『じゃあ誰なら関係あんだよ!!』

 部活のミーティングを途中で飛び出した太陽の声が、廊下まで響いていた。聞きたくなくても、聞こえてしまった。

 太陽と青葉には、自分には到底想像もつかない、深い繋がりがある。サッカーで繋がってるとあいつは思っているようだけれど、たぶんそうじゃない。青葉の言う『心友』は牽制であり、自己暗示だ。

 それを太陽に言ってあげられない。お前が踏み出せば変わる関係だよと、教えてやれない。傷つく太陽の隣にいることしかできないと思っていた頃から、随分と薄汚れてみじめったらしくなってしまったこの気持ちを、どうしたらいいのか。

 放課後、冴木と歩く帰り道で小雨が降り出していた。

「やべ、傘ねえ!」
「まあもう駅着くし、いいっしょ」
「真野は駅近だからいいけどよぉ、俺今日チャリじゃねえのよ」

 鞄に入っている折り畳み傘を、ぺしょっとした顔の冴木に貸してやろうかと思ったときだ。文化祭の日、ロッカーの奥のほうへ追いやられていた、太陽の紺色の折り畳み傘を思い出した。

 ………いらねえよな、だって小雨だ。別にただ家へ帰るだけだ、びしょ濡れになったってそう問題はない。多少寒くて風邪をひくリスクはあるが、そんな大した……

「……わり、俺忘れ物した」
「は!?」
「先帰っといて」

 曲がりなりにも常に一緒にいるクラスメイトでチームメイトを、幾分強くなってきた雨足のなか置き去りにし、真野は来た道を駆け戻っていた。太陽がいれば二番手になってしまうが、これでも足は速いほうだ。すぐに追いつくだろうと思っていた。

 リュックの中で、ばっこんばっこん縦横無尽に揺れるこの傘は、太陽にだけ差してやりたい。ただでさえ今日は病んでいそうだ。一人で帰すんじゃなかったと、真野は土砂降りになってきた雨空の下を全速力で走っていた。

 しかし、太陽に傘を差してやるのは、やっぱり自分ではなかったらしい。

 ビニール傘の下で二人、肩を寄せ合っている背中を見つけた。

『じゃあ誰なら関係あんだよ!!』

 昼休みの太陽の声が、脳内でリピートされている。まったくその通りだ。太陽と青葉は深い絆で結ばれている。ぽっと出の自分なんかが、その間に割りこめるはずがなかったのだ。

「……わかってただろ、最初から」

 真野には、土砂降りの雨が心地よかった。誰も自分を見ていないし、ぐしゃぐしゃの心に雨は染みわたる。全部洗い流してまっさらにしてほしいと、真野は雨空に願っていた。



 あの雨の日から、太陽を見るのが怖くなった。あからさまに青葉の顔に光が戻り、なぜか太陽は自分のところへ毎日昼を誘いにくるのだ。不気味でしょうがなかった。「付き合うことになったんだ」と、成り行きで相談を受けていたような立場の自分に報告しようとしているようにしか思えなかった。

 サッカーだってそうだ。もう青葉はいないっていうのに、あいつの癖は一向に直らない。胸の奥底に大切にしまっておかれている『青葉とのサッカー』を見せつけられているようで腹立たしく、そう頭に血が上ると同時、お前は何様だと、どんどん心がすり減った。

 太陽も青葉も眼中にもなかっただろうからすっかり忘れているが、真野はしっかり覚えていた。ジュニアユース時代の二人のことを。圧倒的に一人だけレベルの違った青葉と、そいつがいなければお前だっただろうな、という太陽。特に太陽はその容姿があまりにかわいらしく、当時から二人は有名人だった。

 青葉は自分に自信があって、生粋のストライカーそのものだが、太陽は違った。あいつは青葉に献身的すぎる。打てる場面でも絶対に青葉に上げてしまうのは、チームの方針だったのかもしれないが、真野はそれに中学時代から腹が立ってしかたなかった。同い年とは思えないクロスの精度だ。あのキック力のある左足を持って、なぜミドルを打とうと考えないのか謎だった。使わないならその左足を自分にくれとさえ思っていた。

「わかってるから、頭では……身体がついてこなくて」

 しょぼくれた声で、ナイフみたいな言葉を投げかけてくる。本能で青葉を求めてるってことかと、つい口調が強くなってしまった。

「じゃあやれよ」

 持て余したこの恋心は、いったいどこへやればいいのだろう。いつか太陽に問いかけたが、真野だってその答えを持ってるわけじゃなかった。力任せにこの気持ちをぶつけて、相手はどうなる。押し付けがましい、重すぎると、離れていくのがオチだ。

「だから、こっち向け!」

 しかし太陽は、残酷だ。ぶつけたくないから、これ以上困らせたくないから、離れたいのに。この男はどうもそれを許してくれないらしい。終業式の日がなんの日か知っているのかと疑って見つめれば、言うのだ。

「クリスマス!一緒にいたいって言ってんの!!」

 赤らめた頬に手を伸ばしたら、どうせ跳ね除けるくせに。ひっくり返ったその背中に抱きついたら、きめえと暴言を吐くんだろう? なのになんで、まだ隣にいるんだ。

 なにも返ってこないとわかってて、好きになった。青葉を見つめる横顔を好きになったようなもんだ。初めから結末のわかってた恋だ。

 真野はただ、太陽に幸せになって欲しいと願っていたはずだ。あまりに健気で痛々しい太陽を、放っておけなかった。あと一歩で掴める背中に手を伸ばせない臆病なところが、たまらなく愛しかった。

 それがいつの間にか、自分なら大切にしてやるのに、という頼まれてもいない傲慢な想いに変わり、いまやどうだ。強引にでも自分のものにしたいという、欲望まみれのヘドロみたいな気持ちになってしまった。

 太陽が好きだ。どうしようもなく好きだ。この気持ちをどっかにやりたい。でもやりたくもない。その矛盾が、どんどんと心をすり減らしていく。このまま好きだという気持ちさえすり減ってくれたらいいのにと、終業式の前夜、真野はベッドの中で丸まっていた。


 クリスマスの日の太陽は、おそろしくかわいかった。というかもう、フィルターかもしれない。でもかわいかった。

 ちらちらこっちを覗う目つきも、るんるんという効果音が付きそうな横顔も、スーパーでいらんものカゴに入れようとする子どもみたいなところも。そもそもクリスマスに浮かれているその様子が、かわいかった。

「真野は無駄がないよな」

 んなことはないぞ、と太陽を注意深く見つめた。

 こいつは自分を見誤っている。無駄だらけだ。どうしたらいい、どのタイミングで、いつもそう頭で考えるのに、結局その通り上手くはやれない。サッカーでも恋愛でもそうだ。無駄だらけじゃないか。

 それに、そう冷静沈着な男では到底ない。今だって隙だらけの首筋を、いやらしく見つめている。太陽の匂いでいっぱいの太陽の家にお邪魔したときの高揚感だって、きっとわかってない。その方がこちらの都合はいいが、やや危なっかしく真野の目には映っていた。

 しかし、こうされてしまうと、さすがの真野も期待してしまっていた。ケーキを作ってくれたというだけでも感動だというのに、パスタまで作ってくれていたらしい。クリスマスに家に招待してもらって、手料理を振る舞ってくれる。自分ならただの友達にそこまではしない。せいぜい宅配ピザを取るとか、もうあとはゲームするとかだ。イルミネーションを見ようなどとは、到底思わない。

 喉元まで出かかっていた、好きの二文字。それをまた言ったら、きっと太陽を困らせる。もう二度も同じ失敗をしたのだ。三度目はないだろう。しつこい、失せろと言い捨てる太陽は、安易に想像できる。

 まじまじと見つめてしまうその長いまつ毛。すうっと綺麗な鼻筋。ちっちゃな鼻尖と唇。ぽわんと柔らかそうな頬。ビー玉みたいな瞳に吸い込まれそうだ。けれど、熱を込めたらいけない。獣だと思われては、きっと不利だ。追い返される。真野は素数でも数えようとしていた。

「好きだ」

 …………ん?

 脈絡のないその三文字を幻聴かと疑ったのは、自分が傷つかないためだった。けれど目の前の太陽は、そんな顔していない。まっすぐ真野を見つめ、柔らかそうな頬がピンク色に染まっているじゃないか。

「真野が好きだよ」

 ――追い打ち……。聞きたいことは山ほどあった。そもそも、なにがどうなってそうなった。青葉はどうした。なんで今、口の端っこにミートソースが付いていそうなタイミングで言うんだ。とかだ。

 けれどもう、気づいたときには手が伸びていた。

 やっと、やっと、触れていいのか。

 手を伸ばしていいのか。

 無防備で柔らかな唇が、これが現実なのだと教えてくれる。

 真っ赤な顔で、唇を湿らせて、あの男はなんて言ったか。未来永劫忘れないだろう。

「息って………どうやってすんの……」

 そのあと太陽に言われたのだ。食べられそうだと。まったくそうだ。本気で食べてしまいたい。かわいくって大切すぎて、誰にも見せたくなくなる。けれど同時に、世界中に言いふらしたいとも思う。こんな矛盾した恋心を抱いたのは、初めてだ。


 太陽が告白してくれて、真野は有頂天だった。天にも昇る気持ちだった。

 しかし数日が経てば恐ろしいものだ。年末年始でたった数日顔を合せなかっただけなのに、やけに不安が募っていた。

 クリスマスの夜、太陽はあんなにも全身全霊で好意を伝えてくれたというのにだ。電話口で太陽が『サッカー』という単語を口にするたび、脳裏にちらつくのだ。あの爽やかなチャラ男が。

 もうわかっている。それこそ頭では理解している。それにそもそもだ。「青葉を好きなまんまでいい」と、そのままでいいから自分のところへ来てくれとせがんだのは、紛れもなく真野である。

 太陽の心の真ん中か、もしくは奥深くにあの男の存在があったとしても、真野に文句を言う権利など一切ないはずだ。それでいいと言ったのは、自分なのだから。

 それなのに、たまらないのだ。

 ボールを蹴るたびに、太陽の頭には心には、きっと青葉が映る。ああいやだ。ミジンコ以下の自分の心がいやだと、真野は引退試合の前日、一睡もできなかった。

 そして八つ当たりだ。だいたいサッカーにおいて、太陽との相性は最悪だ。感覚で動く天才肌の太陽と、頭で考えなきゃ動けないマニュアル人間の真野では、守備ならまだしも秒を争う攻撃において、阿吽の呼吸とはいかないのだ。

「青葉!?」

 そんな中、最悪のシナリオが整う。あのチャラ男が、高みの見物にやってきたのだ。……と言っては、やや心が痛む。だがそう汚い心で接してしまうほどには、真野は青葉を妬んでいる。

 そんな意地悪い男だ。ミジンコ以下だ。なのにだ。

 太陽は自分がいいと、言ってくれるらしい。信じられない気持ちだ。

 願ってできるプレーじゃなかった。あのミドルは太陽が紛れもなくそっち側だからできたことだ。そういうことを、きっとこの男は理解していない。

 大勢の前で飛びついて、ふわふわの髪の毛で首元をくすぐる悪戯の責任をどう取らせようか。

「俺の特別は、絶対、真野だから!!」

 きらきらの目で笑うな。ここで抱き潰したくなるだろうが。そんな下心にまみれた男だぞ、本当にいいのか。

「……お前、かっこよすぎ」

 バチンと力強く合わせた手のひらが、じんっと痛んで、泣きそうだった。



「真野、ありがとな」

 太陽が先輩たちとの写真撮影に呼ばれている間、青葉になぜかそう礼を言われた。何に対して、なぜお前が、誰に向かって? という好戦的な言葉は全部飲み込んだ。さっきの太陽の眩しい笑顔のおかげだ。

「なにが」

 コート脇の長椅子に腰を下ろした青葉は、真野を手招きする。渋々それに従ってやると、青葉は長い脚を前に伸ばしきって、青い空を仰いでいた。

「俺じゃ無理だったから」
「……わかりやすく言えよ」
「全部だよ、わかんだろ」

 わかるか、と強く言い返せなかった。なんとなくわかってしまうのが、嫌だった。そんな寂しげな顔で笑うんじゃねえと、真野は青葉の長い脚に蹴りを入れる。

「いてえ!スパイクで蹴んな!」
「ばかじゃねえの、お前に礼言われる筋合いない」
「……あっそー!」

 青葉は天才だ。誰もがそう言うだろう。その天才の隣でサッカーをしてきた太陽が、自分で点を取りたいだなんて、きっと言えなかったと思う。真野もそうだった。太陽たちのチームと対戦した日以来、サッカー選手になるという夢を諦めた一人だ。

 それでも隣に立ち続けたいという負けん気が、きっとこの天才を救っていたのだろう。だからこの二人は異様なのだ。お互いがお互いを離せない、窮屈そうな関係。

「……太陽に怒られっかもしれないけど、俺たち、付き合ってるから」

 だっせえ、みみっちいプライドだ。嫉妬だ。

 窮屈そうに一つの傘の中で肩を寄せ合っていた、あの背中を思い出してしまった。

 けれど太陽は、自分がいいと言ってくれるのだ。だったらもう、それを信じるしかないんだ。いくら嫉妬をこねくり回したって、なにが生まれるっていうんだ。

「えわかってんだけど。太陽見ればそれくらいわかるし」
「は?」
「太陽はずっとお前が好きだったよ」
「……まじでむかつく、三発蹴る」
「おまっ!ばか、せめてスパイク脱げ!天才の右足になにすんだ!!」
「自分で言うな天才」

 ずっと好かれてたのはてめえだ、とは、やっぱり言ってやらない。