数週間後の休日の早朝。
人のいないアルフェラッツ寮の廊下で不審な動きをする人物がいた。貴樹だ。
自分の部屋がある2階より、上のフロアに来たのは初めてだった。食堂や風呂、談話室といった主要施設は1階に集まっているので、そもそも上に来る必要がない。
そんな貴樹が朝早く4階の廊下にいるのは、またしても呼び出されたからだ。白瀬に。
「……この部屋だ」
約束の時間より10分早いが、この部屋の主なら起きているだろう。
貴樹は躊躇わずにインターホンを押す。
返事より先に鍵が開く音が聞こえた。
「入って」
部屋の主、白瀬が顔を出す。
誰かに見られる前に、貴樹は扉の隙間から急いで身体を滑り込ませた。
「ビビりすぎ」
「……白瀬と一緒のとこ、あんまり見られたくないし」
同じクラスで席も隣。
親しくしていてもおかしいと思う人はいないだろうが、万が一ということもある。
「逆に怪しいって」
白瀬は笑っていた。
いつもより表情がわかりやすいと思ったら、前髪をピンで止めて顔が見えるようにしている。
――なんか可愛い。それに、やっぱりめっちゃ綺麗な顔。
美人は3日で飽きるというが、本当だろうか。
「白瀬ってなんで顔隠してんの? 目立つから?」
「だな。隠してるほうが楽」
それでも背は高いし目立つとは思うが、この美形が晒されているよりは幾分かマシなのだろう。
でも、やはりもったいない気がする。
「顔出し配信者にならなかった理由も同じ?」
これだけ整った容姿なら顔出しのほうが人気が出そうなのに、バーチャルライバーになったのも同じ理由だろうか。
「いや、そっちは別――って何。お前、面接でも始めるつもり?」
「そういうわけじゃないけど……気になるじゃん」
「バーチャルライバーになったのは、コルになるのが楽しそうだと思ったからだよ」
そんな答えが返ってくるとは思わなかった。
――意外だけど……意外じゃないな。
白瀬だけを知っている人なら意外だと思うかもしれない。でも〈夜重コル〉を知っている人なら意外とは思わないだろう。
コルは活動に誠実だ。
天真爛漫で少しお馬鹿なキャラだけど、いつだってリスナーのことを考えていて、好きになった分だけ……いや、それ以上にたくさんの気持ちを返してくれる。
本当に尊敬できるライバーなのだ。
――そんなコル先輩なら、こう思ってても意外じゃない。
改めて、白瀬はコルなんだと思い知らされる。
「さてと、本題入るか」
部屋の奥へと通された。
白瀬の部屋は貴樹と全く同じ間取りだった。広さも変わらない。
だが、一つ違う点があった。
「あれ? 端末は?」
防音ブースの鍵を開ける端末が見当たらない。
元々わかりにくいようになっているので近づいて探してみたが、やはり見つからなかった。
「こっち。お前の端末はそこについてんの?」
「え、端末の位置って人によって違うの?」
「部員を部屋に呼んでも、バレないようにだろうな」
「あ、そっか」
言われてみればその通りだ。
白瀬のベッドのヘッドボードにある端末に、専用のタブレットをかざす。クローゼットの中からカチャリと鍵の開く音がした。
「白瀬はこれから録るんだよね?」
「ああ。だからお前に来てもらったんだろ」
今日、貴樹は白瀬の収録に付き合わされるために呼び出された。歌のレッスンの後、その流れでコラボの歌動画を作ることになったからだ。
誘ってきたのは、今回も白瀬からだった。
貴樹はすでに録り終えている。貴樹の音源を聞いてから歌いたいと白瀬が要望してきたからだ。
「気に入らないとこは指示して」
「え、おれが指示するの?」
「思ったこと言ってくれたらいい」
そう言って、デスク前に座らされた。
白瀬は防音ブースに入っていった。
中の様子は見えないが、ヘッドホンからブース内の音が聞こえてくる。発声練習を先に済ませてあったのか、収録はすぐに始まった。
――ちょっと待って……やば、これ。
第一声から震えが止まらくなった。
曲を決めたのは白瀬だ。選んできたのは、前に貴樹が大浴場で口ずさんだ曲だった。
大好きな曲を推しの歌声で聴ける。
それだけでも贅沢なことだ。
その上、今回はリアルタイムに歌ってる声を自分だけが聴いている――感動に震えないわけがない。
――あ、ここのファルセット、おれの歌い方に合わせてる気がする。ここもだ……すごい。完全におれの歌い方に寄せてある。
それなのに、コルの個性は死んでない。
歌唱の実力もさることながら、白瀬は歌い方を使い分ける器用さに優れていた。
やっぱり歌が苦手なんて嘘だと思う。
『で、どうだった?』
気づけば一曲終わっていた。
放心状態の貴樹は、マイク越しの白瀬の問いかけにすぐに反応できない。
痺れを切らした白瀬が防音ブースから顔を覗かせ、こちらを見て目を見開いた。
「何、お前泣いてんの?」
「だって……こんなの、無理だって」
貴樹の顔は涙でべしょべしょだった。
「うー……声がずるい。歌い方もえぐすぎるよ……何あのサビ前のエッジボイス、エロすぎだって」
「お前の歌い方に合わせたら、そうなったんだけど?」
「そんな器用なこと、普通はできないから! おれも、こういうのが聴きたかったけど!! なんなんだよ! もう!!」
「お前さぁ、泣くか怒るかどっちかにしろ」
「じゃあ、泣く」
「泣くのかよ」
興奮と感動で涙がぼろぼろあふれて止まらなった。
呆れたように眉を下げた白瀬が、身体を屈めて顔を覗き込んでくる。
距離が近い。
白瀬の吐息が頬にかかる。
涙とは別の濡れた何かが目元に触れて、貴樹はびくりと肩を揺らした。
人のいないアルフェラッツ寮の廊下で不審な動きをする人物がいた。貴樹だ。
自分の部屋がある2階より、上のフロアに来たのは初めてだった。食堂や風呂、談話室といった主要施設は1階に集まっているので、そもそも上に来る必要がない。
そんな貴樹が朝早く4階の廊下にいるのは、またしても呼び出されたからだ。白瀬に。
「……この部屋だ」
約束の時間より10分早いが、この部屋の主なら起きているだろう。
貴樹は躊躇わずにインターホンを押す。
返事より先に鍵が開く音が聞こえた。
「入って」
部屋の主、白瀬が顔を出す。
誰かに見られる前に、貴樹は扉の隙間から急いで身体を滑り込ませた。
「ビビりすぎ」
「……白瀬と一緒のとこ、あんまり見られたくないし」
同じクラスで席も隣。
親しくしていてもおかしいと思う人はいないだろうが、万が一ということもある。
「逆に怪しいって」
白瀬は笑っていた。
いつもより表情がわかりやすいと思ったら、前髪をピンで止めて顔が見えるようにしている。
――なんか可愛い。それに、やっぱりめっちゃ綺麗な顔。
美人は3日で飽きるというが、本当だろうか。
「白瀬ってなんで顔隠してんの? 目立つから?」
「だな。隠してるほうが楽」
それでも背は高いし目立つとは思うが、この美形が晒されているよりは幾分かマシなのだろう。
でも、やはりもったいない気がする。
「顔出し配信者にならなかった理由も同じ?」
これだけ整った容姿なら顔出しのほうが人気が出そうなのに、バーチャルライバーになったのも同じ理由だろうか。
「いや、そっちは別――って何。お前、面接でも始めるつもり?」
「そういうわけじゃないけど……気になるじゃん」
「バーチャルライバーになったのは、コルになるのが楽しそうだと思ったからだよ」
そんな答えが返ってくるとは思わなかった。
――意外だけど……意外じゃないな。
白瀬だけを知っている人なら意外だと思うかもしれない。でも〈夜重コル〉を知っている人なら意外とは思わないだろう。
コルは活動に誠実だ。
天真爛漫で少しお馬鹿なキャラだけど、いつだってリスナーのことを考えていて、好きになった分だけ……いや、それ以上にたくさんの気持ちを返してくれる。
本当に尊敬できるライバーなのだ。
――そんなコル先輩なら、こう思ってても意外じゃない。
改めて、白瀬はコルなんだと思い知らされる。
「さてと、本題入るか」
部屋の奥へと通された。
白瀬の部屋は貴樹と全く同じ間取りだった。広さも変わらない。
だが、一つ違う点があった。
「あれ? 端末は?」
防音ブースの鍵を開ける端末が見当たらない。
元々わかりにくいようになっているので近づいて探してみたが、やはり見つからなかった。
「こっち。お前の端末はそこについてんの?」
「え、端末の位置って人によって違うの?」
「部員を部屋に呼んでも、バレないようにだろうな」
「あ、そっか」
言われてみればその通りだ。
白瀬のベッドのヘッドボードにある端末に、専用のタブレットをかざす。クローゼットの中からカチャリと鍵の開く音がした。
「白瀬はこれから録るんだよね?」
「ああ。だからお前に来てもらったんだろ」
今日、貴樹は白瀬の収録に付き合わされるために呼び出された。歌のレッスンの後、その流れでコラボの歌動画を作ることになったからだ。
誘ってきたのは、今回も白瀬からだった。
貴樹はすでに録り終えている。貴樹の音源を聞いてから歌いたいと白瀬が要望してきたからだ。
「気に入らないとこは指示して」
「え、おれが指示するの?」
「思ったこと言ってくれたらいい」
そう言って、デスク前に座らされた。
白瀬は防音ブースに入っていった。
中の様子は見えないが、ヘッドホンからブース内の音が聞こえてくる。発声練習を先に済ませてあったのか、収録はすぐに始まった。
――ちょっと待って……やば、これ。
第一声から震えが止まらくなった。
曲を決めたのは白瀬だ。選んできたのは、前に貴樹が大浴場で口ずさんだ曲だった。
大好きな曲を推しの歌声で聴ける。
それだけでも贅沢なことだ。
その上、今回はリアルタイムに歌ってる声を自分だけが聴いている――感動に震えないわけがない。
――あ、ここのファルセット、おれの歌い方に合わせてる気がする。ここもだ……すごい。完全におれの歌い方に寄せてある。
それなのに、コルの個性は死んでない。
歌唱の実力もさることながら、白瀬は歌い方を使い分ける器用さに優れていた。
やっぱり歌が苦手なんて嘘だと思う。
『で、どうだった?』
気づけば一曲終わっていた。
放心状態の貴樹は、マイク越しの白瀬の問いかけにすぐに反応できない。
痺れを切らした白瀬が防音ブースから顔を覗かせ、こちらを見て目を見開いた。
「何、お前泣いてんの?」
「だって……こんなの、無理だって」
貴樹の顔は涙でべしょべしょだった。
「うー……声がずるい。歌い方もえぐすぎるよ……何あのサビ前のエッジボイス、エロすぎだって」
「お前の歌い方に合わせたら、そうなったんだけど?」
「そんな器用なこと、普通はできないから! おれも、こういうのが聴きたかったけど!! なんなんだよ! もう!!」
「お前さぁ、泣くか怒るかどっちかにしろ」
「じゃあ、泣く」
「泣くのかよ」
興奮と感動で涙がぼろぼろあふれて止まらなった。
呆れたように眉を下げた白瀬が、身体を屈めて顔を覗き込んでくる。
距離が近い。
白瀬の吐息が頬にかかる。
涙とは別の濡れた何かが目元に触れて、貴樹はびくりと肩を揺らした。