「やっば、5分前!」
トイレに10分もかかってしまうなんて。
早めに行っておいてよかったが、時計に表示された数字が貴樹を焦らせる。
「SNS告知よし、カメラよし、マイクもよし、ジジもちゃんとおれの動きに合わせて動いてる……あ、そうだ。配信前に連絡しとかなきゃなんだっけ」
バーチャルライバー部には、〈部チャット〉と呼ばれる部員用のチャットが用意されている。リスナーには見えないチャットだ。
配信前はそこに配信連絡を入れる決まりがあったのに、すっかり忘れていた。
「20時から配信始めます、よろしくお願いします……と」
口に出しながら、チャットを入力する。
すぐに既読マークがついたが、誰が見たかはわからない仕様だった。
「セイガ部長は急遽リアタイできなくなったらしいけど、フォローは別の人に任せてあるって言ってたし……頑張らないと」
ここまで色々教えてくれたセイガがいないのは不安だが、これからは1人で頑張らないといけない。
部長にずっと甘えられないのもわかっている。
「1分前……!」
ペットボトルの水を一口飲んで、発声を整える。
震える指で配信開始ボタンを押した。
〈始まった!〉
〈来た! デビューおめでと!〉
〈初配信おめでとうございます!〉
貴樹が話し始めるより先に、チャット欄にお祝いのコメントが流れ始めた。
自分を歓迎してくれるたくさんのコメントを見るだけで、込み上げてくるものがある。泣きそうになるのを堪えつつ、画面上にジジを表示させる。
――今からおれは貴樹じゃなくて、多々楽ジジ!!
「初めまして。バーチャルライバー部所属、多々楽ジジです。皆さん、こんばんはー」
聞き取りやすいようにはっきりと、力んで大きな声になりすぎないように――セイガに貰った助言だ。
それを思い出しながら、第一声を振り絞る。
〈ジジくん、イケメンだ!〉
〈ビジュめちゃ好み。声はどんな感じなのかな〉
〈早く声聞かせて!〉
――あれ、チャット欄ってタイムラグがあるんだっけ?
挨拶したのに、それに対するコメントが流れてこない。代わりに流れてくるのは「早く声が聞きたい」という期待のコメントばかりだ。
それが嬉しくないわけではないが、喋ったのに〈声が聞きたい〉という反応はおかしい気がする。
「こんばんは。あの、おれの声聞こえてますか?」
もう一度、リスナーに向かって話しかけてみる。
しかし、やはり貴樹の問いかけに反応するコメントは一つも流れてこなかった。
「……もしかして聞こえてない!? え、どうしよ」
焦りで、セイガに教えてもらったことは全部頭から吹き飛んでいた。
練習で音声トラブルになったことは一度もないのに、まさか初配信でこんなことになるなんて。
〈もしかして、マイクミュートになってる?〉
〈口パクパク動いてるけど、音入ってないよー〉
リスナーも気づき始めたようだ。
でも不具合を知らせてもらっても、解決法がわからない。セイガにはきちんと教えてもらったはずなのに、何も思い出せなかった。
「どうしよ……おれ、こんな」
配信を一度止めるべきだろうか。
でも、こんなに人が集まってくれているのに……そんなことをしていいのか判断がつかない。
放送事故という言葉が頭をよぎる。
〈落ち着いて!〉
〈待ってるから大丈夫だよー〉
〈先輩、誰か見てないのかな? 助けてあげて〉
【ごめん、来るの遅れちゃった。なんかあった?】
チャット欄に現れたのはコルだった。
貴樹もすぐに気づいたが、先にリスナーが反応する。
〈コルくん! ジジくん、音声トラブルみたい〉
〈コルせんぱーい! 助けたげて!〉
【報告ありがと! すぐ助けるから、みんなよかったら直るまで待っててあげて】
〈待ってる!〉
〈先輩頼もしい!〉
貴樹がチャット欄に打つより先に、リスナーが状況を伝えてくれた。
すぐに部チャットからメッセージが届く。
相手はもちろん、コルだ。
【ジジ、こっちの音声チャット『オン』にして】
送られてきたのは、その一文だけだった。
貴樹は言われたとおり、チャットの音声をオンにする。
『聞こえる?』
「っ!」
いきなり聞こえた声に、貴樹はびくりと身を竦める。
――コル先輩、だよね?
配信のコメント欄に現れたのも、部チャットから連絡をくれたのもコルだ。
今繋がっているのは間違いなくコルのはずなのに、ヘッドホンから聞こえてくる声は、コルのものとはかけ離れていた。
『聞こえてない?』
「あ! 聞こえます!」
『こっちも聞こえた。ってことは配線系のトラブルじゃなさそうだな』
――やっぱり、別人の声に聞こえる。
配信で聞くコルの声は少し高めの活発な声だ。
でも、今ヘッドホンから聞こえてくるのは、低めに掠れたダウナー系の声だった。
「あ、の」
『どうかした?』
「コル先輩ですよね?」
『そうだけど……そういえば、まだ名乗ってなかったか』
話し方も違う。
でも、通話の相手はコルで間違いないらしい。
『部長にお前のこと頼まれてたのに、遅くなって悪かった。リスナーも待ってるし、早めに直したいから配信設定画面の数値を上から読み上げてってもらっていい?』
「あ、はい!」
――セイガ部長が頼んで相手って、コル先輩だったんだ。
コルに言われたとおり、配信設定の数値を読み上げていく。
時々聞こえてくる相槌にも、やっぱり貴樹のよく知るコルの声の面影はない。
――こっちが素なんだとしたら、キャラをあそこまで完璧にロールプレイしてるってこと? すごすぎるんだけど。
ここまでキャラを演じ分けるなんて、自分には到底真似できそうにない。
『――ああ、そこだ。その数値』
「っ」
『そこがゼロになってるせいで配信に音が乗らないんだよ。弄ってから喋ってみ? んで、配信に乗ってるのが確認できたら、改めてみんなに自己紹介な』
「わ、わかりました!!」
それにしても、素のコルの声は心臓に悪い。
音の低さも、吐息が混ざったような掠れ方も、ぎゅっと胸を掴まれるような魅力のある声だ。
――っと、そんなこと考えてる場合じゃなくて。
小さく咳払いをしてから、指摘された箇所の数値を弄る。
「こんばんは。おれの声聞こえてますか?」
待ってくれていたリスナーに向かって話しかけた。
〈聞こえる!〉
〈聞こえてるよー〉
〈ジジくん爽やか系だ! イメージ通りの声!〉
「あ、聞こえてますか? よかったー。じゃあ改めて自己紹介させてください。バーチャルライバー部所属、多々楽ジジです。よろしくお願いします!」
〈わー!初々しい!デビューおめでとう!〉
〈888888〉
〈えー、爽やか系じゃん。好き〉
〈コルくんに助けてもらったの?〉
「あ、そうです。コル先輩に助けてもらって直りました。よかったー」
『なあ、ジジ』
「ひゃっ! わ、あ、はい! なんですか?」
『俺の声も配信に乗っけて。できる?』
「できます! ちょっと、待ってください!」
部チャットの音声は配信に乗せることができる。
その方法はちゃんとセイガから習っていた。先輩と一緒に配信するときに必要になるスキルだからだ。
――こんなに早く使うとは思ってなかったけど。
〈お? もしかしてコルくんか?〉
〈初配信でいきなりコラボきちゃう?〉
「乗せました!」
『こんコル! ジジくん、デビューおめでとー!! めでたーい!』
――え、うわ。いつものコル先輩だ。
配信に乗ったコルの声は、さっきまでのダウナーボイスとは全然違う、配信で聞いたことのあるコルの声だった。
本当に同一人物だったらしい。
――鳥肌なんだけど。
まるで魔法を見ているようだ。
「ありがとうございます! コル先輩」
『先輩とか呼ばれんのくすぐったいよー。呼び捨てでいいって!』
「いやいやいや、そこは先輩って呼ばせてください!」
『もう、しょうがないなー』
〈二人のやり取りかわいい〉
〈元気と爽やかの掛け合いたすかる〉
『ちゃんと助けてあげられてよかったよ。んじゃ、あんまり邪魔しちゃっても悪いし、俺はリスナー側に戻るねー』
「本当にありがとうございました!」
『今度はゲームでコラボやろ。みんな、ジジくんの配信盛り上げてあげてね! おつコル!』
いつもの挨拶で締めて、コルはあっさりと配信を抜けていった。
トイレに10分もかかってしまうなんて。
早めに行っておいてよかったが、時計に表示された数字が貴樹を焦らせる。
「SNS告知よし、カメラよし、マイクもよし、ジジもちゃんとおれの動きに合わせて動いてる……あ、そうだ。配信前に連絡しとかなきゃなんだっけ」
バーチャルライバー部には、〈部チャット〉と呼ばれる部員用のチャットが用意されている。リスナーには見えないチャットだ。
配信前はそこに配信連絡を入れる決まりがあったのに、すっかり忘れていた。
「20時から配信始めます、よろしくお願いします……と」
口に出しながら、チャットを入力する。
すぐに既読マークがついたが、誰が見たかはわからない仕様だった。
「セイガ部長は急遽リアタイできなくなったらしいけど、フォローは別の人に任せてあるって言ってたし……頑張らないと」
ここまで色々教えてくれたセイガがいないのは不安だが、これからは1人で頑張らないといけない。
部長にずっと甘えられないのもわかっている。
「1分前……!」
ペットボトルの水を一口飲んで、発声を整える。
震える指で配信開始ボタンを押した。
〈始まった!〉
〈来た! デビューおめでと!〉
〈初配信おめでとうございます!〉
貴樹が話し始めるより先に、チャット欄にお祝いのコメントが流れ始めた。
自分を歓迎してくれるたくさんのコメントを見るだけで、込み上げてくるものがある。泣きそうになるのを堪えつつ、画面上にジジを表示させる。
――今からおれは貴樹じゃなくて、多々楽ジジ!!
「初めまして。バーチャルライバー部所属、多々楽ジジです。皆さん、こんばんはー」
聞き取りやすいようにはっきりと、力んで大きな声になりすぎないように――セイガに貰った助言だ。
それを思い出しながら、第一声を振り絞る。
〈ジジくん、イケメンだ!〉
〈ビジュめちゃ好み。声はどんな感じなのかな〉
〈早く声聞かせて!〉
――あれ、チャット欄ってタイムラグがあるんだっけ?
挨拶したのに、それに対するコメントが流れてこない。代わりに流れてくるのは「早く声が聞きたい」という期待のコメントばかりだ。
それが嬉しくないわけではないが、喋ったのに〈声が聞きたい〉という反応はおかしい気がする。
「こんばんは。あの、おれの声聞こえてますか?」
もう一度、リスナーに向かって話しかけてみる。
しかし、やはり貴樹の問いかけに反応するコメントは一つも流れてこなかった。
「……もしかして聞こえてない!? え、どうしよ」
焦りで、セイガに教えてもらったことは全部頭から吹き飛んでいた。
練習で音声トラブルになったことは一度もないのに、まさか初配信でこんなことになるなんて。
〈もしかして、マイクミュートになってる?〉
〈口パクパク動いてるけど、音入ってないよー〉
リスナーも気づき始めたようだ。
でも不具合を知らせてもらっても、解決法がわからない。セイガにはきちんと教えてもらったはずなのに、何も思い出せなかった。
「どうしよ……おれ、こんな」
配信を一度止めるべきだろうか。
でも、こんなに人が集まってくれているのに……そんなことをしていいのか判断がつかない。
放送事故という言葉が頭をよぎる。
〈落ち着いて!〉
〈待ってるから大丈夫だよー〉
〈先輩、誰か見てないのかな? 助けてあげて〉
【ごめん、来るの遅れちゃった。なんかあった?】
チャット欄に現れたのはコルだった。
貴樹もすぐに気づいたが、先にリスナーが反応する。
〈コルくん! ジジくん、音声トラブルみたい〉
〈コルせんぱーい! 助けたげて!〉
【報告ありがと! すぐ助けるから、みんなよかったら直るまで待っててあげて】
〈待ってる!〉
〈先輩頼もしい!〉
貴樹がチャット欄に打つより先に、リスナーが状況を伝えてくれた。
すぐに部チャットからメッセージが届く。
相手はもちろん、コルだ。
【ジジ、こっちの音声チャット『オン』にして】
送られてきたのは、その一文だけだった。
貴樹は言われたとおり、チャットの音声をオンにする。
『聞こえる?』
「っ!」
いきなり聞こえた声に、貴樹はびくりと身を竦める。
――コル先輩、だよね?
配信のコメント欄に現れたのも、部チャットから連絡をくれたのもコルだ。
今繋がっているのは間違いなくコルのはずなのに、ヘッドホンから聞こえてくる声は、コルのものとはかけ離れていた。
『聞こえてない?』
「あ! 聞こえます!」
『こっちも聞こえた。ってことは配線系のトラブルじゃなさそうだな』
――やっぱり、別人の声に聞こえる。
配信で聞くコルの声は少し高めの活発な声だ。
でも、今ヘッドホンから聞こえてくるのは、低めに掠れたダウナー系の声だった。
「あ、の」
『どうかした?』
「コル先輩ですよね?」
『そうだけど……そういえば、まだ名乗ってなかったか』
話し方も違う。
でも、通話の相手はコルで間違いないらしい。
『部長にお前のこと頼まれてたのに、遅くなって悪かった。リスナーも待ってるし、早めに直したいから配信設定画面の数値を上から読み上げてってもらっていい?』
「あ、はい!」
――セイガ部長が頼んで相手って、コル先輩だったんだ。
コルに言われたとおり、配信設定の数値を読み上げていく。
時々聞こえてくる相槌にも、やっぱり貴樹のよく知るコルの声の面影はない。
――こっちが素なんだとしたら、キャラをあそこまで完璧にロールプレイしてるってこと? すごすぎるんだけど。
ここまでキャラを演じ分けるなんて、自分には到底真似できそうにない。
『――ああ、そこだ。その数値』
「っ」
『そこがゼロになってるせいで配信に音が乗らないんだよ。弄ってから喋ってみ? んで、配信に乗ってるのが確認できたら、改めてみんなに自己紹介な』
「わ、わかりました!!」
それにしても、素のコルの声は心臓に悪い。
音の低さも、吐息が混ざったような掠れ方も、ぎゅっと胸を掴まれるような魅力のある声だ。
――っと、そんなこと考えてる場合じゃなくて。
小さく咳払いをしてから、指摘された箇所の数値を弄る。
「こんばんは。おれの声聞こえてますか?」
待ってくれていたリスナーに向かって話しかけた。
〈聞こえる!〉
〈聞こえてるよー〉
〈ジジくん爽やか系だ! イメージ通りの声!〉
「あ、聞こえてますか? よかったー。じゃあ改めて自己紹介させてください。バーチャルライバー部所属、多々楽ジジです。よろしくお願いします!」
〈わー!初々しい!デビューおめでとう!〉
〈888888〉
〈えー、爽やか系じゃん。好き〉
〈コルくんに助けてもらったの?〉
「あ、そうです。コル先輩に助けてもらって直りました。よかったー」
『なあ、ジジ』
「ひゃっ! わ、あ、はい! なんですか?」
『俺の声も配信に乗っけて。できる?』
「できます! ちょっと、待ってください!」
部チャットの音声は配信に乗せることができる。
その方法はちゃんとセイガから習っていた。先輩と一緒に配信するときに必要になるスキルだからだ。
――こんなに早く使うとは思ってなかったけど。
〈お? もしかしてコルくんか?〉
〈初配信でいきなりコラボきちゃう?〉
「乗せました!」
『こんコル! ジジくん、デビューおめでとー!! めでたーい!』
――え、うわ。いつものコル先輩だ。
配信に乗ったコルの声は、さっきまでのダウナーボイスとは全然違う、配信で聞いたことのあるコルの声だった。
本当に同一人物だったらしい。
――鳥肌なんだけど。
まるで魔法を見ているようだ。
「ありがとうございます! コル先輩」
『先輩とか呼ばれんのくすぐったいよー。呼び捨てでいいって!』
「いやいやいや、そこは先輩って呼ばせてください!」
『もう、しょうがないなー』
〈二人のやり取りかわいい〉
〈元気と爽やかの掛け合いたすかる〉
『ちゃんと助けてあげられてよかったよ。んじゃ、あんまり邪魔しちゃっても悪いし、俺はリスナー側に戻るねー』
「本当にありがとうございました!」
『今度はゲームでコラボやろ。みんな、ジジくんの配信盛り上げてあげてね! おつコル!』
いつもの挨拶で締めて、コルはあっさりと配信を抜けていった。