してる最強軍団に見えるぜ」
「でしょ」
 そこで話を切り上げ、部屋に戻ってせんべいをぼりぼり食べる。湊太にまでお土産を渡すなんて律儀だなという思いと、自分の知らないところでなにをしゃべってるのかななどと嫉妬めいたことを思う。
 床に膝をついてコロコロとカーペットクリーナーを手で動かすと、脳内で第一体育館の舞台が蘇った。あるはずもない、ミナトがそこに立つ姿を思い描く。他の照明が消えた闇の舞台の上に、サスペンションライトのひと筋の光がひとりの人物だけを捉えるサス残し。そこに立つミナトが照明にきらきらさせた金髪を片手で払い、暗闇に向かって手を伸ばす。
「佐藤さん、一緒に帰ろう」
 するともう一つのライトが地面に落ちる。ブレザー姿の女子が嬉しそうに胸に手を当て、ミナトのほうへ片手を伸ばすのだ。
 カッとなって頭の中でフェーダーを下げた。照明を絞って女子の姿をフェードアウトさせる。
 頭の中は自由だ。自分の人生において誰にライトを当ててみるかなんて誰にも縛れない。だが、頭の中と現実は一致しない。ミナトは暗闇の中に立つ佐藤さんを見つけたのだろうし、自分はそれを客席側から見ることしかできないのだろう。
 もやもやして迎えた翌週は、机の上の「ただデートに誘うだけでも喜んでくれると思う?」「既に行ったところでもまた楽しめる場所ってある?」という問いに答えなければならなかった。前者に「きっと喜ぶよ」と書き、後者には「映画は?」と答える。
 まだセカンド回し飲みができていない現状に悶々とし、部活では刷毛をがさがさと動かしてベニヤ板にペンキを塗った。つんとするにおいに頭を振り、稽古に声を張る。
「『朝比奈君は、最近彼女のユキちゃんとどう?』」
「『それが、こないだもバイトが忙しいってデートを断られちゃってさ』」
「『いのち短し恋せよ乙女って言うのにね』」
「『ユキちゃんは人生長し稼がにゃアウトって感じなんだよな』」
「『なにそれ!』」
 ブレザーの上にコートを着るようになると落ち葉はどこかに消えて、寒々しい枝が空をどんと突かんとばかりにきりりと尖る。冬到来の棘がちくちくと頬を刺して、口元までマルチカラーのマフラーでぐるぐる巻きにする。すると、息をするたびに薄らと目の前に白い息がのぼった。
 星空がきれいになる時間のふたりの帰り道は、本屋に寄ったり、公園で温かい飲みものを買って二十分ほど話したりして帰るようになった。毎回「じゃあね」が言い出しづらくて、「寒いっす」の言葉が出る前にミナト用に持ってきているカイロを渡す。
 試験二週間前に入ると、特進科はゼロ時間目の朝勉強が始まる。湊太より早起きして、寒さの中を走って登校する。体を温めてから机に向かうと今年も冬がやって来たという気がする。どうやら机の上の丸文字も同じらしく、クリスマスの話になった。
『金曜が終業式、二十四日の土曜から冬休みだけど、クリスマスデートに行くならどこに行けばいい?』
 この近くの駅から二十分ほど電車に揺られると、市の中心部に出る。そこにある三階建てのモールの中央にはストリートピアノが設置されているのだが、クリスマスには巨大なクリスマスツリーが立つ。
 ここのイルミネーションは定番の赤と緑と白のイメージの年もあれば、ゴールドとシルバーでまとめた上品な雰囲気の年もある。小さい頃は毎年家族と見に行って、何色になるか楽しみにしていた。この近辺に住む人にとって、クリスマスのイルミネーションは楽しみの一つである。
 エアコンが効きすぎて暖かすぎる教室はなんだか空気がこもる。息苦しさを感じながら、そのクリスマスツリーの前で笑うミナトを思い浮かべた。だが、その視線の先にいるのは自分ではない。
 シャーペンを持つ手が下りた。分からない。どこへ行けばいいのかも、自分の気持ちも、なにもかも。
 なにも書かずに授業を終え、くちびるを噛みしめて教室を出た。
 十二月の試験が終わると、特進科では冬期講習が始まった。普通科は終業式まで自宅学習期間になるから、湊太はもちろんのことミナトも授業はない。中途半端に終わってしまった机の丸文字とのやり取りは途絶えて、あれはミナト君と話す貴重な機会だったのにと思ったり、あれ以上佐藤さんの話題に付き合えないと感じたり、なにも書かれていない木目のやわらかな机に気持ちが行ったり来たりした。
 演劇部は二月頭の学内公演に向けて、洸太以外のメンバーは朝から部活をやっていた。洸太は冬期講習が終わってからの数時間だけ一緒に稽古ができる。こちらが来るまでみんなは大道具を作ったり、洸太がいないシーンを練習したりしているらしい。
 洸太はそれがうしろめたかったのだが、それは顧問が否定した。部活は学校教育の一環であって学業も大事なのだと。おかげで少なくとも表面上は洸太のことを悪く言う部員はいなかった。そこは湊太が徹底させていて、いろんな科が集まったときに行事で誰かが欠けるのは当たり前だと言っているらしい。それがうちの演劇部なのだとも。こういうときに湊太が頼もしいのはありがたかった。
 ミナトとは洸太の部活帰り、ミナトのバイト帰りに会うようになった。これまでと同じ、本屋へ寄ったり、公園の代わりに駅前の広場で話したり、特に洸太が疲れた日はカフェで温かいものを飲んだり、またクレープを食べに行ったりした。
「先輩、土曜日のクリスマスイブ、どっかに遊びに行きません? 部活っすか」
 ミナトの口からその言葉が出たのは終業式を三日後に控えた日だった。部活帰りのカフェで、白パーカーにジーンズのミナトはココアを飲んでいて、洸太は抹茶オレを飲んでいた。お互いのマグカップから湯気が立っていて、睫毛を少し湿らす。
 洸太はミナトの言葉に驚き、マグカップを口につけようとしたのを止めた。
「その日、僕は顧問の先生がいなくて部活はないんだ。だから僕はいいんだけど、ミナト君は誰か遊ぶ予定はないの?」
「ないっす。一ナノメートルもないっす」
「ナノ……ってなんだっけ」
「ミクロンの千分の一ですね。ミリの百万分の一っす」
「よく覚えてるね。僕、ホントに数字系は駄目みたい」
「習ったばっかっす」
 でも、クリスマスイブって、いかにもデートみたいじゃない? そう思ったが、一瞬で冷静になった。翌日の佐藤さんとのクリスマスデートに備えての下見だろう。ミナトがココアをテーブルに置いて嬉しそうに言った。
「クリスマスって気分が爆上がりしませんか。歩いてる人もみんな楽しそうにしゃべったりしてるし、オレも今年はそっち側でクリスマスに参加したいっす」
「ミナト君の気分が爆上がりするとどうなるの。想像つかない」
「マジっすか。オレ、本気出しますよ。全力でクリスマスやるっす」
「クリスマスやるってなに?」
 ふふっと笑うと、ミナトがスマホを取り出して画面にあるオレンジのアイコンを指さした。
「スケジュール管理のアプリがあるっす。何時からなにをやるっていう計画を立てられるんすよ。分単位で書き込めるんす。朝から一日計画立てて、実際に実行できるかやってみたいっす」
 そう言ってミナトはアイコンをタップした。
「先輩、また映画を見に行きません? この間のところまで行けば、近くのモールでクリスマスツリーのイルミネーションが見られるじゃないっすか。モールにはいろいろあるし」
「えっホント? 今ハリウッド映画ですごく評判がいいのがあるんだよ。見に行きたい! ミナト君は吹き替えと字幕、どっち派かな」
「こだわりはないっす。先輩がいいほうでお願いします」
 今日のミナトは髪をうしろで一つに縛っていた。またこぼれた髪を耳にかける。大きな手でやる繊細な仕草につい目が行く。軽い口調で話すから見落としがちだが、ミナトは案外繊細で細やかな性格だ。そうでなければこちらのコンプレックスなど見抜かなかっただろうし、わざわざデートの下見になど行かないだろう。
 スマホを操作し、上映時間を確認する。
「九時四十分の回があるみたい。終わるのは十一時半前かな。そのあとお昼ご飯でどう? 早すぎるかな?」
「大丈夫っす。その回にしましょ。九時四十分からは映画、っと」
 ミナトがタタタッとスマホをタップし、予定を書き込む。
「オレがそのあとの予定を決めちゃってもいいっすか」
「もちろん。僕、クリスマスイブに誰かとそうやって遊ぶとかしたことないから」
 自分でデートの計画を立てたいんだろうな。そう思って顔に笑顔を貼りつけて抹茶オレを飲む。だが、ミナトはちょっと声のトーンを落とした。まばたきの少ない目でこちらをじっと見てくる。
「先輩、最近疲れてるっしょ。試験ムズかったっすか。笑顔が全然笑ってないっす」
 内心ぎくりとしたが、苦笑した。
「実は試験後に担任の先生と進路の面談があってね。事務所に所属したいから進学しないって言ったから慌てさせちゃったよ。その場で演劇科のある大学を調べてくれて、僕の成績なら推薦で受けられるから考えてみたらどうかって。まあ特進の先生はそう言うよね。大学に合格すれば高校の進学実績になるし」
「演劇とか芸能の世界って、オレ、全然分かんないっす。家族には話したんですか」
「親にはまだ言ってない。二十八日に冬期講習が終わったら言おうと思って。ソータは先生経由でなにか聞いたんじゃないかな。なにか言いたげにこっちを見てるときがある」
「親に言う前に弟先輩に言ったらいいんじゃないっすか。味方してくれそうっす」
「どうだろう。俺より勉強できるんだから進学しろよって思ってるかもね」
 するとミナトはうーんと腕を組んでしまった。「ココアが冷えるよ」と言ってから「ミナト君は進路考えてる?」と話題を変えた。するとミナトが眉根を寄せて唸る。
「笑わないでほしいんすけど……オレ、動物か植物に関わる仕事がしたいんすよね。水族館の飼育員とか庭師とか。人間と違って嘘つかない相手っていうか。自然相手ってたまに残酷だけど、だからこそやりがいを感じられたり、人間相手じゃ見えてこない世界を知ったりできそうで。庭師は資格の勉強が難しいかもしれないっすけど」
 洸太はそれを想像した。ペンギン用の餌をバケツに入れて歩くと、ペンギンがわらわらと寄ってくる。笑顔で一匹一匹に丁寧に魚を投げて食べる様子を眺めるのだ。また頭に白いタオルを巻いて剪定ばさみを持つところも想像した。落ち葉を集めていたミナトらしい気がする。思わず笑顔になった。
「ミナト君、ぴったりじゃない? 絵が浮かぶよ。ああいう仕事って繊細な仕事だろうし、ミナト君自身が生き生きとして働いてそう」
「うーん、そんな難しい仕事につけんのかって気もするからホント空想なんすけど……」
 難しい顔をしているミナトに思わず言葉が口をついて出た。
「もしよかったら今度水族館に行ってみない? 冬は外の展示が寒いかもしれないから来年でもいいし。ほら、電車で一時間くらいのところにあるから」
 言ってしまってからはっとする。その頃にはミナトは佐藤さんとのデートで忙しく、遊んでいる暇などないかもしれない。だが、ミナトは「マジっすか」と笑顔を輝かせた。
「十割ガチな約束をお願いします!」
「分かった。割とマジで行こうね」
 ミナトっぽく口調を真似ると、テーブルの向こうから小さなデコピンが飛んできた。
「先輩をそんな口調にさせたの、オレ、反省案件っすね」
「あ、反省案件リターンズ」
「それも先輩っぽくない!」
 お互い目を合わせて吹き出した。黙ってマグカップに口をつけて、目だけで笑う。
 たまにこうして話すくらい、佐藤さんが許してくれるといい。ミナトとの目線の高さの違いも、向かい席でどちらが奥に座るかということも、コートの袖の内側に手を引っ込めるのが寒くなった合図だということも、いろんなことが理解できるようになった。
 ミナトにさようならを言うのは悲しい。もうちょっとだけ、一緒に話したい。もうちょっとだけ、一緒にいたい。せめてクリスマスイブはふたりきりで笑って過ごしたい。
 ブレザーに臙脂のネクタイを締めた正装で終業式に参加する。式典が終われば午後一杯部活だ。久しぶりに全員で長く時間がとれるので、通しでやることになった。役者に関しては褒められることが増えた。照明係のときの感覚で、照明がどう表現したいのか分かるし、照明と連携を取る音響係がどんなことを意識しているのかも分かる。役者をやるには遠回りだったかもしれないが、経験はしっかりと根付いている。
「じゃあ二十分休憩ね」
 顧問のぱんぱんと手を打ち鳴らす音で休憩に入る。自分の鞄に飲みものを取りに行って、スポーツドリンクのペットボトルが空になっていることに気づいた。しかたなく体育館を出て水道場まで水を飲みに行く。
 暖房の効いた体育館から廊下に出ると、一気に空気が冷たくなる。半袖ハーフパンツのジャージ姿だった洸太は、上着を持ってくればよかったなと身震いした。五メートルほどの外廊下を通って水道場に行き蛇口を捻って水を飲む。
 濡れた顎を袖で拭っていると、「コータ、演劇やりてえの」という声がきんと冷えた空気を裂いた。そちらを見れば体育館からやって来た湊太が険しい顔でこちらを見ている。体育館前のリノリウムの廊下からコンクリートに切り替わるその境で、まるで返事を聞くまで体育館に帰すものかと言わんばかりに仁王立ちだった。
 担任や顧問を通じて湊太の耳に入ったのは本当だったようだ。洸太はもう一度顎を拭くと「うん」と言った。
「やりたい」
 はっきり言うと、洸太は台本を持ったまま左手でこちらを指さした。
「そっちの世界に入ったら、コータが比べられるのは俺だけじゃねえぞ。先輩や後輩の上手い役者だ。自分よりずっと年下の子役だっている」
「分かってるよ」
「俺と比べられて落ち込んでたやつにできると思ってんのかよ」
「今ソータと同じ舞台で稽古してるけど。比べて落ち込んでるように見える?」
「俺の半分以下のセリフで満足してるようじゃやってけない世界なんだよ」
「そんなふうに僕を試すようなことを言わなくても大丈夫だよ。僕、案外諦めが悪いんだよ。演劇のことも、他のことも」
 すると湊太がいつも通りの表情に戻った。そしていつかのように眉尻を下げて「そっか」と小さく笑う。
「じゃ、応援する」
 ありがとと笑うと、湊太は照れたように頭を掻いた。
「で、コータの他に諦めたくないことってなに?」
「今いろいろ悩んでるんだよ。進路とか勉強のこととかね」
「……ミナト君じゃなくて?」
 突然湊太がそう言ったので、目が丸くなった。
「ミナト君?」
「いや、よく分かんねえけど、コータは普段人と距離を置くのにすげえ仲良いみたいだし、なんていうか……表現が合ってるか分かんねえけど、好きなのかな、って、思って」
 最後のほう、小さくなった声に双子はこういうのも気づくのかななどと思う。一方で湊太に彼女ができても言われるまで気づかない鈍感な自分に笑ってしまった。
「そりゃ好きだよ。すごくいい子だし。明日一緒にミナト君のデートの下見に行くんだ。わざわざ下見に行くとか、ミナト君は真面目だよね」
「……デートの下見?」
 洸太は意味もなくまた蛇口を捻って冷たい水で手を洗った。そうすると冷えた腹の底から気がそれる。
「佐藤さんとクリスマスデートに行くらしいよ。自分で一日日程を決めるって言ってたから、それがうまくいくかどうか確認したいんじゃない?」
 すると湊太が戸惑った顔になった。考えるようにくちびるの下を触る。
「え? 俺、ミナト君からコータと遊びに行くってことは聞いたけど、佐藤さんの話は聞いてねえ」
「ミナト君は佐藤さんと結婚したいってことはソータに話してないんじゃないの?」
「あ、そっか。たしかに佐藤さんの件はコータから聞いただけだ」
 だが、湊太は「ん?」となにやら考え込む。
「変だな。俺、てっきりふたりでクリスマスを楽しむのかと思ってたんだけど?」
「二十五日のクリスマスは我が演劇部の部活がありますよ。僕がミナト君と出かけるのは明日のクリスマスイブ。ミナト君となに話したか知らないけど、早とちりしたんじゃないの」
 洸太は話を切り上げるため、ダッと湊太に近寄ってその両腕を濡れた手でがしっと掴んだ。案の定湊太が「冷てっ!」をこちらを振りほどく。
「コータ、最ッ悪!」
「はいはい、こんな寒いところで話してたら風邪引くよ。体育館に戻ろ」
 先を歩き出したが、湊太はうしろで「おっかしいな」などとぶつぶつ呟いている。
 ミナトが自分と出かけることを湊太に話してくれているのは嬉しい。クリスマスデートのことを自分だけに、正確に言えば、机の落書きの文通相手にだけに言っているのもちょっとだけ嬉しい。
 クリスマスイブはミナトを独り占めできる最後の日かもしれない。そう考えると目蓋の裏が熱くなる。それでも精一杯その日を楽しく過ごしたかった。
 翌日、待ち合わせの時間の十五分前に駅に着いた。改札を出たコンコースで手先を温めるようにカイロを指で挟む。人の行き交う通路は、赤、白、緑の三色に包まれていた。改札横のカフェの前には、顔の高さほどのクリスマスツリーが飾られている。街の装いはクリスマス一色で、洸太はその光にそわそわした。
 今日の服はブルーのボタンシャツの上にオフホワイトのセーターを重ねて、黒のハイネックのジャケットを着た。寒くなったときのために、中にマフラーを巻いている。
 白い息を吐きながら乗り換え案内の看板を見、電車がやって来る音に耳を傾ける。「回送電車が参ります。ご注意ください」。そんなアナウンスが聞こえる中で、洸太はぼーっとしていた。
 昨日ベッドの中でなかなか眠れなかったから、少し眠たい。だが、洸太を眠らせまいと冬の凍てついた空気が頬を叩く。ぐずぐずとミナトへの気持ちを諦められなくて、佐藤さんを紹介されるまで好きでいてもいいかななんて思ったりする。結局、気持ちの行き場は見つけられなかった。今日一日遊ぶ中でなにかが見えてくればいいと思う。
 ぼんやりと人々を吐き出す改札を見ていたら、背の高いコートの男が近づいてきた。
「先輩」
 聞き覚えのある声にそちらを見上げ、ぽかんとした。登下校のときと同じネイビーのダッフルコートとボルドーのマフラーのミナトがいた。だが、その髪が短くなっている。
 見覚えのあるセンター分けの前髪に、マッシュルームカットに近いツーブロック。根元の黒の部分が長くなり、髪の長い部分の毛先だけを金髪に染めているように見える。何度も眺めた、学ランを着たミナトの画像。そこから本人が丸ごと飛び出して目の前に立っているような感覚だ。
 重ために見えた目蓋は二重がはっきりして見えて、すいてある前髪からいつもならあまり見えない眉が覗いている。髪の黒い部分が多いからか、頭がいつもより小さく見えた。金髪プリンに出ていたやんちゃっぽさが消えて、おしゃれに染めているように見える。いつもよりずっと大人びて見えた。
「え、うそ」
 挨拶もなく思わず本音が口をついて出た。
「ミナト君、かっこよすぎでしょ……」
 急に心臓がばくばくと音を立て始め、その音を漏らすまいとカイロを持った手を口元に当てる。だがミナトはこちらの言葉に赤面した。
「……感想を教えてくださいって言おうとしたら先に言われた……」
 え、すごい、かっこいい。いや、かわいい? どっちもだ。ああいいな、佐藤さんはこんな素敵なミナト君と一緒にいられるんだ。
「ミナト君」
 洸太は笑顔で小さく拍手をした。
「サプライズデートなら完璧!」
 すると照れた表情でミナトが頭を掻いた。
「先輩がタイミングが大事みたいなことを言ってたから……クリスマスなのかと思って、昨日学校帰りに切ったっす。染めるにはお金がかかると思って金髪も残ってますけど」
 明日のクリスマスデートに備えてってことか。洸太の腹の底が一瞬ひやりとしたが、笑顔を作った。
「自分の髪は失敗しないって言ってたもんね! 有言実行だね!」
「失敗してないならよかったっす」
「大成功だよ、保証する!」
 そうかな、ならいいんだけど。小さな声で呟くミナトに「じゃ行こ!」と無理やり話題を変える。コンコースから出て駅前の道を映画館へと進む。
 今日は曇天で、街並みもなんだか寒々しかった。だが、街路樹の電飾がカラフルに光っていたり、どこからか流れてくるクリスマスソングが人々の声に混じったりして、クリスマスイブの高揚感が胸をざわつかせる。髪を切ったミナトの顔が見たくて、ちらちらと目線だけで盗み見た。
「ミナト君、今日は夕方から雪が降るかもって。モールの中で過ごすのは正解かも。明日も雪で滑ったらいけないし、気をつけて行ってきてね」
「っすね。冬のおでかけは映画がおすすめってネットに書いてあったっす」
「今日のは評判もいいしね。半券がコレクションに加わるかどうか楽しみ!」
 明るい声を出してテンションをあげ、スマホでQRコードを出す。映画館の入り口で半券をゲットすると、夏と同じようにパンフレットを買ってフードメニューのところへ行った。
「ミナト君、なに飲む? セカンド飲み回ししなきゃ」
 天井から吊り下げられたメニューボードを指さすと、ミナトが笑いながら「ホットのレモンティーにするっす」と言う。
「僕、なににしようかな。ミナト君、飲むならなにがいい? 炭酸は苦手でしょ? 前回はジンジャエールを飲ませちゃってごめんね」
 するとミナトは驚いた顔でこちらを見下ろした。
「オレ、炭酸が苦手って言いましたっけ」
「いや、言ってない。だけど、ファミレスのドリンクバーで炭酸は飲まないし、僕よりお代わりするくらい水分をとるのに、映画館のレモンジンジャーだけはちょっとしか飲まなかったから。違った?」
 するとミナトが短くなった髪を掻いた。
「先輩、エスパーっすね。炭酸が口と喉でぱちぱちするのが痛くて。消化器官がお子様っす。炭酸じゃなきゃ大丈夫っす」
「じゃあカルピスにしよ。ポップコーンは何味にする?」
「めんたいマヨっていうのが実は気になってるっす。先輩大丈夫っすか」
「オッケー! なかなか食べられない味だし、それにしよ」
 またミナトがトレイにポップコーンと飲みものをのせ、洸太は自分のドリンクを持ってスクリーンに入った。隣の席に座り、コートを脱ぐ。早速ポップコーンに手を伸ばした。
 洸太は一口飲んでからカルピスのドリンクを渡した。ミナトも笑顔でレモンティーをくれる。一息つき、口をつける。熱い紅茶が喉の奥を流れていき、体の芯へ届く。なんだか思ったよりも甘い気がする。間接キスってこんな味なのかな。そう思っていると、ミナトがこちらを見ていることに気づいた。
「どうかした?」
 するとなぜかミナトは慌てたように「イエ!」と首を横に振り、ちゅーっとカルピスに口をつけた。髪が短くなって耳が出ていて、そこがちょっと赤い。外から急に暖かい映画館に入ったので暑いのだろう。
 しゃくりしゃくりとポップコーンを食べる。めんたいマヨはクレープのツナマヨ味を連想させる。そうやって思い返すと、ミナトとの思い出がたくさんあることに気づいた。
 キャラメル部分が少なかった頃の金髪のミナトと公園で話したことや、本屋で本を取ってくれたこと、ファミレスで勉強したこと、体育館のパイプ椅子に座って部活の光景を見てくれたこと、帰り道にいろんな場所へ行ったこと、それらがどれだけ貴重で大切な時間だったのか分かる。
 徐々に明かりが絞られる。暗闇の中でポップコーンに手を伸ばした手がぶつかって、ミナトがちらりと歯を見せて笑った。ぶつかった自分の指先が熱を持って、洸太はその指を握り締めながら映画を見た。
 映画のあとはモールへ移動し、フードコートに入った。洸太はカツ丼、ミナトはカレー大盛りを頼み、向かい合っていただきますと手を合わせる。そのあとはアミューズメントコーナーに連れて行かれた。UFOキャッチャーを中心に、モールの一角にゲーム機がずらりと揃っているのだ。洸太はにんまりとした。
「ミナト君、ここは任せて」
 洸太は久しぶりのゲーム機を前にして少し腕をまくった。
「僕、UFOキャッチャーは得意」
「マジっすか。ここに寄ることを日程の項目に入れたんすけど、オレ、実はなんもできないんすよね……すごく不器用で。ガチャ回すくらいしかできないっす」
「なに取る? お菓子でもぬいぐるみでも。ミナト君がほしいのを取るよ」
「えーと、まず獲物を探します」
 ミナトとぐるぐる辺りを見て回り、その中でミナトがかわいいからほしいと言ったバナナの大型ぬいぐるみに挑戦することにした。ミナト曰く「枕になりそう」らしい。
「先輩って、こういうのを一回で取れるんすか」
「一回では無理かな。アームの強さもやってみないと分かんないし。ちょっとずつずらして取るんだよ。あとは横から見て奥行きを確認するのも大事」
 洸太はそう言いながらバナナを五百円玉一枚、六回で落とした。「よしっ」とガッツポーズを取るこちらに、台の下からぬいぐるみを拾うミナトが目を丸くする。
「先輩がこういうの得意って、イメージになかった」
「バカみたいだと思うけど、小さい頃はムキになってやってさ、いくつも取って親に見せてたんだよ。ソータよりできることがあるって親の気を引きたくて」
「ん? ちょっと待ってください。そのたくさん取った景品たちは今も片づけられず部屋に溢れてる……?」
「ううん。小学校の頃はソータと同じ部屋だったんだけど、いらないだろってソータが全部ゴミ袋に入れて捨てちゃったんだよ。怒ってソータに掴みかかったら、そんなに怒る僕を見たことがないソータも親もぽかんとしてさ。家族から見たらくだらないおもちゃだったんだけど、僕としては自分ができることの証明だったわけ。泣き喚く僕に焦った親が、お年玉の他にUFOキャッチャー代をくれた。ソータは不満そうだったけど、睨んだら黙ってた」
 ミナトが店員からもらったビニール袋にバナナを入れて笑う。
「先輩のほうがわんぱくだったって、なんとなく分かった気がします。……って、ちょっと待った、そのUFOキャッチャー代で取った景品は今も部屋に……?」
「ある。クローゼットの中の箱に入ってる。それに手を出したら僕の逆鱗に触れるって家族全員が思ってるよ。まあ、今はもういいんだけどさ。もう自分をソータと比べるのはやめたし」
 するとミナトが一瞬真顔になって「本当?」と言う。穏やかな口調で「ホント」と返した。ミナトは「ならいいっす」と笑みをこぼす。
「でも先輩の部屋、遊びに行きたいっす。その大切だった証明、見せてくださいよ」
「本が散乱する部屋でよかったらどうぞ。ソータを入れて三人でトランプしよ」
 台の前でそんなことを話していたら、店員がやってきて台のプラスチックの扉を開けた。そしてミナトが手にしたのと同じバナナのぬいぐるみを設置する。店員が扉を閉めて鍵をかけると、お互いちらりと目が合った。
「……僕の分も取っていい?」
「取ってください! お揃いにしましょ」
 ミナトが意気込んで財布から五百円玉を取り出した。チャリン。落ちた硬貨の音とお揃いの言葉にテンションがあがり、「よし」と台に手をついてボタンに手を添える。結局千円使ったが、無事にバナナをゲットした。笑顔でハイタッチして、ビニール袋に同じぬいぐるみを入れる。そのあとはモールをウィンドウショッピングして回った。
「先輩、どんな服が似合うかな……今日の白いセーター、ちょっと大きくて萌え袖っぽくなっててかわいかったっす」
 ミナトがそう言ってハンガーにかかった服を洸太に当てて見比べてくる。
「サイズがぴったりなのを探すのが難しいんだよ。でも、ミナト君はちょっと大きいくらいでも充分着こなせてるよね」
 洸太もミナトに似合いそうなパーカーを持ってきて胸に当ててみた。
「オレもサイズ難しいっすよ。背だけでかくて、中ぺらぺらっす。実は肩幅も狭いっす。Sサイズが着られるメーカーもあるんすよ」
「ミナト君は文化祭のクラスTシャツ、何サイズ着てた? 僕、Mだけど」
「え、オレもMっすよ。先輩とサイズ一緒? マジかよ」
「あ、その言い方ちょっとやだ。グータッチする?」
「いい意味で言ってるっす。同じTシャツを買ってもお揃いで着られるじゃないっすか」
 衣服を見て回ったあとは、腕時計の並ぶ店を眺めた。ずらりとさまざまなメーカーの時計が並んでいるところは、見ているだけで楽しくなってくる。
「ミナト君、腕時計をしてないけど、買うとしたらどういうのがいい?」
「オレ、時計のフォルムが四角いのがかっこいいなって思うっす」
「分かる! あ、これ、ケースとかベルトとかをカスタムして好きなパーツで作れるって。いろんな色があっていいね。僕、案外ビビットなのって好き」
「高校生には気軽に買える値段じゃないっすけど、色違いをカスタムして持ってたらよくないっすか」
「いいね。そういうペアのものっていうのもかっこいいよね」
 品物を見ながらしゃべっていると楽しい。部屋に遊びに行くだとかお揃いのものを持つだとか、佐藤さんと叶えるかもしれない話を自分のことのように錯覚できる。
 ミナトと笑顔で店を回りながら、ごめんよと心の中で佐藤さんに謝る。今日はミナト君の言葉を勘違いしていたい。
 五時からクリスマスツリーの周りでイルミネーションの点灯式があるらしい。四時半にそこへ行くと、てっぺんの白から根元のオレンジへと、グラデーションに枝を染めたツリーが立っていた。シルバーとゴールドのオーナメントがきらきらと光っている。たっぷり二階分はあろうかという高さに、ふたりの口から同時に「おお」と声が出た。側のストリートピアノで男性がきよしこの夜を弾いていて、メロディーが吹き抜けに響いている。
 目配せし、ビニール袋をがさごそ言わせながら端へ寄った。角の店の壁にミナトがもたれ、その隣に立つ。
「すごいっすね。クリスマスツリーってこんなにきれいなんすね」
 ミナトがツリーを見上げ、目を輝かせて言う。いつも長い前髪に邪魔されがちだったサイドがきれいに切りそろえられていて、ミナトの睫毛が上下するのが見える。そのとき、ミナトが指先をこすり合わせたので、「寒い?」と指を掴んだ。完全に冷え切っていて驚く。
「はい、カイロ。寒かったの気づいてなくてごめんね」
 両手でミナトの手と新しいカイロをサンドイッチにする。手が大きくていいな。そう思っていると、ミナトがこほんと咳払いした。
「先輩、あざっす。もう大丈夫っす」
「ミナト君、手袋しないよね」
「手がでかくて入るサイズがなかなかないんすよ」
 洸太がそれにちょっと笑うと、ミナトも笑った。カイロを挟んだ手に息を吹きかけ、再びツリーを見る。
「オレ、昔からサンタはすげえ危険な仕事だと思ってて、小さい頃はサンタが飛行機と事故らないでほしいとか思ってました。うちにプレゼントが置いてあるのを見て、今年も日本には無事に来られたんだと思ったりして」
 サンタの無事を確認してほっとする幼いミナトを想像し、ちょこっと笑う。
「オレ、中学で労働基準法を習ったとき、サンタってブラックじゃんって思ったんす。だけど、ブラックっていうと色的に誤解が生まれると思って。人にこのもやもやを説明できなくて」
「たしかに! 服はレッドとホワイトなのにってなっちゃうか」
「そうなんすよ! うまい言い方ないかなって思ったんすけど、最終的に厳しい仕事をしているっていう言葉に落ち着いたんす。でも納得いかないって言うか」
 ミナトが腕を組んだので洸太も首を傾げる。
「ブラック企業……僕が思うに、サンタは企業に勤めてないよね。だって、所属はサンタクロース協会でしょ? 株式会社サンタクロース、とかじゃないし」
「サンタクロース協会って企業じゃないか。協会と企業の違いってなんすか」
「目的が違うんじゃない? 活動することが目的、利益を出すことが目的、みたいな。ちゃんと調べないと分かんないけど」
「うお、マジっすか。先輩マジ頭いいっすね」
「サンタって金銭的利益は求めてないわけじゃない? 子どもたちに希望を与えること、みたいな目標はありそうだけど。そう考えると、サンタが会社に所属しているとは思えないんだよね」
「なるほど、分かった! サンタは労働基準法に当てはまらないんすね! 労働じゃないから。つまりブラックじゃないんだ!?」
 ミナトが長年の謎が解決したと言わんばかりに顔を輝かせてこちらを見た。ミナトの嬉しそうな顔を見られると洸太も嬉しくて、「よかった!」と言ってしまう。
「サンタはレッドとホワイトでオーケーってことだよ。事件解決、一件落着!」
 するとミナトがなにがおかしかったのかふふっと笑った。少し顔を赤くさせて「先輩って優しいっすね」とこちらを見る。
「オレのこんな話を聞いてくれる人、普通いないっすよ。オレ、本当は気づいてます。自分がちょっと変わってるって。先輩と夏に見に行った映画を見たってクラスメイトがいて、そいつに『洗濯日和だな』って言うシーンがよかったなって言ったら、そんなシーンあったっけって言われたっす。変なこと言っちゃったなって思ったんすけど、先輩は勉強になるなって言ってましたよね。あれ、すごく嬉しかったっす」
 ミナトはそう言ってまたツリーを見た。なにかを思い出すように目を細める。
「先輩は弟先輩と比べて悩んでたと思うっすけど、オレは周りと話が合わないなって思ってたんすよね。ほら、告白されても二週間でフラれるって言ったっしょ? あれ、オレが変なことを言うからだと思うんすよ。オレが思ったことを言うと、普通はそんなこと考えないとか言われるんす。だから、オリエンテーションの自由時間も、同じ学年のやつらとしゃべるより先輩と話してるほうがずっと楽しかったっす。さっきもトランプしようって言ってくれましたよね。そういうこと、覚えててくれるの、すごく嬉しい……そうやって細かいことも覚えるから、オレが炭酸飲めないって気づいたんですもんね。先輩みたいな人をかっこいいって言うんすよ」
 ミナトの言葉に胸が詰まった。見た目やしゃべり方から想像するよりずっと繊細な子だとは思っていた。だが、ミナトがそこまで悩んでいたことは知らなかった。自分の悩みばかり明かせたことを喜んで、ミナトのそういったことに気づいていなかった。自分はミナトのことがなにも見えていなかったのだろう。
 胸が痛くなって、思わずミナトのコートの袖を掴んだ。
「ミナト君」
 ぐいと引っ張ると、少し驚いたようにミナトがこちらを見下ろした。
「ミナト君の感性は魅力的だよ。明日は自信を持って佐藤さんと会って。クリスマスデートは絶対うまくいくから!」
 ミナト君、なにも気づいてあげられなくてごめんね。今日からちゃんとミナト君を応援するよ。
 洸太はビニール袋をがさがささせながら右のこぶしをぐっと握ってみせた。
「大丈夫、ミナト君は優しい人だから佐藤さんも絶対に好きになってくれるって!」
 ミナトが目を見開いた。「え?」となにか言いかけたとき、突然モール内の明かりがフッと暗くなった。目の前のクリスマスツリーだけが明るく浮かび上がる。いつの間にかきよしこの夜は消えていて、シャラララとガラスの破片が飛ぶような音が広がった。行き交う人々も足を止め、なにが起こるのかといったようにざわざわとする。
 ツリーの背面の真っ白な壁に、きらきらと雪が降るようなプロジェクションマッピングが映し出された。その中央に30の白い数字が表れて、誰かが「カウントダウンだ!」と言う。
「すごいね! きれい!」
 思わず声が出て浮かび上がる数字を指さした。誰ともなくそこにいる人々が数字を声に出してカウントし始める。
「20! 19! 18!」
 数字とともに立ち止まった人々の声が何重にも重なり、10から数字も大きくなって天井からふわりふわりと雪が落ちる。雪の中に立つクリスマスツリーは本当にきれいだった。
 明日、ツリーの前で微笑むミナトの目線の先には、佐藤さんがいるかもしれない。だが、今日言ってくれたことと今日のミナトが自分を見ててくれたことで充分だ。
「5、4、3、2、1!」
 ゼロの瞬間、柱や二階以上の手すりに巻かれていた電飾が一斉にゴールドの明かりを灯した。やわらかい光にふわっと優しく周りが包まれたようで、みんなが穏やかな笑みで笑い合って拍手をする。ジングル・ベルの音楽が響き渡り、モール内がポップな雰囲気に変わった。
 ぱらぱらと拍手がやむと、ツリーを見ていた人もぞろぞろと移動し始める。洸太の脳内ではまだプロジェクションマッピングの雪がひらひらと舞っていたが、突然「ねえ」と肩をぐいと引っ張られた。はっと我に返ると、ミナトがなぜか焦った顔でこちらを見てくる。
「先輩、今のどういうこと?」
「え?」
「クリスマスデートって? 佐藤さんってどういうこと?」
 洸太はそこではっとした。ミナトは机の落書きの文通相手が誰だか知らないのだ。ミナトにとっては佐藤さんを見つけたことも、クリスマスデートをすることも、洸太は知らないことになっている。ミナトが口にしなかった秘密を裏で暴いていたようで、顔からさあっと血の気が引いた。
「……あ、えっと」
 洸太はためらったが、胸の前でぎゅっと手を握った。まるで騙してしまったようで心が痛む。
「ごめん……ミナト君、国語で特別教室に行ったとき、机に落書きを書いてるでしょ。古文の活用ってなに、とか。実はあれに返事してるの、僕なんだ。ずっと言わなくてごめん」
 するとミナトが「へ!?」と変な声を出して口を開けた。
「えっマジで言ってる?」
「うん。内緒にして返事を書いてた」
 するとミナトが「いやいや」と手を振る。
「オレは先輩が書いてるって気づいてたよ? 先輩がオレだって気づいてるとは思ってなかったから、それにびっくりしてんだけど」
 それにはこちらが驚く番だった。思わず「なんで僕だって分かったの?」と聞いてしまう。するとミナトは「だって先輩の字だったし」と口をへの字にした。
「先輩、毎月図書室の本の購入希望用紙を提出してるっしょ。図書委員になってすぐそれをまとめる作業をやったけど、他の人はタイトルと作者しか書いてないのに、先輩だけ出版社とか第何版とか細かくて。匿名でも目立ってたから字を覚えた。図書室にある辞書が購入希望になってて変だなと思って先生に聞いたら、『この子は版で内容が変わるのを知ってて違うのが読みたいんだよ』って笑ってて。そんな人がいるのかって驚いたら、先生が今カウンターで本を借りようとしてる子だよって先輩を指さして教えてくれたんだよね。別の図書委員が対応してたけど、先輩が図書室を出てってから履歴を確認して、先輩の名字を覚えたわけ。寿なんてすげえ名字だ、めでたいなって」
 そこでミナトが指を一本ずつ出しながら「字、顔、名字、これを四月に覚えた」と言う。まさか教師と新入生の間でそんな会話があったとは思わず、恥ずかしさに顔から変な汗が出てきた。ぱたぱたと手であおぐ。
「僕、図書室に置いてほしい本を見つけると、最後の奥付のページを見て覚えるんだよ。それを思い出しながら購入希望用紙を書いちゃうから、出版社とか書いたほうがいいよなって思って書いちゃうんだよね。他の人がシンプルに書いてるって知らなかった。匿名なのにバレバレで恥ずかしい」
「別に悪いことじゃないっしょ。そういうわけで、最初に落書きの返事が来たときに図書室で見かけた人だなって思った。そのあと実際にしゃべるようになったけど、先輩が気づくまで相手がオレだっていうのは黙っとこって思ってた。あとから驚かせようと思って」
「ソータの字かもとは思わなかった?」
「先輩が双子だって知ったときは一瞬思ったけど、弟先輩、よく見たら左利きじゃん。右利きの先輩とは字は違うはずだと思って、部活中に邪魔しちゃったときに漢字を聞くふりして弟先輩に字を書いてもらったわけ。やっぱり全然違った。双子で利き腕が違うこともあるっていうのは知らなかったけど、まあ別人だもんなって思った」
「ああ、なるほどね。ソータはあんまり図書室に行かないしね」
「先輩はなんでオレだって気づいたわけ」
「夏休みにファミレスで一緒に勉強したから。向かいでミナト君が字を書くのを見て気づいた」
「あっそうか……オレは先輩だって始めから分かってたから、その可能性には気づかなかった……え、バレバレじゃん」
 ミナトが呆然とした口調で言い、沈黙が下りた。だが、すぐにお互い赤面する。洸太は自分が机に書いた書き込みを思い出し、思わず目線をそらした。
「僕、恥ずかし……演劇部なの知られてたのに、文化祭で演劇部を見に行くといいよって書いたのを読まれてたわけでしょ? ドヤ顔で部活自慢してて恥ずかしすぎる」
「オレのほうがキツい……最近のオレの書き込み、最悪……」
 お互いそっぽを向いて頭を抱え込み、洸太が先に咳払いをした。
「クリスマスツリーの前で男子ふたりが悩んでてもおかしいだけだよ。ミナト君、次どこへ行く予定なの。明日の下見を最後までしないと」
 するとミナトがぱっと顔をあげた。
「それ。その明日ってなに? オレ、明日はバイトだけど。サンタの帽子被ってケーキ売る。寒い外で道を通る人に呼びかけて売るから、環境はブラックかも。カイロ手当って出ないかな? 首、背中、腰、両足、両手用にポケットに貼らないカイロ、どう見積もっても五個は使うんだけど」
「それは過酷だね。クリスマスケーキか。うちは毎年アイスケーキだから、いちごのショートケーキは食べないんだよね」
「先輩ん家はそうなんだ。で、明日ってなんのこと?」
「ミナト君、明日デートなんじゃないの?」
「え、なんで?」
「なんでって、机にクリスマスデートがどうたらって書いたでしょ?」
「それは……書いたけど……でもなんで明日?」
「だってクリスマスは明日でしょ? 明日行くでしょ、クリスマスデート」
 するとぽかんとしたミナトが次第に顔を赤らめ、「ああー!」と再び頭を抱え込んだ。
「そういうことか……日本語激ムズ! 先輩との意思疎通が難しい……いや、オレが悪いのか……」
 ミナトは悔しそうにぶつぶつと呟き、額を押さえてはあとため息をついた。そしてぴんと背を伸ばす。
「先輩、本日最後は学校側の公園の予定っす。寒いけど二十分の予定なんでどうですか。多分そんくらいで六時くらいになると思うんで、帰るのにちょうどいい時間っしょ? いつもしゃべってるあの公園に行きたいんす。話の続きはそっちでしましょ」
 急にミナトがしゃんとした。ジャンパーのポケットにまだ新しいカイロは入っている。いいよと同意すると、ミナトがぴっと駅の方向を指さして「行きましょ」と先をすたすた歩き出した。コートの背中が前を歩きながら左右に不規則に揺れる。「恥っず」「バレてたし」「いやバレてないのか」「ややこしい」となにか独りごちている。
 その呟きはよく分からなかったが、あの文通相手が自分だと見破られていたことがとんでもなく恥ずかしい。変な汗がだらだら出てきて、暑さにコートを脱ぎたいくらいだ。だが、最後の問いに返事を書かなかったことが悔やまれて、ちりっと胸が痛んだ。金髪の残る後頭部を見る。うなじが覗く黒髪の襟足はきれいで、少しだけ寒そうだった。
 モールを出ると雪が降っていた。ふわふわと綿が舞い降りてきていて、クリスマスの飾りつけが映える。雪が降るとかえって暖かくなると言う。ミナトと雪が見られたことに少し胸が温かくなった。だが、ミナトは難しい顔をして駅へと歩いていく。
 電車に揺られている間、ミナトは「今ちょっと考え中」と言い、赤い顔でなにやら考え込んでいた。公園に着くと辺りは本当にいつも通りで、土や植え込みが薄らと雪化粧している以外はクリスマスらしさも欠片もない普通の公園だ。
 ミナトはまっすぐ東屋のほうへ向かった。壁に囲まれているため、風が遮られてちょっとは寒さはマシだろう。通りすがりの自販機に寄ってミナトはホットのミルクティーを買い、洸太はホットのほうじ茶のボタンを押した。ゴトンと落ちてきたオレンジの蓋のペットボトルを取る。屋根が少し白くなった東屋の中へ入り、ペットボトルをカイロ代わりに手を温めて、ベンチにちょこんと腰かけた。
「先輩、そもそも論をいいっすか」
 口火を切ったのはミナトだった。
「クリスマスデートって二十五日限定とは限らなくないっすか? クリスマスイブかもしれないとは思わなかったんすか」
「一般的にはそうかもしれないけど、今日のクリスマスイブは僕と遊ぶって予定入れちゃったじゃん。だから明日佐藤さんと行くデートの下見なのかと思ってたんだけど」
「……その佐藤さんってどこから来たんすか? オレ、佐藤さんを見つけたって言ってねえっす」
「口では言ってないけど、机に好きな人ができたって書いてあったから、念願の佐藤さんと出会えたんだって思ってた。違うの?」
 こちらの言葉にミナトが驚き、途端に手で顔を覆った。
「ああ、そういうこと……やっと分かった……全部オレの書き込みが悪いじゃん……」
 ミナトがはあとため息をつく。その口から湯気が立ちのぼった。白くくゆらせた煙は、誰もいない公園に溶けて消えてしまう。そこでミナトが左右に体を揺らして座り直した。緊張した口ぶりで言う。
「先輩、オレの五つ前の書き込みを覚えてますか。五つ前から最近のまで順番に正確に思い出してほしいっす」
 いきなりお題を出されて洸太の頭の中が「えっ」と一瞬混乱した。
「順番に? 僕、思い出す映像は時系列じゃなくてランダムなんだよ。どれが五つ前とか分かんない」
 木目のある机を思い描いていると、ミナトが「一番目は好きな人ができたとか書いてある書き込み」と言う。
「ああ、『こないだ好きな人ができた』ね」
「次はアプローチがどうのって書いたやつ」
「『うんざりされない程度にアプローチするにはどうしたらいい?』」
「次、デートに誘う云々」
「『ただデートに誘うだけでも喜んでくれると思う?』」
「次、楽しめる場所」
「『既に行ったところでもまた楽しめる場所ってある?』」
「最後、先輩が返事くれなかったやつ!」
 声がちょっと尖っていて、気まずさに声が小さくなった。
「『金曜が終業式、二十四日の土曜から冬休みだけど、クリスマスデートに行くならどこに行けばいい?』」
 するとミナトが「そう、それ!」と大きな声を出した。
「この五つを見て先輩は、オレが付き合いたい彼女の佐藤さんを見つけたと思って、それでデート場所を聞いてきてると考えて、二十五日のクリスマスにデートだと判断して、クリスマスイブの今日は明日のデートの下見って思い込んだってことっすね!?」
「思い込んだって言うか、そうじゃないの?」
 するとミナトが「もう!」と言ってから、「頭文字を全部拾ってみて!」と怒るように言った。
「今の五つ、順番に頭文字を拾ってみて!」
「頭文字……?」
 脳内で五つの映像を思い浮かべて拾っていく。
 こ・う・た・す・き。
「……え、はあ!?」
 思わずミナトの顔を見上げたら、「あーもう」とミナトが頭を抱え込む。
「書いてるのはオレだと知らないと思ってたし、ひとりで遊んでただけだけど……でもさ、先輩は全部覚えられるから気づいてくれっかなってちょっとは期待するじゃん?」
 顔を手で覆うミナトを見てぽかんとし、我に返って「いやいや!」と思わず言い返す。
「頭文字を読むなんて気づくわけないでしょ!? ちょっと文章がいつもと違うなとは思ったけど! 言いたいことは直接言ってよ!」
「『ずっと前から月はきれいだよ』! はい、今直接言った!」
 ずっと前からあなたが好きでした。自分の部屋から見える半月を見ながら電話で話したときのセリフ。自分が教えたそれをミナトが覚えていたことに、顔が熱くなっていく。その恥ずかしさを振り切るように首を横に振り、顔を赤くさせて睨むようにこちらを見てくるミナトに「それは違うって!」とかぶりを振る。
「それは『月がきれいですね』の返事だから! 単体じゃ使わないよ!」
「えっ? あ、そうなのか! オレってホントバカ、っていうか先輩意味分かってんじゃん!?」
「分かったけど、なんか違うかなと思って!」
「違っててもいいんじゃねえの!? 伝わったんだから!」
 ぎゃあぎゃあと言い合い、ミナトがぐっとこぶしを握って叫んだ。
「佐藤さん探しはやめた! だって寿洸太を好きになったから! 男子が男子を好きになったらおかしい? きっと先輩以外はオレを変わってるって言う。でも、先輩はバカにしないと思った!」
 そこでミナトが耳まで顔を赤くさせていることに気づいた。東屋の天井にある明かりがふたりを見下ろしている。
 いつか頭の中でサス残しの照明の中に立つミナトを思い描いた。そしてもう一つライトが落ちた先に女の子が立つ様子も想像した。だが、違う。今、スポットライトを浴びているのはミナトと自分だ。
「……ミナト君って、僕のことが好きなの?」
「そうだよ! オレの変な話も聞いてくれるし、勉強教えてくれて優しいし、一緒にいて楽しいし、読書量がすごいのかっこいいし、あと髪を切ってからポテンシャルを発揮しすぎて顔見るの大変! 髪切った日にここで撮った写真を見てめっちゃにやけてる!」
「え、顔はソータで見慣れてるでしょ?」
「でも弟先輩は爽やか元気でいかにも弟って感じだし! 先輩は雰囲気かわいい穏やか系なのに中身がイケメンお兄ちゃんって感じ……っていうか、先輩はファースト飲み回しからオレにいろいろ彼氏彼女相手みたいなことをしてくるよな! 最近もカイロを用意してくれるとか、マジでなに!? そういうの、勘違いされるから! 先輩のすることはいつもギリアウト!」
「え、え? 僕そんな変なことした?」
 洸太は尋ねたが、ミナトはそこで膝に肘をついて顔を覆ってしまった。だが、赤い耳がぴょんと出ている。
「……あーもう、思ってたこと全部ぶちまけちゃった……いや、一つ言ってねえや。最後の机の落書きに返事くれなかったの、なんでっすか……ちょっとショックだったっす」
 ミナトの言葉を反芻し、ようやくなにがすれ違っていたのか理解した。だが、理解した事実がどんどん顔を熱くさせて、自分でも顔が赤くなっていくのが分かる。雪の公園に沈黙が下りて、外なのに暑い。
 ずっとあなたが好きでした。寿洸太が好きになったから。
 ミナトが言った言葉が真実なのだと、ようやく頭に手の先、足の爪先まで浸透して、クリスマスツリーを見たときのときめきのように胸がどきどきしてくる。ミナトの一世一代の告白だ。口からのぼる白い息を呑み込むように身を乗り出して尋ねてしまう。
「ミナト君は好きな人ができたって僕に遠回しに伝えようとしてたの? クリスマスデートって今日僕と出かけることを指してた? だからどこ行くのがいいか僕に聞きたかったってこと? その髪は、僕のためにおめかししてくれたってこと?」
「……その通りっす……だから最後の質問の答えを知りたかったっす……」
 ミナトがうなだれるように頭を下げる。すると短くなった髪が前へさらっと流れた。いつもきらきら光って見える金髪が毛先だけで翻って、やはりきらきらして見える。ミナトが寒そうに首を縮めた。口元を隠すようにマフラーをあげる。
 ミナトの隠しきれていない耳の赤い部分を見ていたら胸がどくどくと大きな音を立て始めた。鼻先だけ冷たいのに顔が熱い。劇が始まる前と同じ胸の高鳴り。そして自分たちに当たっているスポットライト。開演ベルが鳴らない新しい世界の幕を上げるには、自分がきちんと言葉にしなければならない。
 オレの前で演技しなくていいよ。いつかミナトが言っていた言葉。ミナトが本音を話すべきだと最初に教えてくれた。
「僕が」
 洸太がそう言うと、目線だけでちらりとミナトがこちらを見た。
「僕が返事をしなかったのは、ミナト君に佐藤さんとクリスマスデートに行ってほしくなかったから。今日は遊びに行こうって言われて嬉しかった。改札前の登場シーンからかっこよすぎて完璧だったよ。映画も、UFOキャッチャーも、ウィンドウショッピングも、クリスマスツリーを見るのも、どれもすごく楽しかった。でも、今日は全部佐藤さんのためだと思ってた。きっとさっきまでの自分だったら別れ際にこう言ってた。ミナト君、明日のデートプランはばっちりだよって」
 洸太は勇気を出して笑った。
「僕も月はずっときれいだと思ってたんだ。今日のデートプラン、ばっちりだった。すっごく楽しかったよ!」
 最後のほう、声が震えてしまい、同じく震えそうな体に思わずぐっと腹に力を入れる。ミナトがゆっくりとこちらを見て、口を小さくぽかんと開けた。
 いつだって人に話せない本音を言う相手はミナトだった。明日からもそうできるなら、それが一番いい。
 体が熱くなった洸太はハイネックのジャンパーの上だけ開けて、中に締めていたマルチカラーのマフラーを外した。立ち上がり、ふわりとミナトのマフラーの上に被せる。
「髪が短くなったうしろが寒そう。風邪引いたらいけないからちゃんと温かくして。それから、僕は好きでもない人にカイロなんてあげないよ」
 マフラーを掴んだままそう言うと、腕の長さ分に近づいたミナトの顔がへなへなと下を向いた。
「……嬉しすぎる。やっば……」
 だが、次の瞬間ミナトの両腕ががしっと腰に回って、ぐいと引き寄せられた。
「……先輩の破壊力、ホント半端ない……」
 洸太は思わずははっと笑ってしまった。胸の位置にあるキャラメルの多い金髪プリンの頭を抱きかかえる。
「ミナト君、かわいすぎ! 顔見られたくないのをごまかしてるでしょ!」
「……すげえにやけてるから絶対見せられない……」
 胸元でミナトがもごもご言って、抱えた頭をぽんぽんする。そしてそこに軽く顎をのせた。ふっと息を吐くと、くらりと白いもやが上にのぼっていく。
 初めてこの公園で話した日の夏の湿気を思い出せる。半年間、ちょっとの時間を積み重ねてきたふたりの気持ちを話すには、この公園がふさわしい。だからミナトもここへ来ようと促したのだし、クリスマスツリーの前にいるときよりも胸が熱いのだ。
 洸太は抱きしめる後頭部を撫でて言った。
「ミナト君、僕と付き合ってください。返事ははいかイエスでお願いします」
 するとこちらのジャンパーの腰を掴む手にぎゅっと力が入った。
「……うっす……」
 はいでもイエスでもない答えにまた笑い、ミナト君らしいなとまた笑ってしまう。多分、笑っていないと目から熱いものがこぼれそうだからだ。
「ミナト君、夕飯は家で食べる? もしよかったらファミレスでご飯食べない? 僕にとっては今ここからが正式なデートなんだ」
 するとミナトがぱっと離れて慌てて立ち上がった。
「行けます! でも、オレ、ここからノープラン」
「ノープランでも楽しければいいんじゃない? あ、ミナト君、今日ソータに変なこと言わないで。ソータ、僕がミナト君を好きって気づいてるっぽくて」
 するとミナトが再び「あ!」と焦った顔になって持っていたバッグを広げた。そして「これ」とリボンでラッピングされた透明な袋を差し出してくる。
「渡すの忘れてた。クリスマスプレゼントっす」
「ブックカバー? すごい、文庫サイズと新書サイズだ」
 コバルトブルーとオリーブの布地がラッピングされた袋に驚く。洸太はつい笑顔になったが、ミナトはもごもごと言った。
「弟先輩が、先輩にクリスマスプレゼントをあげればって言ってたんす。コータは鞄に必ず一冊本を入れてる、文庫が多いけどたまに新書も読んでるって」
「え、ソータはなんでそんなことを?」
「……オレの気持ちもバレバレっぽい……」
 思わず「ソータのやつ」と赤面した。だが、袋を胸に抱きしめて顔をあげる。
「ありがとう! 今日から使わせてもらうね!」
 ミナトが頬を染めたまま破顔した。誰もいない冬の公園で、冷たい手を取る。するとミナトが握り返してきた。
 この大きな手で手をつなぐのは佐藤さんではなく自分だった。佐藤さんなんて最初からいなかった。名字を変えて佐藤さんになりたかったミナトも、ミナトに振り向いてほしくて佐藤さんになりたかった自分も、もうどこにもいない。
「ミナト君」
 二重にマフラーを巻いたミナトがこちらを見下ろす。指先が少し温かくなってきた。指先の熱を分け合って、本音を打ち明けて、そうやって時間を進めていく。舞台の幕は上がったばかりだ。カーテンコールにはまだ早い。
「ホント、大好き!」
 洸太の額に真っ赤になったミナトのデコピンが弾けた。



【了】


作中に出てきた本また脚本は全て架空のものであり、著作権を侵害するものではありません。


作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:15

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア