十一月に入ってから、青葉が一度も部活にこない。
「今日も休みかよ」
「あいつまじでエリちゃんに影響受けすぎな」
冴木が吐き捨てるように言ったそれがすべてだった。楠田エリと付き合いだした十月を境に、徐々に部活を休む回数が増え、とうとう十一月の二週目を迎えても、まだ青葉は一度も部活に顔をだしていない。
「朝倉~清水先生が着替え終わったら来いってさ」
「ああ……うん、わかった。ありがと」
顧問の清水に呼び出された理由も、おそらくそれだろう。曲がりなりにも一年のキャプテンを任されている太陽、それに加えて幼稚園から一緒の幼馴染の『心友』となれば、青葉と話をしなければならないのは、間違いなく自分だ。それは太陽も勿論わかっていた。
「で、どうなってんの一ノ瀬は……」
「ちょっと話せてないです、すみません」
「まあ朝倉は特進だもんな、俺もクラスの担任に様子は聞いてみるんだけど、」
「はい、自分も青葉に連絡取ってみます」
「うん、すまんな。よろしく頼むよ」
「はい」
グラウンドの片隅でそう立ち話をされ、遅れてアップに参加した。ラダーにやけに足が引っかかるし、とりかごの鬼がいつまでも自分だったりして、情けないため息を漏らす。
こんなこと、今までなかった。
天才とはいえ、青葉は並々ならぬ努力家だ。だから誰も追いつけないのだ。それでなにより、サッカーが好きなはず。誰よりもゴールに貪欲でボールに忠実な青葉が、一か月近くもまともにボールに触れないなんて、ありえない。サボりというより、知らないところでみっともない怪我でもしたってほうが、よっぽど納得できる。
「青葉と話すの?」
左サイドでクロスボールのサーバーに入っていた真野が、ボールをセットしながらそう聞いてきた。
「まあな……話さなきゃだよなぁ」
へいっという勢いのある声に合わせて、真野がグラウンダーを蹴る。真野のそれは鋭く的確に送られ、パスを要求していた選手は見事ゴールを決めた。その姿に右手でグーサインを送る真野の横顔が、ちょっと眩しい。
冴木だって、他の部員だってそうだ。普段はああもふざけてくだらない、女子と下ネタにばっかり興じている大男たちも、サッカーになれば真剣だ。でなければわざわざ練習が少なくはない、それなりの強豪サッカー部に入部などしないし、周りが彼女だバイトだと輝かしい青春を謳歌するなか、たかがボール蹴りに精を出したりしない。
親に言われてボールを蹴ってる奴が混じってたあの頃とは違うのだ。あいつもこいつも、みんなサッカーが好きだからここに居る。
じゃあ青葉はどうしたっていうのだ。その問いを頭に浮かべては、一つの答えに辿りついてしまい、そっと問いをデリートする。そんなことを、ここのところずっと繰り返していた。
「大丈夫か~お前で」
真野はハイネックのアンダーシャツの首元をくいっと引っ張り、鼻尖の汗を拭っていた。
「だって俺しかいねーじゃん」
「太陽は青葉に甘いからな~」
「っわかってるよ、そんなの!」
太陽も自分のアンダーシャツの首元を引っ張り上げ、かいてもいない汗を拭うフリをした。青葉に甘いって? わかってる、そんなのとっくに自覚してる。仮にあいつがサッカーをやめたいと言ったとして、自分はいったいなんと言葉を返すのか。その答えさえ、もうすでに頭に浮かんでしまってきついのだ。
気がつけば練習は終わっていて、真緑が眩しかったはずのグラウンドには、オレンジ色の夕日が差していた。
「おーい太陽、そろそろあがれって~」
部室へと続く出入り口のところから、すでに着替えを終えた冴木がそう声を掛けてくれた。どうやら自分は練習後もずっと、ここでなにやらボールを蹴っていたらしい。そんなことを無意識にやってしまうほどに、自分にとってサッカーは逃げ道の一つだ。
チームメイトに陰口を言われようと、女みたいだと好奇の目で見られていようと、幼馴染が自分から離れていこうとしている悲しみだって、すべてこのボール一つが解決してくれる。誤魔化してくれる。
ぽんっと高く蹴り上げたボールを、そのままボレーでゴールへ打ち込む。
「ハイ、ナイッシュ~」
振り向かずともわかる。真野の声だ。
「太陽、一緒にかえろーぜ」
なんでだよ、いやだよ、と返せなかった。だから苦手だ、あの男。
いっつもいっつも、そういうタイミングでやってくる。
初めて会ったときからそうだった。
「……お前もう着替えてんじゃん」
「待ってるし」
「なんで……」
「まあ……左サイドのよしみっしょ」
なんじゃそりゃ、と思わず笑みがこぼれて、ぎくっとする。
「ほら、早くしろよ」
遠く離れた場所からでも届く、よく通る声。それに急かされて、太陽はようやく最後の一つのボールを片付けた。
真野と二人肩を並べて帰るのは、きっと初めてのことだ。そもそも家の方向が違うし、使ってる駅の路線さえ違う。そんなやつと一緒に帰る、とはどうやるのかと思えば、真野が太陽の使っている駅のほうまで歩いてくれたのだ。
「いいのに別に」
「え?そしたら校門前でバイバイじゃん」
「まあ、それはそうだけど」
さっきコンビニで買った肉まんの封を開けた。今季初の肉まんだ。ほかほかのそれに舌鼓をうっていると、隣から鈍い声が聞こえる。
「え大丈夫?」
「あっちくねえの?」
「あっちく……ねえけど……」
堪えきれない笑いを、無理矢理我慢していた。あっちく、って。
一口かじった場所から漏れ出る湯気を、ふーふーと冷ます仕草が、またそれに追い打ちをかけてくる。
「ああ?なににやついてんだよ」
「お前、猫舌なの?」
「………別に」
「あはっ、おまっ……なんなのまじで……!」
別に猫舌だっていいだろ、そんなふて腐れた顔すんな。かわいいやつめ。という意味の笑いだったのだが、どうも真野にはそれが馬鹿にされているように聞こえたらしい。
「調子のんなおちび」
「だっ!お前、やめろ!」
「え~?」
長い腕に強引に肩を抱き寄せられ、よろけた太陽をしっかりと真野が受け止める。こんなのまるで女子にするみたいで、腹が立って仕方ない。その腹いせに、腕の中でバクバクと肉まんを頬張り、うまいうまいと繰り返してやった。猫舌らしい真野は、まだ当分ありつけないだろうからな。
「腹立つ」
「ふはっ」
「……やっといつもの太陽じゃん」
赤信号に足を止めたとき、真野の切れ長な目がそう太陽を見据える。もうすっかり辺りは真っ暗で、その表情まではよく見えなかった。けれどたしかに、薄い唇の口角が、わずかに引き上げられていたのは見逃さなかった。
「なにそれ、心配してくれてんの」
「まあそれはそうでしょ」
「らしくねー」
「俺はいっつもお前の心配してんだけど?」
「いてっ」
額を軽く弾かれ、信号が青に変わる。真野は怯んだ太陽よりも一足先に、横断歩道を渡り始めていた。
「なあ真野」
「ん~」
振り向かない背中に、食べ終わった肉まんの包み紙をくしゃりと握る。
「ありがと」
その全部がこの男の優しさなのだとわかってしまうのが、嫌だった。一辺倒にむかつく奴だと思わせてくれないのが、嫌だった。それがまたむかついて、嫌だった。
「ハイハイ、どういたしまして」
初めて会ったときからずっと、この男はこうだ。
だから苦手だ。自分はこの男に、いつだって貰うばっかりで居心地が悪い。
真野と帰った翌日の放課後。学校では一週間後に控える文化祭準備のために、顧問の判断で休める部活は休み期間に入っていた。サッカー部も夏の予選で敗退したので、しばらく大きな大会はなく、文化祭準備に専念しろとのことだ。
「青葉いる?」
普段は好き好んで訪れない、普通科のクラスへ足を運んでいた。勿論、青葉と話をするため。何度連絡しても会う約束をしてくれなかったので、準備時間に押しかけたというわけだ。
ちょうど教室前の廊下にいた冴木に声を掛けると、渋々教室の奥から青葉が出てきた。
「……あー……やっほ?」
「やっほじゃねえよ、ちょっと来い」
「ええ今準備してるし……」
「俺だってそうだよ」
「また今度にしない?」
「今度っていつ」
「えー……」
歯切れの悪い返事は、やっぱり青葉にも自覚があるのだろう。さっき冴木と話していた姿からして、部活をサボったことへの罪悪感というわけではなさそうだ。となれば、きっとこいつも同じことを考えている。
「青葉、ちゃんと話そう」
ちらりと教室の中を見やると、すぐにあの大男は見つかった。女子に囲まれて、太陽には見せたこともないような凛とした笑顔に、思わず吹き出すかと思った。
「だって話したって……」
「いーから」
あと一押しというところで、最悪の邪魔が入った。
「あれぇ、もしかして太陽くんだ?」
いつの間にか太陽の背後に立っていた、華奢なフォルムの女子。
「エリ!」
青葉が呼び捨てに呼んだ彼女の名前に、胸が締め付けられる。付き合いだした頃は『エリちゃん』だったくせに。もう呼び捨てか。
「うっわまじで綺麗な顔~……まつげ長っ」
「……」
「エリ、それ太陽には禁句だから!」
「えなんで~?だって見てよ、エリのこのまつ毛、お金払って植えてんだよ?」
片目を閉じて顔を寄せた楠田エリのまつ毛は、たしかに異様に長く艶があった。けれど自分よりもずっと小さく華奢で真っ白でふわふわだ。まつ毛一つとったところで、結局選ばれるのは彼女だ。
「エリ、もういいからあっち行っといて!」
「だってやっと会えたんだもん、太陽くん!いっつも青葉がさぁ……」
「わー!もう言わなくていいから!」
「なんでよ~いっつも言ってんじゃん、心友なんだって」
いま、どんな顔を作っていられてるだろうか。どんな顔で青葉の前に立っているのだろうか。太陽自身もよくわかっていなかった。ただひたすら脳内でリピートされる『心友』という言葉。青葉の声じゃなく、青葉の特別な女の声で再生されるその言葉は、回路を破壊するのに十分すぎた。
「太陽、清水んとこ行った?」
「………へ」
「なんだよ行ってねえんじゃん、ほら行くぞ」
青葉の声も楠田エリの声も、したかもしれないし、しなかったかもしれない。もうよくわかっていなかった。ただ一つ紛れもなくわかることは、今自分の手を引き、呼ばれてもいない顧問を探すフリをしてくれているのが、真野という男だということだけだ。
手を引かれ連れてこられたのは、昼休み以外は立ち入り禁止の屋上へ続く階段。その階段の一番上に腰を下ろした真野が、太陽の手首を解放した。
太陽はただすうっと息を吸い、はあっと吐き、またすうっと吸った。それを繰り返すのが精いっぱいだった。
真野にもう一度手を引かれ、隣に座らされる。真野の右手の人差し指に巻かれた絆創膏を、じっと見つめていた。その一点だけを見つめて、なにも考えたくなかった。
するとだ。だんだんとその人差し指が、奇妙な動きをし出す。ミミズのようにうねうね動いてみたり、ぴんっと弾く仕草を見せてみたり、しまいには太陽の膝に登ってきた。
「なんだよ、もう……」
「いやだって、あんま見られるとはずいじゃん」
「しらねーよ……」
なんだこの男。なんなんだよ、いっつもいっつも。向けられるあまりに柔らかな優しさに、どうしたらいいかわからなかった。なにをどう返したらいいのか、わからなかった。
「泣いたらバレっから泣くなよ」
「はあ?泣かねえよ」
膝に登ってきた真野の人差し指が、手の甲から腕、肩を辿って、鎖骨まで登ってきていた。
「くすぐって!」
思わず、そう身をよじったときだ。
「好きだよ」
唐突に抱き寄せられた耳元に、低く甘やかな声が響く。
あのときとは違う。自分の感情をただただぶつけられた、あの冬の記憶とは到底違う、優しい声だ。油断したらすぐに消えてしまいそうな、刹那の声だった。
「………え……はあ……?」
真野は友達というより、チームメイトだ。青葉みたいに二人でどっか出掛けたりしないし、飯食ったり、家を行き来したりするような仲じゃない。ただ同じ高校のサッカー部で、しいていえば左サイドバックとサイドハーフの連携があるくらい。チームメイトの中でも際立って仲が悪いし、先輩たちにも『左の相性は最悪だな!』と笑われたりしている。
だから、なんだろうか。
「ごめん、まだ言うつもりなかったのに」
あまりにおそろしくて、真野の身体から顔を離せなかった。
………いや『まだ』ってなんだよ……!?
南沢学園の文化祭は、近隣の高校に比べこじんまりとしている。去年見学へ来たときからそう思っていたが、今年もそう変わる様子はなかった。
多くの普通科クラスは演劇やダンスなどのステージ系の出し物を好み、反対に特進クラスでは模擬店が人気である。例に漏れず太陽のクラスも『メイド喫茶』を勝ち取ったのだった。
「朝倉くん超かわいい~!隣立てないよ!」
「朝倉、朝倉!写真撮ろうぜ!」
「え、いいなぁ!SNSあげてもいい!?」
「ぜってーやだよ………!」
声にならない声を振り絞って抵抗した。だっておかしいのだ。太陽以外の男のホール係りはみな執事服を纏っているというのに、なぜ自分の分だけ女子と同じメイド服なんだ。
「おいこれ、どういうことだよ」
「え?いや女子の総意っていうか……」
「はあ!?」
クラスの実行委員の男子に詰め寄ったが、そうしたところで太陽の執事服が現れるわけではないのだ。もうしかたないので、渋々当番の時間が終わるまではこの格好で過ごし、波風立てずさらっと終わろうと思っていたところを、だ。
「やーっば!!まじで太陽メイド服じゃん!!」
どこからともなく現れるのだ。
「冴木!?お前なんで……!」
「いやだってめちゃめちゃ噂されてんだもん、太陽がメイドの格好してるって!」
めちゃめちゃ噂を流した犯人をここへ連れてこい、いますぐ蹴飛ばしてやる。ボールとなんら変わらない威力で蹴飛ばしてやるぞ。太陽は怒りと羞恥で震える足で、なんとか冴木たちを席へ案内した。
「ご注文は」
「太陽♡」
「しね」
「やばい、もうなんでも刺さっちゃう」
「きめえこと言ってんな、はよしろ」
冴木だけじゃない。もちろんそこにあの男もいた。
えらく薄汚れたドブネズミでも見るかのような目つきで、太陽を睨む男。
「キャラメルラテ、アイス」
つっけんどんな言い方で甘ったるい飲み物を注文した男は、つい先日、太陽に愛の告白をした男のはずだ。それこそ甘い声で耳元で囁かれたはずだ。
「ストローは……」
「いらない」
いやいやいや、その顔はなんだっていうんだ。太陽は大混乱していた。数日前のあの出来事のあと、昼休みも各々係りがあったりで屋上へ集うことはなかった。というわけで顔を突き合わせたのは、あの日以来なのだ。
しかし、ひょっとしてそのすべてが自分の見た幻だったのかと疑うほどに、いつもと変わらない。なんなら普段以上に塩だ。まず目つきがやばい。好きな人を見る目では到底ない。
「てか太陽、これ女装って認識されてる?」
「はあ?当たり前だろ、こんな足バキバキの女子いねーわ」
「いやでもまあ、これはこれで……」
「ばっ!触んなクズ!」
女子の太ももには手を伸ばす勇気もないくせに、女子っぽい男の内ももには平気で手を伸ばすのだ、この下衆めが。冴木のことをそう蔑んだ目で睨んでも、だめだ。もうあいつの変なスイッチは押されてしまっている。
「さっさと注文しろよ、頼まないなら出てけ邪魔」
「もう……その口の悪さもスパイスだわ」
「きめえ、さすがに冴木それはきもい」
他の部員たちにまでそう蔑まれたところで、ようやく口々に注文をしはじめた。
太陽はそれを注文用紙にメモし、裏方へと渡す。校舎の入口から近い教室が割り当てられたせいか、案外繁盛していて、裏方はてんやわんやの様子だ。
「俺、裏方入ろうか?」
「だめだめ!朝倉くんは絶対こっち!」
「いやでも人手あったほうが……」
「ううん、朝倉くん待ちのお客さんたくさんいるから!ほら行って!」
実行委員の女子に無理くり背中を押され、諦めて「すいませーん」と手を上げるテーブルを回った。回り続けた。実に半日以上……。
「ごめん朝倉くん、もうさすがに休憩行って!」
「ああ……あ、これ四番テーブルの……」
最後の注文用紙を手渡してすぐ、ウィッグとかわいらしすぎるフリルのエプロンをその場で剥ぎ取った。履いていた二―ハイソックスも脱ごうとしたが、さすがに窮屈だったのもあって、立ったまま脱ぐのは困難を極めたので諦めた。
「ぶはっ、なにその歩き方」
「!?な、なに、真野」
「いや俺も休憩~おつかれ」
「ああ……お疲れ」
控室となっている二階の教室へとがに股で歩く道すがら、背後から声を掛けてきたのは真野だった。黒のクラスTにはあれやこれやと数々の愛のメッセージやイラストが描き込まれている。ちなみに太陽のクラスTは、納品されたときから何ひとつも変わっていない。まっさらである。
「着替えんの?」
「そりゃあそうだろ」
「まじでな~なんでこんな格好しちゃうかね」
「は!?俺だってやりたくてやったんじゃねえよ!はめられたの!」
なんだってこうムキになっちゃうかなぁと、自分の口を塞ぎたかった。今までとは違うのだ、この男は自分のことを好きで、好きで………好きで、なんだ?
はたと気づいた。好きだと言われたものの、これといって返事を要求されるでもなく、しらっとあのまま解散になった。ということはつまり、伝えたかっただけ的なそういうやつなんだろうか。
「……これ下ジャージでも履いときゃよかったのに」
「だめって言われたんだよ。それになんかスパッツみたいなの一応履いてるし」
「見えそうって思わせる時点でだめでしょ」
こっちはお前の言った一言にやきもきしているっていうのに、なんだ。スカートの丈にうじうじ文句言って、んなことはどうでもいいんだ。それよりお前は、と頭に浮かべたところで、いやいやいやと思考のすべてをなぎ払った。
返事を要求されないなら、それはそれで好都合じゃないか。断る一択なのだ、それで気まずくなるくらいなら、今のまま、このままの真野と自分でいられるほうがいいに決まってる。
太陽はクラスに着くや否や、椅子に腰かけて、まとわりついてうざったかったニーハイソックスを一気に脱ぎ捨てた。
「あーすっきり」
そして次にスパッツのようなものを脱ぎ、制服のズボンを履こうとしていた。
「あ、わり、真野。俺のロッカーからズボン取ってくんね」
ちょうどクラスのロッカーの真ん前に立っていた真野に、そう声を掛ける。ロッカーには名字のテプラが貼ってあるのだから、クラスメイトじゃない真野にもわかるはずだ。
「……これ?」
「そう、サンキュー」
『朝倉』のロッカーからズボンを取ってくれた真野は、気が利く奴だ。別で置いていたベルトもクラスTシャツも一緒に持ってきてくれた。
「やばくない、俺のクラスTなぁんも……」
と、真野を見上げたときだ。
「ぶっ……!?」
すぐそこまで迫っていた真野の鼻の頭が、太陽の鼻の頭とくっついていた。は、と思うと同時、細く長い指が、太陽の唇をつまむ。あひるのような口に無理やりされていた。
「さすがにどうなのよ」
唇を閉じられていて話せる状況じゃないっていうのに、当の本人はそう質問を投げかけてくる。どうなのよってなんだ。離しやがれ。
「もしかして忘れてんのかな、好きって言ったこと」
真野の鋭い視線が痛い。ぐいぐいと胸を手で押しているが、びくともしないのがむかつく。
忘れるわけないだろう、こっちはさっきから……。
じいっと太陽を睨んでいた視線が、だんだんと熱を含んでいくのが、なぜかわかる。これが自分の願望が見せる幻覚だとしたら消えたい。けれどきっと違うのだ、真野は自分のことを好きだと言ってくれた。
ひっくり返ったって、今までと同じでなんかいられない。いられるわけがなかった。
「んん!」
「………やだ」
「んんん!!」
必死の抵抗にようやく指の力を弱めてくれて、太陽の唇に平穏が戻……りはしなかった。
「お前なあ!いてーだろ!」
ちりちりと痛む唇をどうしてくれるのだと拳を一発腹に入れたが、あまり効いてる様子はない。太陽は必死に息を整えていた。鼻呼吸が苦手なのだ、たぶん。じゃなきゃおかしい。
「太陽」
「なんだよ」
「好きって言ったのさ」
「あ……!?」
まだその話すんのか、と目を見開いて真野を見上げる。ああ困ったなと瞬間後悔した。
「好きって、そういう好きだよ」
んなことはわかってる。その気持ちは誰よりよく知っている。
太陽はぴりぴり痛む唇を誤魔化すように、ぎゅっと噛んだ。
「わかってるよ」
「ほんとにわかってんの?」
「わかる!わかったからお前ちょっと離れろ!」
「……こんな格好されたら、普通に心配するし」
「わかった!!」
「目の前で生着替えされるのも……」
「じゃあお前が出てけや!ここ俺のクラス!」
離れろと言えば近づくこの天邪鬼が、長い指で首筋をなぞる。もう、こういうスキンシップをやめろと端的に言えばいいんだろうか。一瞬ぞくっとした背筋をぴしっと伸ばして悔い改めた。
「近えんだよ……」
声に力が入らなかったのが、情けない。真野がその場にしゃがみこんで、目線が並んだ。
「ずるい、それ」
「はあ?お前が変なことするから……」
「変なことってなに、わかんない」
指が、今度は喉仏を撫でる。
……こいつ、調子乗りやがって……!!大体なんだ、さっきまでドブネズミを見るような目で睨んでいたくせに、どんなツンデレだっていうんだまったく。
「もうわかったから、着替えるから出てけよ!」
「まだもうちょっといいよ」
「いいよってお前に決める権利はねえ」
「俺にだけなら、まだ見せて」
くらっと眩暈がしたのは、働きすぎたせいだ。きっとアドレナリンが切れた。それか普通にエネルギー不足だ。腹が減っているんだ。
けっして、断じて、この男にやられたわけではない。
「い・や・だ・!」
「えーかわいいのに」
かわいいって言うな。大っ嫌いだ、その言葉。この世で一番嫌いだ。
「まじでうぜえ……」
大嫌いなんだよ、かわいいなんて言われるの。
紆余曲折ありながらも文化祭二日目。眠い目をこすって登校すると、駅の改札で偶然青葉と出くわした。
「青葉!!」
「げ、太陽……」
「げってなんだ、おい」
一度教室に押しかけた日以来、連絡もとらずにいた。昨日の文化祭でも見かけなかったが、クラスの女子いわく太陽のクラスにも顔は出していたらしい。ちょうど休憩に入っていた時間で、すれ違ってしまった。
そうだ休憩……あのときに……
「いやいやいや」
「え、なに、怖い」
とうとうにして口に出ていたらしく、戦慄した。相手が青葉でよかったと胸を撫で下ろす。青葉は最後に会った日よりも、髪の毛が短くなったような気がした。
「髪切ったの?」
「ああ、うん。文化祭だし気合い入れた」
「気合いって……お前気合い入れるとこそこじゃねえだろうが」
太陽の言葉を聞いて、やや気まずそうに視線を下げた青葉。わかっているのだろう、彼自身も。昔からこうだ。サッカーになればああも我が強いくせに、私生活はなにひとつ一人で決められないような人間なのだ。
「ちゃんと話そう、ゆっくり」
「……やだ」
「なんでだよ」
「だって話したら……」
その言葉の続きは、またお預けとなる。
「太陽~青葉~おは~」
今度は、後ろから飛びついた冴木のせいだ。とはいえ学校まで、あと横断歩道一つまで迫っていた。どのみち今日決着はつけられなかっただろう。
「青葉、振休は?」
「……予定ある」
「二日とも?」
こくりと頷く青葉に冴木が言った。
「エリちゃんと旅行行くんだもんな~」
ぐさりと刺さったナイフは、これは当分抜けそうにない。
青葉は一体、どうしたいのだろうか。太陽のなかに一つ答えはあったが、なんだか最近の青葉の様子を見ていると、それさえ間違っている気がしてきた。
まさか本当に遊びたくてユースを蹴ったわけではあるまい。そう思ってきたが、もはや自信を無くしている。青葉が、『遊びたい』を体現し始めているからだ。
この天才ストライカーは、もちろんユースに上がれた。昇格試験にも合格していた。
太陽のピークは中学二年生のときまでで、その頃選ばれた年代別の代表合宿の最中に膝に大怪我をして以来、成長は止まり、ついには昇格試験に落ちた。
南沢へ来たのはそういう理由だ。家からほど近く、全面人工芝のコートが新設された、それなりの強豪となれば、わかりやすく言えば都合がよかった。
しかし、まさかそこへ青葉がついてくるとは思わなかったのだ。
『なんでユース蹴ってんだよ!?』
青葉がユースへ上がらないと親伝手に聞かされたとき、すぐさま近所の公園へ呼び出した。青葉は今と同じように、気まずさをそのまんま顔に貼り付けて、夏の夜、公園に現れた。
『なんでって、高校では遊びたいなって思ったから』
『はあ!?なわけねえだろ、ほんとのこと言えよ』
ほんとのこと、に期待してしまっていた。その言葉が聞けたらもう、なんにもいらないとさえ思っていた。けれどそれは見当はずれで、とにかく青葉にはなにかしらの事情があったらしい。
受け入れる側の南沢の監督さえ、度肝を抜かれていた。それくらいに青葉は天才なのだ。誰がどう見てもサッカーをやるために生まれてきたような、才能に恵まれた男。それでいて本人もサッカーを愛し、努力を惜しまない。そりゃあ届くわけがなかった。泣かせるなんて夢のまた夢だ。
その男が今、サッカーから離れようとしている。幼馴染の太陽から離れようとしている。それが表裏一体だと考えるのはおこがましいことだ。しかし、だ。一年キャプテンの自分から逃げているのであっても、幼馴染の自分から逃げているのであっても、どちらの意だとしても、逃げるのは絶対に違う。
「ええ朝倉くん、だめ!」
「え……?」
「なんでサッカーのユニフォーム着てるの!?」
「……あっやべ、間違えた」
かわいらしいピンクと水色を基調に装飾されたメイド喫茶へ、てろてろのサッカーの練習着を纏ってきてしまった。それくらいには動揺していたらしい。しかもよりにもよって赤と緑のしましまときた。センスの欠片もねえ。
青葉のこととなるとこれだ。真野に毎回叱責されるのも当然だ。
身体に染みついた『サッカー』がいま、自分たちを苦しめている。ずっと『サッカー』があって二人並んでいられたはずなのに、どうしてこうなった。いくら頭を悩ませても、その答えは青葉しか持っていない。
太陽はできれば袖を通したくはないメイド服へと渋々着替えていた。そしてサッカーをするときに履く黒のインナースパッツも、今日はしらっと履いたままにしてしまおう。
太もものあたりで見え隠れする『11』の数字で、多少は真野に口うるさく言われなくても済むんじゃないだろうか。まあ、ついでだ。ついで。
そうして文化祭最終日。今日もメイド喫茶は大繁盛であった。やや客足が落ち着いてきた午後、実行委員は後夜祭の準備で持ち場を離れていた。太陽は休憩を取るはずだったが、急遽欠席になった当番の穴埋めで、今度は裏方へ入る。
本来ならば、大きな大きなため息をつきたいところだ。人の役に立てて嬉しいなどと思えるような、できた人間ではない。ただ今だけは、こうして他のことを考えている方が太陽にとってラクだった。次々にはじけ飛ぶトウモロコシの粒を眺めている方が、ずっとラクだった。
「朝倉くん、ありがとう!戻りました!」
実行委員の女子が戻ってきたとき、あーあと思った。これからの空き時間、どこでなにをして時間を潰そうか。いつもならこういうとき、青葉が隣にいた。けれどたぶんあいつは今頃、彼女と手でも繋いで仲良くやっているのだろう。それがなかったとしても、今の感じで呼び出すのは、やや気まずい。
太陽は一人、まっさらなクラスTに着替えてから体育館へと向かった。
ちょうど着いた頃は、ダンス部のステージの準備中。南沢のダンス部は近年全国でもいい成績を残しているらしく、かなり人気の演目だ。体育館は予想以上に人でごった返していた。
「あれ、今日はメイドじゃねーじゃん!」
元気のよい声に振り返ると、そこに立っていたのは、冴木だ。ただの冴木が、今の太陽には神様のように見えた。
「冴木っ!」
「お!?なに、どした?」
普段冴木には向けない顔をしていたのだろう。驚いた様子の冴木が、人波にもみくちゃにされていた太陽の腕を取り、端の方へと誘導してくれた。
「ありがと」
「いーよ、今日もかわいーな~」
「うぜ」
「なんだよ、さっきまでかわいかったくせに!」
落ち着いたところではっとしたが、果たして冴木は一人でここへ来ていたのだろうか。この圧倒的陽キャが、一人で体育館へ足を運ぶとは思えない。
「ごめん、友達とはぐれた?」
「あーまあどっかにいるっしょ」
「ごめんごめん!もう大丈夫だから」
「いい、いい。別にクラスのヤツだし」
冴木はそう言って、肩から掛けていたスマホで、おそらく友人に連絡を入れたようだった。
それから顔を上げた冴木は「ダンス部のマコちゃんって知ってる?めっちゃ巨乳なんだよ」と相変わらず下衆いことを言い放ち、太陽は後半部分には特に触れず「しらない」とだけ答えた。
「太陽はさ~彼女欲しくねーの?」
「え……うん、いまはいい」
「は、まじ!?正気!?」
神経を疑われるほど、おかしなことは言っていないはずだ。大体、放課後はほぼ部活だし休みの日だって部活だ。長期休みには合宿だってあるし、大会期間は正直自分以外の誰かに構う余裕なんてない。サッカーのことで頭がいっぱいだ。
「冴木は彼女欲しいんだ?」
「そりゃあ!」
「でもサッカーと両立すんのむずくない?」
「あーまあな。そこは理解ある子がいい」
「いんのか、そんな女子」
「だからさ、やっぱ同じ運動部がいいと思うんだよ」
つらつらと運動部女子の魅力を語り出す冴木。そのうちにステージには、派手で刺激の強い衣装を纏った女子たちが、姿を見せ始めていた。
「ね、いいと思わん?運動部女子」
「ああ……そうかもな」
「だろ!?やっぱなにかに一生懸命な子がいいよな~」
ドンっという重低音が鳴り出し、ステージが暗くなる。歓声が体育館に響いていた。
「はじまるな!!」
よく見えないがたぶん目を輝かせた冴木が、ケツを左右に振りアタックしてきていた。本当にお下劣な男である。
運動部女子を射止められるとは到底思えないが、結局こういうのが一番先に結婚したりするんだろうなぁ、とぼんやり思っていた。
なにかに一生懸命な子がいい、という冴木の一言が頭のなかを反芻する。たしかにそういう子に惹かれるのはわかる。けれどそれが故にだめになることだって、あるんじゃないか? おこがましくも一瞬青葉の姿を思い浮かべたりして、馬鹿野郎と一蹴した。