「ここだよ」
 かき氷屋を出て、伊野に連れて来られたのは、アクアリウムショップだった。
 エアレーションのモーター音が聞こえる店内には所狭しと水槽が並んでいる。観賞魚飼育のための商品もたくさん陳列されていて、店内はごちゃごちゃとした雰囲気だ。
 たくさんの水槽に、色とりどりの魚たちが泳いでいる。瑠璃色のスズメダイや、黄色いチョウチョウウオ。立派な尻びれと尾びれを持つベタは、一匹ずつ管理され、赤に青にと目に鮮やかだ。
「ほら、ここにニモがいる」
 伊野が指さしたのはオレンジの個体に白い線が三本ある、小さなカクレクマノミだ。
「本当だ。可愛い」
 魚がゆったりと泳いでいる姿をみるだけで癒される。水中で揺れるイソギンチャクや海藻も目の保養になる。
「ここが俺のとっておきの場所」
 あちこちの水槽を眺めていると、伊野が隣から同じ水槽を覗いてきた。
「伊野のとっておきは、いい場所だね」
 ここは居心地がいい。
 聞けばここの店長は伊野の叔父らしい。だから伊野は店長とも親し気に話をしていたし、店長は伊野と海崎のふたりにひとつずつアメをくれた。
「エサやり見てく?」
 店長が水槽の上から魚のエサを撒いた。すると魚たちが一斉にエサに群がった。悠々と泳いでいた魚たちがアグレッシブに動くさまは圧巻だ。
 その様子を微笑ましいなと眺めていたときに、海崎はある一匹の魚に気がついた。
 黒色の小さな個体だった。スズメダイの一種のようだが名前はわからない。その黒色の魚は皆がエサを食べているのに、岩の陰に隠れたまま動かない。エサを食べようとしないのだ。
「あー、魚には縄張りがあるからね」
 店長は海崎の視線に気がついて、水槽内にボス魚がいると小さい個体をいじめることがあるというような趣旨の説明をしてくれた。
「そうなんですね……」
 外からぼんやり水槽を眺めているだけでは気がつかなかった。でも、魚の中にも優劣の社会が形成されていて、集団に入れず、孤立している個体がいることを知った。
 このアクアリウムショップには、カクレクマノミのように有名な魚もいれば、美しい色の魚も目移りするくらいにたくさんいる。だがもっとも海崎の心に残ったのは、他の魚につつかれて岩陰に逃げてばかりの、名も知らぬ黒くて地味な魚だった。
 アクアリウムショップからの帰り道、寮までの近道だからと広い公園を抜けていく。
「伊野は魚好きなの?」
 伊野のとっておきの場所は、意外なところだった。伊野はもっと活発なイメージで、のんびり魚を眺める趣味があったとは思わなかった。
「ああ。実は子どものころ、魚マニアだったんだ。水族館とか、海が好きでさ。魚釣りもよく連れてってもらったよ」
「伊野が、魚マニアっ?」
「そうだよ。意外に魚に詳しい……かもしれない。魚の名前ならまぁまぁわかるよ」
「そうなんだ。面白いな伊野は」
 話を聞いていると、小さいころの伊野はしょっちゅう海で遊んでいたそうだ。魚研究者みたいなのはピンとこないが、外で駆け回る幼い伊野の姿は、容易に想像できる。
「東京とこっちじゃ、子どものころの遊び方も違うんだろうな」
「そうかもね……」
 海崎には東京の子の遊び方もよくわからない。友達はあまりいなかったし、途中から進学塾に通い始めたからだ。
 伊野とふたりで遊歩道を歩いているとき、夕焼けが伊野の横顔を橙色に照らした。それがやけに綺麗で見惚れていたら、伊野が海崎の視線に気がつき微笑みかけてきた。
「あー、夕焼け? 本当だ。マジで綺麗だな」
 伊野は手のひらを目の上にかざし、目を細め、眩しそうに夕焼けを眺めている。
 遠くを見つめている伊野の姿も凛々しくて好きだ。
「綺麗だね」
 海崎は相変わらず、ありきたりなつまらない返ししかできないのに、伊野は「なんかいいな、こういう時間」と隣にいてくれる。
 不思議だ。
 人と一緒にいるのは得意なほうじゃないのに、伊野といるのはまったく苦にならない。
 むしろ、心地よく感じるくらいだ。
 こんなにたくさんの時間を誰かと過ごしたら、i気疲れしてしまうはずだ。それなのに、この穏やかな時間がもっと続けばいいのにと海崎は望んでいる。
 そんなふうに、ふたり静かに歩いていたときだ。
 完全に油断していた伊野のもとに、突然サッカーボールが飛んできた。
「アガッ!」
 あっと海崎が思った瞬間、サッカーボールは伊野の右頬に命中した。伊野は痛そうに顔面を手で覆う。
「すみません!」
「ごめんなさい!」
 小学生くらいのサッカー少年たちがすぐさま謝りにやってくると、伊野は「お前ら見てろよ!」とボールを蹴り出した。
 それも見事なドリブルだ。サッカー少年たちが伊野のボールを狙ってきても、伊野は見事なディフェンスでそれをかわした。
 いつの間にか、伊野は子どもたちのプレーに混ざって遊んでいる。ほんの一分ほど遊んだあと、最後に少年にボールを取らせてバイバイだ。
「お兄さんうまいね!」
「またね!」
 伊野は少年たちに「おぅ!」と返事をしてから海崎のところに戻ってきた。
 伊野はすごい。ボールをぶつけられたのに怒りもせず、あっという間に人に溶け込む力を持っている。あれも本人は無自覚なんだろうか。
「弟がサッカーやっててさ。俺も昔ちょっとやってたから、ついボール見ると蹴りたくなる」
 そう言って笑う伊野の顔をよく見ると、頬に切り傷のようなものがある。さっきのボールで怪我をしたのだ。
「伊野、血が出てるよ!」
「えっ? マジ?」
「動かないで」
 海崎はポケットからサッとティッシュを取り出し伊野の患部から血がこぼれないように抑える。
「絆創膏持ってる。ティッシュ持ってて」
 伊野に傷口を押さえてもらっているあいだに、リュックを下ろして中からポーチを取り出す。ガーゼとメッシュ状の医療用パッドがひとつになっている大きめのものがあったから、それを選んだ。
「ごめんね、白くて目立つし大きいけど。寮に戻ったらちゃんと手当てしよう」
 海崎は伊野の傷口に白いパッドを貼る。せっかくの男前が台無しだが、これでとりあえず顔が血だらけになるのは防げるはずだ。
「ありがと……」
「早く帰ろう、部屋に傷薬がある。すごくよく効くんだよ。痕が残ったら大変だ。綺麗に治さないと!」
「別にいいって。かすり傷だし」
「ダメだよ、それは俺が許さない、伊野はかっこいいんだから。綺麗に治るまで毎日手当てしてやる」
 伊野と同じ部屋にいるからこそできる。毎晩、寝る前に薬を塗ってやる。傷痕が残らないよう、綺麗さっぱり治してやりたい。
「それ、本気で言ってる……?」
「え……?」
 そんなの冗談なわけないだろと言い返してやろうと伊野を振り返ってドキッとした。
 伊野はやけに真剣な顔をしていた。
「あんまりそういうこと言うと、俺、本気にするけど」
 神妙な顔つきで、伊野は何を言っているのだろう。
「う、うん、いいよ。毎晩手当てするよ」
 そのくらい、大したことじゃない。本気かどうか確認するようなことじゃないのに。
「……悪ィ。なんでもないっ。ありがとな海崎っ」
 伊野はいつもどおりの伊野に戻って、「あー腹減った! 今日の寮メシ何かなーっ!」と言い出した。
「今日は何だったかな。……あ。アジフライだ」
 伊野がよく尋ねてくるから、海崎はなんとなく献立をチェックするようになり、自然と覚えてしまっている。
「いいね。うまそう」
 笑顔を返してくる伊野はやっぱりいつもどおりだ。
 さっきの伊野はなんだったのだろう。海崎にドキッとするような視線を向けてきた。その伊野の真意がわからない。
「てかさ、こんな絆創膏持ってんの、やばくない? お(かあ)感が半端ない」
「お、お母っ?」
「普通持ってない」
「だって、俺なんかよくいろんなところにぶつかるから。ぼーっとしてて……」
 その何かにぶつかる頻度が自分でも呆れるくらい多いのだ。
「ひどいと普通に歩いてて、真正面から電信柱に激突したことがある」
「アハハッ、マジかよ」
「しょうがないだろ、ぶつかりたくてぶつかってるんじゃないんだから」
「ほんっとお前って、いいわー」
 何がいいのかわからないが、伊野は「癒し系、癒し系」と慰めにもならないことを言ってくる。
「そう言う俺も、ダッシュしてて、角で先生にぶつかったことがある。マジでマンガみたいなの。角を曲がろうとしたら先生が前から歩いてきてさ——」
 伊野との会話は尽きない。
 こんなに簡単に人と会話ができるなんて、知らなかった。伊野はいつも海崎を笑顔にしてくれる。
「あ、海崎。前から言おうと思ってたんだけどさ。明日から昼メシ、俺らと一緒に食わない? ひとりで勉強しながら食いたいときはそれでもいいからさ。俺が海崎の話をしたら、みんなも海崎と話してみたいって言ってたよ」
「いいの?」
 学校での昼はいつもひとりだった。ひとりでぼんやりしてるのもアレだから宿題を片付けながら食べていただけで、好き好んでひとりでいたわけじゃない。
「うん。気のいい奴らばっかだし、来いよ」
 集団に飛び込むのは怖いが、そこに伊野がいると思うと安心する。伊野がいるならきっと大丈夫だ。
「ありがとう、伊野。声かけてくれて」
「はい、こちらこそ」
 傷の手当てをした白いパッドが付いていても、伊野の笑顔は変わらずかっこいい。
 やばい。
 伊野の隣の居心地のよさに甘えてしまいそうだ。
 いつも人との関わりは怖くて、面倒なものだと思っていた。
 友達を作らなくちゃ。嫌われないように頑張らなくちゃと気を張って、疲れるばかりだった。
 でも伊野は違う。
 誰かと一緒にいたいと思ったのは、海崎にとって初めての感情だった。