十二月の試験が終わると、特進科では冬期講習が始まった。普通科は終業式まで自宅学習期間になるから、湊太はもちろんのことミナトも授業はない。中途半端に終わってしまった机の丸文字とのやり取りは途絶えて、あれはミナト君と話す貴重な機会だったのにと思ったり、あれ以上佐藤さんの話題に付き合えないと感じたり、なにも書かれていない木目のやわらかな机に気持ちが行ったり来たりした。
演劇部は二月頭の学内公演に向けて、洸太以外のメンバーは朝から部活をやっていた。洸太は冬期講習が終わってからの数時間だけ一緒に稽古ができる。こちらが来るまでみんなは大道具を作ったり、洸太がいないシーンを練習したりしているらしい。
洸太はそれがうしろめたかったのだが、それは顧問が否定した。部活は学校教育の一環であって学業も大事なのだと。おかげで少なくとも表面上は洸太のことを悪く言う部員はいなかった。そこは湊太が徹底させていて、いろんな科が集まったときに行事で誰かが欠けるのは当たり前だと言っているらしい。それがうちの演劇部なのだとも。こういうときに湊太が頼もしいのはありがたかった。
ミナトとは洸太の部活帰り、ミナトのバイト帰りに会うようになった。これまでと同じ、本屋へ寄ったり、公園の代わりに駅前の広場で話したり、特に洸太が疲れた日はカフェで温かいものを飲んだり、またクレープを食べに行ったりした。
「先輩、土曜日のクリスマスイブ、どっかに遊びに行きません? 部活っすか」
ミナトの口からその言葉が出たのは終業式を三日後に控えた日だった。部活帰りのカフェで、白パーカーにジーンズのミナトはココアを飲んでいて、洸太は抹茶オレを飲んでいた。お互いのマグカップから湯気が立っていて、睫毛を少し湿らす。
洸太はミナトの言葉に驚き、マグカップを口につけようとしたのを止めた。
「その日、僕は顧問の先生がいなくて部活はないんだ。だから僕はいいんだけど、ミナト君は誰か遊ぶ予定はないの?」
「ないっす。一ナノメートルもないっす」
「ナノ……ってなんだっけ」
「ミクロンの千分の一ですね。ミリの百万分の一っす」
「よく覚えてるね。僕、ホントに数字系は駄目みたい」
「習ったばっかっす」
でも、クリスマスイブって、いかにもデートみたいじゃない? そう思ったが、一瞬で冷静になった。翌日の佐藤さんとのクリスマスデートに備えての下見だろう。ミナトがココアをテーブルに置いて嬉しそうに言った。
「クリスマスって気分が爆上がりしませんか。歩いてる人もみんな楽しそうにしゃべったりしてるし、オレも今年はそっち側でクリスマスに参加したいっす」
「ミナト君の気分が爆上がりするとどうなるの。想像つかない」
「マジっすか。オレ、本気出しますよ。全力でクリスマスやるっす」
「クリスマスやるってなに?」
ふふっと笑うと、ミナトがスマホを取り出して画面にあるオレンジのアイコンを指さした。
「スケジュール管理のアプリがあるっす。何時からなにをやるっていう計画を立てられるんすよ。分単位で書き込めるんす。朝から一日計画立てて、実際に実行できるかやってみたいっす」
そう言ってミナトはアイコンをタップした。
「先輩、また映画を見に行きません? この間のところまで行けば、近くのモールでクリスマスツリーのイルミネーションが見られるじゃないっすか。モールにはいろいろあるし」
「えっホント? 今ハリウッド映画ですごく評判がいいのがあるんだよ。見に行きたい! ミナト君は吹き替えと字幕、どっち派かな」
「こだわりはないっす。先輩がいいほうでお願いします」
今日のミナトは髪をうしろで一つに縛っていた。またこぼれた髪を耳にかける。大きな手でやる繊細な仕草につい目が行く。軽い口調で話すから見落としがちだが、ミナトは案外繊細で細やかな性格だ。そうでなければこちらのコンプレックスなど見抜かなかっただろうし、わざわざデートの下見になど行かないだろう。
スマホを操作し、上映時間を確認する。
「九時四十分の回があるみたい。終わるのは十一時半前かな。そのあとお昼ご飯でどう? 早すぎるかな?」
「大丈夫っす。その回にしましょ。九時四十分からは映画、っと」
ミナトがタタタッとスマホをタップし、予定を書き込む。
「オレがそのあとの予定を決めちゃってもいいっすか」
「もちろん。僕、クリスマスイブに誰かとそうやって遊ぶとかしたことないから」
自分でデートの計画を立てたいんだろうな。そう思って顔に笑顔を貼りつけて抹茶オレを飲む。だが、ミナトはちょっと声のトーンを落とした。まばたきの少ない目でこちらをじっと見てくる。
「先輩、最近疲れてるっしょ。試験ムズかったっすか。笑顔が全然笑ってないっす」
内心ぎくりとしたが、苦笑した。
「実は試験後に担任の先生と進路の面談があってね。事務所に所属したいから進学しないって言ったから慌てさせちゃったよ。その場で演劇科のある大学を調べてくれて、僕の成績なら推薦で受けられるから考えてみたらどうかって。まあ特進の先生はそう言うよね。大学に合格すれば高校の進学実績になるし」
「演劇とか芸能の世界って、オレ、全然分かんないっす。家族には話したんですか」
「親にはまだ言ってない。二十八日に冬期講習が終わったら言おうと思って。ソータは先生経由でなにか聞いたんじゃないかな。なにか言いたげにこっちを見てるときがある」
「親に言う前に弟先輩に言ったらいいんじゃないっすか。味方してくれそうっす」
「どうだろう。俺より勉強できるんだから進学しろよって思ってるかもね」
するとミナトはうーんと腕を組んでしまった。「ココアが冷えるよ」と言ってから「ミナト君は進路考えてる?」と話題を変えた。するとミナトが眉根を寄せて唸る。
「笑わないでほしいんすけど……オレ、動物か植物に関わる仕事がしたいんすよね。水族館の飼育員とか庭師とか。人間と違って嘘つかない相手っていうか。自然相手ってたまに残酷だけど、だからこそやりがいを感じられたり、人間相手じゃ見えてこない世界を知ったりできそうで。庭師は資格の勉強が難しいかもしれないっすけど」
洸太はそれを想像した。ペンギン用の餌をバケツに入れて歩くと、ペンギンがわらわらと寄ってくる。笑顔で一匹一匹に丁寧に魚を投げて食べる様子を眺めるのだ。また頭に白いタオルを巻いて剪定ばさみを持つところも想像した。落ち葉を集めていたミナトらしい気がする。思わず笑顔になった。
「ミナト君、ぴったりじゃない? 絵が浮かぶよ。ああいう仕事って繊細な仕事だろうし、ミナト君自身が生き生きとして働いてそう」
「うーん、そんな難しい仕事につけんのかって気もするからホント空想なんすけど……」
難しい顔をしているミナトに思わず言葉が口をついて出た。
「もしよかったら今度水族館に行ってみない? 冬は外の展示が寒いかもしれないから来年でもいいし。ほら、電車で一時間くらいのところにあるから」
言ってしまってからはっとする。その頃にはミナトは佐藤さんとのデートで忙しく、遊んでいる暇などないかもしれない。だが、ミナトは「マジっすか」と笑顔を輝かせた。
「十割ガチな約束をお願いします!」
「分かった。割とマジで行こうね」
ミナトっぽく口調を真似ると、テーブルの向こうから小さなデコピンが飛んできた。
「先輩をそんな口調にさせたの、オレ、反省案件っすね」
「あ、反省案件リターンズ」
「それも先輩っぽくない!」
お互い目を合わせて吹き出した。黙ってマグカップに口をつけて、目だけで笑う。
たまにこうして話すくらい、佐藤さんが許してくれるといい。ミナトとの目線の高さの違いも、向かい席でどちらが奥に座るかということも、コートの袖の内側に手を引っ込めるのが寒くなった合図だということも、いろんなことが理解できるようになった。
ミナトにさようならを言うのは悲しい。もうちょっとだけ、一緒に話したい。もうちょっとだけ、一緒にいたい。せめてクリスマスイブはふたりきりで笑って過ごしたい。
ブレザーに臙脂のネクタイを締めた正装で終業式に参加する。式典が終われば午後一杯部活だ。久しぶりに全員で長く時間がとれるので、通しでやることになった。役者に関しては褒められることが増えた。照明係のときの感覚で、照明がどう表現したいのか分かるし、照明と連携を取る音響係がどんなことを意識しているのかも分かる。役者をやるには遠回りだったかもしれないが、経験はしっかりと根付いている。
「じゃあ二十分休憩ね」
顧問のぱんぱんと手を打ち鳴らす音で休憩に入る。自分の鞄に飲みものを取りに行って、スポーツドリンクのペットボトルが空になっていることに気づいた。しかたなく体育館を出て水道場まで水を飲みに行く。
暖房の効いた体育館から廊下に出ると、一気に空気が冷たくなる。半袖ハーフパンツのジャージ姿だった洸太は、上着を持ってくればよかったなと身震いした。五メートルほどの外廊下を通って水道場に行き蛇口を捻って水を飲む。
濡れた顎を袖で拭っていると、「コータ、演劇やりてえの」という声がきんと冷えた空気を裂いた。そちらを見れば体育館からやって来た湊太が険しい顔でこちらを見ている。体育館前のリノリウムの廊下からコンクリートに切り替わるその境で、まるで返事を聞くまで体育館に帰すものかと言わんばかりに仁王立ちだった。
担任や顧問を通じて湊太の耳に入ったのは本当だったようだ。洸太はもう一度顎を拭くと「うん」と言った。
「やりたい」
はっきり言うと、洸太は台本を持ったまま左手でこちらを指さした。
「そっちの世界に入ったら、コータが比べられるのは俺だけじゃねえぞ。先輩や後輩の上手い役者だ。自分よりずっと年下の子役だっている」
「分かってるよ」
「俺と比べられて落ち込んでたやつにできると思ってんのかよ」
「今ソータと同じ舞台で稽古してるけど。比べて落ち込んでるように見える?」
「俺の半分以下のセリフで満足してるようじゃやってけない世界なんだよ」
「そんなふうに僕を試すようなことを言わなくても大丈夫だよ。僕、案外諦めが悪いんだよ。演劇のことも、他のことも」
すると湊太がいつも通りの表情に戻った。そしていつかのように眉尻を下げて「そっか」と小さく笑う。
「じゃ、応援する」
ありがとと笑うと、湊太は照れたように頭を掻いた。
「で、コータの他に諦めたくないことってなに?」
「今いろいろ悩んでるんだよ。進路とか勉強のこととかね」
「……ミナト君じゃなくて?」
突然湊太がそう言ったので、目が丸くなった。
「ミナト君?」
「いや、よく分かんねえけど、コータは普段人と距離を置くのにすげえ仲良いみたいだし、なんていうか……表現が合ってるか分かんねえけど、好きなのかな、って、思って」
最後のほう、小さくなった声に双子はこういうのも気づくのかななどと思う。一方で湊太に彼女ができても言われるまで気づかない鈍感な自分に笑ってしまった。
「そりゃ好きだよ。すごくいい子だし。明日一緒にミナト君のデートの下見に行くんだ。わざわざ下見に行くとか、ミナト君は真面目だよね」
「……デートの下見?」
洸太は意味もなくまた蛇口を捻って冷たい水で手を洗った。そうすると冷えた腹の底から気がそれる。
「佐藤さんとクリスマスデートに行くらしいよ。自分で一日日程を決めるって言ってたから、それがうまくいくかどうか確認したいんじゃない?」
すると湊太が戸惑った顔になった。考えるようにくちびるの下を触る。
「え? 俺、ミナト君からコータと遊びに行くってことは聞いたけど、佐藤さんの話は聞いてねえ」
「ミナト君は佐藤さんと結婚したいってことはソータに話してないんじゃないの?」
「あ、そっか。たしかに佐藤さんの件はコータから聞いただけだ」
だが、湊太は「ん?」となにやら考え込む。
「変だな。俺、てっきりふたりでクリスマスを楽しむのかと思ってたんだけど?」
「二十五日のクリスマスは我が演劇部の部活がありますよ。僕がミナト君と出かけるのは明日のクリスマスイブ。ミナト君となに話したか知らないけど、早とちりしたんじゃないの」
洸太は話を切り上げるため、ダッと湊太に近寄ってその両腕を濡れた手でがしっと掴んだ。案の定湊太が「冷てっ!」をこちらを振りほどく。
「コータ、最ッ悪!」
「はいはい、こんな寒いところで話してたら風邪引くよ。体育館に戻ろ」
先を歩き出したが、湊太はうしろで「おっかしいな」などとぶつぶつ呟いている。
ミナトが自分と出かけることを湊太に話してくれているのは嬉しい。クリスマスデートのことを自分だけに、正確に言えば、机の落書きの文通相手にだけに言っているのもちょっとだけ嬉しい。
クリスマスイブはミナトを独り占めできる最後の日かもしれない。そう考えると目蓋の裏が熱くなる。それでも精一杯その日を楽しく過ごしたかった。
演劇部は二月頭の学内公演に向けて、洸太以外のメンバーは朝から部活をやっていた。洸太は冬期講習が終わってからの数時間だけ一緒に稽古ができる。こちらが来るまでみんなは大道具を作ったり、洸太がいないシーンを練習したりしているらしい。
洸太はそれがうしろめたかったのだが、それは顧問が否定した。部活は学校教育の一環であって学業も大事なのだと。おかげで少なくとも表面上は洸太のことを悪く言う部員はいなかった。そこは湊太が徹底させていて、いろんな科が集まったときに行事で誰かが欠けるのは当たり前だと言っているらしい。それがうちの演劇部なのだとも。こういうときに湊太が頼もしいのはありがたかった。
ミナトとは洸太の部活帰り、ミナトのバイト帰りに会うようになった。これまでと同じ、本屋へ寄ったり、公園の代わりに駅前の広場で話したり、特に洸太が疲れた日はカフェで温かいものを飲んだり、またクレープを食べに行ったりした。
「先輩、土曜日のクリスマスイブ、どっかに遊びに行きません? 部活っすか」
ミナトの口からその言葉が出たのは終業式を三日後に控えた日だった。部活帰りのカフェで、白パーカーにジーンズのミナトはココアを飲んでいて、洸太は抹茶オレを飲んでいた。お互いのマグカップから湯気が立っていて、睫毛を少し湿らす。
洸太はミナトの言葉に驚き、マグカップを口につけようとしたのを止めた。
「その日、僕は顧問の先生がいなくて部活はないんだ。だから僕はいいんだけど、ミナト君は誰か遊ぶ予定はないの?」
「ないっす。一ナノメートルもないっす」
「ナノ……ってなんだっけ」
「ミクロンの千分の一ですね。ミリの百万分の一っす」
「よく覚えてるね。僕、ホントに数字系は駄目みたい」
「習ったばっかっす」
でも、クリスマスイブって、いかにもデートみたいじゃない? そう思ったが、一瞬で冷静になった。翌日の佐藤さんとのクリスマスデートに備えての下見だろう。ミナトがココアをテーブルに置いて嬉しそうに言った。
「クリスマスって気分が爆上がりしませんか。歩いてる人もみんな楽しそうにしゃべったりしてるし、オレも今年はそっち側でクリスマスに参加したいっす」
「ミナト君の気分が爆上がりするとどうなるの。想像つかない」
「マジっすか。オレ、本気出しますよ。全力でクリスマスやるっす」
「クリスマスやるってなに?」
ふふっと笑うと、ミナトがスマホを取り出して画面にあるオレンジのアイコンを指さした。
「スケジュール管理のアプリがあるっす。何時からなにをやるっていう計画を立てられるんすよ。分単位で書き込めるんす。朝から一日計画立てて、実際に実行できるかやってみたいっす」
そう言ってミナトはアイコンをタップした。
「先輩、また映画を見に行きません? この間のところまで行けば、近くのモールでクリスマスツリーのイルミネーションが見られるじゃないっすか。モールにはいろいろあるし」
「えっホント? 今ハリウッド映画ですごく評判がいいのがあるんだよ。見に行きたい! ミナト君は吹き替えと字幕、どっち派かな」
「こだわりはないっす。先輩がいいほうでお願いします」
今日のミナトは髪をうしろで一つに縛っていた。またこぼれた髪を耳にかける。大きな手でやる繊細な仕草につい目が行く。軽い口調で話すから見落としがちだが、ミナトは案外繊細で細やかな性格だ。そうでなければこちらのコンプレックスなど見抜かなかっただろうし、わざわざデートの下見になど行かないだろう。
スマホを操作し、上映時間を確認する。
「九時四十分の回があるみたい。終わるのは十一時半前かな。そのあとお昼ご飯でどう? 早すぎるかな?」
「大丈夫っす。その回にしましょ。九時四十分からは映画、っと」
ミナトがタタタッとスマホをタップし、予定を書き込む。
「オレがそのあとの予定を決めちゃってもいいっすか」
「もちろん。僕、クリスマスイブに誰かとそうやって遊ぶとかしたことないから」
自分でデートの計画を立てたいんだろうな。そう思って顔に笑顔を貼りつけて抹茶オレを飲む。だが、ミナトはちょっと声のトーンを落とした。まばたきの少ない目でこちらをじっと見てくる。
「先輩、最近疲れてるっしょ。試験ムズかったっすか。笑顔が全然笑ってないっす」
内心ぎくりとしたが、苦笑した。
「実は試験後に担任の先生と進路の面談があってね。事務所に所属したいから進学しないって言ったから慌てさせちゃったよ。その場で演劇科のある大学を調べてくれて、僕の成績なら推薦で受けられるから考えてみたらどうかって。まあ特進の先生はそう言うよね。大学に合格すれば高校の進学実績になるし」
「演劇とか芸能の世界って、オレ、全然分かんないっす。家族には話したんですか」
「親にはまだ言ってない。二十八日に冬期講習が終わったら言おうと思って。ソータは先生経由でなにか聞いたんじゃないかな。なにか言いたげにこっちを見てるときがある」
「親に言う前に弟先輩に言ったらいいんじゃないっすか。味方してくれそうっす」
「どうだろう。俺より勉強できるんだから進学しろよって思ってるかもね」
するとミナトはうーんと腕を組んでしまった。「ココアが冷えるよ」と言ってから「ミナト君は進路考えてる?」と話題を変えた。するとミナトが眉根を寄せて唸る。
「笑わないでほしいんすけど……オレ、動物か植物に関わる仕事がしたいんすよね。水族館の飼育員とか庭師とか。人間と違って嘘つかない相手っていうか。自然相手ってたまに残酷だけど、だからこそやりがいを感じられたり、人間相手じゃ見えてこない世界を知ったりできそうで。庭師は資格の勉強が難しいかもしれないっすけど」
洸太はそれを想像した。ペンギン用の餌をバケツに入れて歩くと、ペンギンがわらわらと寄ってくる。笑顔で一匹一匹に丁寧に魚を投げて食べる様子を眺めるのだ。また頭に白いタオルを巻いて剪定ばさみを持つところも想像した。落ち葉を集めていたミナトらしい気がする。思わず笑顔になった。
「ミナト君、ぴったりじゃない? 絵が浮かぶよ。ああいう仕事って繊細な仕事だろうし、ミナト君自身が生き生きとして働いてそう」
「うーん、そんな難しい仕事につけんのかって気もするからホント空想なんすけど……」
難しい顔をしているミナトに思わず言葉が口をついて出た。
「もしよかったら今度水族館に行ってみない? 冬は外の展示が寒いかもしれないから来年でもいいし。ほら、電車で一時間くらいのところにあるから」
言ってしまってからはっとする。その頃にはミナトは佐藤さんとのデートで忙しく、遊んでいる暇などないかもしれない。だが、ミナトは「マジっすか」と笑顔を輝かせた。
「十割ガチな約束をお願いします!」
「分かった。割とマジで行こうね」
ミナトっぽく口調を真似ると、テーブルの向こうから小さなデコピンが飛んできた。
「先輩をそんな口調にさせたの、オレ、反省案件っすね」
「あ、反省案件リターンズ」
「それも先輩っぽくない!」
お互い目を合わせて吹き出した。黙ってマグカップに口をつけて、目だけで笑う。
たまにこうして話すくらい、佐藤さんが許してくれるといい。ミナトとの目線の高さの違いも、向かい席でどちらが奥に座るかということも、コートの袖の内側に手を引っ込めるのが寒くなった合図だということも、いろんなことが理解できるようになった。
ミナトにさようならを言うのは悲しい。もうちょっとだけ、一緒に話したい。もうちょっとだけ、一緒にいたい。せめてクリスマスイブはふたりきりで笑って過ごしたい。
ブレザーに臙脂のネクタイを締めた正装で終業式に参加する。式典が終われば午後一杯部活だ。久しぶりに全員で長く時間がとれるので、通しでやることになった。役者に関しては褒められることが増えた。照明係のときの感覚で、照明がどう表現したいのか分かるし、照明と連携を取る音響係がどんなことを意識しているのかも分かる。役者をやるには遠回りだったかもしれないが、経験はしっかりと根付いている。
「じゃあ二十分休憩ね」
顧問のぱんぱんと手を打ち鳴らす音で休憩に入る。自分の鞄に飲みものを取りに行って、スポーツドリンクのペットボトルが空になっていることに気づいた。しかたなく体育館を出て水道場まで水を飲みに行く。
暖房の効いた体育館から廊下に出ると、一気に空気が冷たくなる。半袖ハーフパンツのジャージ姿だった洸太は、上着を持ってくればよかったなと身震いした。五メートルほどの外廊下を通って水道場に行き蛇口を捻って水を飲む。
濡れた顎を袖で拭っていると、「コータ、演劇やりてえの」という声がきんと冷えた空気を裂いた。そちらを見れば体育館からやって来た湊太が険しい顔でこちらを見ている。体育館前のリノリウムの廊下からコンクリートに切り替わるその境で、まるで返事を聞くまで体育館に帰すものかと言わんばかりに仁王立ちだった。
担任や顧問を通じて湊太の耳に入ったのは本当だったようだ。洸太はもう一度顎を拭くと「うん」と言った。
「やりたい」
はっきり言うと、洸太は台本を持ったまま左手でこちらを指さした。
「そっちの世界に入ったら、コータが比べられるのは俺だけじゃねえぞ。先輩や後輩の上手い役者だ。自分よりずっと年下の子役だっている」
「分かってるよ」
「俺と比べられて落ち込んでたやつにできると思ってんのかよ」
「今ソータと同じ舞台で稽古してるけど。比べて落ち込んでるように見える?」
「俺の半分以下のセリフで満足してるようじゃやってけない世界なんだよ」
「そんなふうに僕を試すようなことを言わなくても大丈夫だよ。僕、案外諦めが悪いんだよ。演劇のことも、他のことも」
すると湊太がいつも通りの表情に戻った。そしていつかのように眉尻を下げて「そっか」と小さく笑う。
「じゃ、応援する」
ありがとと笑うと、湊太は照れたように頭を掻いた。
「で、コータの他に諦めたくないことってなに?」
「今いろいろ悩んでるんだよ。進路とか勉強のこととかね」
「……ミナト君じゃなくて?」
突然湊太がそう言ったので、目が丸くなった。
「ミナト君?」
「いや、よく分かんねえけど、コータは普段人と距離を置くのにすげえ仲良いみたいだし、なんていうか……表現が合ってるか分かんねえけど、好きなのかな、って、思って」
最後のほう、小さくなった声に双子はこういうのも気づくのかななどと思う。一方で湊太に彼女ができても言われるまで気づかない鈍感な自分に笑ってしまった。
「そりゃ好きだよ。すごくいい子だし。明日一緒にミナト君のデートの下見に行くんだ。わざわざ下見に行くとか、ミナト君は真面目だよね」
「……デートの下見?」
洸太は意味もなくまた蛇口を捻って冷たい水で手を洗った。そうすると冷えた腹の底から気がそれる。
「佐藤さんとクリスマスデートに行くらしいよ。自分で一日日程を決めるって言ってたから、それがうまくいくかどうか確認したいんじゃない?」
すると湊太が戸惑った顔になった。考えるようにくちびるの下を触る。
「え? 俺、ミナト君からコータと遊びに行くってことは聞いたけど、佐藤さんの話は聞いてねえ」
「ミナト君は佐藤さんと結婚したいってことはソータに話してないんじゃないの?」
「あ、そっか。たしかに佐藤さんの件はコータから聞いただけだ」
だが、湊太は「ん?」となにやら考え込む。
「変だな。俺、てっきりふたりでクリスマスを楽しむのかと思ってたんだけど?」
「二十五日のクリスマスは我が演劇部の部活がありますよ。僕がミナト君と出かけるのは明日のクリスマスイブ。ミナト君となに話したか知らないけど、早とちりしたんじゃないの」
洸太は話を切り上げるため、ダッと湊太に近寄ってその両腕を濡れた手でがしっと掴んだ。案の定湊太が「冷てっ!」をこちらを振りほどく。
「コータ、最ッ悪!」
「はいはい、こんな寒いところで話してたら風邪引くよ。体育館に戻ろ」
先を歩き出したが、湊太はうしろで「おっかしいな」などとぶつぶつ呟いている。
ミナトが自分と出かけることを湊太に話してくれているのは嬉しい。クリスマスデートのことを自分だけに、正確に言えば、机の落書きの文通相手にだけに言っているのもちょっとだけ嬉しい。
クリスマスイブはミナトを独り占めできる最後の日かもしれない。そう考えると目蓋の裏が熱くなる。それでも精一杯その日を楽しく過ごしたかった。