世界で一番憎らしい

❁❁

 ────で、心の中で毒吐いた代償がコレってわけね。

「ドンマーイ恭吾!」

 仲の良い連中に笑われながら、俺はしぶしぶ席を移動した。

 まあ一番前とはいえ窓側だし、同列のどセンターよりマシでしょうよ。
 だが解せないことが一つある。

 俺は己の運命を大人しく受け入れその場所に腰を下ろしたというのに、俺の隣になった例の“広瀬くんの隣になりた〜い♡”女子生徒が、またしても担任に甘えた声でせがんでいるのである。


「私って席が前すぎると授業中落ち着かないんですよ! だから後ろのほうにしてくださ〜いお願い!」

「馬鹿者。そんな理由があるか」

「え、だってほんとにそうなんだもん! 一番前って授業する先生と目が合いやすいし、いちいち目が合ってたら緊張しちゃうじゃないですか」

「あーハイハイ、わかったわかった。そしたら誰か代わってくれないか交渉してきなさい」

 はあ、呆れる。
 交渉で席を決められるなら初めからくじ引きなんてやる必要なくないか? 目が悪いから前がいいとか正当な理由があればともかく。

 つーかあれだろ。もちろん一番前も嫌だろうが『広瀬くんの隣にしてくれ』って、つまりはそういうことだろ。
 ゆあのやつ、今回も一番後ろ勝ち取ってるし。あいつはあいつでマジなんなんだ。イカサマでもしてるんじゃないのかと疑いたくなる運の良さだ。腹が立つ。

 ため息と同時に再び視線をスライドさせる……も、ゆあの姿がない。
 んあ? さっきの今まで、一番後ろの席でつまらなさそうに頬杖をついていたはず……────


三原(みはら)さん、いいよ、おれが席代わる」

 突然、真横からそんな声が聞こえ、動作とともに思考も一時停止した。

 ……は、ゆあ? 
 今のゆあの声だった気がするんだが。
 
 ゆっくりと瞬きをして、後ろに向けていた視線を隣に戻す。

「えっ、や! そんな悪いよっ、広瀬くんも一番後ろがいいでしょ?」

 うわ、やっぱりゆあじゃん。
 いつの間に。ていうかなんで。

「へいき、おれ一番後ろにこだわりないし」
「でも私、」
「ていうか好きなんだよね」
「っ、え?」

 ドッ、と心臓が揺れた。
 声が出そうだったのをなんとか耐えた。よかった。危うく彼女の『え?』と重なるところだった。

「一番前。余計なモノは視界に入らないほうがいいでしょ」

 そう言ってゆあは、くす、と笑ってみせる。
 数テンポ遅れて、『好きなんだよね』が『一番前(の席)』に掛かっていることを理解した。

 彼女も同じだったようで、「あっ……あ〜ね〜わかるかも!」と、間延びした声を出している。一旦ゆあを肯定しつつも、己の欲望を叶えることをまだ諦めきれていない様子だ。

 しかし可哀想だが、教室という場で最前列になりたいという立派すぎる願いを跳ね除けられる者などこの世に存在しない。

 ──結果、彼女は不本意ながらも一番後ろの席を手に入れられたわけだが。


「恭吾くん、久しぶり」

 俺の隣に座り、ひんやりとした笑顔を向けてくるこの男は、果たして何を企んでいるのか。

 会話をするのは実に3年ぶりである。
 とはいえ毎日同じ教室で授業を受けているのに『久しぶり』はおかしいだろ。
 そう思いながらも突っ込んだら負けな気がしたので、ひとまずは喉奥にとどめた。

 ────『恭吾くん』。

 そうだった。昔は『(きょう)』だったくせに、中学に上がった頃からゆあは俺のことをそう呼ぶようになったんだった。
 やけにカンに障るこの響き……全然変わってない。

 なにがカンに障るかって、“くん”の部分である。
 例えばアレだ。会社のお局が新人の嫌味を言うときに使う『新人ちゃん』の“ちゃん”の部分に近しい。
(社会に出たことがあるわけではないので実際は知らんけど。ま、多分合ってるだろ)。
 
 これに関しては俺だけじゃなく、他のやつらに対しても同じ感じなのでわざわざ苦言を吐くつもりはない。
 とりあえず、ゆあは変わってない。そう実感した途端、妙な安堵が胸に広がった。


「どういうつもりだよお前」

 その安堵を悟られないよう、気持ち強めに声を出せば、ゆあは露骨に顔をしかめた。


「“どういうつもり”? いったいなにが」

「白々しいな。三原とわざわざ席を交換して、今度はなにを企んでるんだって聞いてる」

「ずいぶんな物言いだね。まるで悪人扱いだ」

「ほんとのことだろ」

「まさか恭吾くん、おれのことまだ恨んでるの」


 ドクリ、と心臓が脈を打つ。
 ……一応、覚えてはいたのか。自分のやったこと。

 頭の中で一度セリフを整えてからから、俺は静かに口を開いた。
 並べた文字列を、できるだけ怒りを込めた声でなぞる。


「あれだけのことをされて恨んでないと思うか? 本当ならお前の顔も見たくない」

 そう吐き捨てた瞬間。
 痛みを隠そうとするかのように、ゆあの表情が一瞬張りつめ、黒い瞳がわずかに揺れた。
 
 ……敬意すら覚えるほどの演技力だ。つくりものだとわかっていても罪悪感がじりじりとせり上ってきて、俺の胸をやたらと酷く痛めつける。

 悪かった。強く言いすぎた。
 初めからお前のこと恨んでなんかいないよ。
 嫌いだと思ったことも、顔を見たくないと思ったことも、一度もない。

 これは慰めではなく、本当のこと。
 普通(、、)なら恨むのが当然であろうことをされたので、普通(、、)を保つために俺はゆあを恨んでいるように装っているのだ。

 ────3年前のあの日も、そうするしかなかった。

 ああ……繰り返している。
 
 認めよう。これはゆあではなく俺に問題がある。
 だけど俺をこうさせているのはゆあなのでやっぱりゆあも悪いかもしれない。
 そうだよ、結局いつもすべてゆあが悪い。

「そんなこと言われたって、おれは今更謝らないよ」

 さっきの傷ついた顔は何処へやら。
 次に瞬きをしたときには、デフォルトの冷たいゆあがそこにいた。

「だったら、今後俺に何されても文句言うなよ」

 その刹那。
 ゆあの瞳がスッと不敵に細められ、思わずぞくりとする。

「いいよ。一生……いや、末代まで恨んでくれても」

 ああ、それでいいよ。それがいい。
 ごめんねなんて言うゆあはゆあじゃない。
 お前は誰にもあやまらなくていいんだ。

 そう思ったとき、視界の端で一瞬空が光った。
 間もなくして雷鳴が響き、分厚い雲の隙間から雨が降り注ぎ始める。

 昔から雨が嫌いだ。
 鬱陶しい湿気が頭痛を誘うし部活は休みになるし……あの日を、思い出すし。

 だけど、圧迫する心臓の音をかき消すほど激しい夕立に、俺は今初めて感謝しているかもしれない。


 恨みたいのに。
 いくら恨もうとしても恨みきれない自分が、自分をそうさせるゆあが、
 ……どうしようもなく憎らしい。
────────────
──────……


 三年前、七月七日。

 俺たちの中学では毎年七夕祭なるものが開催されていた。

 短冊に好きな人の名前を書いて告白すれば結ばれるというジンクスがあり、ちょうど思春期に差し掛かる時期の生徒たちにとって、これは一年で最も盛り上がるイベントといっても過言ではなかった。

 もちろん俺も例に漏れず、当時気になっている女子生徒の名前を黒マジックで大きく書いて笹に吊り下げた。左下には自分の名前まで書いたのを覚えている。

 当然、クラス中、いや学年中で話題になった。
 今となっては穴を掘ってでも入りたいくらい恥ずかしいが、まあ色々察してほしい。
 クラスではそういう立ち位置のキャラを担っており、そういったことをしたがるお年頃だったのだ。
(おかげでしばらくすると目立つことに飽きて、高校ではわりと落ち着いた。早熟でよかった、と思いたい)。

 『恭吾くんかっこいい』などの噂は常々耳にしていたし、実際に告白されることも多かったので、成功しないなんてパターンは露ほども考えずに告白に至り、見事OKの返事をもらった。


 一方でゆあは、七夕祭の前日くらいから体調を崩していた。
 当日の朝一緒に登校したときも顔色がよくなかったので休むように促したのだが、『どうしても七夕祭に参加したい』と言ってきかなかった。

 そして結局熱で倒れ、七夕祭の告白イベントが始まる前に強制早退させられたらしい。
 らしいというのは、俺がそれを知ったのは告白イベントが終了したあとだったからだ。

 浮かれた気分のまま、『そういや、ゆあのやつ大丈夫かな』と、ふと思い出しそれとなく担任に聞いたことで発覚した。

 そう、俺とゆあは登下校こそ一緒にしていたものの、クラスでは特別仲がいいというわけではなかったのだ。

 付かず離れず、だけどお互いのことは他の誰より理解していて、一番大事な友人はと聞かれればお互いの名前を答えるような。
 ある意味変わった位置づけの関係が、小学生のときからずっと続いていた。


 ────話を戻そう。

 七夕祭から一夜明けた、七月八日。土曜日。

 目が覚めてしばらくぼうっとしていたベッドの上で、ふと七夕祭に参加したがっていたゆあを思い出した。

 昨日は自分の告白で頭がいっぱいで気にしていなかったが、ゆあにしては珍しく必死だったような……と。

 そのとき、初めて『ゆあにも告白したかった相手がいるのでは』と思った。
 
 一度気になるといても立ってもいられず、ゆあの家に走った。
 玄関の鍵は開いていて、だけど、何度呼んでも中から返事がなく。

 おそるおそる部屋に向かうと、ゆあが制服を着た状態でぐったり目を閉じていた。

 今日は土曜日、だよな。と、カレンダーを確認して、速る心臓を押さえながら近づいた。

 湿気を帯びた空気が充満する重苦しい室内。
 床に落ちた体温計、ネクタイ、それから空っぽのペットボトル。
 制服のシャツから覗く汗ばんだ肌。
 ベッドからだらりと下がる青白い手……。

  死んでいるんじゃないかと。
 怖くて怖くて、うまく呼吸もできなかった。

『…………ゆあ?』

 俺の呼びかけにその瞳が薄っすらと開くまで、本当に生きた心地がしなかった。

『なんか欲しいのある? 何なら食えそう? まじで俺、なんでも買ってくるから』

『……冷たい水と、コーラとゼリー、……アイスもほしい、ザクザクじゃなくてふわってしたやつね、それから……昨日発売のポケカ、あと───』

『あー、もういい調子に乗るな』

『……、あとは、そばにいて』


 ふいに、心臓がドクドクッと狂った。
 おもむろに伸びてきたその手を、つい握り返してしまった。

 それから……
 ──────それから、そのあいだの記憶は曖昧だ。

 なにか、強い力で引っ張られたような覚えがある。

 気づいたときには、唇と唇が触れていた。



 “ざまあみろ”

 まだ梅雨が開け切らない七月の、湿気を帯びた重苦しい部屋の中。

 目の前の唇が、そう動いたような気がした。

 少し紅潮した頬も、冷たさを秘めた瞳も、唇の端に浮かんだ挑発的な笑みも。
 あまりに憎らしくて美しくて、俺はずっと、ゆあから目を離せずにいた。


────────────
──────……


 後日。
 七月十日、月曜日。

 俺は七夕祭でOKをもらったはずの彼女に振られた。
 さらに後日、彼女がゆあと付き合い始めたことを噂で知った。

 事の真相としては……、

 ────言うまでもないだろう。



 雷のせいでプールが使えなくなったので、部活はミーティングのみになった。
 うちの水泳部はみんな趣味でやってるだけの同好会みたいなものなので、雨でなくてもこういうことはしょっちゅうだ。

 「んじゃお疲れっしたー。解散!」

 ミーティング終了後、室内で自主トレでもしようと思ったが、荷物を教室に置いたまま出てきたことを思い出し一旦部室を出た。

 放課後の廊下はひと気がない。
 静かな場所にいると、1時間ほど前のホームルームの光景がおのずと蘇ってくる。

 結局、ゆあの目的が何なのかわからなかった。

 一番後ろに変えてほしいと騒いでいた三原の本当の狙いが自分の隣であることに、ゆあはぜったいに気づいていた。

 あいつの皮肉的な性格から推測するに、彼女のわがままっぷりに辟易しているのをそれとなく行動で示した……と考えるのが妥当な気がするし、そうに違いないとほぼ確信してはいるのだが。

 三原にわからせるためには、嫌いな相手の隣になることが必要……となったとき、その条件をゆあが受け入れるとは到底思えない。

 だって、“あの日”を境に急に話しかけてこなくなったのはお前のほうだろ。目すら合わせようとしなくなった。
 そうだよ。先に手を離したのはお前のほうだったじゃないか。

 3年も、ずっと、俺たちの間にはなにもなかった。
 ついさっきまでそれが答えだと思っていた。
 受け入れるのに同じだけの月日がかかった。

 ────『恭吾くん、久しぶり』
 あんな軽い態度で、あっさり壊しやがって。
 ふざけるなよまじで。

 あのとき、間髪入れずに『どの面下げて』と思いきり睨んでやればよかったのかもしれない。

 …………いや。どうせできない。
 演技だとしても、ゆあの傷ついた顔は昔から苦手で、できればもう一生見たくないのだ。

「………笑える」


 教室には誰もいなかった。
 電気も消えている。まだ17時だというのに外の景色はもう夜みたいだ。その暗さがひっそり心に忍び寄ってくるような心地がしたので、振り切るように早足で自分の席へと向かった。

 沈黙に閉ざされた教室では雨音がやけに大きく響く。
 ふと、その中に紛れて、スマホが鳴っていることに気づいた。

 とっさにポケットから取り出したが、音を立てているのは俺のじゃない。
 だけどその振動はすぐ近くから感じる。

 ────ゆあの席だ。

 画面を伏せた状態で無造作に置いてあるそれを一度は無視しようとしたけれど、あまりにも鳴り止まないのでむしゃくしゃしながら手に取った。

 表示されているのは、ゆあとよく一緒にいる男の名前。

「もしもし?」

 思ったより低い声が出て、しまったと思う。

『おおっ、よっしゃ出た! ん〜その声、待てよ、わかった、深町(ふかまち)だろ!? 深町恭吾!』

「そうだけど。用件は? ゆあのやつスマホ忘れてるみたいだけど、もしかしてそこにいんの?」

『ご名答っす! いやあ拾ってくれたのが深町でよかったわ〜、女の子だったらあらゆる手使ってロック突破しようとしそーだもん』

「……だな。そんで、届ければいーの?これ」

『いや、深町なら安心だし一晩預かって明日持ってきてもら……─────』

 ふいに声が遠くなった。
 人混みの中にいるのか、雑音がやかましく入り込んでくる。

「…………おい?」
『────あーっ深町悪い! やっぱ持ってこさせろって広瀬が!』
「え? ああ、わか、った」
『駅中のスタバな! よろしく!』

「了解、今から行く」
『さんきゅーっ! あ……それとさ、深町』

 突然、含みをもたせるように相手のトーンが落ちた。

『“ゆあ”呼び、やめといたがいーぜ』
「……は?」
『広瀬、そう呼ばれるの心底嫌いらしいのね。本人の前で呼んだら殺されるよ、あいつ呼び方だけには謎にやたらと厳し〜からな〜、これ忠告ね、ありがたく思えよ〜じゃーな!』

 雑音混じりの音声はそこで途切れた。
 通話終了の黒い画面を、しばらくぼうっと見つめる。

 いや、元から届けるつもりではあったけどさ。
 言われてみれば一晩預かるでも全然よかったよな。よかったのに、わざわざ“持ってこさせろ”だと?
 俺はゆあを好いてる女子と同じくらい信用がないのかよ。
 つーか言い方考えろよ。つーか側にいるなら、そのくらい自分で頼んでこいよ。そもそもお前が取りに戻れよ。 お前は王様か。
 
 ──────は? ていうかなに。
 “『ゆあ』って呼ばれるのが心底嫌い”?

 …………そんなわけ。
 小さい頃から俺はずっとそう呼んでいたのに。

「……いや、俺が呼んでたから……か」

 そういえば、学校でゆあが下の名前で呼ばれているのを聞いたことない。

 へーえ、そう。
 よおくわかったよ、悪かったなくそが。

 ────『いやあ拾ってくれたのが深町でよかったわ〜、女の子だったらあらゆる手使ってロック突破しようとしそーだもん』

 先程の会話が脳裏をよぎり、ふと、スマホのロックを解いて弱みでも握ってやろうかという気になる。

 ゆあって昔から数字とかにこだわらないというかテキトウというか安直というか、そんな感じだし、ワンチャンいけるんじゃねえのこれ。

「…………」

  “1”、“2”、“0”、“5”。
 試しにゆあの誕生日をタップしてみれば、スマホは即座に振動で拒否を示した。

 そりゃあ……そうか。
 いくら淡白な性格だとしても、パスワードくらいはセキリュティの高さを鑑みて設定するよな。

 いや……しかし8桁でもなく6桁でもなく、今どき4桁って。さすがにリスク管理甘くないか?
 
 数字のみの4桁の組み合わせは、えーっと、10の4乗で1万パターンしかないだろ。地道に打っていけば半日もあれば突破できてしまいそうだが大丈夫かよ。
 俺だからいいものの、もっと悪意をもったやつ、もしくは行き過ぎた好意をもったやつとかに拾われたら……────。

 いつの間にかゆあの心配をしている自分に気づき、ハッと冷静になる。

 やめだ。バカな考えに走るのはやめよう。
 今日の席替えみたく、またバチが当たる感じになったら嫌だしな。

 そう言い聞かせて、スマホをカバンに放り込もうとした。のに、魔が差した。
 もう一度握り直し、入力画面と睨み合う。

  “0”……、“6”……、

  指先を順番に、ゆっくりと移動させる。

 “1”……、“6”。

「なーんてな。───エ?」

 状況を理解するより先に、間抜けな声が出た。
 
 ドクドクッと狂った鼓動が、耳元でありえないほどうるさく響いている。
 首から上が、やけどするんじゃないかと思うほど徐々に熱くなり、それに合わせて呼吸も乱れ。
 もはや全身が心臓になったかのような感覚。

 アイコンが並んだホーム画面を前に、もう何度も瞬きをしたかわからない。
 間違いなく、ロックが解除されている。

「………意味不明、」 

 無意識に零れた声はわかりやすく震えていて、まるで他人のものみたいで、少し笑えた。

 いざ画面が開いてしまえば理性はしっかりと働き、中身を盗み見てやろうなんて考えはすーっと失せてしまう。

 頭の中が疑問符で埋め尽くされている。
 ひとつひとつ整理したいのに、絶えず鳴り響く鼓動が思考を妨げてくる。
 
 …………目眩しそう。

 ひとまずこれを届けなければ、と。
 俺はようやくスマホをカバンに仕舞ったのだった。




 指示通り駅中のスタバに行くと、当然だがゆあがいた。

 4人並んだカウンター席の一番右。入り口にいる俺から見れば一番遠い位置に座っている。

「お、深町! いやーっ悪いね、まじでありがと!!」

 笑顔で椅子から下りてきたのは、先程の通話の男だ。

 さっそくだが、『まじでありがと』は、こいつじゃなくゆあが言うべきセリフである。
 当の本人はあたり前に見向きもせず、残りの2人と楽しげに談笑しているが。

 おい、俺はお前の物を届けに来たんだぞ。
 ……少しぐらいこっち見ろよ。

「───おーい? 広瀬のスマホ、いいか?」

 顔をのぞき込まれたことで、自分が長い間じっとゆあを見つめていたことに気づいた。

「ああ……悪い、スマホな」

 そう言いつつ、手渡したスマホが相手の手に触れた瞬間、つい指先に力がこもり。
 もちろんすぐに手を離したが、渡したくないという気持ちが伝わってはいないだろうかと過剰な不安が襲う。

 密かに深呼吸をし、気を落ち着かせようたのもつかの間。

 「そうだ、深町も一緒になんか飲んでいかね? 届けてくれたお礼にオレ奢るよ」

 その瞬間、『なんでお前が?』と声が飛び出そうになった。
 
 通話を掛けるのも、スマホを受け取るのも、お礼を言うのも、俺に飲み物を奢ろうとするのも。
 なんで全部ゆあじゃなくお前なんだ、と。

 あー、もう色々とだめだ。
 ───『恭吾くん、久しぶり』
 あの瞬間から頭が確実におかしくなっている。
 さっさとしんだほうがいい俺は。

「……いや、いいよ。サンキュー、気持ちだけ受け取っとく」

 大げさなほどの笑顔を貼り付け、踵を返した。
 矢先のことだった。

「えっ!? ちょ、待っ、広瀬帰んの!?」
「スマホ戻ってきたし、もう長居する意味ないでしょ」

 そんなやり取りが聞こえ、つい足を止めかけた。
 
 いやだめだ。
 スルーしろ。
 俺には関係ないことだ。

 俺には関係ない……────

「急いで、24分の電車乗りたいから」

 すぐ背後で声がしたかと思えば、次の瞬間にはゆあが隣に並んでいた。

 呆気にとらているうちに、ゆあは早足でスタバの店内を抜け、駅ビルの通路を進み。
 そして出入り口の傘立てから、当然のように俺のものを抜き取った。

「この傘、まだ使ってんだ」
「……、どうだ驚いただろ」
「…………いや。知ってた」

 雨で結露したビルのガラスは外の景色を見せてくれない。そのせいかはわからないが、さっきから視界が全体的にがぼやぼやしている。
 
 すぐそばに、手を伸ばせば簡単に届く場所に、ゆあが立っている。
 まるで幼い日の夢を見ているようだった。





 ゆあの父親は教育熱心で、近所でちょっとした評判になるほどの人物だった。らしい。

 ゆあが小学校に上がる前から家庭教師をつけ、習い事も絶え間なく詰め込み。
 周囲からはその情熱が賞賛される一方で、時おり、まだ幼い息子にかかる重圧を心配する声も漏れていた。らしい。

 躾のためだと言って、ゆあに手をあげていたという噂もあった

 ────“らしい“。

 というのも、これらはすべて俺が母親から聞いたハナシだからだ。

 小さい頃の記憶は曖昧で、果たしてどこまでが本当のことなのか今となっては定かではない。

 そもそも、俺とゆあが初めて顔を合わせたのは小学校の入学式の日。それ以前の家庭事情など知る由もなかった。

 そして俺は、ゆあの父親に会ったことすらない。

 母さんのハナシによれば、ゆあが小学校に入学してすぐ離婚し、家を出ていったのだとか。
 
 
 ────『教育熱心の域を越えてるんじゃないかって、近所のお母さんたちと話してたらね、ちょうど児童相談所の人がゆあくんのお家に入っていくのを見たの』 

 ────『殴る蹴るっていうのはなかったみたいなんだけど、日頃から怒鳴り散らす声とかよく聞こえてたし』

 ────『一番酷い噂ではね、ぜったいに違うと思うんだけどね、雷雨の中、ゆあくんをベランダに放置した……とか』

 ────『そうそう、そういえば、ママもゆあくんがベランダに一人でうずくまってるところを何度か見かけたたことがあって。……今思えば、あのときも内側から鍵を掛けた状態でそこに閉じ込められてたんじゃないかな……って。ほら、ゆあくんのアパートのベランダって屋根がないじゃない? もしあの噂が本当なら、ゆあくんは……ううん、やっぱりなんでもない。大丈夫よ、噂にすぎないもんね』



 あくまでママの想像だからね、本気にしないでね、と母さんが何度も念を押していたことは、やけに記憶に残っている。

 そのハナシを聞いたとき、俺はまだ小1になりたてで幼すぎたこともあり、ことの重大さをまったく理解していなかった。

 あくまでママの想像、というのは、ほぼつくりバナシのようなものだと認識していたし、もっと言うなら、俺は家のベランダに出ることを禁止されていたので、ゆあのことをずるいとさえ思っていた(今思えば本当にサイアクだ)。

 しかし一番の原因はゆあだ。
 見た感じ、話した感じ、どこを切り取ってもゆあは普通(、、)だった。
 
 その頃からすでに周囲に対して若干冷ややかな態度ではあったけれど、それはゆあの根っからの性質であり、いつだってブレることはなかった。

 俺が冗談を言えば、年相応な顔で笑ってくれたりもして……そう、とにかく、普通だったのだ。