怒号混じりの声援、歓声、仲間たちの声。

 そのなかで一際大きく、一層特別な声。

太陽(たいよう)ーっ!!」

 広いピッチ上で、あいつの声だけが特別で、あいつの姿だけがきらきらだ。

 あいつのためだけに、左足に願いを込める。

 届け、決めろ――

 完璧な軌道で弧を描いたボールは、あいつの右足にぴたりと吸い付き、瞬間弾丸へと姿を変える。

 あの一瞬。自分の蹴ったボールが、青葉(あおば)の右足によってゴールネットを揺らすあの瞬間が、好きだ。

 甲高いホイッスルの音がピッチに響く。

「っっっっしゃああああ!!」

 空高く拳を突き上げた青葉が、ゴール前へ走り込んだその勢いのまま、こちらへ向かってきている。

 ああ、いやな予感だ。とまれ、とまれ、とまれ………

「ぐっ……わあ!!」

 その昔はなんなく受け止められた青葉のゴールパフォーマンスは、今やもう本気で怪我の心配をしてしまうほどの体格差になった。だというのに、この男は容赦ない。アドレナリンでなんにも考えていない。喜びを抑えきれない、といった様子で、がしりと飛びついてくるのだ。

 当然、太陽の身体は青葉の下敷きになる。上に乗っかった大男の滴る汗を顔面に浴びて、ごくりと生唾を飲んだ。そんな気持ち悪い下心を持った奴だと、この男は気づいていない。だからこうして押し倒したまま、頭をぐりぐりぐりぐり押し付けてくるのだろう。

「太陽~っ!まじ天才!!」
「ちょっ……天才はお前!どけ!!」
「やだ~」

 腰の疼きを振り払うと同時に、大男も振り落した。ふざけるな、こんなところで主張し始めたらどうしてくれるんだ、馬鹿野郎、という青葉にとっては理不尽でしかない言い分を、一発の拳に込める。青葉はそれを受けても相変わらずの笑みだ。だから敵いやしない。

「ほら、いくぞ」
「っし!」

 突き出された拳に、拳を合わせる。いつの間にか自分よりずっと大きくなったその拳を、本当は力任せに開かせたい。手のひらを合わせて指を絡めて、二度と離れないように固く結びたい。

 ご機嫌な背中は、小さく揺れる尻尾の幻覚を見せるほどだ。その背中を、愛おしく、恨めしく、見送る。そしてまた、あの男のためにボールを奪い、供給し、守り、走る。

 そう生きると決めたのは自分だ。ないほうが絶対にいいこの気持ちを、捨てられなかった。見ないフリできなかった。消せなかった。だからせめて、自分の腹の底、誰にも見つからないその場所にだけとっておかせてほしいと、青葉の天真爛漫さに甘えたのは自分だ。

 恨めしく、理不尽な言い分を抱くことさえ本来なら許されないことだ。邪な気持ちを隠し持って隣にいられることが、どれほど気味悪いことか。太陽はよく知っている。そのくせに、失くせないのだ。沈めて二度と浮かんでこないよう重りをつけることが、できないのだ。

 ごめんな、とその背中に何度謝ったら許してもらえるだろうか。きっと一生許してもらえないだろうな。ずっと騙していたのか、気色悪い、二度と近づくな――そう言われたって土下座した頭を上げることはできないだろう。

 だから隠すのだ。一生。愛おしさを隠し持って、一生青葉の隣で――

「太陽は俺の心友なんだよ!」

 一生『心友』でいる。


「心友ってお前、中二でも言わんわ」
「だって親しい友じゃ足りないもん」
「だから心の友?」
「そう!俺と太陽は心が通じ合ってっからね!」
「劇場版のジャイアンしか思い浮かばん」
「はあ!?冴木(さえき)てめえ、ぎったぎたのめっためたにしてやんぞ」
「まじのジャイアンきちゃった」

 高校一年生の夏休み。ぎったぎたのめっためたとか、そんなくだらない話で大盛り上がりしている部室にて、一年生の太陽たちは朝練後の片付けを終えたところだ。正直とっとと帰りたいところだが、青葉はまだ、冴木をぎったぎたにしようと組手を組んでいる。

「太陽、帰んねえの?」

 ぬっと隣に並んだのは、同じ一年の真野颯(まのはやて)だった。クールな目元と一八五センチ越えの高身長で、青葉と女子人気を二分する男。太陽はこの男のことが、ほんの少し苦手だ。

「あー、青葉待ってる」
「あいつまだ着替え終わってねえじゃん」
「そうなんだよ、いっつもそう。冴木とじゃれんの楽しいんじゃん?」
「あいつらいいコンビだよな」

「はあ!?」

 真野の呟きに二人同時に振り向くのだ。ポジションではライバルだが、いいコンビそのもの。にやっと口元を緩めたとき、青葉と視線が交わる。

「ちょっと、太陽までやめてよ!」
「いーからはよ着替えろや~」
「ええ待って待って!太陽もう着替え終わってんじゃん!」

 がばっと思い切りよく練習着の上下を脱ぎ去り、あまりに雑に制汗シートで汗を拭いている。部室にはシャワーだってあるというのに、ああやってくだらない話をしているから、浴びる時間がなくなるのだ。まったく青葉は仕方のないやつ。

「たいよ~、あとでシャワー浴びさせてくんね……?」

 夏休み中、朝練後は毎度太陽の部屋でウイイレをやって、昼飯を食い、近くのグラウンドでサッカーをして一日を終えるのが、いつものパターンだ。昨日も、今日も、きっと明日もそうだ。

「……わかったから、早く服着ろよ」
「やった!ありがと~いつもすみません~」
「ぜってえ思ってねえやつ」
「そんなことないよ、いつもありがと太陽っ」

 いつかはち切れて暴発してしまいそうな気持ちに、何重にも縄をかけた。

 ああやばい、やばい。やばい。語彙がやばい以外出てこなくなるのが、やばい。

「おわた!かえろ!」

 ようやくバックパックを背負った青葉が、冴木に「おっせ!」とわざわざ喧嘩を売り、冴木もそれを必ず買って、またいつものが始まる。

「……お前さぁ、青葉に甘すぎだろ」
「え、まあ……そうか?」
「健気なやつ」

 真野が涼しい目で太陽を見下(みお)ろす。見下(みくだ)すといったほうが正しいかもしれない。ひどく嘲笑するような態度に、つい、かちんときてしまうのだ。

「うるさ」

 サッカー部員とはうまくやりたい。まして太陽は一年のキャプテンを任されている。部員とはいい関係を築きたいと思っていた。けれど、こいつは別だ。あきらかに自分を見下している。馬鹿にして遊んでいる。

「あははっうける太陽」
「なんもおもしろくねえわ!」
「口わる~」
「お前は態度が悪い」
「それはよく言われる」

 だろうな、と返事しようとしたところを、青葉が割って入ってきた。でかい背中の後ろに追いやられて、どきりと心臓が反応してしまう。

「だめ!なんか真野はだめ!」
「はあ?」
「お前、太陽にかまいすぎ!」
「青葉に言われたかねーわ」

 この嫉妬が自分と同じだったらいいのにと、何度願ったことだろう。もう勘違いすることもなくなるほど、何度も願ったことだ。

「俺は太陽の心友なので!」

 そうだ、心友だからな。ズッ友だもんな。

 太陽は心臓の痛みを逃がすようにため息を一つ吐いて、青葉の白いTシャツの裾を引っ張る。

「いーから帰んぞ」



 父親が無類のサッカー好きだったために、歩き出した頃からボールを蹴らされていた。記憶の中で太陽にとってボールというのは、投げるものではなく蹴るものだった。

 ヒナの刷り込みのように潜在意識に刷り込まれた『サッカー』は、悔しいが楽しい。毎日ボールを蹴るのが日課で、それは今ですら変わらない。

 幼稚園の年中にあがる頃、それまで続けていた水泳をやめて、地元のJリーグチームのサッカースクールに通うようになった。
 
 毎週末父親とともに参加していた親子サッカーから、ほんの少しのレベルアップ。ドキドキしていた。でも心配はなかった。だって自分はサッカーがうまい。親子サッカーでは常に手本にされていたし、コーチたちはいつも『朝倉太陽(あさくらたいよう)は天才だ』と声高に誉めてくれた。

 けれどほどなくして、一ノ瀬青葉(いちのせあおば)がスクールにやってきた日。あの日を境に、太陽のその自信はことごとく打ち砕かれてゆく。

 青葉と初めてサッカーをした日、太陽は立てなくなるほどに泣いた。悔しくてむかついてかっこ悪くて、泣きじゃくっていた。うろ覚えだが、両親以外の大人にも囲まれていたような気がする。みじめで恥ずかしかった。

 そんななかであの男は、わざわざきょとんとした顔を覗かせて言い放ったのだ。

『なんで泣くの?練習すればいいだけじゃん!』

 むかついた。腹が立って余計に涙が溢れた。
 
 そんなことはわかってるし、やっている。ああ、もう決めた。こいつのこと、絶対泣かす。わーわー泣かしてやる。そう固く決意して、週三回の練習に励むようになった。

 しかし、安住の地だったはずの幼稚園でまさか青葉を見つけたときには、ひっくり返りそうになった。なぜあいつがここに? 子供ながらに妙に気まずくて、やりたかった滑り台を諦めたりした。

『やっぱそうだ、太陽っ!』

 なのに、青葉はなんでか後ろにいた。自分のクラスから離れたら、先生に怒られるのに。わざわざ追いかけてくるなよ、とむかつくのにくすぐったい感じがしたのを覚えている。

 それから小学二年生まではスクールへともに通い、切磋琢磨……とは言えない、太陽が一方的に引っ張り上げられたまま、小学三年生でそのクラブのジュニアに入団した。

 さすがにジュニアには、天才がごろごろ転がっていた。けれど、その並み居る天才たちのなかでも、異彩を放っていたのが青葉だ。太陽と同じように、初めこそ青葉に勝ちたいと思いはするものの、球を交わせば交わすほどにその傲慢さを思い知る。

 この男に勝ちたいなどと言うことは、許されないことだ。この天才に対してあまりに無礼だと、みなが青葉に従うようになった。

 しかし当の本人はそれを鼻にかけることもなく、その屈託のない笑顔をもって、サッカーでもそれ以外でも、太陽たちの一番上に君臨していた。

 その支配者が、いつだって指名するのが自分なのだ。『朝倉太陽がいい』となにかにつけて言うものだから、太陽は非常に肩身の狭い思いをしてきた。

 特筆する点といえば、左利きで足が速い。それだけが強みだった。支配者の右腕に選ばれるほどの高性能スペックでは到底なく、周りから幼馴染ブーストだと揶揄されるのも無理はなかった。自分でもそれはよくわかっていた。

 それに加えて、太陽はひどく伯母にそっくりな顔をしている。伯母は学生時代読者モデルをやっていたり、今でも美魔女を自称するだけの美貌をもち合わせた女性ではあるものの、男社会で生きる太陽にとって、それはあまりに酷な贈り物だった。

 小さな頃から女の子に間違われるなどというレベルではなく、問答無用で女子トイレに連れて行かれるような子だった。

 大してサッカーがうまいわけでもない、女みたいな顔のアイツが、あの王者の隣に並ぶなんて許せない。ジュニア時代のチームの総意ですらあったかもしれない。

『太陽は、誰よりスタミナをつけなさい』

 ジュニア時代の監督が、声をひそめてそう助言してくれたのは、監督もその空気をわかっていたのかもしれない。自分になにか一つ、圧倒的な武器を授けようとしてくれていた。

 それからはとにかく走り、走り、走った。幸いにして走ることは好きだったし、地道な努力は苦手じゃない。本当はビッグクラブのエースみたいな、点取り屋になりたかった。けれど自分の道はそっちじゃないのだと、その道には青葉がいるのだと理解してからは、とにかく誰よりも速く、誰よりも多く走ることを心がけるようになった。

『あいつはガチャ当たっただけじゃん』『うぜえ』

 左サイドバックで起用されることが増え始めた小学校高学年。周りの声はそんな感じだった。左利きという生まれついてのガチャに当たったという意だろう。まあ否定はできなかった。

『ああ太陽か、あいつは青葉と相性いいもんな』『いいよなぁ幼馴染』

 それがそのうちに、フォワードとして結果しか残していなかった青葉とのセット売りになり、チームの戦術にもはまるようになっていった。

『太陽、クロスを磨こう』

 ジュニアユースに上がってすぐの頃、サイドバックの先輩がそう言って練習に付き合ってくれた。その先輩もいつかの監督のように、なにか武器を授けようとしてくれてるのだと、随分懐いてしまったのだ。チームで浮いた存在の自分をかわいがってくれる、それだけで太陽にとっては特別嬉しいことだった。

 チーム練習のあと、駅までの帰り道の途中にあるグラウンドで、許される時間までクロスの精度を磨き、時には他愛ない話をしたりもした。青葉は誘うなと言われていたから、その頃は帰りも別々にしていた。それでも不満を抱かないくらいに、太陽は先輩を慕っていたのだ。

『太陽、ちょっとこっちきて』

 日が落ちたグラウンドで二人、外灯の明かりを頼りに荷物をまとめていた。冬の寒い日。マフラーを首に巻いて、きゅっと前で結んだときだった。

 その結び目をぐっと引っ張られて、まだ当時一六〇センチあったかどうかの小柄な太陽が、一八〇センチくらいの先輩の胸に強引に格納された。腕に力を込められ、それが振りほどけなかったときの恐怖は、悔しいが今も脳裏に刻まれている。

『好きなんだ!太陽のこと』

 熱のこもった威勢のいい声を聞いて、ああなんだ、そういうことだったのかと心が冷えた。急速に冷えていった。

 小学校高学年になった頃から、そういうことが増えていた。見ず知らずの中学生に手紙を渡されたり、遊びに行った学校の友達の家でキスを迫られたり、練習終わりの夕暮れ時の満員電車で痴漢されることもあった。決まってその相手は男だ。

『……すみません』

 そう断ったときの、先輩の苛立ちを閉じ込めた瞳の色は忘れられない。ああも優しく温かく包んでいてくれたのは、すべてそういう下心だったのだと知ったとき、太陽は深く深く胸に刻み込んだのだ。

 男に気を許してはいけない。


「太陽~昼行かねえの?」
「……行くよ、これ見たらな」
「なに?AV?」
「っはあ!?」

 二学期を迎えた特進クラスの教室に、桁違いの大声が響き渡る。運動部あるあるか、とにかく腹から声が出るのだ。AVなどという卑猥な単語よりも、太陽の声のほうがずっと耳ざわりだったことだろう。

 ううんっとしかたなしに席を立ち、鞄から母親が持たせてくれる二つ目の弁当箱のケースを取った。教室の後ろのドアに寄りかかって、なにやら女子に囲まれているあの男のそばへ歩みを進めれば、すぐに冷えた目と視線が交わる。

「ごめんね、こっち先約だから」

 おっかないこと言うな、とその顔を見上げれば、これは確信犯だ。女子の視線が痛い。ただでさえ女子から疎まれがちな立場なのに、こいつはまったく余計なことをしてくれる。

「おい真野!ああいうこと言うなよ」
「え?ああ、さっきの?」
「そうだよ、女子こえーんだぞ」
「それは太陽にだけでしょ~」
「……うぜえ……」

 真野は満足げな顔で、隣を歩く。自分がいるからでは到底ない。この男はとにかく太陽をからかい、困らせ、遊んでいるのだ。いやひょっとすると、自分を通して青葉で遊んでいる可能性もある。

「こらぁ真野!!またお前は!!」
「うるせえのがきた」
「太陽から離れろよー!」
「うっせうっせ」

 しっしと手で青葉を避けようとする真野。無理矢理その間に入り込んでくる青葉。まんざらでもない、いや、むしろ飛び跳ねるくらいには嬉しい太陽。奇妙な三人組で、横並びに廊下を歩く。向かう先はいつもの屋上だ。

 真野と青葉と冴木に、あと二名の部員は、普通科の同じクラスに在籍している。太陽は一人特進クラスに在籍しており、四クラス分隣に教室があった。

 毎日昼休みになれば、連れだって屋上で昼をとるのが定番のようになっていて、大体青葉か真野が太陽の教室まで迎えにきてくれるのだ。別に当然一人でだって屋上くらい行ける。だがどうも、誘わなきゃ来ない枠の人間だと思われているようだった。別にそんなことはない、好きで教室で一人海外サッカーの動画を見ているわけじゃない。

「おっす太陽~」
「今日もかわい~な」
「ほらこっちおいで~」

 屋上の重たい扉を押し開ければ、使い古された机と椅子を並べた冴木たちが、すでに昼飯を始めていた。ちょっとくらい待っとけよと思わんでもないが、それよりもだ。

「かわいいって言うな!!」

 太陽がこの世で一番嫌いな言葉。『かわいい』。サッカー部員たちは何度言っても太陽を見れば、一日に一回は必ず『かわいい』と言うのだ。

「太陽、だからそれ逆効果なんだって」

 青葉にそうたしなめられたって、黙ってはいられない。自分は男だ。どうしてどいつもこいつも……。苦虫を噛み潰したような顔の太陽に、真野がしれっと言う。

「もう坊主にでもすればいいんじゃない?」
「……っお前……」
「ばか真野!それはもうやったことあんの!」
「え!?」

 中学一年、あの先輩との一件の直後のことだ。

 甚だ自分の容姿に嫌気が差して、意味もなくみんなと同じ髪に揃えていた長めの髪を、バリカンで刈った。悲劇はそれから三か月は続いただろうか。

「かえって変なのにモテちゃうんだよ、太陽……」

 恰幅のいい野球部の先輩、強面のヤンキー、息の荒いサラリーマン、エトセトラエトセトラ……。坊主になんかするんじゃなかったと、心底悔いたところで、髪の毛の伸びるスピードは変わらない。

「かわいいって大変だねぇ……」
「だから、かわいいって言うなよ!!」

 むかつく真野のなで肩を小突いた。

「いって」
「………」
「謝れよちび」
「あ!?平均だよ!」
「盛るな盛るな」
「盛ってねえ!!」

 まるで人の頭を肘掛のように使いやがって、本当にむかつく奴だ。大体自分はチビではない。高校一年生男子の平均身長より二センチも高いんだ、チビなわけないだろ。お前らが大男なだけだ。揃いも揃って一八〇センチ越え、青葉と真野なんて、一八五センチ越えの二大巨頭だ。

「やばい真野くんかっこい~……」
「えっあたしは絶対一ノ瀬くん派」
「一ノ瀬くんはかっこいいけどチャラいじゃん」
「いいの顔が良ければなんでも」
「最低~」

 そうして屋上をざわつかせる、顔まで二大巨頭ときたら、まったく自分は損な役回りだとうなだれる。むしろだ。

「でも朝倉くんがねぇ……」
「あの子いたら話しかけらんないよねぇ」

 じとっとした目で、憎悪たっぷりに呟かれるのにはもう慣れた。そしてそういう話を聞こえるようにされることにも、慣れていた。

 弁当のから揚げをぱくりと口に入れる。一口じゃでかすぎたなとやや後悔したところで、青葉の長い腕が、頸椎を仕留めてきた。

「ぶっ」
「あ、ごめ!大丈夫!?」

 運悪すぎ、タイミング悪すぎだ。ぱっと離された腕が恋しい。

「太陽、口いれすぎだよ~」
「ふぉめん」
「えなんて?」

 おかしそうに目を細めた青葉の顔に、胸がぎゅうっと痛んだ。今度はしっかり長い腕を肩に回され、抱き寄せられる。

「俺ああいうのやだぁ~~」

 わざとだ。わざとらしく運動部特有のよく通る声で、青葉がそう叫ぶ。

「ちょっと、青葉」
「ん?食べる?」

 差し出された購買の焼きそばパン。毎日青葉が食ってる大好物だ。

 さっきの女子たちは黙りこくって、視線を逸らしていた。

「……食べる……」

 ああ本当に、自分の性根はひん曲がっている。自分でも引くレベルだ。そうやって女子が騒ぎ自分を目の敵にすればするほど、ヒーロー体質の青葉は自分を守ろうとしてくれる。もうずっとそうだ。だから別に疎まれようと、蔑まれようと、かまいやしないのだ。

 自分は青葉の特別だと実感できる。それがなによりの幸せだ。



 私立南沢学園のサッカー部は、ぎりぎり強豪と呼べなくはない。全国常連ではないものの、何度か全国大会へ出場したこともあるし、毎年惜しいところまではいく、くらいのレベルの学校だ。

 今年の夏も準決勝で敗れたものの、大人たちから見れば結構いい線いってる、見込みアリの部活なのだろう。ちょうど去年、全面人工芝のサッカーグラウンドが新設されたばかりだ。部室も綺麗に改築され、シャワー室は他の運動部とは違う専用のものが用意されている。

 とはいえ、なぜここに天才フォワード一ノ瀬青葉がいるのかという疑問は、誰しもが抱くことだろう。けれど青葉は、その本当の理由を自分にさえ教えてくれなかった。いや『高校では遊びたいんだよねぇ』とは言っていたが、まさかそれが本心なわけはないだろう。……たぶん。

「青葉~っ!」
「あー!エリちゃ~ん!」

 グラウンドのネットの向こう側、短いスカートからすらりと長い脚を覗かせる華奢な女の子が、青葉の名前を呼んだ。ギャラリーのなかでも一際目を惹く可憐な子だ。

「こら一ノ瀬!集中しろ!」
「すんませーん」

 コーチの怒声に悪びれる様子もない青葉を、エリは甲高い声で友人たちと笑い飛ばしていた。

「うるせえな」

 ずずっと呪詛が漏れ出そうになったところ、同じ左サイドでプレーする真野がそう吐き捨てたのが聞こえた。きっと独り言だったとは思うが、それにいくらか救われてしまった気持ちが惨めだ。

「真野さぁ」
「ん?」
「お前基本女子に優しいじゃん」
「あー……そう?」
「なのにああいうのは嫌なの?」
「嫌ってかうるせえじゃん、サルかって」

 瞬間、動物園の猿山を思い浮かべて、吹き出した。まったくそのものだ、あの声。

「太陽もなかなか性格わりいよな」
「はあ?お前にだけだよ」

 だってお前とは仲良くしたくないからな。いっつも人の気持ちを弄び、からかって、楽しんでいるようなお前以外には、きっと当たり障りない人間でいられてるはずだ。

「そっちが本性のくせに」

 そうして真野はこめかみの汗を無骨に腕でぬぐい、大きな声でパスを呼び練習に戻っていった。

 そっちが本性………だと? あの男、今なんて? なんだかすこぶるわかったような顔でわかったようなことを言われたが、半年に満たない付き合いで、わかった気になるんじゃねえ。

「!?おい太陽、でけーよ!!」
「……あっ!わりい!」

 蹴り上げた得意のクロスが、ぽーんと逆サイドの冴木を追い越していく。クロスを蹴るときは無心でいろと、あの先輩に教わったじゃないか。馬鹿野郎、真野ごときにメンタル振り回されんなよ、と自分を叱責した。

 だから苦手だ、あの真野って男は。



「青葉、一緒に帰る?」
「あ、ごめん!エリちゃん校門とこで待っててくれるみたいでさ」
「ああ……そうなんだ」

 練習が終わり、一年生のなかでも特にトロいいつもの四人が、部室で帰り支度をしていた。なかでもいつも一番遅い青葉が、今日はすでにポロシャツを被るところだったのは、女子を待たせているからだったらしい。へにょんとくたびれた心に喝を入れる。が、汗を拭きとる手には力が入らなかった。

「なあ、お前らそろそろ付き合うんじゃね?」
「いや~エリちゃん次第じゃん?」
「はあ?青葉から言わねえの?」
「言わないよ。別れたくなったとき、どちゃくそに言われんだもん」
「クズじゃん!」

 青葉のクラスメイトの楠田エリは、夏休みから妙に青葉と親しくなったような感じがしていた。冴木いわく、夏祭りに誘われ、そこから急接近したらしい。夏休みのうだるような暑さのなか、たまに練習を覗きにきたり、大会の観客席にも姿を見せていたらしかった。それも他の部員から聞いた話だが。

 ああこれはいつものパターンだ、日に焼けて一層男前になった青葉に近づく女子のなかから、抜け駆けした一人だけが青葉の彼女になれるのだ。二学期のイベントに向けてみなが焦り出す、いつものパターン。

 そう思っていたが、十月を前にしてもいまだ青葉と楠田エリに進展はなさそうだった。ある一件から女子に告白はしないと心に決めた青葉と、その容姿的に百戦錬磨の負け知らずであろう楠田エリの攻防が、見て取れるようだった。

 けれど冴木の言う通り、たぶんそろそろ楠田エリが折れるのだろう。ここのところ練習を見にくるのは毎日だし、今日に限っては終わりを校門で待っているというのだ。なんとなく青葉もそれを察知しているような感じもする。いつもより顔つきが男っぽい。

「じゃあ、お先~」

 青葉が部室のドアに手をかけた。

「おつかれ~」
「お疲れ」

 冴木と真野が口々にそう返事をする。自分もなにか言わなければ。いつものように、「お疲れ」「またあした」「気をつけて」どれか一つでいい。声に出さないと怪しまれる。

「……太陽?」
「あ……」

 ドアノブに手をかけていた青葉が、そこから手を離し、自分へ近づいてきていた。返事をしないものだから、怪しまれたのかもしれない。やばい、どうしよう。焦って頭がパンクしていた。

「ねえ太陽、ポロシャツ、後ろ前だよ?」

 目の前でにかっと微笑んだ青葉。大きな手がポロシャツと肌の隙間に滑り込んでくる。

「ちょっ、大丈夫だよ!自分でやる!」
「まったく、疲れてるの~?おっちょこちょい~」

 はい、ばんざーい、と幼子にするみたいに、滑り込ませた手でそのまま脇を持ち上げられた。こんなことならもっとちゃんと汗を拭いておくべきだった……! なんてことはどうでもいいのだ。やめろよ、もう。着替えくらい一人でできるんだよ。いくつだと思ってんだ。

「青葉のばか」

 脇を滑り、そのまますぽっとポロシャツを脱がされたとき、虚しくて泣きそうになった。あほらしくてまた泣きそうになった。

「なっ……!?ばか!?」
「一人でできるって言ってんだろ」
「なに、そんなに着替えさせられるのやだった!?」
「………」

 ちげえよ、ばか。

「うわっえっち~青葉の変態~」
「はあ!?冴木てめえ……!」

 校門で待ってんだろ、楠田エリが。早く行けよ、行っちまえよ。投げやりな気持ちが、燻った気持ちが、脱がされたポロシャツにぽつぽつと溜まっていく。

「ああもう!エリちゃんから電話きちゃったじゃん!」

 行かないでくれ――

 今度こそドアへ向かって歩いていく背中に投げかけた言葉が、届いてしまったらまずいのだ。そんな気色悪いこと、願ってないんだ。ただ青葉が幸せで、笑っててくれて、その隣に自分がいられたら、それだけでいいんだ。

「いいの?」

 がしゃん、と太陽の背後のロッカーを叩いたのは、またこの男だ。

「………っはあ……?」

 見下ろされた冷徹な目つきに、くそ野郎と八つ当たりした。でもそれが、この男の優しさだと気づいてしまったとき、一気に溢れてとまらなくなっていた。

「え、太陽?」
「いーからお前は早く行けよ、冴木も」
「は~?なに急に」
「太陽に話あんの」
「お前まさか告白かよ~」
「そうだよ、わかったらとっとと行けって」

 ばかじゃねえのか、こいつ。いくら青葉と冴木だって言っても、そんな自分の立場が百悪くなるようなこと、なんで言うんだよ。嘘ついてんじゃねえよ。

「……馬鹿言ってんな、目、ゴミ入ったの」

 たぶんごく普通に言えたと思う。冴木が「なんだよも~」と安堵の色を浮かべていた。青葉のほうは見れなかったが、がちゃんっとドアが閉まったとき、部室には真野と自分しかいなかったのだから、青葉も楠田エリの元へ行ったのだろう。

「お前もはや健気ってか哀れだな」

 まだ汗が乾ききっていない前髪を、真野にさらりと持ち上げられる。視界が開けてしまって、すごく妙な気分だ。まだ鼻の奥でくすぶっている『健気ってか哀れ』な気持ちを、ずずっと吸い上げた。

「真野になにがわかんだよ」
「わかんねーよ、普通に言えばいいじゃん」
「言えるわけねーだろ」
「なんで?だって青葉も……」
「あいつのアレは、心友に対してだから」

 太陽は知っている。信頼していた友達が、実は違う気持ちを持って隣にいたときの絶望感を。これまでのすべてが台無しになる虚無感を。

「太陽はそう思ってないんだから、心友じゃねえじゃん」

 ああでたよ、こいつのコレ、というため息を一つ吐いた。

 真野はいつだって正しい。冷静で判断を誤らない。一緒にサッカーをやっていたら、そういうのなんとなくわかるものだ。いつだって情じゃなく、一番最適な指示を出す。

「……それでも隣にいたいんだよ、わりいかよ」

 理解なんてしてくれなくていい。真野なんかにわかるわけないのだ。青葉と積み重ねてきた十一年が、この男に理解できるわけがない。

「ごめん、ちょっと言い過ぎたな」

 前髪から離れた真野の指先が、目じりをなぞっていた。

 ああまた零れ落ちていたのだと気づいたとき、どうしてこの男はそれを拭ってくれるのだろうと、一瞬胸がざわついた。が、次の瞬間、そんなことはどうでもよくなった。

「まじで女子みてえ」

 ………誰だ、この男に絆されかけていた馬鹿野郎は? それが地雷だとなぜわからない? ああわかって言っているのか、涙を引っ込めるために?

「……もうお前とサッカーやんない」
「はあ?なんだそれガキんちょか」
「お前もっかい言ってみろ、絶交だからな!」
「絶交って」

 見たこともないくしゃくしゃの顔で笑われて、くそっと悔しさを飲み込んだ。苦くて酸っぱい味がした。



 何度も思った。告白されたらNOとは言わない青葉に、行かないでくれと何度も願った。

 けれどその思いたちが言の葉にのることはない。それを言ったら、すべてが終わる。

「付き合うことになった~」

 昼休み、上機嫌にそう報告されたのは、想定通りだ。たぶんサッカー部全員が納得の結末。

「だろうな」
「おめっと」
「いーなあ、あんな美人!」

 口々に部員たちが言うなか、真野と太陽だけは沈黙を貫いていた。

 急に冷え込むようになった秋空の下、今日も青葉や真野目当ての女子たちが屋上に集う。しかし青葉と楠田エリの話題は瞬く間に校内を駆け巡り、今日はその女子たちの視線も、やや遠慮がちのような気がした。

「これじゃ真野一強、まったなしだな~」

 冴木の恨めしそうな口調に、青葉がけっと白けた表情を浮かべる。

「こんなエセ紳士のなにがいーんでしょう~」
「お前みたいなチャラ男よりは信用できるからだろ」
「はあ!?」
「え、気づいてないんだ?」
「おい真野!もっかい言ってみろ、絶交だぞ!!」

 絶交、という言葉を聞いたからか、真野は黙りこくった。冴木たちはそんな真野を見て、「意外とかわいーとこある」とからかうが、太陽の脳裏には昨日の記憶が蘇る。きっと真野も同じだろう、とその顔を見やった。

 瞬間、あいつの涼しげな目元はすでに太陽を見つめていたようだ。どうもいつもとは様子が違って、ざわざわと胸騒ぎがする。目が合えばなにかしら嫌味を言ってくる奴が、黙って自分を見つめているなんて、どう考えてもおかしい。

「………チャラ男」

 脳内会議が開かれそうになったところで、ばかな真野が、煽るようにその一言を呟いた。青葉は手に持っていた焼きそばパンを、コンクリートの地面に丸ごと落っことし、わなわなしている。

「ハイ、絶交~!!」
「上等上等」
「なに!?なんなのこいつ!?」
「あれだわ、真野も妬んでんだわ、青葉に先越されて」
「あ~そういうこと、ふうん、そうかそうか」
「あほらし」
「強がっちゃって~」

 ぎゃあぎゃあと大男たちが騒ぐ傍ら、周囲の女子たちの士気が上がっていた。

「真野くん、やっぱ彼女いないんだ!」
「え~彼女欲しいのかな」
「いやでもさぁ……」

 そんな会話が聞こえてしまい、ばつが悪い。そして例外なく太陽も思っていた。あのクールなエセ紳士に彼女がいないのか、と。見てくれだけなら中学から数年付き合ってるバレー部の彼女でもいそうな雰囲気なのに。いないのか。仲間じゃないか。

「太陽」
「へ?」
「寝癖やべえぞ」
「なっ………はあ!?」

 さっきじっと見つめられていた理由があんまりにもどうでもよいことで、一人太陽は心のなかで身悶えていた。ブレイクダンスでも踊れそうなくらいに、暴れまわっていた。

 憎いやつともう一度真野を見れば、あいつはあいつで妙に柔らかな眼差しで自分の右側頭部を見つめているのだ。まったくもう、感情が読めない難解な男だ。

「太陽~パン落としちゃった~」
「………」
「太陽?」

 肩を叩かれて、はっとした。

「あ、ごめ……なんだって?」
「パン~真野のせいで落っことしちゃった」
「知るか……」
「ええ!?ひどい!」

 この甘えため、と思うのと同時、冴木の「ひどかねえわ!」という切れ味鋭い突っ込みが飛び、青葉はぴえっとうなだれるのであった。

「一緒に購買行くか?」

 そう手を差し伸べてやると、やつは子犬みたいに目を輝かせて尻尾を振る。

「行くっ!!」

 仕方ないやつ。いつまでもそうやって、自分に懐いていればいいのに。………自分にだけ、懐いていればいいのに。

 腹の底に隠し持った淀みきった気持ちは、いつになったら負けを認めてくれるのだろう。おまえたちが日の目を見ることはないって、何度も何度も言っているのに。

「俺も行く~」
「はあ?真野は待っとけよ!」
「だってまだ腹減ってるし」
「もう購買なんもないよ、売り切れ!」
「じゃあ青葉も行く意味ないじゃん」
「……っお前ほんっとむかつく!」

 青葉のむっとした横顔を、ほぐしてやりたいと思う。どんな顔も愛らしいけれど、やっぱり青葉は白い歯を見せてにぱっと笑うあの顔が、一番だ。

 自分とはおよそ似ても似つかない、頬の薄い皮をつまんでやった。

「いひゃい!」
「……もーお前ら二人で行って来い」

 大きく目を見開いた青葉が、声を張る。

「じゃあ行かないっ!!」

 あーあ、子どもかよ、とやれやれぶってみるものの、結局それが嬉しかったりして、太陽の気持ちはごちゃごちゃにとっ散らかっていた。