世界で一番憎らしい


 表示されているのは、ゆあとよく一緒にいる男の名前。

「もしもし?」

 思ったより低い声が出て、しまったと思う。

『おおっ、よっしゃ出た! ん〜その声、待てよ、わかった、深町(ふかまち)だろ!? 深町恭吾!』

「そうだけど。用件は? ゆあのやつスマホ忘れてるみたいだけど、もしかしてそこにいんの?」

『ご名答っす! いやあ拾ってくれたのが深町でよかったわ〜、女の子だったらあらゆる手使ってロック突破しようとしそーだもん』

「……だな。そんで、届ければいーの?これ」

『いや、深町なら安心だし一晩預かって明日持ってきてもら……─────』

 ふいに声が遠くなった。
 人混みの中にいるのか、雑音がやかましく入り込んでくる。

「…………おい?」
『────あーっ深町悪い! やっぱ持ってこさせろって広瀬が!』
「え? ああ、わか、った」
『駅中のスタバな! よろしく!』

「了解、今から行く」
『さんきゅーっ! あ……それとさ、深町』

 突然、含みをもたせるように相手のトーンが落ちた。

『“ゆあ”呼び、やめといたがいーぜ』
「……は?」
『広瀬、そう呼ばれるの心底嫌いらしいのね。本人の前で呼んだら殺されるよ、あいつ呼び方だけには謎にやたらと厳し〜からな〜、これ忠告ね、ありがたく思えよ〜じゃーな!』

 雑音混じりの音声はそこで途切れた。
 通話終了の黒い画面を、しばらくぼうっと見つめる。

 いや、元から届けるつもりではあったけどさ。
 言われてみれば一晩預かるでも全然よかったよな。よかったのに、わざわざ“持ってこさせろ”だと?
 俺はゆあを好いてる女子と同じくらい信用がないのかよ。
 つーか言い方考えろよ。つーか側にいるなら、そのくらい自分で頼んでこいよ。そもそもお前が取りに戻れよ。 お前は王様か。
 
 ──────は? ていうかなに。
 “『ゆあ』って呼ばれるのが心底嫌い”?

 …………そんなわけ。
 小さい頃から俺はずっとそう呼んでいたのに。

「……いや、俺が呼んでたから……か」

 そういえば、学校でゆあが下の名前で呼ばれているのを聞いたことない。

 へーえ、そう。
 よおくわかったよ、悪かったなくそが。

 ────『いやあ拾ってくれたのが深町でよかったわ〜、女の子だったらあらゆる手使ってロック突破しようとしそーだもん』

 先程の会話が脳裏をよぎり、ふと、スマホのロックを解いて弱みでも握ってやろうかという気になる。

 ゆあって昔から数字とかにこだわらないというかテキトウというか安直というか、そんな感じだし、ワンチャンいけるんじゃねえのこれ。

「…………」

  “1”、“2”、“0”、“5”。
 試しにゆあの誕生日をタップしてみれば、スマホは即座に振動で拒否を示した。

 そりゃあ……そうか。
 いくら淡白な性格だとしても、パスワードくらいはセキリュティの高さを鑑みて設定するよな。

 いや……しかし8桁でもなく6桁でもなく、今どき4桁って。さすがにリスク管理甘くないか?
 
 数字のみの4桁の組み合わせは、えーっと、10の4乗で1万パターンしかないだろ。地道に打っていけば半日もあれば突破できてしまいそうだが大丈夫かよ。
 俺だからいいものの、もっと悪意をもったやつ、もしくは行き過ぎた好意をもったやつとかに拾われたら……────。

 いつの間にかゆあの心配をしている自分に気づき、ハッと冷静になる。

 やめだ。バカな考えに走るのはやめよう。
 今日の席替えみたく、またバチが当たる感じになったら嫌だしな。

 そう言い聞かせて、スマホをカバンに放り込もうとした。のに、魔が差した。
 もう一度握り直し、入力画面と睨み合う。

  “0”……、“6”……、

  指先を順番に、ゆっくりと移動させる。

 “1”……、“6”。

「なーんてな。───エ?」

 状況を理解するより先に、間抜けな声が出た。
 
 ドクドクッと狂った鼓動が、耳元でありえないほどうるさく響いている。
 首から上が、やけどするんじゃないかと思うほど徐々に熱くなり、それに合わせて呼吸も乱れ。
 もはや全身が心臓になったかのような感覚。

 アイコンが並んだホーム画面を前に、もう何度も瞬きをしたかわからない。
 間違いなく、ロックが解除されている。

「………意味不明、」 

 無意識に零れた声はわかりやすく震えていて、まるで他人のものみたいで、少し笑えた。

 いざ画面が開いてしまえば理性はしっかりと働き、中身を盗み見てやろうなんて考えはすーっと失せてしまう。

 頭の中が疑問符で埋め尽くされている。
 ひとつひとつ整理したいのに、絶えず鳴り響く鼓動が思考を妨げてくる。
 
 …………目眩しそう。

 ひとまずこれを届けなければ、と。
 俺はようやくスマホをカバンに仕舞ったのだった。




 指示通り駅中のスタバに行くと、当然だがゆあがいた。

 4人並んだカウンター席の一番右。入り口にいる俺から見れば一番遠い位置に座っている。

「お、深町! いやーっ悪いね、まじでありがと!!」

 笑顔で椅子から下りてきたのは、先程の通話の男だ。

 さっそくだが、『まじでありがと』は、こいつじゃなくゆあが言うべきセリフである。
 当の本人はあたり前に見向きもせず、残りの2人と楽しげに談笑しているが。

 おい、俺はお前の物を届けに来たんだぞ。
 ……少しぐらいこっち見ろよ。

「───おーい? 広瀬のスマホ、いいか?」

 顔をのぞき込まれたことで、自分が長い間じっとゆあを見つめていたことに気づいた。

「ああ……悪い、スマホな」

 そう言いつつ、手渡したスマホが相手の手に触れた瞬間、つい指先に力がこもり。
 もちろんすぐに手を離したが、渡したくないという気持ちが伝わってはいないだろうかと過剰な不安が襲う。

 密かに深呼吸をし、気を落ち着かせようたのもつかの間。

 「そうだ、深町も一緒になんか飲んでいかね? 届けてくれたお礼にオレ奢るよ」

 その瞬間、『なんでお前が?』と声が飛び出そうになった。
 
 通話を掛けるのも、スマホを受け取るのも、お礼を言うのも、俺に飲み物を奢ろうとするのも。
 なんで全部ゆあじゃなくお前なんだ、と。

 あー、もう色々とだめだ。
 ───『恭吾くん、久しぶり』
 あの瞬間から頭が確実におかしくなっている。
 さっさとしんだほうがいい俺は。

「……いや、いいよ。サンキュー、気持ちだけ受け取っとく」

 大げさなほどの笑顔を貼り付け、踵を返した。
 矢先のことだった。

「えっ!? ちょ、待っ、広瀬帰んの!?」
「スマホ戻ってきたし、もう長居する意味ないでしょ」

 そんなやり取りが聞こえ、つい足を止めかけた。
 
 いやだめだ。
 スルーしろ。
 俺には関係ないことだ。

 俺には関係ない……────

「急いで、24分の電車乗りたいから」

 すぐ背後で声がしたかと思えば、次の瞬間にはゆあが隣に並んでいた。

 呆気にとらているうちに、ゆあは早足でスタバの店内を抜け、駅ビルの通路を進み。
 そして出入り口の傘立てから、当然のように俺のものを抜き取った。

「この傘、まだ使ってんだ」
「……、どうだ驚いただろ」
「…………いや。知ってた」

 雨で結露したビルのガラスは外の景色を見せてくれない。そのせいかはわからないが、さっきから視界が全体的にがぼやぼやしている。
 
 すぐそばに、手を伸ばせば簡単に届く場所に、ゆあが立っている。
 まるで幼い日の夢を見ているようだった。





 ゆあの父親は教育熱心で、近所でちょっとした評判になるほどの人物だった。らしい。

 ゆあが小学校に上がる前から家庭教師をつけ、習い事も絶え間なく詰め込み。
 周囲からはその情熱が賞賛される一方で、時おり、まだ幼い息子にかかる重圧を心配する声も漏れていた。らしい。

 躾のためだと言って、ゆあに手をあげていたという噂もあった

 ────“らしい“。

 というのも、これらはすべて俺が母親から聞いたハナシだからだ。

 小さい頃の記憶は曖昧で、果たしてどこまでが本当のことなのか今となっては定かではない。

 そもそも、俺とゆあが初めて顔を合わせたのは小学校の入学式の日。それ以前の家庭事情など知る由もなかった。

 そして俺は、ゆあの父親に会ったことすらない。

 母さんのハナシによれば、ゆあが小学校に入学してすぐ離婚し、家を出ていったのだとか。
 
 
 ────『教育熱心の域を越えてるんじゃないかって、近所のお母さんたちと話してたらね、ちょうど児童相談所の人がゆあくんのお家に入っていくのを見たの』 

 ────『殴る蹴るっていうのはなかったみたいなんだけど、日頃から怒鳴り散らす声とかよく聞こえてたし』

 ────『一番酷い噂ではね、ぜったいに違うと思うんだけどね、雷雨の中、ゆあくんをベランダに放置した……とか』

 ────『そうそう、そういえば、ママもゆあくんがベランダに一人でうずくまってるところを何度か見かけたたことがあって。……今思えば、あのときも内側から鍵を掛けた状態でそこに閉じ込められてたんじゃないかな……って。ほら、ゆあくんのアパートのベランダって屋根がないじゃない? もしあの噂が本当なら、ゆあくんは……ううん、やっぱりなんでもない。大丈夫よ、噂にすぎないもんね』



 あくまでママの想像だからね、本気にしないでね、と母さんが何度も念を押していたことは、やけに記憶に残っている。

 そのハナシを聞いたとき、俺はまだ小1になりたてで幼すぎたこともあり、ことの重大さをまったく理解していなかった。

 あくまでママの想像、というのは、ほぼつくりバナシのようなものだと認識していたし、もっと言うなら、俺は家のベランダに出ることを禁止されていたので、ゆあのことをずるいとさえ思っていた(今思えば本当にサイアクだ)。

 しかし一番の原因はゆあだ。
 見た感じ、話した感じ、どこを切り取ってもゆあは普通(、、)だった。
 
 その頃からすでに周囲に対して若干冷ややかな態度ではあったけれど、それはゆあの根っからの性質であり、いつだってブレることはなかった。

 俺が冗談を言えば、年相応な顔で笑ってくれたりもして……そう、とにかく、普通だったのだ。

 そんなぬるい認識が覆されたのは、入学して約3ヶ月後の7月なかば。

 夏休みも目前となったある日、ゆあとふたりで帰っていると、急に空が暗くなり、遠くの空が光り始めた。

 異変に気づいたのは、そのすぐあと。
 会話の反応がやけに鈍くなり、やがて雨が降り始めると、ついに返答がなくなったのだ。

 不思議に思い覗き込むと、その顔は真っ青で。
 間もなくしてゆあが地面に倒れ、俺はやばいほど血の気が引いた。

『ゆあ!?』

 怯えきった瞳は、俺ではない他の誰かを映しているようで。

『おとう……さ、ごめんなさい……』

 ゆあのこんなに弱々しい声を聞いたのは初めてで。

 だけどそうしているうちに、雨も雷も激しさを増していくから。
 このままではずぶ濡れになると、震える肩をそっと掴んだ。その手は、ひどく乱暴に振り払われた。

 俺はしばらく唖然と固まっていたと思う。

『……あ、……え? きょーごくん……? ごめん……、っ、ごめん、なさい……』

 すると、とつぜん、ようやく“俺”を捉えたゆあの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 その顔は、振り払われた俺の何倍も深く傷ついていて。
 息ができなくなるほどの胸の痛みを、このとき初めて知った。


『だいじょうぶだから、ゆあ』

 震える肩を、今度はなによりも大事に抱きしめる。

『もう、あやまらなくていいよ』


────────────
──────……

 雷雨によって引き起こされるゆあのトラウマは、その後も何度か繰り返した。

 学年があがるにつれ少なくなっていき、中学生になる頃にはおそらく完全に直っていたようだが、もしかすると今も俺がいないところで……と考えることがある。

 
 幼少期の記憶なんて決まってどれも曖昧だ。

 俺が母さんから聞いたハナシも、もちろん定かではない。まったく関係のない断片を継ぎ接ぎしていたり、思い込みで捏造している部分も多いだろう。

 ゆあの父親は悪人だったかもしれないし、違ったかもしれない。
 ゆあのトラウマに父親が関係があるかもしれないし、全く関係ないかもしれない。
 
 真実は知らないままでいい。
 ゆあが過去を思い出して傷つくことがないように、俺はこれら全てをあくまでフィクションとして記憶の底に沈めておくのだ。


 ───だけどひとつだけ。
 確かなことを思い出した。
 
 そういえば、ゆあに出会って間もない頃は、“きょーごくん”と呼ばれていたんだった。

 そうか。それなら遍歴としては“きょーごくん”、“恭”、“恭吾くん”なわけだ。
 なんだ、だったらいいじゃん。
 今の呼び方も、時を戻したみたいで悪くない。

 悪くない………けれど、3年もの空白を埋めるには、それだけじゃ俺は全然足りないんだよ、ゆあ。


「ひとりで入ろうとするな」

 最寄り駅の改札を抜けた先。
 我が物顔で俺の傘を開くゆあは、やっぱり憎らしい。

 素早く横に並び、ゆあの手ごと強引に奪い取った。

 狙い通り、動揺した様子で俺を見上げてきたので、視線を逃せないようにぐっと顔を近づける。

 心臓がドクリと脈を打つ。

 さらにもう一歩距離を詰め、空いた右手でその腰を抱き寄せた。


「お前、意外と無防備だな……」
「っ、……恭吾くん、」
「俺に何されても文句言わないって約束だろ」
「……、……」


 ゆあの顔が徐々に赤く染まっていくのが、目に見えてわかった。
 やけどしそうなほどの熱がこちらにも伝わってくる。
 
 そういう顔もできたのか。
 知らなかった。

 「………可愛い」

 周囲の喧騒や雨音さえも遠のき、世界がだんだんとふたりだけのものに変わっていく。


 昔から雨が嫌いだ。
 鬱陶しい湿気が頭痛を誘うし、部活は休みになるし、あの日を思い出すし。なにより、……何度もゆあを傷つけてきたものだから。
  
 今度こそ邪魔されないように傘を深く傾けて、俺はそっと唇を落とした。



「ざまあみろ」






 小学校に入学して初めての席は、恭吾くんの隣だった。

 広瀬の「ひ」と、深町の「ふ」。

 頭文字があいうえおの表で隣だから、席も隣なんだって、恭吾くんがえらそうに教えてくれた。



────『恭吾くん、久しぶり』


時間は巻き戻せないけれど

同じ場所なら、また始められるかもしれないと、
淡い期待を抱いたのは内緒。





 ────三年前の七月八日。

 『熱に浮かされてつい』と言い訳をすればよかったのかもしれない。
 『熱のせいでなにも覚えていない』と、しらばっくれればよかったのかもしれない。


 今となっては後悔ばかり。

 それでもあのときは、恭吾くんに嫌われることよりも、恭吾くんが誰かのものになることほうが、少しだけ怖かったのだ。
 
 まだ幼かったおれは、ああすることでしか自分の気持ちを救えなかったのだ。



きみの名前を書いた短冊は、今年も飾れず
暗くてさみしい引き出しの奥。



────────────
世界で一番憎らしい【完】

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