「おまえにやるよ」
手渡されたのは、おれがまだ味わったことのないお菓子の箱だった。
鮮やかな色合いのパッケージが、教室の蛍光灯に照らされてキラキラと輝いている。『ご当地期間限定ポッキー』と描かれた文字が、期待感をさらに高めた。
「これって、ご当地期間限定ポッキーのネオ・バージョンじゃん!」
「アメ部の先輩がさぁ、きのうの部活帰りに土産で配ってたんだわ」
遥輝はげんなり顔で言った。
「誰かが開けたやつ、みんなで味見したら激甘でよ」
「いいのかもらっても!?」
「これ食えるの、岬だけだろ」
「確かに! おれその自信あるあるッ」
うれしさのあまり、通常よりも大きめのパッケージを両手で掲げた。まるで宝物を手に入れたような気分だ。
「ありがとな遥輝! それと、お土産センパイにも、さんきゅうです!」
「いいってことよ。持ちつ持たれつ、学輩のよしみだ」
学食の器と箸を乗せたトレーを持って、遥輝はそのまま教室を出ていった。
「棚から牡丹餅ヤターぁ」
ニマニマしながらパッケージに見とれていたら、左隣からかすかな気配を感じた。
視線を向けるとそれは、本を片手に、鞄を机横に引っ掛けている濱本だった。いつの間に来たんだろうと思いながら、黒板真上の時計で時刻を確認する。——現在午後一時七分、昼休み残りおよそ三十分。おれは濱本に声をかけた。
「珍しいな。まだ時間あるのに」
先生から合鍵を託されている濱本は、毎回実験室で昼休みを過ごしていて、いつもなら五校時開始間際にならないとこの教室に姿を現さないからだ。
菊判サイズのペーパーバックを自身の机に置き、濱本は言った。
「デザートか」
「あ?」
「それ」
と、目線をおれの手元に向ける。
「うんまあ。そんなとこ」
「槇原は、甘いものが好きだよな」
濱本は背凭れに手を掛け、椅子に座った。
「濱本もいるか?」
「遠慮しておく。今の俺に、添加糖類は必要ない」
「そか。なんか、残念なやつなのな」
おれは若干唇を尖らせる。
「遥輝からもらったんだけどさ。これ、限定ものなんだぞ」
「それはよかったな」
ドライ口調の濱本は、赤と黒の幾何学模様がデザインされた表紙に英字が記載されてあるペーパーバックを開いた。隣席から響くページを捲る音が心地よく、紙のかすかなざらつきが耳に残る。古書特有のインクの香りが漂ってきて、まるで知識の世界に引き込まれそうになる感覚を覚えた。それがあまりにも静かで繊細だったから、おれはつい話し続けてしまう。
「なんでわざわざ、実験室に行くんだよ?」
「昼食をとるためだ」
「知ってるけど、薬品とかの匂いが漂ってるじゃん。気にならないの?」
「気にはならない」
「……あ、じゃあ、濱本相談室開いてるとか?」と、思いつきを口にする。
「誰か来たりするんだろ、実験室に」
「どうして訊く」
「どうしてって……。なんか理由がないと、訊いちゃいけないのかよ」
孤高でクールなこの一匹オオカミが、おれ以外の誰かのヒーローも担っているかと思うと、なんとなく胸がそわそわするけど。可能性としては、あるはずだ。実際に、おれが相談経験者なわけだし。
濱本が本から顔を上げ、じっとおれを見た。
「え、なに」
「妬心か」
「へ?」
「それなら無用だぞ」と、濱本は再びページに目線を向けた。
「……な、んで、そうなるんだよ」
「違うのか」
「あたりまえだろっ、そんなんじゃ、ないし」
「それは残念」
「残念、って、なんだよそれ」
「言葉どおりの意味だ」
一本調子な返答に、おれはぐいっと身体ごと左向きになった。
「あのさ。なにを根拠におれが、ヤキモチ妬くんだよ」
そう言いはしたものの、少なからず調子が狂っているのは確かだ。だからそれを払拭すべく、妥当性のある言葉を急いで並べてみる。
「濱本は編入してきたばかりなんだし、教室とか、食堂で食べればいいじゃん」
「それに意味があるのか」
濱本の無機的な一言が、おれの情操を揺さぶった。
「昼食ってのはなあ、奥深な、コミュニケーション・ツールなんだぞ」
「だからどうした」
視線を交えず言葉だけを発する濱本に、おれは幾分、掣肘を加えたくなっていた。
「おれはただ、他のやつとももっと話してみればいいんじゃないかって、そう思ってるだけだよ。みんなだって、濱本と話したいはずだし」
「来る者拒まずに対応している」
「……まあ。話しかけられたら、応えてはいるみたいだけどさ。濱本自身からそうするのは、おれ以外にはほぼゼロじゃん」
「それで充分だろ」
「いやだから、もっとこう友好的に——」
「理不尽さを強いられる場所では、独りでいるほうが有益だ」
「…………」
——『独り』が『有益』ってなんだよ?
確かに濱本は、周りのやつらとは風格が違う。でもだからといって、そう思考するのは珍しくないか。
「それに、友人なら俺にもいる」
「あー……。おれ以外で、だぞ?」
「もちろん」
すんなりと放たれた言葉の真意が、無防備なおれの想像をチクリと刺した。
「……へえ」
ノミの心臓ほどのダメージを抱えたおれの口が勝手に動く。
「この学校の、生徒でか?」
「違う」
「そ、なんだ」
そりゃあ濱本にだって、友達はいるだろうよ。——だけど、それはそれで、なんか気にはなるじゃん。
活字を追う濱本を見たら、先を突っ込んで訊くのがためらわれる。それでもなぜか注意を引きたくて、ぼそりとこぼした。
「濱本ってさ、忍者みたいだよな」
「面白いな」
「だって、神出鬼没じゃん。気がつくといるし」
「そうでもないだろ」
「そうなの!」と、おれは強めに肯定する。
「しかも、風の吹くまま気の向くままでさ。そういうとこもあるから、みんな声かけるタイミングを見つけづらいんだと思うぞ」
「なるほど」
「おれとは、こうやって話すだろ」
「ああ」
「せっかく同じクラスになったんだ。もっとみんなとも会話しようぜ?」
端正な横顔におれは説き続ける。
「な? みんな残念がってるぞ」
「————」
「級友なのに、濱本となかなか交流もてなくてさ。みんな、心のどこかで寂しいはずだ」
「それは、俺が悪いな」
と、あからさまにショボくれた表情を見せる。濱本の意外な反応に面食らったおれは、慌てて宥めるように声をかけた。
「でも別にそんな、たいした意味で言ったわけじゃないから」
「いや。俺が悪かった」
「だから、謝ることはないって——」
「俺が槇原に、寂しい思いをさせていたんだからな」
「はっ、おれ!?」
突拍子もない言葉を耳にしたおれは、陸に打ち上げられた魚のようにパクパクばたばたした。
「なんでそうなるんだよっ。みんな、って、おれ言っただろ」
「ああ。そうだな」
「濱本マジでわかってんのかよ?」
「ヤキモチ妬かせたんだろ」
「だからっ、寂しいとかヤキモチとか、おれはそんなの違うってば!」
「槇原は、俺を飽きさせないな」
濱本はふっと息だけで笑い、目を細める。まるでおれの心を見透かしているような微笑を前に、濱本を返り討ちにする気力が、もはや少しも湧いてこない。
おれは緩く言った。
「読書してるんだろ。本に集中してくれていいぞ」
「わかった」
素直な濱本の返答を聞いたおれは、身体を正面に戻した。
——はぁ。なんだか妙に肩が凝った。
コンコンコンと肩を叩きながら落とした目線の先で、今のおれを唯一癒やせるアイテムを捉える。
「そうだった」
弁当箱を早々にまとめて鞄にしまい、おれの机で待機していたポッキーの箱をそっと持ち上げる。側面にプリントされているイチゴがやけに艶やかで、コチコチッとなってしまったおれの心中をほわほわにほぐしてくれるようだ。
「これは、食すしかないよな。今、すぐに」
早速ポッキーの箱にあるミシン目に沿って、端っこをピリピリやさしく右に引っ張った。蓋部分を上げて中を覗けば、個包装されたものが十数個、整然と並んでいる。そこからゆっくりひとつ取り出し、封を切るとすぐにイチゴの芳醇な香りがふわりと鼻腔に届いた。
「高級感出しすぎでしょう」
さぁーて。どんなふうに、おれを満たしてくれるのかなあ。
期待を膨らませ一噛みすれば、イチゴの濃い甘みの中に、仄かな果肉の酸味がふわっと広がった。
「お。これは……」
箱の裏にある表示を見てみる。
この、プラスな甘味は、練乳かぁ。ぜいたくで楽しい味してるじゃーん。
でも実食してみたら、遥輝が言うほど甘さの強調感ってないと思うけど……。
「やっぱりおまえだったか」
開けっ放しの教室後方出入り口から、榮田望に声をかけられた。
「なにが?」と、ポッキーを唇に挟みながら訊く。
「教室近づいたら、甘い匂いしたからよ」
「ん?」
おれは教室をぐるりと見渡す。
雑誌だか漫画を読んでいるやつ、昼寝をしているやつ、食事をしているやつ、イヤホンで音楽を聴いているやつ。それから、濱本。そんな数人がいた。
「あー。それ、おれだな」
「そうだろ」と言いつつ榮田は、おれの後ろにあるロッカーから体育館履きを取り出す。
「野球部の昼練って、校庭じゃないんだ?」
尋ねたおれは、ポッキーを前歯で噛む。
「二年だけな。今日はこれから筋トレ」
「短時間でも、筋トレってするんだ」
「するさ。槇原とは無縁だろうけどな」
まるで弟分に接するような口調で言い、榮田は雑にロッカーを閉めた。
「そうそう。帰宅部のおれには、お菓子があればそれでじゅーぶん」
パッケージを榮田に見せながら、おれは手に持つポッキーを味わう。
「ホント、毎度シアワセそうに食うよな」
去り際、呆れ半分な感じで一言投げられた。
「だってシアワセなんだもーん」
榮田の背中を追うように、おれは満足気に返した。この味に、ニマニマが止まらないッ。
「もう一本、いっちゃおっかなあ」
「かわいいな」
——はい?
今しがた、おなじみの方角から、なにか聞こえてきたような……。
箱を覗くフリして左横に視線を走らせれば、頬杖突いた濱本が、こちらを眺めていた。
「かわいい笑い方だな」
「…………」
濱本はおれを見て、なにを言ってるんだ?
聞こえていない態を装い、ポッキーをゆっくりおおきく食べ進めた。
実をいえば、ここ数日前からの濱本は、おれフリークを率直に示している。現行の言動も、そのうちのひとつにすぎない。濱本の一連の行動をいちいち考えていたら、なんか面倒なことしか頭に浮かばなくなる。だからおれは、濱本のこういう態度に対しては基本、真に受けないように徹していた。——それでもこんな近くでこれじゃあ、動揺するだろ普通に。
ぎこちなく動く指先で新しい封を開けると、さくさくさくさくポッキーを素早く食べた。
……ああでも。やっぱりいいよなあ。気分をほんわりしてくれるこの味、この香り!
シアワセをありがとぉ~う。
おれは、頬を緩め、ときめいた。
「目の保養って、案外身近にあるんだな」
「…………」
お菓子を堪能している至福のひとときに、またも、濱本の声がおれの耳をさらう。しかも一瞬にして、現実に引き戻される感満載な台詞で。
だいたい、『目の保養』ってなんだよ? おれなんか別段なんでもない、ポッキーさくさくしてるだけのしがない男子高生だぞ。
そう考えながら、そろりと左隣に視線を動かす。
「…………」
まだ見られてる。
なんなんだよ濱本のやつ……。
これはもう徹底的に、気にしないようにするしかない。おれはひたすら黒板と対面しながら、個装を開けてはポッキーを食べるを繰り返す。その間も濱本から、ずっと視線を注がれているようで落ち着かない。
こんな心境でこの食べ方してたら、せっかくの味が台無しじゃんか。これはただの、濱本流悪ふざけだ。きっとそうに違いない。
いいかおれ、なにも考えるんじゃないぞ。ポッキーに集中するんだっ。
「見ていて和む」
「…………」
「リスが夢中で、自分の好きなものを食べているようだな」
濱本がなにか言っているけど、気にするなおれ!
自分に強く言い聞かせながらあるだけをとにかく食べまくった。
もうどんだけポッキーさくさくすればいいのか、わからなくなってきたそのとき。
「りっきー。いるかあ~」
他のクラスの四人が、教室前方から入ってきた。
「——お、なんだいるじゃん!」
廊下側二列目、前から三番目の席で昼食していた、『りっきー』こと大佐和力也。彼を呼ぶ声にビクンッと短く跳ねると、アルマジロのように背中を丸めた。
「俺ら待ってたんだぞ。大佐和っくん」
「まだ昼メシ食ってんのかよ?」
ニヤついて言いながら、彼らはりっきーのほうへと近づいていく。
ガタンッ!
突如、りっきーが音を立てて席を立った。巨体を左右に揺らし机を縫うように避けながら、おれや濱本がいる教室後方に移動してくる。
「りっきー逃げんな!」
四人は素早くりっきーの後ろを追い駆けた。
「待てよおらっ」
「わあ!」
りっきーは無残にも、あっけなく捕まった。それは悲しいかな、俊敏に動けるのに要領が悪いという結果でもある。
「放してくれよぉ……」
羽交い締めにされながら、りっきーが弱い声を出す。
「観念しろってえの」
「よーし。そのままガッチリ抑えとけ」
「やめてよ……こんな、放して」
りっきーの懇願むなしく、一人の生徒が、りっきーの正面に立ちはだかった。無駄にボキボキと指の節を鳴らしている。
「そいじゃ、俺からいくぜ!」
「痛くしないでっ」瞼を固く閉じるりっきー。
そいつは両手をりっきーの正面にかざすと——。
「わぁぁあ」
「ほれほれ~ッ」
りっきーの胸をガシガシ揉みだした。
これは通称『デブ胸揉み狩り』というものだ。ぽっちゃり太った同級生を捕まえて、女子のように膨らんだ彼らの胸を揉む。おれたちの間では恒例風景であり、それがちょうど、おれの右横付近で行われているというのが現況だ。
この狩りに参加するやつらの話によれば、感触は女子のソレと変わらないらしく、多感な思春期の好奇心を満たす疑似体験を楽しめるらしい。
一方おれなんて、胸筋も発達してなければ贅肉も少ない、俗にいうまな板体形だ。そして、それでよかったと胸を撫で下ろせてしまえるのが、男子校の裏事情だったりする。
——だけど、今のおれは知っている。
自分の身体が、同意なく、他人によって自由に扱われる恐怖を。
「やめっ……」
「いいじゃん別に~」
不意に、電車で遭った被害を思い出して悪寒が走る。この教室は今、あのときの電車内と同じだ。
他人事にできない、でも、——怖い。思わず濱本に視線を投げる。ともすれば、手元の書籍が机上に伏せられた。察してくれたのだろうか。縋るような心境で濱本の動向を追う。
濱本は椅子から立ち上がり、ポッキーの箱から最後の一本を引き抜いた。
「もらうぞ」
「……ぁ、うん」
急にどうしたのかと思いきや、濱本は、そのままりっきーと四人組に歩み寄る。初めに気づいたのは、盛り上げ役の二人だった。
「編入生、なんだよ」
「おまえも交ざりたいの?」
問いかけには答えずの濱本は、りっきーの顔正面に、親指と人差し指で摘んだ個装ポッキーを掲げた。
「食後のデザートだ」
「…………」
事態を呑み込めていないりっきーはもちろん、絡んでいたやつらまでもが一時停止状態で、突然現れた銀色個装に目を奪われている。
「いるなら受け取れ」
言葉の意図にようやく気づいたりっきーは、小さな声を聞かせた。
「欲しい、です。でも……」と、背後へ短く目だけを動かす。
「動けない……から……」
「ちょっとなにぃぃい? 嫌そうに言わないでよお~。イジラレるの好きなくせにさあーあ」
大きく手元を動かしながら高圧的な態度で、有無を言わせない声をりっきーに浴びせる。
「じゃれ合ってるだけだろっ、りっきーくうううん!」
がなられたりっきーは身をビクリと萎縮させ、恐る恐る、自分の正面に立つ濱本に視線を投げた。濱本は、真顔でりっきーを直視している。
目線を下げ、唇をぐっと結んだりっきーは、左右に頭をわずかに振り、
「……嫌だ。こんなこと」
擦り切れるようなか細い声を、呼吸にのせて吐き出す。
濱本は、りっきーを羽交い絞めにしているやつに視線を向けた。
「手を外せ」
「は? なんでだよ」
対抗姿勢をみせる四人は、濱本へガンを飛ばす。やつらが放出する邪険な空気は濃厚さを増し、瞬く間に教室中に広がった。
「おまえナニサマ?」
「俺ら遊んでるだけやしっ」
「強制わいせつ罪だ」
抑揚のない口調で濱本が低く告げる。
「相手が『嫌だ』と言ったら、それは『嫌だ』という意味だと理解しろ」
濱本の言葉で、教室の空気が一遍に変わった。遊びが遊びでなくなることを、みんなが意識したからだ。
「——……てっ、点数イイからってなあ、偉そうにすんなよっ特進一派!」
「イケメン絶対主義は、ここにはいねえぞっ」
盛り上げ役らは頬を引き攣らせながらも睨みを利かせ、ガラ悪く反発する。
だがしかし、いつものごとくテンション低めな濱本は動じる素振りもない。
「この件に関しては目撃者がいる」
濱本の言葉に、四人組は教室にいたクラスメイトを強面で威嚇し、凄まれたみんなは瞬時に目を逸らした。おれはすかさず、濱本にまた視線を戻す。
「おまえらっ、チクるなよ!」
四人が形勢逆転を狙い脅す傍らで、濱本は、制服スラックスのポケットから携帯電話を取りだし現状を記録していた。
「証拠もある」
りっきーの胸を掴んでいたやつは、慌てて退かした自分の両手を後ろに隠す。もう一人も、ひどくぎこちない動きで、羽交い絞めにしていた手をりっきーから外した。
ワンテンポ遅れて、はたと思いついた様子の一人が、濱本の携帯電話に手を伸ばしてきた。
「勝手に撮るなっ、消せ!」
焦りを帯びた声が教室の静寂を突き破る。すると、スイッチが押されたかのように、最後の一人も仲間の加勢に飛び出た。
「それよこせっ」
叫んだ声が、勢いよく教室の壁に跳ね返える。
「現行犯逮捕も可能だな」
きれいに二人をかわしながら、濱本は、携帯電話の画面に向けた指先を躊躇なくタップさせた。直後、機体のスピーカーからコール音が外部に流れ響く。
「どこ電話したんだよっ」
「まさか……」
事態を予測した四人の表情が一層強張る。
ツー・コール目が鳴りはじめ、電話口に返答があった。
『——はい。港南警察署生活安全課、安斉です』
「ごめんなさいっ!」
口々に言い我先につまずきながら、四人はドタバタと教室を出ていった。
『もしもし?』
「警告完了」
濱本は送話口に向かって単調に伝え、まさかの一方的に通話を終えてしまった。
電話の相手は警察なのに、そんなふうに切ってよかったのかよ……? 怖いもの知らずだ。
そんな濱本が、ぽつねんと立つりっきーにポッキーを渡した。
「……ありがとう」
「礼なら槇原に言え」
携帯電話をしまいながらこちらに戻ると、濱本はおれに言った。
「スイーツは万能だな」
おれは思った。——それは、濱本じゃん。
席に着いた濱本は、早速読書を再開している。りっきーも、自分の席でなにかしているみたいだし、威嚇されたクラスメイトらも、まるで何事もなかったかのようだ。
でも、なにかが変わった。この教室にいるおれたちは、あの四人組も、濱本の言動で意識せざるを得なくなったのだから。
声に出さない偽り事への抗いを。行動が、事実の意味を正すことを。濱本がこれらを提示してくれたから、電車内で感じた孤独を回避できた。たぶんりっきーも、おれと同じ気持ちだと思う。
教室の時計は一時三十一分。そろそろ他のみんなが戻ってくるころだ。
さっきのこと、そのうちみんなも知るだろう。なにはともあれ、一件落着に感謝だな。
アルミ色の外装をごわっと集めて席を立ったおれは、黒板右横のゴミ箱にバラバラっとそれらを入れた。
戻り際、正面からそれとなく、濱本の様子を窺う。
「…………」
見れば見るほど、無駄に洗練されてるよなあ。男子校でそれは、宝の持ち腐れでしかないのに。しかも、『運命とは待つものではなく、獲得するものだ』を実践すべく、海外からわざわざ鴎薦に編入してくるとか。学校選びの方法も含めて、めっぽう風変りだし。
それにしても、濱本が醸し出すこの独特な雰囲気。やっぱり、異文化で過ごしてきたからだろうな。外見は内面の一番外側にあるっていうの、改めて納得だよ。
普通に英字の本開いちゃってるし。ついでに髪も肌も瞳の色も、おれらなんかよりよっぽど色素薄いし。なんか段々、濱本が外国人に見えてくる…………。
「槇原」
「え」
呼ばれて気づく。
濱本の机の真ん前で、棒立ちになっていたことに。
おれのバカ。
露骨になにしちゃってるんだよっ。
「そんなに見つめるな」
ページに目線を落としたままの濱本に言われた。
「え……と、考え事、してただけだし」
「どんなことを」
今度は、上目遣いに訊かれた。
「それは……」
「それは?」
なんだよその、蠱惑的な眼差しは。
綺麗な黄金色した瞳の中に、困り顔のおれがしっかりと映り込んでいる。
「続きはどうした」
「濱本が、……」
「俺が」
不敵に笑みをこぼす彼の顔で我に返った。
「——は、濱本が食べないからさっ。ポッキー、食べすぎちゃったじゃん」
咄嗟に掴んだ逆さの空箱を上下に振ってみせ、自分でもまさかの逆切れで言い紛らす。
「ほらな! もうないんだぞっ。今度は、おれと一緒に食べろよなっ!」
派手に椅子を引き鳴らし、濱本に背中を向けてどかりと斜めに座った。
おれ、なんでドキドキしてるんだよ。
絶対に、濱本のペースに呑まれないからな!
+++(午後03時48分 @鴎薦学院高等学校 2年1組教室)+++
「質問が、あるんだけど」
放課後の教室で、部活に行く前の遥輝を引き留めた。
「はい槇原くん。この一之瀬センセイに、なあんでも訊きなさあーい」
濱本がいないのを、今一度確認してから切り出した。
「たとえば、なんだけどさ」
「おう。なんだ?」
「Aさんがふと気づくと視線の先にBさんがいる、とか。最近Bさんとよく目が合う気がするなあ、とか。それって、どうしてだと思う?」
「なんだよ岬、それが知りたいことか」
「うん、そう」
「そんなのは単純なことじゃん」
言いながら、遥輝は机の上にドカッと鞄を置いた。
「Aさんが、Bさんを見続けてるからだろ」
「……え。そうなる?」
「それしかないだろうよぉお」
遥輝は机の中をあさり、教科書やノートやらを取り出しては適当に鞄へと詰めていく。
「Aさんが視線を送ってるってことは、ズバリ! Aさんが、Bさんを、気にしてるってことだな。ラブの意味で」
「ウソ」
遥輝は手を止め、間抜けな声を発したおれを見る。
「どうした?」
「いや……おれはてっきり、その逆、だと、思ってたから」
「ふーん」
担任から配布された紙類を最後に突っ込み、遥輝は鞄のファスナーをジリリと閉めた。
「ちなみにそのAさんってのは、男か」
「うん」
「じゃあなおさらだな。俺らって正直な生き物じゃん。わかるだろ」
「そうだけど。だから?」
「はぁ……」
なぜかため息をつき、遥輝は呆れ声で言った。
「岬、おまえさぁ。何年男やってんだよ?」
おれはちょっと宙を仰いだ。
「十六年と六カ月」
「バーカ。本気で答えんな」
「ぃたッ」
ピチンと軽くデコピンされて、唇を尖らせた。
遥輝は言葉を続ける。
「岬は草食系なんだから実感あるだろお」
「なんのことだよ?」
と訊き返しつつ、おれは自分の額を指の腹でこする。
「奥手だから、無意識に視線で呼びかけるんだろ」
「知らないよそんなの」
不貞腐れたように口先だけを動かした。
「だからさ。俺らは基本的に、興味のあるものとか欲しいものに見入っちゃうんだよ」
「おれは、そんなのしたことないもん」
「恥ずかしがるな、男の特性なんだからよ。——あ」
「なに」
「なんか面白くね?」
遥輝は広げた両手指を上下に、自分の顔の前でピロピロ動かしだす。
「『こっちを見てほしいビーム放出~ッ』とかってさ」
「エスパーかよ」
おれは冷ややかにツッコんだ。
「似たようなもんだろ。視線を頻繁に相手に向けてるほうはさ、『自分を見てほしい』『声をかけてほしい』って念じてるんだからよ」
「…………」
おれが?
おれは濱本に、見てほしいのか。『ラブの意味』で——。
「絶対にありえない」
「なんか言ったか?」
声に出していたことにハッとして、おれは頭を小刻みに振った。
「ぃや別にっ、なにも、ないよ」
遥輝の話を聴いたら『視線の謎』がより深まった、以外は。
胸のモヤモヤが増して、たちまちおれは考え込む。
「大丈夫か岬」
「……え、おれ?」
「そうだよ」
「あー……。うん。平気」
「おまえ最近、そんなんばっかだな」
おれの顔を覗き込む仕草をするから、遥輝に悟られないようめいっぱい明るく言った。
「ぜんっぜんダイジョブ! 特に問題なんて、ないよ」
「そうか?」
「うん! 質問は以上、ありがとな遥輝」
「じゃあ俺、部活行ってくるわ」
「おお、じゃあな」
小脇に鞄を抱えた遥輝は、教室から出ていった。
おれは自分の席に戻りながら、独りきりの教室で悶々とする。
「……いやでもさ、それってやっぱり違くないか?」
もう一度、順序立てて考えてみよう。
「Aさんが気づくとBさんがいて、Bさんと目が合う。つまり」
Aさんにおれ。Bさんに濱本を代入。すると……。
おれが気づくと濱本がいて、濱本と目が合う。——よしよし、これはオッケーだ。
「問題は、遥輝説の証明だな」
『Aさんが、Bさんを気にしてる』ってことだから、同じように置き換えて……。
おれが、気にし……あれ?
おれが、濱本を?
——いやだから、そうじゃないだろ。AとBが逆じゃね?
えーっと……。
……ん?
「あぁぁあもう、なんでだよっ」
椅子を引いてボスンと勢いよく座り込んだ。
視線を感じてるのは、おれのほうだし! その先にいるのが、濱本だってば!
「だからそれって逆じゃないのかよおっ!?」
あーっ、もーっ!
おれは両手で頭を抱え、無造作にわーっと髪を掻き混ぜた。
「どうしたの。槇原」
「——へ」
顔を上げると、りっきーがおれを見下ろしていた。
「結構ヤバいね」
「……ああっと、そう?」
「うん」
思いっ切り頷かれた。
……確かにおれ、なにしてるんだろ。
「もしかして、糖分摂りすぎなんじゃないのかい」
「ははは……。そうかもしれない」
絶対違うから。
主題はそんなんじゃないから。
「りっきーは、忘れもの?」
鞄を下げている姿を見るとそれしか思いつかない。だけど当の本人は、首を横に振ってモジモジしだす。
「濱本君からの伝言があるんだ」
「それでわざわざ、教室に戻ってきたのか?」
「うん。ありがとう槇原」
りっきーは、かわいらしく「えへっ」と笑った。
「なんでだよ?」
どちらかといえば、おれのほうが、お礼を言うべきじゃないのかい。
「だって槇原のお蔭で、濱本君から僕に、話しかけてくれたんだ」
りっきーが頬をほんのり赤く染めるから、おれの頭の中に不思議ん坊がいっぱい咲いた。
「やっと濱本君と話せて、すごくいい気分なんだ」
「そか。よかったな」
ほーらみろ。おれが言ったとおりじゃん。濱本と話したいと思ってるやつ、実際にいるんだかんな。
りっきーも元気そうだし。よかったよかった。
「それで、濱本、なんて言ってた?」
「『下駄箱で待っている』だってさ」
「わかった。ありがとな、りっきー」
おれは早速、帰り支度をはじめた。
「————」
「…………」
「————」
……で、りっきー。どうして教室にまだいるのかな。
身近にそびえる巨体は、どうにも圧迫感が半端ない。抜からぬ顔のりっきーに声をかけた。
「他に、なにか用あるの?」
「槇原は、濱本君と仲いいよね」
りっきーが舌ったらずにぼそりとこぼす。これがなぜか、言葉に独特の重みがあって妙な迫力だ。
「普通、だよ」
「普通くないでしょ!」
りっきーはピシリと鋭く発した。
「いつも、ふたりだけで、会話しているじゃないか」
「きっとそれは……席が、隣だからだよ」
「それだけじゃないだろ」
ただならぬ詰め寄りを受けて、自分の首の後ろに手を当てた。
「……そんなことはないよ?」
「理由は、それだけじゃないんだろ」
なんでおれ、威圧感かまされてるんだ。
そもそも、話の脈絡はどこにある?
「濱本君と仲いいんだろ」
「えと、だから……」
「仲いいじゃないか」
りっきーが言うくらいだ。よっぽど目立ってるんだろうな、おれと濱本。
重厚な視線に耐えながら、苦笑い交じりに切り出した。
「ほら、おれさ、榊原から頼まれたじゃん? 濱本が編入してきた日の、朝のショート・ホーム・ルームで」
「僕知ってるよ。勉強教わっているんだろ」
「え——、あ?」
「濱本君が、そう言っていたよ」
今のおれの弁解は無視? りっきー、自由だなぁ……。
「だから放課後、一緒にいるんだってね」
「あぁ……と。実は、うん。そうなんだ」
りっきー、濱本にもなにか言ったんだろ。
他と雑談しない濱本が、そんな口実を自ら言うはずないもんな。
「槇原はラッキーだよね」
「なんで、おれが?」
「だって、濱本君だよ!」
りっきーは声を張って滑舌よく力説しはじめた。
「学校一俊才でイケメンの、あの! 濱本茅捺君だよ!」
「ぉ、おぉ……」
「その濱本君から、槇原は直々に! 勉強を、教えてもらっているんだろっ」
濱本が設定したであろう内容に沿うよう、おれは言葉を返す。
「まあ……、そういうことになる、の、かな?」
「槇原は、あのクールな眼差しと艶やかな低音が心地イイ声を、独り占めしているんだぞ!」
りっきーは鞄の肩紐をグイと握り締めた。
「それってすごいよっ、羨ましすぎるだろ!」
「そう……なんだ?」
「濱本君は、尊いんだぞ!」
あまりにもりっきーが熱く語るから、おれはつと視線を横へ流した。
……もしかしておれ、優越感ならぬ罪悪感、もたなきゃいけないのか?
それよりもだな。
激興奮している人間に対して、おれは、どう接したらいいんだよ……。
「じゃ。伝えたからね」
「——え?」
視線を外してちょっと考えている間に、りっきーは、すでにおれから数歩も遠ざかっていた。意外とあっさりしてるのな。
「槇原」
廊下に出かけたりっきーが、教室後方の出入り口からおれを振り返って呼んだ。
「な、に?」
「虫歯にならないように気をつけてね」
「……うん。そうする」
去り際の一言。まさかりっきーに、そう忠告されるとはな……。
おれは、ハイスペックな主が去った左隣の席を、少し恨めしく見やった。
「…………」
もう考えるのはやめにしよう。濱本の戯れに脳ミソ使うのは、思考の迷子になるだけだ。
おれは教室を出て一階に向かった。りっきーが伝えてくれたとおり、下駄箱前には濱本が立っている。
「待たせたか?」
「今来たところだ」
黒のローファーに履き替えながら訊いてみた。
「濱本式勉強法って、どんなの?」
「さらなる学びに目覚めたのか?」
「いや……。りっきーに、ごまかしてくれただろ。ありがとな」
「秘守義務を遂行したまでだ」
濱本は、通学電車で痴漢被害に遭っていたおれを助けてくれた。
————『あの詳細は、俺と槇原の秘密な』
そうおれに告げ、あの出来事を、今も他言せずにいてくれている。その上、今度は、男性から痴漢被害に遭って執拗に追いかけられたと相談すると、変質者との遭遇に備えておれの用心棒を買って出てくれた。——おれが、警察に相談するのだけは避けたい、と言ったから。
被害をなかったことにせず、おれの声に耳を傾けてくれた濱本は、それ以来こうしておれと一緒にいてくれる。
実際のところ、濱本はすごく頼りになっている。藁にも縋りたかったおれは、誰かが助けてくれるのを強く望んでいたし、濱本がそばにいてくれることで、ちゃんと安心できているのだから。
「昼休みのこととかもさ。いろいろありがと。濱本がいてくれて、よかった」
つい先月、特進コースに編入してきた濱本は、ずば抜けた頭脳と貴公子然とした風采から、早々に校内一の有名人となった。学校のみんなは、濱本がおれの隣にいるのを目撃するたびに「羨ましい」と言ってくる。でもそれは、濱本の善意からはじまったにすぎない。おれは、自分の弱さを見せられる濱本に、感謝の気持ちでいっぱいだ。
おれは靴に踵を押し込め、脱いだ内履きを下駄箱にしまった。
「でもさ。マジでおれ、濱本から数学教えてもらいたいかも」
濱本と肩を並べて、静かな通路を歩き出す。
「だっておれ、数学苦手じゃん」
「そうか。それなら」
と、至極自然に、濱本がおれの腰に腕を回してきた。
「静かな場所に案内する」
「なんで?」
「俺がいいんだろ」
「そうだけど?」
おれが答えると、濱本は微笑しながらおれの腰をクイと引き寄せた。
「今から行こう」
「行くって、どこに?」
「ふたりきりになれる場所」
「え」
——な、なにを言ってるんだ、濱本は。
意味合い、違っていませんかっ。
そうして濱本は、困惑するおれの耳元に囁いた。
「教えてやるよ。イロイロな」
魅惑の低音ボイス。
エロく聴こえるのはおれだけか!?
心臓が跳ねるように動き出し、顔がカッと熱くなる。
「えーとそれは……今日は、……遠慮しておくよ。うん」
濱本の腕をさりげなく押し返しながらも、濱本の言葉が頭の中をぐるぐる巡り、声が揺れてしまう。
「明日ならいいのか」
「……いやぁそういうことじゃ、なくて。さ?」
濱本がおれの顔を覗き込み、またしても耳の奥まで響く声で言った。
「槇原、顔赤いぞ」
「えっ、そ、そんなことないし!」
困った。
どう言ったら通じるんだろ——。
「くッ!」
突然、濱本が吹いた。
「ぇなに!?」
「鵜呑みにするわりには、警戒心が強いんだな」
笑いを噛み殺しながら言われた。
「へ……?」
「冗談だよ。その感覚、大事にしろ」
濱本の手が伸びてきて、おれの髪をくしゃっと掻いた。
おれは立ち止まり、がくりとうなだれる。
「濱本が言うと冗談に、聞こえないんだよ」
「期待したのか。プライベート・レッスン」
「するわけないだろっ」
気恥ずかしい勢いで、少し前を歩く濱本をスタスタ追い抜く。
「おれだって! ガッツリ気合い入れてノートまとめすれば、イイ点取れるんだかんな」
「それは、結果が楽しみだ」
「あ、その言い方っ。本気にしてないだろっ!?」歩みを進めながら、顔だけ濱本のほうに向けて声を上げる。
だけど、ふと視線が濱本の姿に引き寄せられてしまう。
「本番は来週だ。それまで頑張れ、槇原岬」
薄ら笑いを浮かべながら、濱本はおれの後ろに続く。
おれだけに見せるやわらかな表情に、胸の奥がキュッと高鳴り、ドキドキが加速する。
こんなふうにからかわれるのには、きっとおれは慣れそうにない。
*** ***
手渡されたのは、おれがまだ味わったことのないお菓子の箱だった。
鮮やかな色合いのパッケージが、教室の蛍光灯に照らされてキラキラと輝いている。『ご当地期間限定ポッキー』と描かれた文字が、期待感をさらに高めた。
「これって、ご当地期間限定ポッキーのネオ・バージョンじゃん!」
「アメ部の先輩がさぁ、きのうの部活帰りに土産で配ってたんだわ」
遥輝はげんなり顔で言った。
「誰かが開けたやつ、みんなで味見したら激甘でよ」
「いいのかもらっても!?」
「これ食えるの、岬だけだろ」
「確かに! おれその自信あるあるッ」
うれしさのあまり、通常よりも大きめのパッケージを両手で掲げた。まるで宝物を手に入れたような気分だ。
「ありがとな遥輝! それと、お土産センパイにも、さんきゅうです!」
「いいってことよ。持ちつ持たれつ、学輩のよしみだ」
学食の器と箸を乗せたトレーを持って、遥輝はそのまま教室を出ていった。
「棚から牡丹餅ヤターぁ」
ニマニマしながらパッケージに見とれていたら、左隣からかすかな気配を感じた。
視線を向けるとそれは、本を片手に、鞄を机横に引っ掛けている濱本だった。いつの間に来たんだろうと思いながら、黒板真上の時計で時刻を確認する。——現在午後一時七分、昼休み残りおよそ三十分。おれは濱本に声をかけた。
「珍しいな。まだ時間あるのに」
先生から合鍵を託されている濱本は、毎回実験室で昼休みを過ごしていて、いつもなら五校時開始間際にならないとこの教室に姿を現さないからだ。
菊判サイズのペーパーバックを自身の机に置き、濱本は言った。
「デザートか」
「あ?」
「それ」
と、目線をおれの手元に向ける。
「うんまあ。そんなとこ」
「槇原は、甘いものが好きだよな」
濱本は背凭れに手を掛け、椅子に座った。
「濱本もいるか?」
「遠慮しておく。今の俺に、添加糖類は必要ない」
「そか。なんか、残念なやつなのな」
おれは若干唇を尖らせる。
「遥輝からもらったんだけどさ。これ、限定ものなんだぞ」
「それはよかったな」
ドライ口調の濱本は、赤と黒の幾何学模様がデザインされた表紙に英字が記載されてあるペーパーバックを開いた。隣席から響くページを捲る音が心地よく、紙のかすかなざらつきが耳に残る。古書特有のインクの香りが漂ってきて、まるで知識の世界に引き込まれそうになる感覚を覚えた。それがあまりにも静かで繊細だったから、おれはつい話し続けてしまう。
「なんでわざわざ、実験室に行くんだよ?」
「昼食をとるためだ」
「知ってるけど、薬品とかの匂いが漂ってるじゃん。気にならないの?」
「気にはならない」
「……あ、じゃあ、濱本相談室開いてるとか?」と、思いつきを口にする。
「誰か来たりするんだろ、実験室に」
「どうして訊く」
「どうしてって……。なんか理由がないと、訊いちゃいけないのかよ」
孤高でクールなこの一匹オオカミが、おれ以外の誰かのヒーローも担っているかと思うと、なんとなく胸がそわそわするけど。可能性としては、あるはずだ。実際に、おれが相談経験者なわけだし。
濱本が本から顔を上げ、じっとおれを見た。
「え、なに」
「妬心か」
「へ?」
「それなら無用だぞ」と、濱本は再びページに目線を向けた。
「……な、んで、そうなるんだよ」
「違うのか」
「あたりまえだろっ、そんなんじゃ、ないし」
「それは残念」
「残念、って、なんだよそれ」
「言葉どおりの意味だ」
一本調子な返答に、おれはぐいっと身体ごと左向きになった。
「あのさ。なにを根拠におれが、ヤキモチ妬くんだよ」
そう言いはしたものの、少なからず調子が狂っているのは確かだ。だからそれを払拭すべく、妥当性のある言葉を急いで並べてみる。
「濱本は編入してきたばかりなんだし、教室とか、食堂で食べればいいじゃん」
「それに意味があるのか」
濱本の無機的な一言が、おれの情操を揺さぶった。
「昼食ってのはなあ、奥深な、コミュニケーション・ツールなんだぞ」
「だからどうした」
視線を交えず言葉だけを発する濱本に、おれは幾分、掣肘を加えたくなっていた。
「おれはただ、他のやつとももっと話してみればいいんじゃないかって、そう思ってるだけだよ。みんなだって、濱本と話したいはずだし」
「来る者拒まずに対応している」
「……まあ。話しかけられたら、応えてはいるみたいだけどさ。濱本自身からそうするのは、おれ以外にはほぼゼロじゃん」
「それで充分だろ」
「いやだから、もっとこう友好的に——」
「理不尽さを強いられる場所では、独りでいるほうが有益だ」
「…………」
——『独り』が『有益』ってなんだよ?
確かに濱本は、周りのやつらとは風格が違う。でもだからといって、そう思考するのは珍しくないか。
「それに、友人なら俺にもいる」
「あー……。おれ以外で、だぞ?」
「もちろん」
すんなりと放たれた言葉の真意が、無防備なおれの想像をチクリと刺した。
「……へえ」
ノミの心臓ほどのダメージを抱えたおれの口が勝手に動く。
「この学校の、生徒でか?」
「違う」
「そ、なんだ」
そりゃあ濱本にだって、友達はいるだろうよ。——だけど、それはそれで、なんか気にはなるじゃん。
活字を追う濱本を見たら、先を突っ込んで訊くのがためらわれる。それでもなぜか注意を引きたくて、ぼそりとこぼした。
「濱本ってさ、忍者みたいだよな」
「面白いな」
「だって、神出鬼没じゃん。気がつくといるし」
「そうでもないだろ」
「そうなの!」と、おれは強めに肯定する。
「しかも、風の吹くまま気の向くままでさ。そういうとこもあるから、みんな声かけるタイミングを見つけづらいんだと思うぞ」
「なるほど」
「おれとは、こうやって話すだろ」
「ああ」
「せっかく同じクラスになったんだ。もっとみんなとも会話しようぜ?」
端正な横顔におれは説き続ける。
「な? みんな残念がってるぞ」
「————」
「級友なのに、濱本となかなか交流もてなくてさ。みんな、心のどこかで寂しいはずだ」
「それは、俺が悪いな」
と、あからさまにショボくれた表情を見せる。濱本の意外な反応に面食らったおれは、慌てて宥めるように声をかけた。
「でも別にそんな、たいした意味で言ったわけじゃないから」
「いや。俺が悪かった」
「だから、謝ることはないって——」
「俺が槇原に、寂しい思いをさせていたんだからな」
「はっ、おれ!?」
突拍子もない言葉を耳にしたおれは、陸に打ち上げられた魚のようにパクパクばたばたした。
「なんでそうなるんだよっ。みんな、って、おれ言っただろ」
「ああ。そうだな」
「濱本マジでわかってんのかよ?」
「ヤキモチ妬かせたんだろ」
「だからっ、寂しいとかヤキモチとか、おれはそんなの違うってば!」
「槇原は、俺を飽きさせないな」
濱本はふっと息だけで笑い、目を細める。まるでおれの心を見透かしているような微笑を前に、濱本を返り討ちにする気力が、もはや少しも湧いてこない。
おれは緩く言った。
「読書してるんだろ。本に集中してくれていいぞ」
「わかった」
素直な濱本の返答を聞いたおれは、身体を正面に戻した。
——はぁ。なんだか妙に肩が凝った。
コンコンコンと肩を叩きながら落とした目線の先で、今のおれを唯一癒やせるアイテムを捉える。
「そうだった」
弁当箱を早々にまとめて鞄にしまい、おれの机で待機していたポッキーの箱をそっと持ち上げる。側面にプリントされているイチゴがやけに艶やかで、コチコチッとなってしまったおれの心中をほわほわにほぐしてくれるようだ。
「これは、食すしかないよな。今、すぐに」
早速ポッキーの箱にあるミシン目に沿って、端っこをピリピリやさしく右に引っ張った。蓋部分を上げて中を覗けば、個包装されたものが十数個、整然と並んでいる。そこからゆっくりひとつ取り出し、封を切るとすぐにイチゴの芳醇な香りがふわりと鼻腔に届いた。
「高級感出しすぎでしょう」
さぁーて。どんなふうに、おれを満たしてくれるのかなあ。
期待を膨らませ一噛みすれば、イチゴの濃い甘みの中に、仄かな果肉の酸味がふわっと広がった。
「お。これは……」
箱の裏にある表示を見てみる。
この、プラスな甘味は、練乳かぁ。ぜいたくで楽しい味してるじゃーん。
でも実食してみたら、遥輝が言うほど甘さの強調感ってないと思うけど……。
「やっぱりおまえだったか」
開けっ放しの教室後方出入り口から、榮田望に声をかけられた。
「なにが?」と、ポッキーを唇に挟みながら訊く。
「教室近づいたら、甘い匂いしたからよ」
「ん?」
おれは教室をぐるりと見渡す。
雑誌だか漫画を読んでいるやつ、昼寝をしているやつ、食事をしているやつ、イヤホンで音楽を聴いているやつ。それから、濱本。そんな数人がいた。
「あー。それ、おれだな」
「そうだろ」と言いつつ榮田は、おれの後ろにあるロッカーから体育館履きを取り出す。
「野球部の昼練って、校庭じゃないんだ?」
尋ねたおれは、ポッキーを前歯で噛む。
「二年だけな。今日はこれから筋トレ」
「短時間でも、筋トレってするんだ」
「するさ。槇原とは無縁だろうけどな」
まるで弟分に接するような口調で言い、榮田は雑にロッカーを閉めた。
「そうそう。帰宅部のおれには、お菓子があればそれでじゅーぶん」
パッケージを榮田に見せながら、おれは手に持つポッキーを味わう。
「ホント、毎度シアワセそうに食うよな」
去り際、呆れ半分な感じで一言投げられた。
「だってシアワセなんだもーん」
榮田の背中を追うように、おれは満足気に返した。この味に、ニマニマが止まらないッ。
「もう一本、いっちゃおっかなあ」
「かわいいな」
——はい?
今しがた、おなじみの方角から、なにか聞こえてきたような……。
箱を覗くフリして左横に視線を走らせれば、頬杖突いた濱本が、こちらを眺めていた。
「かわいい笑い方だな」
「…………」
濱本はおれを見て、なにを言ってるんだ?
聞こえていない態を装い、ポッキーをゆっくりおおきく食べ進めた。
実をいえば、ここ数日前からの濱本は、おれフリークを率直に示している。現行の言動も、そのうちのひとつにすぎない。濱本の一連の行動をいちいち考えていたら、なんか面倒なことしか頭に浮かばなくなる。だからおれは、濱本のこういう態度に対しては基本、真に受けないように徹していた。——それでもこんな近くでこれじゃあ、動揺するだろ普通に。
ぎこちなく動く指先で新しい封を開けると、さくさくさくさくポッキーを素早く食べた。
……ああでも。やっぱりいいよなあ。気分をほんわりしてくれるこの味、この香り!
シアワセをありがとぉ~う。
おれは、頬を緩め、ときめいた。
「目の保養って、案外身近にあるんだな」
「…………」
お菓子を堪能している至福のひとときに、またも、濱本の声がおれの耳をさらう。しかも一瞬にして、現実に引き戻される感満載な台詞で。
だいたい、『目の保養』ってなんだよ? おれなんか別段なんでもない、ポッキーさくさくしてるだけのしがない男子高生だぞ。
そう考えながら、そろりと左隣に視線を動かす。
「…………」
まだ見られてる。
なんなんだよ濱本のやつ……。
これはもう徹底的に、気にしないようにするしかない。おれはひたすら黒板と対面しながら、個装を開けてはポッキーを食べるを繰り返す。その間も濱本から、ずっと視線を注がれているようで落ち着かない。
こんな心境でこの食べ方してたら、せっかくの味が台無しじゃんか。これはただの、濱本流悪ふざけだ。きっとそうに違いない。
いいかおれ、なにも考えるんじゃないぞ。ポッキーに集中するんだっ。
「見ていて和む」
「…………」
「リスが夢中で、自分の好きなものを食べているようだな」
濱本がなにか言っているけど、気にするなおれ!
自分に強く言い聞かせながらあるだけをとにかく食べまくった。
もうどんだけポッキーさくさくすればいいのか、わからなくなってきたそのとき。
「りっきー。いるかあ~」
他のクラスの四人が、教室前方から入ってきた。
「——お、なんだいるじゃん!」
廊下側二列目、前から三番目の席で昼食していた、『りっきー』こと大佐和力也。彼を呼ぶ声にビクンッと短く跳ねると、アルマジロのように背中を丸めた。
「俺ら待ってたんだぞ。大佐和っくん」
「まだ昼メシ食ってんのかよ?」
ニヤついて言いながら、彼らはりっきーのほうへと近づいていく。
ガタンッ!
突如、りっきーが音を立てて席を立った。巨体を左右に揺らし机を縫うように避けながら、おれや濱本がいる教室後方に移動してくる。
「りっきー逃げんな!」
四人は素早くりっきーの後ろを追い駆けた。
「待てよおらっ」
「わあ!」
りっきーは無残にも、あっけなく捕まった。それは悲しいかな、俊敏に動けるのに要領が悪いという結果でもある。
「放してくれよぉ……」
羽交い締めにされながら、りっきーが弱い声を出す。
「観念しろってえの」
「よーし。そのままガッチリ抑えとけ」
「やめてよ……こんな、放して」
りっきーの懇願むなしく、一人の生徒が、りっきーの正面に立ちはだかった。無駄にボキボキと指の節を鳴らしている。
「そいじゃ、俺からいくぜ!」
「痛くしないでっ」瞼を固く閉じるりっきー。
そいつは両手をりっきーの正面にかざすと——。
「わぁぁあ」
「ほれほれ~ッ」
りっきーの胸をガシガシ揉みだした。
これは通称『デブ胸揉み狩り』というものだ。ぽっちゃり太った同級生を捕まえて、女子のように膨らんだ彼らの胸を揉む。おれたちの間では恒例風景であり、それがちょうど、おれの右横付近で行われているというのが現況だ。
この狩りに参加するやつらの話によれば、感触は女子のソレと変わらないらしく、多感な思春期の好奇心を満たす疑似体験を楽しめるらしい。
一方おれなんて、胸筋も発達してなければ贅肉も少ない、俗にいうまな板体形だ。そして、それでよかったと胸を撫で下ろせてしまえるのが、男子校の裏事情だったりする。
——だけど、今のおれは知っている。
自分の身体が、同意なく、他人によって自由に扱われる恐怖を。
「やめっ……」
「いいじゃん別に~」
不意に、電車で遭った被害を思い出して悪寒が走る。この教室は今、あのときの電車内と同じだ。
他人事にできない、でも、——怖い。思わず濱本に視線を投げる。ともすれば、手元の書籍が机上に伏せられた。察してくれたのだろうか。縋るような心境で濱本の動向を追う。
濱本は椅子から立ち上がり、ポッキーの箱から最後の一本を引き抜いた。
「もらうぞ」
「……ぁ、うん」
急にどうしたのかと思いきや、濱本は、そのままりっきーと四人組に歩み寄る。初めに気づいたのは、盛り上げ役の二人だった。
「編入生、なんだよ」
「おまえも交ざりたいの?」
問いかけには答えずの濱本は、りっきーの顔正面に、親指と人差し指で摘んだ個装ポッキーを掲げた。
「食後のデザートだ」
「…………」
事態を呑み込めていないりっきーはもちろん、絡んでいたやつらまでもが一時停止状態で、突然現れた銀色個装に目を奪われている。
「いるなら受け取れ」
言葉の意図にようやく気づいたりっきーは、小さな声を聞かせた。
「欲しい、です。でも……」と、背後へ短く目だけを動かす。
「動けない……から……」
「ちょっとなにぃぃい? 嫌そうに言わないでよお~。イジラレるの好きなくせにさあーあ」
大きく手元を動かしながら高圧的な態度で、有無を言わせない声をりっきーに浴びせる。
「じゃれ合ってるだけだろっ、りっきーくうううん!」
がなられたりっきーは身をビクリと萎縮させ、恐る恐る、自分の正面に立つ濱本に視線を投げた。濱本は、真顔でりっきーを直視している。
目線を下げ、唇をぐっと結んだりっきーは、左右に頭をわずかに振り、
「……嫌だ。こんなこと」
擦り切れるようなか細い声を、呼吸にのせて吐き出す。
濱本は、りっきーを羽交い絞めにしているやつに視線を向けた。
「手を外せ」
「は? なんでだよ」
対抗姿勢をみせる四人は、濱本へガンを飛ばす。やつらが放出する邪険な空気は濃厚さを増し、瞬く間に教室中に広がった。
「おまえナニサマ?」
「俺ら遊んでるだけやしっ」
「強制わいせつ罪だ」
抑揚のない口調で濱本が低く告げる。
「相手が『嫌だ』と言ったら、それは『嫌だ』という意味だと理解しろ」
濱本の言葉で、教室の空気が一遍に変わった。遊びが遊びでなくなることを、みんなが意識したからだ。
「——……てっ、点数イイからってなあ、偉そうにすんなよっ特進一派!」
「イケメン絶対主義は、ここにはいねえぞっ」
盛り上げ役らは頬を引き攣らせながらも睨みを利かせ、ガラ悪く反発する。
だがしかし、いつものごとくテンション低めな濱本は動じる素振りもない。
「この件に関しては目撃者がいる」
濱本の言葉に、四人組は教室にいたクラスメイトを強面で威嚇し、凄まれたみんなは瞬時に目を逸らした。おれはすかさず、濱本にまた視線を戻す。
「おまえらっ、チクるなよ!」
四人が形勢逆転を狙い脅す傍らで、濱本は、制服スラックスのポケットから携帯電話を取りだし現状を記録していた。
「証拠もある」
りっきーの胸を掴んでいたやつは、慌てて退かした自分の両手を後ろに隠す。もう一人も、ひどくぎこちない動きで、羽交い絞めにしていた手をりっきーから外した。
ワンテンポ遅れて、はたと思いついた様子の一人が、濱本の携帯電話に手を伸ばしてきた。
「勝手に撮るなっ、消せ!」
焦りを帯びた声が教室の静寂を突き破る。すると、スイッチが押されたかのように、最後の一人も仲間の加勢に飛び出た。
「それよこせっ」
叫んだ声が、勢いよく教室の壁に跳ね返える。
「現行犯逮捕も可能だな」
きれいに二人をかわしながら、濱本は、携帯電話の画面に向けた指先を躊躇なくタップさせた。直後、機体のスピーカーからコール音が外部に流れ響く。
「どこ電話したんだよっ」
「まさか……」
事態を予測した四人の表情が一層強張る。
ツー・コール目が鳴りはじめ、電話口に返答があった。
『——はい。港南警察署生活安全課、安斉です』
「ごめんなさいっ!」
口々に言い我先につまずきながら、四人はドタバタと教室を出ていった。
『もしもし?』
「警告完了」
濱本は送話口に向かって単調に伝え、まさかの一方的に通話を終えてしまった。
電話の相手は警察なのに、そんなふうに切ってよかったのかよ……? 怖いもの知らずだ。
そんな濱本が、ぽつねんと立つりっきーにポッキーを渡した。
「……ありがとう」
「礼なら槇原に言え」
携帯電話をしまいながらこちらに戻ると、濱本はおれに言った。
「スイーツは万能だな」
おれは思った。——それは、濱本じゃん。
席に着いた濱本は、早速読書を再開している。りっきーも、自分の席でなにかしているみたいだし、威嚇されたクラスメイトらも、まるで何事もなかったかのようだ。
でも、なにかが変わった。この教室にいるおれたちは、あの四人組も、濱本の言動で意識せざるを得なくなったのだから。
声に出さない偽り事への抗いを。行動が、事実の意味を正すことを。濱本がこれらを提示してくれたから、電車内で感じた孤独を回避できた。たぶんりっきーも、おれと同じ気持ちだと思う。
教室の時計は一時三十一分。そろそろ他のみんなが戻ってくるころだ。
さっきのこと、そのうちみんなも知るだろう。なにはともあれ、一件落着に感謝だな。
アルミ色の外装をごわっと集めて席を立ったおれは、黒板右横のゴミ箱にバラバラっとそれらを入れた。
戻り際、正面からそれとなく、濱本の様子を窺う。
「…………」
見れば見るほど、無駄に洗練されてるよなあ。男子校でそれは、宝の持ち腐れでしかないのに。しかも、『運命とは待つものではなく、獲得するものだ』を実践すべく、海外からわざわざ鴎薦に編入してくるとか。学校選びの方法も含めて、めっぽう風変りだし。
それにしても、濱本が醸し出すこの独特な雰囲気。やっぱり、異文化で過ごしてきたからだろうな。外見は内面の一番外側にあるっていうの、改めて納得だよ。
普通に英字の本開いちゃってるし。ついでに髪も肌も瞳の色も、おれらなんかよりよっぽど色素薄いし。なんか段々、濱本が外国人に見えてくる…………。
「槇原」
「え」
呼ばれて気づく。
濱本の机の真ん前で、棒立ちになっていたことに。
おれのバカ。
露骨になにしちゃってるんだよっ。
「そんなに見つめるな」
ページに目線を落としたままの濱本に言われた。
「え……と、考え事、してただけだし」
「どんなことを」
今度は、上目遣いに訊かれた。
「それは……」
「それは?」
なんだよその、蠱惑的な眼差しは。
綺麗な黄金色した瞳の中に、困り顔のおれがしっかりと映り込んでいる。
「続きはどうした」
「濱本が、……」
「俺が」
不敵に笑みをこぼす彼の顔で我に返った。
「——は、濱本が食べないからさっ。ポッキー、食べすぎちゃったじゃん」
咄嗟に掴んだ逆さの空箱を上下に振ってみせ、自分でもまさかの逆切れで言い紛らす。
「ほらな! もうないんだぞっ。今度は、おれと一緒に食べろよなっ!」
派手に椅子を引き鳴らし、濱本に背中を向けてどかりと斜めに座った。
おれ、なんでドキドキしてるんだよ。
絶対に、濱本のペースに呑まれないからな!
+++(午後03時48分 @鴎薦学院高等学校 2年1組教室)+++
「質問が、あるんだけど」
放課後の教室で、部活に行く前の遥輝を引き留めた。
「はい槇原くん。この一之瀬センセイに、なあんでも訊きなさあーい」
濱本がいないのを、今一度確認してから切り出した。
「たとえば、なんだけどさ」
「おう。なんだ?」
「Aさんがふと気づくと視線の先にBさんがいる、とか。最近Bさんとよく目が合う気がするなあ、とか。それって、どうしてだと思う?」
「なんだよ岬、それが知りたいことか」
「うん、そう」
「そんなのは単純なことじゃん」
言いながら、遥輝は机の上にドカッと鞄を置いた。
「Aさんが、Bさんを見続けてるからだろ」
「……え。そうなる?」
「それしかないだろうよぉお」
遥輝は机の中をあさり、教科書やノートやらを取り出しては適当に鞄へと詰めていく。
「Aさんが視線を送ってるってことは、ズバリ! Aさんが、Bさんを、気にしてるってことだな。ラブの意味で」
「ウソ」
遥輝は手を止め、間抜けな声を発したおれを見る。
「どうした?」
「いや……おれはてっきり、その逆、だと、思ってたから」
「ふーん」
担任から配布された紙類を最後に突っ込み、遥輝は鞄のファスナーをジリリと閉めた。
「ちなみにそのAさんってのは、男か」
「うん」
「じゃあなおさらだな。俺らって正直な生き物じゃん。わかるだろ」
「そうだけど。だから?」
「はぁ……」
なぜかため息をつき、遥輝は呆れ声で言った。
「岬、おまえさぁ。何年男やってんだよ?」
おれはちょっと宙を仰いだ。
「十六年と六カ月」
「バーカ。本気で答えんな」
「ぃたッ」
ピチンと軽くデコピンされて、唇を尖らせた。
遥輝は言葉を続ける。
「岬は草食系なんだから実感あるだろお」
「なんのことだよ?」
と訊き返しつつ、おれは自分の額を指の腹でこする。
「奥手だから、無意識に視線で呼びかけるんだろ」
「知らないよそんなの」
不貞腐れたように口先だけを動かした。
「だからさ。俺らは基本的に、興味のあるものとか欲しいものに見入っちゃうんだよ」
「おれは、そんなのしたことないもん」
「恥ずかしがるな、男の特性なんだからよ。——あ」
「なに」
「なんか面白くね?」
遥輝は広げた両手指を上下に、自分の顔の前でピロピロ動かしだす。
「『こっちを見てほしいビーム放出~ッ』とかってさ」
「エスパーかよ」
おれは冷ややかにツッコんだ。
「似たようなもんだろ。視線を頻繁に相手に向けてるほうはさ、『自分を見てほしい』『声をかけてほしい』って念じてるんだからよ」
「…………」
おれが?
おれは濱本に、見てほしいのか。『ラブの意味』で——。
「絶対にありえない」
「なんか言ったか?」
声に出していたことにハッとして、おれは頭を小刻みに振った。
「ぃや別にっ、なにも、ないよ」
遥輝の話を聴いたら『視線の謎』がより深まった、以外は。
胸のモヤモヤが増して、たちまちおれは考え込む。
「大丈夫か岬」
「……え、おれ?」
「そうだよ」
「あー……。うん。平気」
「おまえ最近、そんなんばっかだな」
おれの顔を覗き込む仕草をするから、遥輝に悟られないようめいっぱい明るく言った。
「ぜんっぜんダイジョブ! 特に問題なんて、ないよ」
「そうか?」
「うん! 質問は以上、ありがとな遥輝」
「じゃあ俺、部活行ってくるわ」
「おお、じゃあな」
小脇に鞄を抱えた遥輝は、教室から出ていった。
おれは自分の席に戻りながら、独りきりの教室で悶々とする。
「……いやでもさ、それってやっぱり違くないか?」
もう一度、順序立てて考えてみよう。
「Aさんが気づくとBさんがいて、Bさんと目が合う。つまり」
Aさんにおれ。Bさんに濱本を代入。すると……。
おれが気づくと濱本がいて、濱本と目が合う。——よしよし、これはオッケーだ。
「問題は、遥輝説の証明だな」
『Aさんが、Bさんを気にしてる』ってことだから、同じように置き換えて……。
おれが、気にし……あれ?
おれが、濱本を?
——いやだから、そうじゃないだろ。AとBが逆じゃね?
えーっと……。
……ん?
「あぁぁあもう、なんでだよっ」
椅子を引いてボスンと勢いよく座り込んだ。
視線を感じてるのは、おれのほうだし! その先にいるのが、濱本だってば!
「だからそれって逆じゃないのかよおっ!?」
あーっ、もーっ!
おれは両手で頭を抱え、無造作にわーっと髪を掻き混ぜた。
「どうしたの。槇原」
「——へ」
顔を上げると、りっきーがおれを見下ろしていた。
「結構ヤバいね」
「……ああっと、そう?」
「うん」
思いっ切り頷かれた。
……確かにおれ、なにしてるんだろ。
「もしかして、糖分摂りすぎなんじゃないのかい」
「ははは……。そうかもしれない」
絶対違うから。
主題はそんなんじゃないから。
「りっきーは、忘れもの?」
鞄を下げている姿を見るとそれしか思いつかない。だけど当の本人は、首を横に振ってモジモジしだす。
「濱本君からの伝言があるんだ」
「それでわざわざ、教室に戻ってきたのか?」
「うん。ありがとう槇原」
りっきーは、かわいらしく「えへっ」と笑った。
「なんでだよ?」
どちらかといえば、おれのほうが、お礼を言うべきじゃないのかい。
「だって槇原のお蔭で、濱本君から僕に、話しかけてくれたんだ」
りっきーが頬をほんのり赤く染めるから、おれの頭の中に不思議ん坊がいっぱい咲いた。
「やっと濱本君と話せて、すごくいい気分なんだ」
「そか。よかったな」
ほーらみろ。おれが言ったとおりじゃん。濱本と話したいと思ってるやつ、実際にいるんだかんな。
りっきーも元気そうだし。よかったよかった。
「それで、濱本、なんて言ってた?」
「『下駄箱で待っている』だってさ」
「わかった。ありがとな、りっきー」
おれは早速、帰り支度をはじめた。
「————」
「…………」
「————」
……で、りっきー。どうして教室にまだいるのかな。
身近にそびえる巨体は、どうにも圧迫感が半端ない。抜からぬ顔のりっきーに声をかけた。
「他に、なにか用あるの?」
「槇原は、濱本君と仲いいよね」
りっきーが舌ったらずにぼそりとこぼす。これがなぜか、言葉に独特の重みがあって妙な迫力だ。
「普通、だよ」
「普通くないでしょ!」
りっきーはピシリと鋭く発した。
「いつも、ふたりだけで、会話しているじゃないか」
「きっとそれは……席が、隣だからだよ」
「それだけじゃないだろ」
ただならぬ詰め寄りを受けて、自分の首の後ろに手を当てた。
「……そんなことはないよ?」
「理由は、それだけじゃないんだろ」
なんでおれ、威圧感かまされてるんだ。
そもそも、話の脈絡はどこにある?
「濱本君と仲いいんだろ」
「えと、だから……」
「仲いいじゃないか」
りっきーが言うくらいだ。よっぽど目立ってるんだろうな、おれと濱本。
重厚な視線に耐えながら、苦笑い交じりに切り出した。
「ほら、おれさ、榊原から頼まれたじゃん? 濱本が編入してきた日の、朝のショート・ホーム・ルームで」
「僕知ってるよ。勉強教わっているんだろ」
「え——、あ?」
「濱本君が、そう言っていたよ」
今のおれの弁解は無視? りっきー、自由だなぁ……。
「だから放課後、一緒にいるんだってね」
「あぁ……と。実は、うん。そうなんだ」
りっきー、濱本にもなにか言ったんだろ。
他と雑談しない濱本が、そんな口実を自ら言うはずないもんな。
「槇原はラッキーだよね」
「なんで、おれが?」
「だって、濱本君だよ!」
りっきーは声を張って滑舌よく力説しはじめた。
「学校一俊才でイケメンの、あの! 濱本茅捺君だよ!」
「ぉ、おぉ……」
「その濱本君から、槇原は直々に! 勉強を、教えてもらっているんだろっ」
濱本が設定したであろう内容に沿うよう、おれは言葉を返す。
「まあ……、そういうことになる、の、かな?」
「槇原は、あのクールな眼差しと艶やかな低音が心地イイ声を、独り占めしているんだぞ!」
りっきーは鞄の肩紐をグイと握り締めた。
「それってすごいよっ、羨ましすぎるだろ!」
「そう……なんだ?」
「濱本君は、尊いんだぞ!」
あまりにもりっきーが熱く語るから、おれはつと視線を横へ流した。
……もしかしておれ、優越感ならぬ罪悪感、もたなきゃいけないのか?
それよりもだな。
激興奮している人間に対して、おれは、どう接したらいいんだよ……。
「じゃ。伝えたからね」
「——え?」
視線を外してちょっと考えている間に、りっきーは、すでにおれから数歩も遠ざかっていた。意外とあっさりしてるのな。
「槇原」
廊下に出かけたりっきーが、教室後方の出入り口からおれを振り返って呼んだ。
「な、に?」
「虫歯にならないように気をつけてね」
「……うん。そうする」
去り際の一言。まさかりっきーに、そう忠告されるとはな……。
おれは、ハイスペックな主が去った左隣の席を、少し恨めしく見やった。
「…………」
もう考えるのはやめにしよう。濱本の戯れに脳ミソ使うのは、思考の迷子になるだけだ。
おれは教室を出て一階に向かった。りっきーが伝えてくれたとおり、下駄箱前には濱本が立っている。
「待たせたか?」
「今来たところだ」
黒のローファーに履き替えながら訊いてみた。
「濱本式勉強法って、どんなの?」
「さらなる学びに目覚めたのか?」
「いや……。りっきーに、ごまかしてくれただろ。ありがとな」
「秘守義務を遂行したまでだ」
濱本は、通学電車で痴漢被害に遭っていたおれを助けてくれた。
————『あの詳細は、俺と槇原の秘密な』
そうおれに告げ、あの出来事を、今も他言せずにいてくれている。その上、今度は、男性から痴漢被害に遭って執拗に追いかけられたと相談すると、変質者との遭遇に備えておれの用心棒を買って出てくれた。——おれが、警察に相談するのだけは避けたい、と言ったから。
被害をなかったことにせず、おれの声に耳を傾けてくれた濱本は、それ以来こうしておれと一緒にいてくれる。
実際のところ、濱本はすごく頼りになっている。藁にも縋りたかったおれは、誰かが助けてくれるのを強く望んでいたし、濱本がそばにいてくれることで、ちゃんと安心できているのだから。
「昼休みのこととかもさ。いろいろありがと。濱本がいてくれて、よかった」
つい先月、特進コースに編入してきた濱本は、ずば抜けた頭脳と貴公子然とした風采から、早々に校内一の有名人となった。学校のみんなは、濱本がおれの隣にいるのを目撃するたびに「羨ましい」と言ってくる。でもそれは、濱本の善意からはじまったにすぎない。おれは、自分の弱さを見せられる濱本に、感謝の気持ちでいっぱいだ。
おれは靴に踵を押し込め、脱いだ内履きを下駄箱にしまった。
「でもさ。マジでおれ、濱本から数学教えてもらいたいかも」
濱本と肩を並べて、静かな通路を歩き出す。
「だっておれ、数学苦手じゃん」
「そうか。それなら」
と、至極自然に、濱本がおれの腰に腕を回してきた。
「静かな場所に案内する」
「なんで?」
「俺がいいんだろ」
「そうだけど?」
おれが答えると、濱本は微笑しながらおれの腰をクイと引き寄せた。
「今から行こう」
「行くって、どこに?」
「ふたりきりになれる場所」
「え」
——な、なにを言ってるんだ、濱本は。
意味合い、違っていませんかっ。
そうして濱本は、困惑するおれの耳元に囁いた。
「教えてやるよ。イロイロな」
魅惑の低音ボイス。
エロく聴こえるのはおれだけか!?
心臓が跳ねるように動き出し、顔がカッと熱くなる。
「えーとそれは……今日は、……遠慮しておくよ。うん」
濱本の腕をさりげなく押し返しながらも、濱本の言葉が頭の中をぐるぐる巡り、声が揺れてしまう。
「明日ならいいのか」
「……いやぁそういうことじゃ、なくて。さ?」
濱本がおれの顔を覗き込み、またしても耳の奥まで響く声で言った。
「槇原、顔赤いぞ」
「えっ、そ、そんなことないし!」
困った。
どう言ったら通じるんだろ——。
「くッ!」
突然、濱本が吹いた。
「ぇなに!?」
「鵜呑みにするわりには、警戒心が強いんだな」
笑いを噛み殺しながら言われた。
「へ……?」
「冗談だよ。その感覚、大事にしろ」
濱本の手が伸びてきて、おれの髪をくしゃっと掻いた。
おれは立ち止まり、がくりとうなだれる。
「濱本が言うと冗談に、聞こえないんだよ」
「期待したのか。プライベート・レッスン」
「するわけないだろっ」
気恥ずかしい勢いで、少し前を歩く濱本をスタスタ追い抜く。
「おれだって! ガッツリ気合い入れてノートまとめすれば、イイ点取れるんだかんな」
「それは、結果が楽しみだ」
「あ、その言い方っ。本気にしてないだろっ!?」歩みを進めながら、顔だけ濱本のほうに向けて声を上げる。
だけど、ふと視線が濱本の姿に引き寄せられてしまう。
「本番は来週だ。それまで頑張れ、槇原岬」
薄ら笑いを浮かべながら、濱本はおれの後ろに続く。
おれだけに見せるやわらかな表情に、胸の奥がキュッと高鳴り、ドキドキが加速する。
こんなふうにからかわれるのには、きっとおれは慣れそうにない。
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